さらば、ボス、さらば、不可刑事たち

文字数 1,932文字

 ボスは今日もスリーピースのタイトなスーツで小太りな体を包み、太くつり上がった眉毛、その下の大きな鋭い目、膨らんだ頰に渋みを効かした表情で、ボスの部屋でじっと座って、葉巻をくわえている。何かの思いを吐き出すように煙を吐いて、紫の煙が立ち上る中、眉間にしわを寄せる。その姿はハードボイルドそのものであり、見るものに、単純なかっこよさを印象付ける。退廃的だが、死んでいない。獣のように何かに飢えている。しかし昼寝から目覚めたように冷静で聡明。男の野生的な強い要素が全て詰まっており、隙がない。その存在感たるや、重厚で、大きな重力さえ発生している。惹きつけるのだ。
 「・・・わかった。もう何も言うな。すぐ向かう。」
感情を押し殺したような声で相手に繋がってない受話器にセリフを吐く。何か決心したかのように立ち上がる。そこには風さえ巻き起こる。立ち上がると、ボスの足は長く、腹は出ているが、スマートに感じる。風を分けるように颯爽と歩く。目線は何か目標を定めた猛禽類のように定まっている。低い温度の熱が帯びている。
 階段を早足で降りる。あくまでも中心はボスの存在で、地球が、地面が移動しているように、スポットライトはボスに当たる。磨きこまれた黒いセドリックに乗り込む。ボスはシートベルトなぞしない。サングラスをかけ、革手袋をはめて引っ張る。殺し屋の準備のようだが、ボスは正義の味方、警察官だ。その仕草こそ、男の攻撃性の化身のようで、見るものに緊張感と強さに対する憧れを覚えさす。
 黒いセドリックが、まだ誰も起きてない薄明かりの早朝の街に飛び出す。赤色灯が回転をして、赤い光が、モノクロームの街に、血の気のように差し込む。支配者が徘徊しているようだ。信号が全て青で、誰も邪魔しない街をボスが運転する黒いセドリックが疾駆する。風を切り裂き、タイヤは軋み、速度が、エンジンが、強烈な力をボスに纏わせる。誰もいない街でボスは絶対的な存在となり、七つの海をパワーボートで疾走するように風圧に目を細め、ものすごいスピードでいくつもの存在感が薄れた水銀灯の列を過ぎていく。ボスが運転するセドリックはレーシングカーより早いと言えば、男だったら信じるだろう。それほどの存在感だ。ボスは車の通信マイクを引っ張り出し、ハンドル片手にマイクを掴み
 「・・・そうだ、今こそチャンスだ、逃すな!」
と大きな独り言を言う。誰にも伝わらない伝言は、エンジン音とサイレンに消される。ボスは命令したのだ。その言葉を、もし誰かが聞いたら、その命令は一生をかけて成し遂げるべきことになるだろう。それほどの重みを持つ。
 車の走ってない早朝の大通りを走る黒いセドリック。朝日が差し込み始めた。世界に朝がやってきた。ボスはサングラスの下で目を細める。顔にシワがよる。そのシワは年輪のようにボスの人生が刻まれたもので、その深いシワには、男の人生が詰まっているようだ。浅黒い肌はたるんでいるが、それさえも色気に感じる。
 黒いセドリックは河川敷沿いを通り、太陽が昇る海を目指す。
 「・・・当たり前にように朝が来た。もう、昨日じゃない」
 当たり前のことを言っているが、深い哲学のようなものを聴くものに感じさせる。それはボスが口に出したセリフだからに他ならない。なんでもない言葉をボスは名言に変える。ハンドルを握る手はどこか危なげで、車は蛇行するが、その危なげな運転は、特別なことのように格好が良かった。ボスがすることはため息が出るほどの素晴らしい絵になるのだ。
 黒いセドリックが港の真ん中に止められている。邪魔なほど真ん中だが、その図々しさが、荒々しく、男らしい。ボスはポケットに手を入れ、海沿いを歩く。海風がピッチしわけた七三の髪を少し乱す。乱れた髪は目に被さり、ボスはそれを手で搔きわける。その動作は深い男の色気があり、見る者、女性の心を惑わすだろう。
 ボスは上着を脱ぐと、颯爽と肩にかけた。弱々しい昇ったばかりの太陽の光に包まれ、長い影を波止場に写す。カモメが鳴き、波が騒めく。
 「・・・よろこびーのさけー、松竹梅♫」
 ボスは軽く古いコマーシャルフィルムの歌を口ずさむ。もしそばで聞いていたなら、その優しい、しかし強い歌声に、心をとらわれるだろう。ボスは波止場のロープ留め、ビットに片足を掛け、地面につく後ろ足をピンと伸ばす。しなやかに長い足、茶色の革靴はよく磨かれ、ピカピカだ。肩に背負った背広が風にはためき、ボスはサングラスを取り、その柄を口にくわえる。完全なポーズをとった。ハードボイルドな刑事の理想図の完成。
 「・・・まだ、終わっちゃいない」
 と挑発的なセリフをつぶやいたが、物語は、始まる前に、終わってしまったのだ。
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