第38話 蔦屋現代に来る

文字数 3,219文字

 来週の木曜日に江戸に行くまでに、お栄さんに見せる西洋絵画のリストアップをしなければならなかった。正直、我々が「吉原格子先之図」を見てしまうと光と影の魔術師と呼ばれたレンブラント・ファン・レインを見せたくなってしまうが、俺たちはそのような誘導行為はしてはならないとされている。自分たちの勝手な思い込みで、当時の人を後世に都合の良いように誘導してはならない決まりなのだ。
「やはり国立西洋美術館あたりが無難では無いでしょうか?」
 さきがあちこちの美術館のHPを見ながら呟いた。考えれば平安の人間のさきが昭和生まれで平成の時代を生きてる俺と結婚し、PCを操ってネットで情報を集めているのはシュールな光景でもある。
「やはりそうかな。広い時代の絵画が見られるからな」
 俺もさきが操っているPCを覗き込みながら言うと
「中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画とありますね。『松方コレクション』って何ですか?」
 さきが「松方コレクション」に関して知らないのは仕方ない。「松方コレクション」とは、神戸造船の初代社長の松方幸次郎氏(1865‐1950)が第一次大戦により得た莫大な財産を使って広く一万点余りの美術品を集めたのだが、その後の世界的な恐慌でかなりの数が散財してしまったと言われている。
 戦後、フランスに保管されていた一部のコレクションがフランス政府の好意により日本に返還寄贈されたので、それを保管公開するために建てられたのが国立西洋美術館なのだ。
 尤も俺もこの仕事に就いてから勉強したのだった。今はグーグルとの共同で、全てではないが作品を擬似的に体験出来る。詳しくは国立西洋美術館のHPを見て欲しい。
 俺が「松方コレクション」に関してさきに説明をしていると、蔦屋さんがセンターからやって来た。事務室に顔を出すと
「御機嫌よう。お二人で調べものですかな」
 そう上機嫌で挨拶をした。
「いや、今度お栄さんを何処に連れて行くか調べていたのですよ」
 俺が説明をすると蔦屋さんは
「お栄さんには才能を感じますな。わたしが現役の頃だったらお抱え絵師にしていますよ。天保の頃の耕書堂はわたしの子孫に間違いはありませんが、どうも商売の切っ先が鈍っているようでしてな。そんな知恵も無いようですな」
 そう言って苦笑いをした。実際は耕書堂も幾つかお栄さんに注文を出していて、仕事もしているのだが、お栄さん自身が専属になりたがらなかったのだ。それだけ北斎親子には仕事が舞い込んだのだった。
「わたしは、とりあえず『国立西洋美術館』が良いと思うのですが、こちらに来て色々な美術館を見て歩いた蔦屋さんはどう思われますか?」
 さきが、「国立西洋美術館」のHPが映っている画面を見せながら言う
「そうですな。まあ、無難なところでしょう。一度に色々な時代の絵画を見せる事に問題はありますが、彼女なら心配はありますまい」
 俺は蔦屋さんの言葉を聞いて、安心をした。
「蔦屋さん。ことろで、今日は何の用事で来られたのですか? また美術館めぐりですか?」
 俺の質問に蔦屋さんは笑いながら
「いやいや、実は坂崎さんにお祝いの品を買いに来たのですよ。それについてお二人にも相談に乗って戴きたくてねえ」
 坂崎さんは最下級でも幕府の役人だ。身分も武士である。身分制度があったと言われるが実は武士と庄屋とかの豪農とそれ以外と言う感じだった。苗字帯刀を許された豪農は殆ど武士と同じ扱いだったし、商人でも表通りに居を構え、税や水道代を払っていた人々はちゃんと江戸市民として幕府に認知されていた。
 金持ちの身分が高いのは人の世の常でもある。だから、坂崎さんの婚礼は家と家との決まりごとでもあるので、幾ら親しくても我々が披露宴に列席という訳には行かない。
 我々だけのお祝いを開こうにも坂崎さんは良いが奥様が問題となる。当時の言葉ならご新造さんだが……。
「形が残るものは駄目だし、使って役に達ものが良いと考えているのですがなあ」
 蔦屋さんの言葉にさきが
「シャボンは如何ですか? それも高級な奴です」
 そう言えば、さきは江戸の坂崎さんの所に行く時に石鹸を持って行っていた。こちらではごくありふれた石鹸だったが、それの高級版と言う訳だと思った。
「それはよござんすねえ」
 さきは江戸言葉で笑った。

 それから一時間後、俺とさきと蔦屋さんは東京駅のデパートに来ていた。高級石鹸の売り場である。
「さてさて、値段も品数も様々で、迷いますな」
 外国産から見慣れた国産。更には見た事もないメーカの品々までもが揃っていた。結局、色々な品が入ったセットを買う事に決めた。蔦屋さんには組織から給料が支払われており、現代に来ても買い物に困るようなことはない。価値としては一分が二万円相当と言ってあるので、蔦屋さんの頭の中ではそのように変換されているはずだ。それをこうやって実際に買い物をして修正しているのだ。
「買ったものは一度和紙で包み直します。ご新造が見ても良いようにしませんとな」
 セットにははちみつ入りの石鹸や、オーガニック素材を使ったものが入っていた。実は蔦屋さんの考えていた予算を越えていたので、我々夫婦が半分出して、共同で送る事になった。それほどの高級なものを選択したのだった。
 この時の蔦屋さんの格好は実は江戸の時と余り変わりが無い。と言うより、灰赤と呼ばれる僅かに赤みの掛かった灰色の無地の着物に濃色(こきいろ)と呼ばれる濃い紫の羽織に縞柄の角帯をしている。足元は真綿で出来た草履に白足袋だ。現代は色足袋が汚れないので良いと言うのが蔦屋さんの感想だ。
 では、何が違っているのかと言うと頭である。蔦屋さんの頭には椰子の枝の素材で作った白地に藍色のリボンの素材がついた帽子が乗っている。本当によく似合っていて、現代でもそのまま通じるのだ。
 正直、今の感覚でもかなりお洒落に感じる。大人の男のお洒落と言う感じなのだ。この格好は蔦屋さんがセンターで暮らしている間に試行錯誤して現代に行く時の格好として決めたそうだ。勿論、季節によって着物も羽織も帽子も帯も変わるには言う間でもない。
 デパートに来たついでに蔦屋さんにはコーヒーを飲んで行きたいと言うので馴染みの喫茶店に連れて行った。そこまでの道すがら、大勢の人が蔦屋さんを見て振り返る。蔦屋さんは当時の日本人としては大柄な方だが、今では普通かやや低い方だが、実際にはそのように感じなく、堂々としているせいか、実際より大きく見える。だからそのお洒落な格好が人目を惹くのだった。
「お栄さんがこちらに来られる時に一緒に見て回りますか?」
 さきが、そんな事を蔦屋さんに尋ねると
「そうですね。同じ江戸の人間として話が合うでしょうし、また鉄蔵さんこと北斎さんの事も伺いたいものですな」
 実は組織として蔦屋さんには江戸期の優れた絵師を見つけて貰っている。現代では埋もれてしまってるが、実は評価の高かった絵師と繋をつけて貰っているのだ。だから江戸に行く為に髪は髷でなくてはならぬのだ。

 高層のビルからの眺めを堪能しながらコーヒーを飲んでいた。
「正直、センターでもコーヒーは飲めますが、やはりこちらに来て飲む味は格別ですな。何でしょう空気が違うとも言うか……」
 その感じは俺も理解出来る。センターは広大で、閉塞感は無いが、古代の地球の何処かに建てられているせいか、何か現代とは違うのだ。
「でも住めば都と言いますからな。ベッドの暮らしは便利なものです」
 蔦屋さんは、そう言って笑った。
 結局、木曜日に我々二人が江戸に迎えに行き、お栄さんを連れてセンターに出向き、格好を変えて蔦屋さんと現代に一緒に来る手はずとなった。
 でも、俺はこの時、まさか、あの人まで来る事になろうとは思ってもいなかったのだった。
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