第5話 純喫茶月光

文字数 1,920文字

 内定が出ない。

 マホガニーのテーブルの上に置いた鳴らない携帯電話(らくらくホン)に、ため息をついた。

「何かあったら電話しますね」という台詞が「お前を雇う気はないわ」とイコールだと知ってもなお、ついつい期待してしまう。

 家に帰りたくない。

 十中八九、俺の自意識過剰なのだが、最近眼鏡に侮蔑の視線を向けられている気がしてならない。
 あいつが汗水垂らして、側溝をほじくっている間に、俺は一体何をなしただろう。
 ひたすら消費して、排泄してるだけだ。
 全く社会の役に立っていない。

 おまけに、就職活動には交通費や食費もかかるし、節約しなければいけないのに、こうして喫茶店でコーヒーなんか飲んでいる。
 真っ直ぐ家に帰りたくないなんてわがままだ。
 コーヒーが飲みたければ家で飲めばいいのに。
 そんな自分が嫌で仕方がない。

 しかもここのメニューの値段設定、割高過ぎる。
 コーヒー一杯で900円って……。
 どおりで客が少ない訳だ。
 薄暗い店内はオレンジ色のランプで照らされ、テーブルやソファなどの調度品は重厚な印象の高級品だ。
 店員は40歳過ぎくらいの色っぽいマダムのみ。
 騒がしいファミレスと違い、店内は静かで、会話すら聞こえない。音量を抑えたクラシックが流れているだけだ。
 商店街を歩いていて、適当に入ってしまったのを俺は猛烈に後悔していた。

「お客さん、さっきからため息ばっかですね」

 低く耳障りの良い女の声が静寂を破った。
 見回すと、カウンターの中からマダムが小さく手を振っていた。

 さっきまでカウンター席にいたご老人はいつの間にかいなくなっていて、店には客は俺一人になっていた。
 マダムはするりと猫のようにしなやかな動きでカウンターから出てきた。手にはクッキーの載った小皿がある。

「ため息ばかりだと、幸せも逃げちゃいますよ。甘いものでも食べて、気分転換してくださいな」

 小皿をテーブルの上に置き、微笑む。
 こちらの世界では初めて会うタイプの女性だと感じた。例えば、ルサンチマン王国の宿場町の酒場にいそうな。

「ありがとうございます」

 クッキーを口に含んでみる。
 素朴で優しい甘みが広がった。

「ふふ、おいしい?」

「はい」

「良かった。……求職中なのかしら」

 テーブルに広げた求人情報誌にちらりと視線を移し、マダムが尋ねてきた。

「はい。恥ずかしながら。でも、全然上手くいかなくて」

 自分で赤面するのが分かった。今の境遇を人に知られるのが恥ずかしい。

「どんなところを探しているの? 差し支えなければで良いですけど」

「私服勤務か制服がかっこよくて、ブラックじゃなくて、髪型自由で給料が高いところ。できれば正規雇用が良いです」

 プッ、と吹き出す音がしたかと思うと、マダムはカラカラと声を上げて笑い出した。

「あはははは。ごめんなさい、つい。結構厳しい条件だなって思って」

「やっぱり難しいですかね」

 クッキーで多少回復した気分が再び沈む。眼鏡にもハローワークの人にも、もう少し妥協しろと言われたばかりだった。

「そうねえ。なかなかその条件を満たすところはないと思うわ。でもね、私、一つだけならその条件満たす職場知ってるわ」

「本当ですか?!」

 思わず立ち上がってしまった俺を、マダムは上から下まで眺め、とても楽しげに含み笑いをした。
 眉墨で描いた眉が『知りたい?』と聞くように踊った。

「どこですか? 教えてください」

「純喫茶月光」

 ん? どこかで聞いたことがある名前だ。

 マダムは紙ナフキンを赤紫のマニキュアを塗った指先で持ち上げ、俺の目の前でひらつかせた。
 純白のナフキンにはえんじ色の文字で『純喫茶月光』と印刷してあった。

「つまり、この店。先月、ずっと働いてた男の子が辞めちゃって、困ってたのよ」

 外国人がするように、マダムは肩を竦めてみせた。

「え? 良いのですか?」

「良いわよ。制服はギャルソン風でお気に召すかしら? 平凡な感じだけど」

「それなら全然。あの髪型、これで大丈夫なのですか?」

「今みたいに結ぶなら問題ないわ。前いた子も金髪パーマの長髪だったし」

「給料は? 正規雇用なのですか? 休みは? あ、そうだ、履歴書と住民票……」

 今更思い出して、鞄の中を漁る俺を、マダムは終始楽しげに眺めていた。

 急転直下の展開だが、こうしてあっさり俺の就職先は決まった。
 もうハローワークに行かなくて良い! ニート侍卒業だ!

 帰りがけ、祝杯にコンビニでビールを買った。
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