第四章
文字数 10,519文字
暗闇の中でジョン・ウルフは空腹のあまり目を開けた。狼の目にはすべてが見えていて、ジョン・ウルフは自分が狼のままだったことに驚いて目を剥いた。眠りにつく前までのことがどっと思い出され、ジョン・ウルフはさすがに慌てる。
寝過ごしたのだ、そしてまだ自分はクローゼットの中じゃないか!
どうやってここを抜け出し、馬車まで帰ったらいいのだ?
クローゼットの扉を鼻で押したが、鍵がかかっているのかびくともしない。
〈まずい!〉
カリカリと前脚の爪でひっかき、さらに全身の力を込めると、なんとか透き間が開いた。無理矢理身体を押し込んで脱出に成功するが、そこはまだ寮の部屋だ。辺りを見回すと、ベッドの上に誰か寝ている。匂いはあの志門少年のものだ。
こっそりとベッドの脇を通り過ぎ、窓まで行くと、今度は窓が閉まっていて、ジョン・ウルフはまた慌てた。しかもよく見ると上げ下げ窓ではないか。これでは鼻面で押し上げるのは無理だ。ジョン・ウルフは仕方なく、ベッドへ戻って志門少年を鼻でつついた。
〈起きろ、おい〉
むにゃむにゃと寝言を言う志門少年を今度は前脚でひっかく。
「な、なに? え、犬君、何でここにいるの?」
〈寝ちゃったんだ〉とジョン・ウルフは唸って伝える。
「ええっ、知らなかったよ」
志門少年は目をこすりながら体を起こし、ジョン・ウルフを見下ろした。
「勝手に出ていってくれていいんだよ、なにも起こしてさよならを言わなくたって」
そうなじゃい、とジョン・ウルフは鼻面を窓へ向けた。
「あっそうか、雨が降るんで閉めちゃったんだ、僕が悪かったね」
志門少年はスリッパに足を突っ込むと、立ち上がり、「すぐ開けてあげるよ」と言ったが、ジョン・ウルフはすでに窓に興味を払っていなかった。大きな耳を立て、鼻を部屋の入り口へと向ける。
「どうしたの、犬君」
〈ウィリアムだ、ウィリアムの新しい匂いがする〉
「え? ウィリアムさんはもう帰ったと思うけど?」
ジョン・ウルフは扉に飛びつくと、激しく前脚でひっかき始めた。
〈ここを開けろ、ウィリアムに会いに行く!〉
「ちょっと待って、そんなっ、犬を寮に放したら僕が怒られちゃう」
〈開けないと遠吠えするぞ!〉
ジョン・ウルフの横暴は狼になっても変わらないのであった。志門少年は仕方なく扉を少しだけ開け、首を廊下へとつきだした。もちろん消灯後の寮の廊下に誰もいるはずはなく、志門少年はジョン・ウルフに「おいで」と手招きする。ジョン・ウルフは軽い足取りで廊下に出ると、まっすぐに寮の玄関へと行った。ふんふんと石畳に鼻を押しつけ、入念にチェックする。
〈ウィリアムはついさっき、ここを通ったんだ〉
「え? なんでだろう?」
〈知るか、そんなこと。俺はこの匂いを追跡す〉
ジョン・ウルフは鼻を床に着け、猟犬のように匂いを辿り始めた。このまま放っておくわけには行かず、志門少年も寝間着のままあとを追う。やがて二人と一匹は寮の端っこの塔へと向かう。塔は両翼に付いていて、反対側の塔のてっぺんにはキースの実験室があり、そしてこっちは……。
上へと登っていくうちに志門少年は「ここ、こないだ来たところだ」と言う。
〈こないだ?〉
「うん、上級生に呼び出されて。でも誰もいなかったから帰って来ちゃったけど」
オースチン校の卒業生であるジョン・ウルフはここをよく知っている。ジョン・ウルフがいたころも開かずの間伝説はあったが、そんなものを怖がる男ではなかったので、特に感想もない。ふんふん階段を嗅ぎながら登っていくと……。
終点には扉があった。そしてなにやら変な匂いが中から漏れてくる。
「なんだろう?」
1インチほど扉を開けて志門少年は目をそこに近づける。壊れかけた机に何かが載っているのが見えた。そして小さな灯りがついている。灯りに照らされたものはブンゼンバーナーにフラスコ、分厚い本が横に置かれ、そして三脚台の上には小さな坩堝 が載って、ふつふつと液体がたぎっている。
「ここって化学の実験室?」
なんだ、なんだとジョン・ウルフも隙間に片目を押し当てる。嫌な匂いに思わずのけぞった。
〈く、臭い〉
「確かに。けど、こんな夜中に誰が?」
部屋に人影はない。志門少年が首を捻っていると、ふいにジョン・ウルフのたてがみが逆立った。嫌な匂いの中にあの大事な人の匂いが混じっている。
〈ウィリアム、ウィリアムが中にいる〉
「ええっ?」
その瞬間、ジョン・ウルフがばっと扉を押し開けて飛び込んだ。
「あっ、犬君!」
その声に被さってウィリアムの声が響く。
「立ち去れ、よこしまなものよ!」
同時にばたんと扉が大きく開き、顔をすりつけていた志門少年は中へ転げ込んでしまった。再び扉がばたんと閉まる。
「ウィリアムさん!」
「志門君、あっ、それに……」
戸棚の影からウィリアムが飛びだし、志門少年とジョン・ウルフの姿を認め、あんぐりと口を開けた。
「男爵、なぜこんなところへ!」
「男爵? あ、犬君、君の名前かい?」
足元でジョン・ウルフは壁に向かって唸り続ける。志門少年が目を懲らすが、壁以外には何一つ見えない。
「なにがあったんです、ウィリアムさん、どうしてこんなところへ」
「それを言いたいのは僕の方だけれど、とにかく今は黙っていてくれ、僕は悪霊を退治しなくてはならないのだ」
「悪霊? それはゴーストのことですか?」
志門少年はウィリアムが見ている方に顔を向けるがやはり唸っているジョン・ウルフ以外はなにも見えない。
「僕にはなにも見えないのですけど……」
ええっ、そうなのか、とウィリアムは志門少年を振り返った。もちろんウィリアムの目の前には、頭巾を被った大きな修道士が立っているのだ。その修道士はジョン・ウルフに唸られ、ウィリアムに成敗すると宣言されているにもかかわらず、淡々とフラスコを振り、バイルシュタインのページを捲っていて、ウィリアムもいささか気が抜けているところなのだが。
「ううむ、君は外国人だからイギリスの修道士の幽霊は見えないのかなあ?」
「どうでしょうか、でも僕の母方は巫女の家系ですから、僕も多少霊力はあるのですけれど」
「ええっ」
なんだか似たような環境だと、ウィリアムは再び志門少年を見る。
「とにかく、勝手にものを盗んでこんなところで実験などされては困る、こいつを霊界に帰さなければ」
ウィリアムは修道士の幽霊を睨みながら言った。
「するとこの実験道具は幽霊の持ち物なんですか? 変わった奴ですねえ」
「いや、これはキース君のものなんだ、奴が盗んだんだよ」
「もっと変わった奴ですねえ。だいたい修道士なんでしょう? なんで化学実験なんてするんです?」
そう言われればその通りだ、と、ウィリアムも好奇心を持つ。目の前でぶつぶつと言いながらフラスコを振っている修道僧に指を突きつけた。
「おい、お前、お前の前身はなんだ? なぜそんなことをしている?」
修道士は相変わらずガン無視だ。仕方なくウィリアムは指で五芳星を形取った。
「空と地と海の五芳星たちよ、汝らの耳と目と舌で我に告げよ、彼のものの真の姿を」
ウィリアムの目には海底が映る、色とりどりの海星 が散らばっている、高い山の上で風に吹かれる花々が映る、イワブクロだ、そして五本の指を持つ生き物はすべて「五」を内包する。「五」は生き物の母なのだ、このあと十九世紀になって心理学者ユングと理論物理学者パウリは「四」こそが世界を支配する数と言ったが、本当のところは「五」。その母なる数字の導きによって幽霊の記憶がウィリアムの脳に流れ込んでくる。
若き日の修道僧だ、神に祈り熱心に本を読む、しかし次の瞬間、恐ろしい異端審問の火が彼を包む……修道僧は異端の罪に問われ、火刑にあったのだ。
頭巾がゆっくりウィリアムへと向き、ウィリアムには頭巾の中、ぽっかりと開いた闇の中に光る目が浮かんでいるのが見える。
「私は真実を知りたかっただけ、それだけだ。地獄の業火なぞ怖くはない。審問の火など、意味はない」
ウィリアムは首を傾げる。
「ええと、それってかなり異端じゃないのかな。真実を知りたいなんて。神を越えるってことだろう?」
幽霊は明らかにぎくっと震え、手からフラスコが滑り落ちた。
「ひょっとしてキースから実験道具を盗んだのも真実を知りたかったってわけ? バイルシュタインも? 化学の本を読むのは修道僧としてどうなのかなあ」
「ええい、うるさいわ!」
しかし今や幽霊は明らかに動揺していた。
傍で志門少年が「何を言ってるんですか?」と尋ねる。
「うーん、なんと言ったらいいのかなあ、彼は異端修道僧だったみたいだね。ほら、小説であるでしょう、『異端修道僧もの』ってジャンルが」
うんうん、と志門少年は頷いた。
「よくある、あれね。知識の希求と神への信仰の板挟みって奴ですね。日本にもよくそういった話はありますよ。人間、古今東西、本質は変わらないんですね」
「君とは意見が合うね、志門君」
「ウィリアムさんこそ、尊敬すべき人間です」
修道僧は長い袖をたくし上げ、二人を指さした。
「ええい、勝手なことばかり! そもそもお前たちに関係ないだろう、私は世界の真実を探るためにこの世によみがえったのだ! この前の夜、この部屋の強い力に引かれ、気が付いたら存在していた。これも神の思し召しなのだ!」
ううむ、とウィリアムは考え込んだ。だいたい十二、三世紀の修道僧に意見しても始まらない。霊を消してもいいが、幽霊が「この間の夜」と言ったことが気になっている。
「つまり、それまでは君は存在しなかったんだね」
「そういうことだ」
再び志門少年が「なんて言ってるんです?」と尋ねる。
「真実を知るためにこの世に戻ったって言ってる。悪いことをするためではないんだし、消してしまうのはちょっと気の毒だ。しかししょっちゅうこんなところで実験なんてされたら危なくて仕方ない」
「それもそうですねえ」
その間にもジョン・ウルフのうなり声はどんどん大きくなっていて、ウィリアムはシッポをぎゅっと掴んだ。
痛みにジョン・ウルフはぴょんと跳び上がる。
「男爵、闇雲に飛びかからないように。今、協議中なんですから!」
きっぱりと言い渡す。
すると今まで考え込んでいた志門少年が「いいアイディアがあります」と言った。
「アイディア?」
「これで確実に奴は悪さをしなくなります。奴に伝えてください」
志門の伝えた言葉はこうだった。
「江月 照らし松風 吹く永夜 清宵 なんの所為 ぞ」
どういう意味かというと、
「秋の済んだ月は河の水を照らし松を吹く風は爽やかでこの長い清らかな宵はいったい何のためにあるのだろうか」
修道僧は黙ってウィリアムの言葉を聞く。
「この意味がわかれば真理がわかるよ。志門少年の国の有名な僧が言ったことだそうだ」
修道僧は静かに口の中でその言葉を呟く。何度も呟いているうちにやがて姿は消えていった。
後に残ったのは実験道具にバイルシュタイン。
そして窓からは今しも雲間から顔を出した雨上がりの月の光。
ジョン・ウルフもいつの間にか唸るのをやめ、ウィリアムにぴったり寄り添っている。
「すごいね、志門君! あの言葉は?」
「昔話にあるんです。日本の有名なゴーストストーリーなんですけど、雨月物語、って言ってね」
「雨月?」
志門少年は窓を指さした。
「英語で言うと、『Tales of Moonlight and Rain 』、ちょうど今晩みたいな夜ですね。昔、旅の高僧が鬼 の退治を頼まれるのです。鬼はとあることから道を踏み外した同じ僧なんです。高僧は鬼になってしまった男にその言葉を伝え、男はいつまでもその言葉の真実を考え続けるんですけれど、自然の美しさには理屈などなく、あるがままだということなので、あの幽霊も永遠に考え続けるでしょうよ」
なるほど、とウィリアムは感心した。
階段を下りたところで、志門少年は「ところでよかったね、ご主人に会えて」とジョン・ウルフに話しかける。
「ウィリアムさん、大きな犬ですねえ」
「ま、まあねえ」
間違っても狼などと知られてはいけない。いわんや人狼などとも。
寮の玄関を開けて外に出ると、志門少年が「これから帰るんですか?」と尋ねた。
「門は閉まっているでしょう? 僕の部屋に泊まったらどうですか?」
「実は幽霊退治をするって決めたとき、サイモンさんから鍵を借りておいたんだ」
「じゃあ、門まで送りますよ」
木立の中を歩きながら、志門少年はウィリアムに話しかける。
「ウィリアムさん、気づいてましたよね、あの幽霊がよみがえったのは僕のせいだって」
「志門君……」
志門少年はしかし嬉しそうだ。
「僕の家系は不思議な力を持っていて、そのせいで時の権力に利用されたり、迫害されたりしてきたんです」
自分と同じだ、とウィリアムは思った。
「知っていますか、日本の天皇家は北と南に別れて争ったことがあるのです」
「そうか、イギリスにもそういう時代があったよ、薔薇戦争っていって、ランカスター家とヨークシャー家で争ったんだ」
よくある話なんですね、と志門少年はため息をついた。
「僕の先祖は熊野の巫女と天皇の子供なんだそうです。でもそれは、絶対言ってはならない秘密なんです」
「なんで僕に言うんだい?」
すると志門少年は立ち止まってウィリアムの手を握った。
「だってウィリアムさんも不思議な力を持っているんでしょう?」
「ま、まあねえ」
「よかった、この世に仲間がいるなんて」
ちょっと待て、とウィリアムは冷や汗が出てきた。お互いの秘密、それはいい、だがもし学校に知られれば首だ。
「志門君、けれど、他の人には内緒にしておこうね」
「もちろんです、ウィリアムさん」
志門少年は目をきらきらと輝かせ、ウィリアムに飛びつく。
「ウィリアムさん、僕たちは仲間ですね!」
と、ふいにうなり声が上がる。ジョン・ウルフが歯を剥き出して志門少年を威嚇しているのだ。
「あっ、こら、だめだよ!」
志門少年は笑ってウィリアムから離れた。
「男爵くんは僕に焼き餅を焼いているんですよ。可愛いなあ」
えっ、とウィリアムはジョン・ウルフと志門少年を交互に見た。
「これが可愛いかい? こんな無駄に大きいのに?」
「ええ、だって主人に忠実じゃないですか。この子、僕がウィリアムさんの上着を着ていたんで、間違って飛びついてきたんです。大好き、大好き、ウィリアム、って言いながら」
さすがにウィリアムは顔を赤らめた。まさかあそこに入れたいとか、擦って出したいとか、言ってなかったろうな、と再び冷や汗をかきはじめる。
「他に変なこと、言ってなかった?」
「いいえ、とにかく、好き、好きって」
ウィリアムは赤い顔のまま、門に向かって歩き出した。ぴったりついてくるジョン・ウルフ狼にちらちら目を落とす。
(ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が僕のことを好きって言いながら飛びついたなんて……)
動物の言葉が解る志門少年がわざわざ嘘を付くとは思えない。
(男爵は僕が好き……)
そんなこと、あるのだろうか……。でも狼になっている男爵が嘘を付くとは思えないし、志門少年が理解出来ると思って話しかけたのでもないはず、となると……。
(彼の本心……)
そっと狼の方に手をさしのべると、鼻が押しつけられる。熱いものがこみ上げ、胸が苦しくなってきた。
(男爵、きっと僕も……)
門の前に出て、ウィリアムの思考はとりあえずそこで止まる。鍵を開け、志門少年に別れを告げると外へ出た。
「さあて、どうするか……」
日が昇る前に人間の姿に戻さなくてはいけない。たぶんその方法は、あれ……でもなぜか今夜はあれをするのが嫌じゃないって気がしているウィリアムだ。というか、さっき冷たい鼻を掌に感じた瞬間、なぜか下腹が突っ張ってきて……太いものの感覚が蘇り、後ろがじんとしびれてきて……。「すぐしてもいい」って気になったのはどういうわけだろう、とウィリアムは思いつつ、辺りを見回した。だって町中でするわけには行かないでしょう、少なくとも部屋に帰ったほうがいい。
と、がらがらと音がして、黒い馬車がこちらへやってくるではないか。もちろん紋章は狼と王冠、そして盾を飾るリボンには……。
御者台からヘンリーが「ご苦労様です、ウィリアムさま」と呼びかける。
「ヘンリーさん、なぜ……」
「ずっと待っておりました、ようございましたね、雨が上がって」
ヘンリーは御者台から飛び降りると、さっと扉を開けた。
「ご主人さま、どうぞ。中にお着替えが用意してございます」
そしてウィリアムには「儀式は中でどうぞ」と片目を瞑った。
「ヘンリーさん、儀式って……」
「ご主人さまを人間に戻すあれでございますよ。ごゆっくりどうぞ。私と御者は離れておりますから大丈夫でございます」
ヘンリーはウィリアムの手を取ると、馬車へと押し込んだ。
「ヘンリーさんっ」
しかし、ウィリアムの目は座席に座っている狼に釘付けだ。狼は首を伸ばし、ウィリアムの頬に鼻を優しく押しつける。とっても優しく。こんなキスはされたことがない……ウィリアムの手は知らない間に狼の首に回される。毛深い首をかき抱く。温かな体温が伝わってくる。獣、間違いなく相手は獣なのに、なぜこんな気持ちになるのだろう……この狼が好きだなんて……ウィリアムは気づかない間に息を弾ませている。
「ああっ、はあ……ん、うんっ」
信じられないほど、艶のある声だ、なんでこんな声が出ちゃうんだろうと思いつつ、ウィリアムは毛深い胸に唇を寄せる。もうそこは狼の胸ではない、赤みがかった毛のみっしりと生えた人間の胸だ。狼を抱き寄せていたはずなのに、今やウィリアムはがっしりとした腕に抱かれている。そして座席に横たえられ……あの太いものが入ってくる……。
「ああっ、男爵っ、男爵っ」
「ウィリアム、ウィリアム!」
名前を呼び合うだけで、気持ちは通じる、だって、だって好きだから……。
今気づいた自分の気持ち。
だから傷ついたのだ、身分が違うからと。
離れたくない、この人と。例え身分が違っても。
「男爵っ、男爵っ」
「ウィリアム!」
名前を呼び合い、絡まり合い、吸い合い、さすり合い、ぴったりとくっつき合い……。これは愛の儀式に違いない。愛し合うもの同士の。でなければこんなにも気持ちよく、こんなにも激しく、こんなにも繰り返しむつみ合わないだろう。愛するもの同士でなければ……気が遠くなるような幸福の中でウィリアムはそう考えていた。
狭い座席でほとんど二つ折りになっていたウィリアムは、後ろに入っていたものが引き抜かれたのを感じた。次に、抱え上げられ、膝に載せられる。毛深い胸に抱かれる。逞しい腕はウィリアムをしっかりと抱いている。
なんだか恥ずかしくて言葉が出ない。いつもそうだ。でも今日は……好きですって言おう、そう思った瞬間。
こんこん、と馬車の扉がノックされた。
「失礼いたします、ウィリアムさま、預かりものでございます」
窓が開いて、ヘンリーの手があらわれる。なにやら手に持っている。
「ウィリアムさま、門のところにいましたら、ぼっちゃまがいらして、志門さまとおっしゃるかたです、ウィリアムさまに上着着を借りたのでお返ししたいと。わたくし、言付かってまいりました」
すると「おうよ、そういえば俺さまが返すはずだったのだ、すっかり忘れていたわ」とジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が応じた。
そういえばそうだ、とウィリアムは思いだした。これを貸したためにジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は志門少年をウィリアムと間違えたのだ。
「確かに彼に貸しました」
「ではお受け取りくださいませ」
しかし受け取った上着はなにやらどろどろで、狼の毛がたくさん付いている。しかも異臭がする。そしてその匂いは馬車に立ちこめるあの匂いと同じ……。
「男爵、いったいこれは……」
くんくんと鼻を近づけるウィリアムに、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は照れくさそうな顔になった。
「あなたが返すはずってどういうことなんです?」
「その、だな、俺さまは夜になるまで、志門の部屋のタンスに隠れていたのだ。そこでお前の上着を返すよう、志門から預かってだな、で、お前の匂いがたいそう良かったものでな、つい狼のままですりすりっとだな、で、涎とあれでちょいと汚してしまったというわけさ」
「つまり……」
ウィリアムは今までの気持ちがすっかり台無しになるのを感じていた。所詮はけだもの、本能で発情し、欲望のままに行動する獣なのだ、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は。「好き」、ああ、好きでしょうとも、「あれ」が。上着相手だっていいのだ、欲望が発散されれば。なんてこと。
ウィリアムは上着をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔に向かって投げつけた。
「ひどいじゃないですか、男爵。あなたの欲望のために僕を利用するのは金輪際やめてください。ああ、そうだ、もしどうしてもって言うんだったら、今度からこの上着を相手にすればいいでしょう」
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔が真っ赤になった。
「何を言う、ウィリアム、それは違う……こんな上着相手にそうしゅっちゅう出来るわけないだろう」
まだ言うか、とウィリアムは膝から滑り降りると、座席の下に散らばっていた服を取り、身体を隠した。
「待ってくれ、ウィリアム、この上着はだな……」
投げつけられた上着をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は取り上げ、「ん?」という顔になった。
「なにか入っているぞ」
ポケットに突っ込んだ指が探り当てたのは、小さな香水瓶。
「なんだ、これは?」
男爵、駄目です、とウィリアムは叫んだが、コンマ一秒で間に合わなかった。
「うぎゃおううううううう」
夜空に咆吼が響き渡り、辺りの犬たちが一斉に遠吠えを始めた。そして咆吼とともに、馬車から裸の男が転がり落ち、地面でのたうつ。
「ああっ、ご主人さまっ」
ヘンリーが駆け寄った。
ウィリアムは唖然として、転げ回る男爵を見つめた。
ネリー夫人に渡すはずだった、あの香水を嗅いでしまったのだ。
可哀相、という気持ちも少しはあったが、ウィリアムは目を背けて淡々と服を着る。
(僕のことを好きでも何でもない人なんだ、この人は。単なる欲望のはけ口。今夜のことでよく解ったじゃないか)
なぜか心が苦しくなる。そんなことは前から解っていたはずなのに。
なぜかぽろぽろと涙がこぼれる……。
「ウィリアムさま、どうなさったのですか!」
気が付くと、ヘンリーがハンケチを差し出していた。
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はなんとか正気を取り戻し、服を着ながらウィリアムを見た。
「ウィリアム、一言注意をしてくれれば開けなかったのに。それにしても、泣いているのは俺さまのためだろう? 俺さまの苦しんでいるところを見て同情したんだな、可愛い奴」
もう、なんてこと! ウィリアムはヘンリーの胸にしがみつき、大声で泣き出した。
「ヘンリーさあん!」
ヘンリーはよしよしとウィリアムの肩を抱く。
「分かりますとも、ヘンリーにはウィリアムさまのお気持ちが。ご主人さまにはあとでちゃんと話しておきます、いいですね?」
涙が止まり、ウィリアムは鼻をすすり上げる。
「ごめんなさい、ヘンリーさん、変なところを見せちゃって」
「よろしいのですよ、ご主人さまはいささか神経に問題がありますから、ウィリアムさまが困るのは当たり前でございます」
「神経が……」
ぴったりな例えに思わず頬がゆるみ、ウィリアムはヘンリーから離れる。ぐいと拳で眼を拭くと馬車の座席に座り直した。
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵もほっと胸をなで下ろし、馬車に乗り込む。もちろん隣ではなく、向かいあってだが。
「ウィリアム、下宿まで送っていってやろう」
相変わらず横柄な口調に、ヘンリーは扉を閉めながらちっちっと指を振った。
「ご主人さま、『送っていってやろう』ではありません、妙齢のかたをお送りするのですから、紳士としては『どうか送らせてください』なのですよ」
ヘンリーの言葉にジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は舌打ちするが、この執事には勝てないのだ。
「ウィリアム、どうか送らせて…て…ください」
「よく言えました」
ヘンリーはウィリアムに向かって片目を瞑る。ウィリアムもにっこりと笑みを返した。
「では出発です」
こうして物語は終わりを迎える。
と、一つだけ、付け足しておこう。
図書館でその後、ウィリアムはあの修道士に時々会うのだ。
主に、生徒のあまりいない午後、書庫で。
修道士はバイルシュタインがたいそう気に入ったようで、よくあの重い本を持ってページを捲り、なにやら呟いている。
ウィリアムがそっと近づくと、「江月照らし松風吹く永夜清宵なんの所為ぞ」と聞こえる。
(ま、しょうがないか……自分の求める真実はどこかにあるんだ)
それが図書館の中なら、誰にも迷惑はかけないのだから、と思うウィリアムなのだった。
そして最後に。
読者の皆さま、ご安心を。
ジョージ・ディップディン・ビットはあのあとすぐ元気を取り戻し、いつものように悪戯をするようになったそうですとさ。めでたし、めでたし。
(終わり)
寝過ごしたのだ、そしてまだ自分はクローゼットの中じゃないか!
どうやってここを抜け出し、馬車まで帰ったらいいのだ?
クローゼットの扉を鼻で押したが、鍵がかかっているのかびくともしない。
〈まずい!〉
カリカリと前脚の爪でひっかき、さらに全身の力を込めると、なんとか透き間が開いた。無理矢理身体を押し込んで脱出に成功するが、そこはまだ寮の部屋だ。辺りを見回すと、ベッドの上に誰か寝ている。匂いはあの志門少年のものだ。
こっそりとベッドの脇を通り過ぎ、窓まで行くと、今度は窓が閉まっていて、ジョン・ウルフはまた慌てた。しかもよく見ると上げ下げ窓ではないか。これでは鼻面で押し上げるのは無理だ。ジョン・ウルフは仕方なく、ベッドへ戻って志門少年を鼻でつついた。
〈起きろ、おい〉
むにゃむにゃと寝言を言う志門少年を今度は前脚でひっかく。
「な、なに? え、犬君、何でここにいるの?」
〈寝ちゃったんだ〉とジョン・ウルフは唸って伝える。
「ええっ、知らなかったよ」
志門少年は目をこすりながら体を起こし、ジョン・ウルフを見下ろした。
「勝手に出ていってくれていいんだよ、なにも起こしてさよならを言わなくたって」
そうなじゃい、とジョン・ウルフは鼻面を窓へ向けた。
「あっそうか、雨が降るんで閉めちゃったんだ、僕が悪かったね」
志門少年はスリッパに足を突っ込むと、立ち上がり、「すぐ開けてあげるよ」と言ったが、ジョン・ウルフはすでに窓に興味を払っていなかった。大きな耳を立て、鼻を部屋の入り口へと向ける。
「どうしたの、犬君」
〈ウィリアムだ、ウィリアムの新しい匂いがする〉
「え? ウィリアムさんはもう帰ったと思うけど?」
ジョン・ウルフは扉に飛びつくと、激しく前脚でひっかき始めた。
〈ここを開けろ、ウィリアムに会いに行く!〉
「ちょっと待って、そんなっ、犬を寮に放したら僕が怒られちゃう」
〈開けないと遠吠えするぞ!〉
ジョン・ウルフの横暴は狼になっても変わらないのであった。志門少年は仕方なく扉を少しだけ開け、首を廊下へとつきだした。もちろん消灯後の寮の廊下に誰もいるはずはなく、志門少年はジョン・ウルフに「おいで」と手招きする。ジョン・ウルフは軽い足取りで廊下に出ると、まっすぐに寮の玄関へと行った。ふんふんと石畳に鼻を押しつけ、入念にチェックする。
〈ウィリアムはついさっき、ここを通ったんだ〉
「え? なんでだろう?」
〈知るか、そんなこと。俺はこの匂いを追跡す〉
ジョン・ウルフは鼻を床に着け、猟犬のように匂いを辿り始めた。このまま放っておくわけには行かず、志門少年も寝間着のままあとを追う。やがて二人と一匹は寮の端っこの塔へと向かう。塔は両翼に付いていて、反対側の塔のてっぺんにはキースの実験室があり、そしてこっちは……。
上へと登っていくうちに志門少年は「ここ、こないだ来たところだ」と言う。
〈こないだ?〉
「うん、上級生に呼び出されて。でも誰もいなかったから帰って来ちゃったけど」
オースチン校の卒業生であるジョン・ウルフはここをよく知っている。ジョン・ウルフがいたころも開かずの間伝説はあったが、そんなものを怖がる男ではなかったので、特に感想もない。ふんふん階段を嗅ぎながら登っていくと……。
終点には扉があった。そしてなにやら変な匂いが中から漏れてくる。
「なんだろう?」
1インチほど扉を開けて志門少年は目をそこに近づける。壊れかけた机に何かが載っているのが見えた。そして小さな灯りがついている。灯りに照らされたものはブンゼンバーナーにフラスコ、分厚い本が横に置かれ、そして三脚台の上には小さな
「ここって化学の実験室?」
なんだ、なんだとジョン・ウルフも隙間に片目を押し当てる。嫌な匂いに思わずのけぞった。
〈く、臭い〉
「確かに。けど、こんな夜中に誰が?」
部屋に人影はない。志門少年が首を捻っていると、ふいにジョン・ウルフのたてがみが逆立った。嫌な匂いの中にあの大事な人の匂いが混じっている。
〈ウィリアム、ウィリアムが中にいる〉
「ええっ?」
その瞬間、ジョン・ウルフがばっと扉を押し開けて飛び込んだ。
「あっ、犬君!」
その声に被さってウィリアムの声が響く。
「立ち去れ、よこしまなものよ!」
同時にばたんと扉が大きく開き、顔をすりつけていた志門少年は中へ転げ込んでしまった。再び扉がばたんと閉まる。
「ウィリアムさん!」
「志門君、あっ、それに……」
戸棚の影からウィリアムが飛びだし、志門少年とジョン・ウルフの姿を認め、あんぐりと口を開けた。
「男爵、なぜこんなところへ!」
「男爵? あ、犬君、君の名前かい?」
足元でジョン・ウルフは壁に向かって唸り続ける。志門少年が目を懲らすが、壁以外には何一つ見えない。
「なにがあったんです、ウィリアムさん、どうしてこんなところへ」
「それを言いたいのは僕の方だけれど、とにかく今は黙っていてくれ、僕は悪霊を退治しなくてはならないのだ」
「悪霊? それはゴーストのことですか?」
志門少年はウィリアムが見ている方に顔を向けるがやはり唸っているジョン・ウルフ以外はなにも見えない。
「僕にはなにも見えないのですけど……」
ええっ、そうなのか、とウィリアムは志門少年を振り返った。もちろんウィリアムの目の前には、頭巾を被った大きな修道士が立っているのだ。その修道士はジョン・ウルフに唸られ、ウィリアムに成敗すると宣言されているにもかかわらず、淡々とフラスコを振り、バイルシュタインのページを捲っていて、ウィリアムもいささか気が抜けているところなのだが。
「ううむ、君は外国人だからイギリスの修道士の幽霊は見えないのかなあ?」
「どうでしょうか、でも僕の母方は巫女の家系ですから、僕も多少霊力はあるのですけれど」
「ええっ」
なんだか似たような環境だと、ウィリアムは再び志門少年を見る。
「とにかく、勝手にものを盗んでこんなところで実験などされては困る、こいつを霊界に帰さなければ」
ウィリアムは修道士の幽霊を睨みながら言った。
「するとこの実験道具は幽霊の持ち物なんですか? 変わった奴ですねえ」
「いや、これはキース君のものなんだ、奴が盗んだんだよ」
「もっと変わった奴ですねえ。だいたい修道士なんでしょう? なんで化学実験なんてするんです?」
そう言われればその通りだ、と、ウィリアムも好奇心を持つ。目の前でぶつぶつと言いながらフラスコを振っている修道僧に指を突きつけた。
「おい、お前、お前の前身はなんだ? なぜそんなことをしている?」
修道士は相変わらずガン無視だ。仕方なくウィリアムは指で五芳星を形取った。
「空と地と海の五芳星たちよ、汝らの耳と目と舌で我に告げよ、彼のものの真の姿を」
ウィリアムの目には海底が映る、色とりどりの
若き日の修道僧だ、神に祈り熱心に本を読む、しかし次の瞬間、恐ろしい異端審問の火が彼を包む……修道僧は異端の罪に問われ、火刑にあったのだ。
頭巾がゆっくりウィリアムへと向き、ウィリアムには頭巾の中、ぽっかりと開いた闇の中に光る目が浮かんでいるのが見える。
「私は真実を知りたかっただけ、それだけだ。地獄の業火なぞ怖くはない。審問の火など、意味はない」
ウィリアムは首を傾げる。
「ええと、それってかなり異端じゃないのかな。真実を知りたいなんて。神を越えるってことだろう?」
幽霊は明らかにぎくっと震え、手からフラスコが滑り落ちた。
「ひょっとしてキースから実験道具を盗んだのも真実を知りたかったってわけ? バイルシュタインも? 化学の本を読むのは修道僧としてどうなのかなあ」
「ええい、うるさいわ!」
しかし今や幽霊は明らかに動揺していた。
傍で志門少年が「何を言ってるんですか?」と尋ねる。
「うーん、なんと言ったらいいのかなあ、彼は異端修道僧だったみたいだね。ほら、小説であるでしょう、『異端修道僧もの』ってジャンルが」
うんうん、と志門少年は頷いた。
「よくある、あれね。知識の希求と神への信仰の板挟みって奴ですね。日本にもよくそういった話はありますよ。人間、古今東西、本質は変わらないんですね」
「君とは意見が合うね、志門君」
「ウィリアムさんこそ、尊敬すべき人間です」
修道僧は長い袖をたくし上げ、二人を指さした。
「ええい、勝手なことばかり! そもそもお前たちに関係ないだろう、私は世界の真実を探るためにこの世によみがえったのだ! この前の夜、この部屋の強い力に引かれ、気が付いたら存在していた。これも神の思し召しなのだ!」
ううむ、とウィリアムは考え込んだ。だいたい十二、三世紀の修道僧に意見しても始まらない。霊を消してもいいが、幽霊が「この間の夜」と言ったことが気になっている。
「つまり、それまでは君は存在しなかったんだね」
「そういうことだ」
再び志門少年が「なんて言ってるんです?」と尋ねる。
「真実を知るためにこの世に戻ったって言ってる。悪いことをするためではないんだし、消してしまうのはちょっと気の毒だ。しかししょっちゅうこんなところで実験なんてされたら危なくて仕方ない」
「それもそうですねえ」
その間にもジョン・ウルフのうなり声はどんどん大きくなっていて、ウィリアムはシッポをぎゅっと掴んだ。
痛みにジョン・ウルフはぴょんと跳び上がる。
「男爵、闇雲に飛びかからないように。今、協議中なんですから!」
きっぱりと言い渡す。
すると今まで考え込んでいた志門少年が「いいアイディアがあります」と言った。
「アイディア?」
「これで確実に奴は悪さをしなくなります。奴に伝えてください」
志門の伝えた言葉はこうだった。
「
どういう意味かというと、
「秋の済んだ月は河の水を照らし松を吹く風は爽やかでこの長い清らかな宵はいったい何のためにあるのだろうか」
修道僧は黙ってウィリアムの言葉を聞く。
「この意味がわかれば真理がわかるよ。志門少年の国の有名な僧が言ったことだそうだ」
修道僧は静かに口の中でその言葉を呟く。何度も呟いているうちにやがて姿は消えていった。
後に残ったのは実験道具にバイルシュタイン。
そして窓からは今しも雲間から顔を出した雨上がりの月の光。
ジョン・ウルフもいつの間にか唸るのをやめ、ウィリアムにぴったり寄り添っている。
「すごいね、志門君! あの言葉は?」
「昔話にあるんです。日本の有名なゴーストストーリーなんですけど、雨月物語、って言ってね」
「雨月?」
志門少年は窓を指さした。
「英語で言うと、『Tales of Moonlight and Rain 』、ちょうど今晩みたいな夜ですね。昔、旅の高僧が
なるほど、とウィリアムは感心した。
階段を下りたところで、志門少年は「ところでよかったね、ご主人に会えて」とジョン・ウルフに話しかける。
「ウィリアムさん、大きな犬ですねえ」
「ま、まあねえ」
間違っても狼などと知られてはいけない。いわんや人狼などとも。
寮の玄関を開けて外に出ると、志門少年が「これから帰るんですか?」と尋ねた。
「門は閉まっているでしょう? 僕の部屋に泊まったらどうですか?」
「実は幽霊退治をするって決めたとき、サイモンさんから鍵を借りておいたんだ」
「じゃあ、門まで送りますよ」
木立の中を歩きながら、志門少年はウィリアムに話しかける。
「ウィリアムさん、気づいてましたよね、あの幽霊がよみがえったのは僕のせいだって」
「志門君……」
志門少年はしかし嬉しそうだ。
「僕の家系は不思議な力を持っていて、そのせいで時の権力に利用されたり、迫害されたりしてきたんです」
自分と同じだ、とウィリアムは思った。
「知っていますか、日本の天皇家は北と南に別れて争ったことがあるのです」
「そうか、イギリスにもそういう時代があったよ、薔薇戦争っていって、ランカスター家とヨークシャー家で争ったんだ」
よくある話なんですね、と志門少年はため息をついた。
「僕の先祖は熊野の巫女と天皇の子供なんだそうです。でもそれは、絶対言ってはならない秘密なんです」
「なんで僕に言うんだい?」
すると志門少年は立ち止まってウィリアムの手を握った。
「だってウィリアムさんも不思議な力を持っているんでしょう?」
「ま、まあねえ」
「よかった、この世に仲間がいるなんて」
ちょっと待て、とウィリアムは冷や汗が出てきた。お互いの秘密、それはいい、だがもし学校に知られれば首だ。
「志門君、けれど、他の人には内緒にしておこうね」
「もちろんです、ウィリアムさん」
志門少年は目をきらきらと輝かせ、ウィリアムに飛びつく。
「ウィリアムさん、僕たちは仲間ですね!」
と、ふいにうなり声が上がる。ジョン・ウルフが歯を剥き出して志門少年を威嚇しているのだ。
「あっ、こら、だめだよ!」
志門少年は笑ってウィリアムから離れた。
「男爵くんは僕に焼き餅を焼いているんですよ。可愛いなあ」
えっ、とウィリアムはジョン・ウルフと志門少年を交互に見た。
「これが可愛いかい? こんな無駄に大きいのに?」
「ええ、だって主人に忠実じゃないですか。この子、僕がウィリアムさんの上着を着ていたんで、間違って飛びついてきたんです。大好き、大好き、ウィリアム、って言いながら」
さすがにウィリアムは顔を赤らめた。まさかあそこに入れたいとか、擦って出したいとか、言ってなかったろうな、と再び冷や汗をかきはじめる。
「他に変なこと、言ってなかった?」
「いいえ、とにかく、好き、好きって」
ウィリアムは赤い顔のまま、門に向かって歩き出した。ぴったりついてくるジョン・ウルフ狼にちらちら目を落とす。
(ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が僕のことを好きって言いながら飛びついたなんて……)
動物の言葉が解る志門少年がわざわざ嘘を付くとは思えない。
(男爵は僕が好き……)
そんなこと、あるのだろうか……。でも狼になっている男爵が嘘を付くとは思えないし、志門少年が理解出来ると思って話しかけたのでもないはず、となると……。
(彼の本心……)
そっと狼の方に手をさしのべると、鼻が押しつけられる。熱いものがこみ上げ、胸が苦しくなってきた。
(男爵、きっと僕も……)
門の前に出て、ウィリアムの思考はとりあえずそこで止まる。鍵を開け、志門少年に別れを告げると外へ出た。
「さあて、どうするか……」
日が昇る前に人間の姿に戻さなくてはいけない。たぶんその方法は、あれ……でもなぜか今夜はあれをするのが嫌じゃないって気がしているウィリアムだ。というか、さっき冷たい鼻を掌に感じた瞬間、なぜか下腹が突っ張ってきて……太いものの感覚が蘇り、後ろがじんとしびれてきて……。「すぐしてもいい」って気になったのはどういうわけだろう、とウィリアムは思いつつ、辺りを見回した。だって町中でするわけには行かないでしょう、少なくとも部屋に帰ったほうがいい。
と、がらがらと音がして、黒い馬車がこちらへやってくるではないか。もちろん紋章は狼と王冠、そして盾を飾るリボンには……。
御者台からヘンリーが「ご苦労様です、ウィリアムさま」と呼びかける。
「ヘンリーさん、なぜ……」
「ずっと待っておりました、ようございましたね、雨が上がって」
ヘンリーは御者台から飛び降りると、さっと扉を開けた。
「ご主人さま、どうぞ。中にお着替えが用意してございます」
そしてウィリアムには「儀式は中でどうぞ」と片目を瞑った。
「ヘンリーさん、儀式って……」
「ご主人さまを人間に戻すあれでございますよ。ごゆっくりどうぞ。私と御者は離れておりますから大丈夫でございます」
ヘンリーはウィリアムの手を取ると、馬車へと押し込んだ。
「ヘンリーさんっ」
しかし、ウィリアムの目は座席に座っている狼に釘付けだ。狼は首を伸ばし、ウィリアムの頬に鼻を優しく押しつける。とっても優しく。こんなキスはされたことがない……ウィリアムの手は知らない間に狼の首に回される。毛深い首をかき抱く。温かな体温が伝わってくる。獣、間違いなく相手は獣なのに、なぜこんな気持ちになるのだろう……この狼が好きだなんて……ウィリアムは気づかない間に息を弾ませている。
「ああっ、はあ……ん、うんっ」
信じられないほど、艶のある声だ、なんでこんな声が出ちゃうんだろうと思いつつ、ウィリアムは毛深い胸に唇を寄せる。もうそこは狼の胸ではない、赤みがかった毛のみっしりと生えた人間の胸だ。狼を抱き寄せていたはずなのに、今やウィリアムはがっしりとした腕に抱かれている。そして座席に横たえられ……あの太いものが入ってくる……。
「ああっ、男爵っ、男爵っ」
「ウィリアム、ウィリアム!」
名前を呼び合うだけで、気持ちは通じる、だって、だって好きだから……。
今気づいた自分の気持ち。
だから傷ついたのだ、身分が違うからと。
離れたくない、この人と。例え身分が違っても。
「男爵っ、男爵っ」
「ウィリアム!」
名前を呼び合い、絡まり合い、吸い合い、さすり合い、ぴったりとくっつき合い……。これは愛の儀式に違いない。愛し合うもの同士の。でなければこんなにも気持ちよく、こんなにも激しく、こんなにも繰り返しむつみ合わないだろう。愛するもの同士でなければ……気が遠くなるような幸福の中でウィリアムはそう考えていた。
狭い座席でほとんど二つ折りになっていたウィリアムは、後ろに入っていたものが引き抜かれたのを感じた。次に、抱え上げられ、膝に載せられる。毛深い胸に抱かれる。逞しい腕はウィリアムをしっかりと抱いている。
なんだか恥ずかしくて言葉が出ない。いつもそうだ。でも今日は……好きですって言おう、そう思った瞬間。
こんこん、と馬車の扉がノックされた。
「失礼いたします、ウィリアムさま、預かりものでございます」
窓が開いて、ヘンリーの手があらわれる。なにやら手に持っている。
「ウィリアムさま、門のところにいましたら、ぼっちゃまがいらして、志門さまとおっしゃるかたです、ウィリアムさまに上着着を借りたのでお返ししたいと。わたくし、言付かってまいりました」
すると「おうよ、そういえば俺さまが返すはずだったのだ、すっかり忘れていたわ」とジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵が応じた。
そういえばそうだ、とウィリアムは思いだした。これを貸したためにジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は志門少年をウィリアムと間違えたのだ。
「確かに彼に貸しました」
「ではお受け取りくださいませ」
しかし受け取った上着はなにやらどろどろで、狼の毛がたくさん付いている。しかも異臭がする。そしてその匂いは馬車に立ちこめるあの匂いと同じ……。
「男爵、いったいこれは……」
くんくんと鼻を近づけるウィリアムに、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は照れくさそうな顔になった。
「あなたが返すはずってどういうことなんです?」
「その、だな、俺さまは夜になるまで、志門の部屋のタンスに隠れていたのだ。そこでお前の上着を返すよう、志門から預かってだな、で、お前の匂いがたいそう良かったものでな、つい狼のままですりすりっとだな、で、涎とあれでちょいと汚してしまったというわけさ」
「つまり……」
ウィリアムは今までの気持ちがすっかり台無しになるのを感じていた。所詮はけだもの、本能で発情し、欲望のままに行動する獣なのだ、ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は。「好き」、ああ、好きでしょうとも、「あれ」が。上着相手だっていいのだ、欲望が発散されれば。なんてこと。
ウィリアムは上着をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔に向かって投げつけた。
「ひどいじゃないですか、男爵。あなたの欲望のために僕を利用するのは金輪際やめてください。ああ、そうだ、もしどうしてもって言うんだったら、今度からこの上着を相手にすればいいでしょう」
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の顔が真っ赤になった。
「何を言う、ウィリアム、それは違う……こんな上着相手にそうしゅっちゅう出来るわけないだろう」
まだ言うか、とウィリアムは膝から滑り降りると、座席の下に散らばっていた服を取り、身体を隠した。
「待ってくれ、ウィリアム、この上着はだな……」
投げつけられた上着をジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は取り上げ、「ん?」という顔になった。
「なにか入っているぞ」
ポケットに突っ込んだ指が探り当てたのは、小さな香水瓶。
「なんだ、これは?」
男爵、駄目です、とウィリアムは叫んだが、コンマ一秒で間に合わなかった。
「うぎゃおううううううう」
夜空に咆吼が響き渡り、辺りの犬たちが一斉に遠吠えを始めた。そして咆吼とともに、馬車から裸の男が転がり落ち、地面でのたうつ。
「ああっ、ご主人さまっ」
ヘンリーが駆け寄った。
ウィリアムは唖然として、転げ回る男爵を見つめた。
ネリー夫人に渡すはずだった、あの香水を嗅いでしまったのだ。
可哀相、という気持ちも少しはあったが、ウィリアムは目を背けて淡々と服を着る。
(僕のことを好きでも何でもない人なんだ、この人は。単なる欲望のはけ口。今夜のことでよく解ったじゃないか)
なぜか心が苦しくなる。そんなことは前から解っていたはずなのに。
なぜかぽろぽろと涙がこぼれる……。
「ウィリアムさま、どうなさったのですか!」
気が付くと、ヘンリーがハンケチを差し出していた。
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はなんとか正気を取り戻し、服を着ながらウィリアムを見た。
「ウィリアム、一言注意をしてくれれば開けなかったのに。それにしても、泣いているのは俺さまのためだろう? 俺さまの苦しんでいるところを見て同情したんだな、可愛い奴」
もう、なんてこと! ウィリアムはヘンリーの胸にしがみつき、大声で泣き出した。
「ヘンリーさあん!」
ヘンリーはよしよしとウィリアムの肩を抱く。
「分かりますとも、ヘンリーにはウィリアムさまのお気持ちが。ご主人さまにはあとでちゃんと話しておきます、いいですね?」
涙が止まり、ウィリアムは鼻をすすり上げる。
「ごめんなさい、ヘンリーさん、変なところを見せちゃって」
「よろしいのですよ、ご主人さまはいささか神経に問題がありますから、ウィリアムさまが困るのは当たり前でございます」
「神経が……」
ぴったりな例えに思わず頬がゆるみ、ウィリアムはヘンリーから離れる。ぐいと拳で眼を拭くと馬車の座席に座り直した。
ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵もほっと胸をなで下ろし、馬車に乗り込む。もちろん隣ではなく、向かいあってだが。
「ウィリアム、下宿まで送っていってやろう」
相変わらず横柄な口調に、ヘンリーは扉を閉めながらちっちっと指を振った。
「ご主人さま、『送っていってやろう』ではありません、妙齢のかたをお送りするのですから、紳士としては『どうか送らせてください』なのですよ」
ヘンリーの言葉にジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵は舌打ちするが、この執事には勝てないのだ。
「ウィリアム、どうか送らせて…て…ください」
「よく言えました」
ヘンリーはウィリアムに向かって片目を瞑る。ウィリアムもにっこりと笑みを返した。
「では出発です」
こうして物語は終わりを迎える。
と、一つだけ、付け足しておこう。
図書館でその後、ウィリアムはあの修道士に時々会うのだ。
主に、生徒のあまりいない午後、書庫で。
修道士はバイルシュタインがたいそう気に入ったようで、よくあの重い本を持ってページを捲り、なにやら呟いている。
ウィリアムがそっと近づくと、「江月照らし松風吹く永夜清宵なんの所為ぞ」と聞こえる。
(ま、しょうがないか……自分の求める真実はどこかにあるんだ)
それが図書館の中なら、誰にも迷惑はかけないのだから、と思うウィリアムなのだった。
そして最後に。
読者の皆さま、ご安心を。
ジョージ・ディップディン・ビットはあのあとすぐ元気を取り戻し、いつものように悪戯をするようになったそうですとさ。めでたし、めでたし。
(終わり)