十五

文字数 3,807文字


 わたしは、猛スピードで国道を南下していた。
 頭の中が緊張で張り裂けそうであった。小さなバイクが対向車に近づくには距離がありすぎた。センターライン付近を走っていると、後続車がクラクションを鳴らし、猛スピードで通り過ぎた。小さなバイクやスクーターは、左端を走行しなければならない。
 無理にぶつかろうとすると、トラックやダンプなどからは大音量のクラクションとともに怒声が飛んだ。何度かその行為を心の中でシミュレーションし、実際に試みてみるうち、このように大きな道路ではぶつかれないと悟った。
 国道以外の川沿いの土手や一般道でも試してみた。
 しかし、一般道や土手でのそれはスピードが遅すぎ、わたしが思い切って近づくと、相手側が避けるか、停止した。そして返ってくるのは、お定まりの、いったいどこ見て走ってんだ、気をつけろという類いの罵声だった。もはや得意先の近辺で、それらしい理屈をつけて、などという甘い考えは捨てなければならなくなっていた。
 いまから思えば、相手の不幸を考えない、いかにも自分勝手な行為だった。しかし、わたしは自分のことしか考えていなかった。
 別の確実な方法を考えねばならない。わたしは思った。
 歯を食い縛り、緊張を保持したまま、それらしい場所を求めて、あちこちの道や公園を物色した。なんとしてでも、交通事故で死ぬか、最低でも入院する形にしなければならない、そうでないと、相殺にはならない、今度こそは彼女との約束を果たさなければ――という気持ちが、時間と距離が増えるにつれて萎えて行った。そして、事故以外の方法でなんとかしなければ――という思いに差し替わって行った。
 それからはただ、格好の場所だけを求めて茫然と走り続けた。
 公園の茂み、山際の林、土手の潅木や喬木など、苦労して見つけた格好の場所も、犬を連れて散歩するひとがいたり、ウォーキングしているひと、ボール遊びをしている子どもたちがいたりした……。
 これでは、いつなんどき、早期発見されるか知れない。半死半生のまま病院に担ぎ込まれたのでは、却って彼女に迷惑が掛かる。植物状態となったわたしが、脳死するのだけを待っている美貴の姿が想像された……。
 夜だ。夜に決行しよう――。
 夏も終りに近づき、暑さも日照時間も減少しつつあった。
 幸いにも、あちこちをさんざん走り回ったお陰で、辺りはうっすらと暗くなっていた。不思議と空腹感は覚えなかった。
 バイクごと飛び降りようとして何度も行き来し、実行に移し損ねた土手に向かった。昼間に見た土手下の遊歩道と、河原の間にある茂みをその場所にしようと思った。
 土手を斜めに横切る細いわき道から遊歩道に降り、人間の背丈をすっぽり隠す喬木のある茂みを探した。暫く行くと、遊歩道からはまったく向こう岸の見えない樹木の生い茂った緑があった。
 バイクを、その場所とはかなり離れたところへ置きに行き、歩いて元のところに戻った。ひとのいないバイクを不審に思った通行人が、辺りを探り回らないようにするためだった。
 ぶら下がって間なしのときに発見されでもしたら、一巻の終わりだ。完全にこと切れているのならともかく、生きてなんかいれば、それこそ生きたまま地獄行きとなる。寝たきりのひとを介護する人間の心というのは、そんなに美しくはない。
 斜面に溜まった砂と枯葉に足を取られながら河原に出ると、ゆったりした川の深い流れが、ごおという音とともに小さな波が飛び跳ねるような音を立てていた。川面を伝わってくるそれが、人間のひそひそ話に聴こえた。あたかも女性同士が、細く甲高い声で噂話をし合っているように聞こえるのだった。
 初めて喉の渇きを覚え、河原に這い蹲ってその水を飲んだ。川の水独特の臭いがした。藻のような、川魚のような臭いだった。
 わたしは周囲を見回し、わたしの背より二十センチほど高みにある枝に着目した。足許では、剥き出しになった幾本もの木の根が巨大な蛇のように大地を出入りしていた。
 そこからは、大小の樹木が遊歩道に向かって生い茂っており、わたしの姿は完全に見えないものと思われた。
 河原に出て、ひと抱えほどもある扁平な石を見つけ、目標にしている枝の下に運んだ。この石の上に乗り、用意ができれば、それを蹴り倒して約束を果たすつもりだった。辺りは、ひとの顔が判別できないほどに暗くなっていたが、時折、雲間から洩れ出る月明かりが木々の聞からわたしを照らした。
 石の上に乗ったまま、ネクタイを外し、それを枝に掛けた。ぶら下がった両端をループ状にした。一瞬、美貴の顔が浮かんだ。その顔は、笑っているのか、泣いているのかわからなかった。しかし、自分が死ねば、その顔は笑顔に変わるだろう。そう思った。
 わたしは長い間、ぼうっとしたあと、ゆっくりとネクタイに首を突っ込んだ。そして意を決して足下の石を蹴った。
 身体が宙に浮いた。全体重が喉を引きちぎろうとしていた。喉仏が圧迫され、息が窒まった。反射的に手を上げようとした瞬間、わたしの身体は、いやというほど地面に叩きつけられていた。
 ネクタイが、わたしの重みに耐えられなかったのだ。
 咳が止まらなかった。戻しそうになり、水のような反吐を何度も吐いた。見ると、ネクタイは縫い合わせの部分から千切れ、中にある硬くて太い芯地までが飛び出していた。もう紐はなかった。代用品を求めて河原に流れ着いたゴミの中を掻き分けてみた。
 ナイロンロープが教本あったが、それらはすべて両手で引っ張ると簡単に切れた。完全に劣化していた。ほかにそれらしいものはなかった。わたしは、手の中で揉むと砂のようにぼろぼろになっていくそれを捨て、バイクのあるところに向かった。
 バイクのシートに座ると、さすがに疲れが出始めていた。横になりたかった。
 だが、そんなことはしていられない。
 何とかしなければ――。
 わたしはまた、バイクを走らせた。
 暫く走って小高い土手の上から、夜景を眺めた。
 遠くに団地のビルが何棟も建ち並んでいるのが見えた。淋しい風景だった。部屋の明かりは、ぽつんぽつんとしか点いていなかった。暗いイメージのする高層ビル群だった。時折、下を車が通っているのがわかる。
 あの上からにしよう。わたしは思った。あれなら、ひと思いに行けるかも知れない。すまない、美貴。約束どおりのことはできないが、多少の償いにはなるだろう。これで、我慢してくれ……。
 路上を歩きながら、いくつかのビルを仰ぎ見ていると、最上階の非常階段に明かりの消えている棟があった。
 あそこに立てば、誰にも怪しまれまい……。
 エレベーターに行ってみると、十一階まであった。十一階を押した。スプレー塗料で描かれた、いまどきの落書きがあちこちになされていた。汚い集合住宅だった。
 九階でドアが開き、三人連れが乗り込もうとしてきた。父親と母親、そして子どものようだった。
 わたしは会釈をして、後ろへ下がった。
 父親らしき男性が一階を押した。そしてエレベーターが上階に行くのに気づき、なんや、上行くんや、しもたと舌打ちをした。
 完全にこちらの顔は見られていた。
 ただ救いだったのは、彼らが一階に降りようとしていたことだった。同じ十一階の住民ならば、普段、見慣れない男に出会ったことを憶えているだろう。
 下手をすると、不審者としてマークするかも知れない。
 同じ階の住民は、大抵の場合、横とのつながりを持っている。非常階段に近い部屋だったら、最悪だ。そんなところをうろうろしている見知らぬ男がいたら、すぐに通報するだろう。
 エレベーターが十一階に着き、わたしが降りようとすると、満面に笑みをたたえた、三歳くらいのその子がわたしにバイバイと手を振った。それには応じず、予定していた非常階段とは反対の方向に足を向けた。
 エレベーターから非常階段までには、相当な拒離があった。
 廊下は、老朽化のためか、歩くとセメントの床が足音に合わせて軋んだ音を立てた。心なしか、身体も揺れるような気がした。
 これでは、いま不審者が廊下を歩いているぞと教えているようなものだ。部屋の中の住人にも、きっとこの廊下を歩く人間の足音は届いているに違いない。
 わたしは音を立てないように、足にはあまり体重を掛けず、爪先だけで歩くようにした。
 それでも床が上下に揺れ、音が出た。足首が痙攣しそうになっている。転ぶかも知れない。誰も知る人のいない集合住宅を歩くのが、これほど人目を気にしなければならないものだとは想像もしなかった。操り人形のような格好で、辺りを憚りながら、息もせずに非常階段にたどり着いた。そして周囲を見回して、がっくりした。
 その向かい側にも同じような非常階段があり、そこからは相手側の一挙手一投足が完全に見て取れるのだった。そして斜め向かいにも別の棟が建っており、各室のベランダが手に取るように見える……。
 これでは駄目だ。やはり反対側のそれでないと――。
 わたしは、農業用水路と田んぼの見える見晴らしのよい非常階段のほうに向かった。あそこなら、誰にも見咎められる心配はないだろう。目の前には、さきほどの土手へ向かう農道が続き、眼下には団地を巡る街路があるだけなのだから――。
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