お狐様への願いごと(テーマ:塩、いなり、ボク[すべてのワードを使うこと])

文字数 2,113文字

 お狐様はどんな願い事も叶えてくれる――そう教えてくれたのは婆ちゃんだ。

 婆ちゃんはいっつも口うるさい。やれ靴は揃えて脱げだの、やれ往来でジュースを飲むのは行儀悪いだの、お小言ばかり言ってくる。
 味が濃いと健康に悪いと呪詛のように呟くものだから、我が家の料理はいつも薄味のものばかり。ハンバーグが食べたいと僕が懇願しても、なかなか聞き入れられやしない。
 だから僕は婆ちゃんが嫌いなんだ。
 婆ちゃんはとても迷信深くて、近所に建ってるお稲荷さんの前を通るたび、そこに誰かがいるみたいにお辞儀する。
 誰もいないよと僕が言うと、お狐様がいるんだよと婆ちゃんはにっこりする。
 いくら僕が子供でも、そんなものいるわけないってことくらいわかる。僕はずっと婆ちゃんを馬鹿にしていた。
 それなのに今、僕は婆ちゃんの作ってくれたいなり寿司を持って、お稲荷さんの前にいる。

      *

 あんなことで怒らなくたっていいじゃないかと、僕は思う。達也は選手に選ばれたんだから、選ばれなかった僕が少しくらいひがんだところで、べつに悪くなんてないじゃないか。
 達也は余裕の表情で、おまえだって来年はなれるよと言って、落ち込む僕を励ました。
 でも来年は来年、今年は今年、僕にとって運動会のリレーは、一年に一度の大切な行事なんだ。
 選手に選ばれた達也なんかに、そんな気持ちわかりっこない。
 そうやって僕を励まして、いい気分なんだろうな。負け犬を慰めるのって、とっても楽しいんだろうな。
 しつこい励ましにうんざりして、そう言ってやったら、達也は黙って顔を赤黒くして、ふざけんなよと言い捨てて帰ってしまった。

 勝手に励まして、通じないと怒って。
 ――自分勝手なんだよ、達也は。

 家に帰ると、僕は婆ちゃんにいなり寿司を作ってもらった。
 お狐様にお願い事をしに行くんだと言ったら、婆ちゃんはにこにこ嬉しそうに、おいしそうないなり寿司をこしらえてくれた。
 一生懸命お願いすれば、きっとなんでも叶うよと。

      *

「ボクは人に姿を見られたくないんだ。だからお皿は、そこの石段の上に置いてほしいな」

 皿を持ったままじっと立っていると、茂みの中からそう声が聞こえた。
 僕は石段の上にいなり寿司ののった皿を置き、茂みの方へ問い掛けた。

「お狐様ですか?」
「そうだよ」
 作り物めいた高い声で、声は答えた。
「願い事があって来たんだろ? 君の願い事は何かな?」
「その前に、いなり寿司、食べてみてください」

 言うと、茂みの中から棒みたいなものが突き出してきて、そうっとお皿を茂みの中へ引き寄せていった。
 よくよく見ると、まごの手だ。
 しかもうちにあるのと同じやつ。

「いただきます」

 うれしそうな声でそう言って、でもすぐにげほげほっ、と盛大に咳き込むのが聞こえた。
 僕は手に持っていた食卓塩を握り締めた。
 婆ちゃんに作ってもらった後、いなり寿司の皮底をめくって、大量に振りかけておいたのだ。

「待って!」

 くるりと後ろを向いて走りかけたところで呼び止められ、僕は足を止めた。
 振り向かないまま、答えた。
「お味はどうですか?」
「……塩辛い」
「婆ちゃんが作ってくれたときは、おいしかったんですよ。でも僕が台無しにしました。せっかく婆ちゃんが作ってくれたのに、台無しにしました」
「…………」
「僕には罰が当たりますか? お狐様にこんな酷いことした罰が当たりますか? 婆ちゃんのいなり寿司台無しにした罰が当たりますか? 達也の――」

 声が掠れた。

「達也の気持ち踏みにじった、罰が当たりますか?」

 周囲の風景が滲んでいくのが見えた。膝ががくがく震えてた。
 呼吸をゆっくり整えて、歩き出そうとしたところで、

「お狐様は、そんなことで人に罰当てるほど、狭い心はしてないよ」

 追いかけるように声はそう言った。

「明日おいしいいなり寿司くれれば、明後日もっとおいしいのくれれば、塩辛いいなり寿司のことなんて、すぐにすっかり忘れちゃうよ」
「…………」
「そんなことで、君を嫌いになったりしないよ」

 お狐様は優しい声で、立ち尽くす僕に、こう訊いた。

「……お願いごとは、なあに?」

 ――達也と仲直りさせてください。

 でもそんな願い事、わざわざお狐様に頼むことじゃない。
 自分一人で、叶えられそうだ。

「今日の夕食、久しぶりにハンバーグにしてやるって、母さんが言ってた。でも婆ちゃんが体壊しちゃったら嫌だから、今日だけは、メニュー変えてください。なるべく塩気の薄いものに。……それが僕の願いごとです」

 返事を待たずに、走り出した。

      *

 家に帰る途中の道には、自動販売機が立っている。
 お狐様はボタンを押すと、出て来たジュースをその場で飲み始めた。あまりの塩辛さに、家に帰り着くまで我慢できなかったんだろう。
 僕は隠れていた電柱の陰から飛び出した。
 行儀悪いぞと言ってやったら、たまにはいいのよと、しれっとした顔で婆ちゃんは言った。
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