第11話 ケアンズの仕事:2022年8月

文字数 3,716文字

(鈴木がケアンズで、海外システムの改訂に着手する)
2022年8月。オーストラリア。ケアンズ。
「鈴木部長。本当に、平日の昼間っから、サーフィンにいってもいいんですね」佐々波が確かめる。
「ああ。君の仕事は、私の邪魔をしないことだ。夕食は6時だ。それまでは、ランチボックスを届けてくれるとき以外は、ここには、いてはならん」
「わかりました」
「それから、夕食のレストランも探しておいてくれ」
「それも、了解です」
こうして、佐々波は出ていった。ここは、ケアンズの海岸に近いコテッジである。
鈴木は、ダマスカスの問題に対応した海外システムの改訂に着手した。従来の日本の企業であれば、山のような文字で埋め尽くされた仕様書をつくって、それを元に、外注する。場合よっては、発注者が仕様書を書くことが出来ないので、外注予定先に作ってもらう。こうなれば、完全にひも付きだ。こんなシステムは、「使い物にならない、完成に時間がかかる、コストがかかる」の三重苦だ。こうした丸投げをしておいて、「IT化に対応しています」と言っても、世界のスピードにはついていけない。鈴木はこの丸投をするつもりはない。
現在の海外システムは、Pythonという言語で書かれている。この言語は、読みやすい。また、レガシー・システムのCOBOLと比べれば、COBOLの1ページ(40行)のコードは2、3行で書ける。だから、維持管理が容易である。欠点は、メモリーを多く使うことと、実行速度が遅いことだが、CPUの改善とメモリーの増大で、この点は問題にならない。
今回のケアンズの仕事は、表向きは、ダマスカスの影響の実態調査であるが、調査レポートは、オーストラリア事務所が、既に作成したものを転用するつもりだ。鈴木は、海外システムの改訂を、5日間集中して行う時間をとるために、ケアンズに来ている。
これから、鈴木は改訂版の仕様書を、Pythonで作る。モジュールを選んで組み立て、データのないところは、とりあえず、ダミー・データを入れて、動く仕様書を作る。プログラミングの出来る人間であれば、Pythonのコードを見れば、何をしたいかわかる。原稿で言えば、脱字や誤字があるが、読めば何を言いたいかわかる、のと同じレベルだ。コードで仕様書を作るのは、IT企業の基本だ。単独で、動く仕様書は少ないが、システム設計の基本は、モジュールの選択と配置、データ設計だ。これが、不適切だと、システムのパフォーマンスが落ちたり、維持管理が困難になる。ここで、プロトタイプのコードを作っておけば、改訂版のシステムの開発は3か月あればなんとかなるだろう。素人は、5日間で、動くコードを作るというとありえないと思うかもしれない。しかし、8割は、現在のシステムのコードを使うので、新規に書くコードの量は決して多くない。問題は、その部分を、どのモジュールを使って、どこに埋め込むかという点にある。コーディングする前のこの部分が、要なのである。今回の5日間はそのための時間であった。進捗が早ければ、動くコードに達する。遅ければ、そこまでは行かない。しかし、その違いは、どうでもいいことだった。
米国のIT企業のトップは、ほとんどがコーディング出来る。これは、システム設計をする上で、必須のノウハウだからである。だから、トップがコーディングできない日本企業は、システム化は無理だ。少なくとも、米国のIT企業とはスピードで競争にならない。
コーディング作業は、1日目は、現在のシステムの解析から始まった。この工程では、プログラムは、書かない。既存のシステムが、どの様なモジュールから構成されていて、モジュール間の依存関係、データの引き渡しをチェックする。これは、建築の補強をするときに、今ある部材の強度と依存関係を調べて、どこに、どの補強材を入れれば、現在の部材を生かしながら、最少の追加部材で、強度を出す問題に似ている。建築でも精緻な分析をせずに、建物全体に×印の形に補強材を当てる場合もある。この方法は、コストは安いが、居住性が悪くなる。システムも同じで、安くあげるのであれば、パッチを当てて、手っ取り早く動くようにする方法もある。しかし、建築と違って、システムは頻繁に改訂が必要だ。いい加減な補強を繰り返せば、建築では、住めるところがなくなるのと同じように、システムでは、実行速度が低下し、コードの管理ができなくなってしまう。
分析をした結果、今まで問題にされなかった通信関係のモジュール構成に問題が見つかった。これをいじると、時間がかかるので、今回は、このままでいくが、後で、時間を見て、再構成する必要があろう。通信関係のモジュールは、4Gから、5Gへの移行のように、規格が進化する。それに合わせて、システムも改訂する必要が生じる。このときに、理想的な方法は、4Gのモジュールを5Gのモジュールに差し替えれば、他の変更なしで、改訂出来ることである。しかし、実際には、他の変更をゼロにすることは難しい。このような場合には、通信規約の違いをパラメータファイルに独立させて、パラメータの書き換えで対応する方法もある。こうした移行作業を考えた場合に、現在のモジュール構成を改善した方がよい部分が見つかったのである。
1日目の夕食は、中華料理だった。
「今日は、寒かったかい」
鈴木が尋ねた。
「日本と比べれば、全く、問題はありません。なにせ、赤道に近いですから。
それより、ここの中華料理、味はどうですか」
佐々波が言った。
「上等だよ。これなら、横浜の中華街と比べても、十分対抗出来るよ」
「東京や横浜は、大きな街ですから、各国料理が食べられるのは、当たり前なんです。でも、ケアンズの街は、小さいですから、こんなに色々な国のレストランがあるなんて驚きです。日本では、地方の街に行けば、和食以外のレストランは少ないですからね。日本の地方にも、中華レストランはありますが、味が、この水準に達しているレストランはなかなかないと思います」
「それは、移民政策の成果だと思うね。昔は、オーストラリアも白豪主義と言って、白人以外は、受け入れないと言っていた時期もあるから、随分と様変わりだね。もっとも、今、白豪主義と言えば、アボリジニの人から、総スカンを食らうだろうね。ネイティブ・オーストラリアンは、アボリジニだから」
「差別がなくなれば、経済が活性化する。これは、当たり前のことだけれど、オーストラリアがそこに到達するまでには、随分と時間がかかっているんですね」
「確かに、差別がなくなれば、経済は活性化すると思う。日本経済が停滞している原因も差別だと思うよ。非正規や女性に対する差別はひどいものだ。私も、アメリカで博士の学位をとって、日本に戻ったんだが、新卒でないため、職にありつけなかった。それで、一時期、派遣で働いていたが、差別は、ひどいものだった。アメリカというか、日本以外の先進国では、能力があれば、それなりの職にありつけ、それなりの収入が得られる。日本は、能力ではなく、新卒といったラベルで判断する。能力のある人にとっては、これは、完全に差別だ。優秀な人は、海外に出て行けと言っているに等しい。これでは、経済が停滞しない訳がない」
「へえ。部長は、派遣で働いていたことがあったんですか。苦労されているんですね。ところで、明日は、何料理にしますか」
「それは、君に任せるよ」
2日目からは、追加すべきモジュールの設計に入った。これは、古い用語で言えば、要求仕様に合わせて、モジュールを設計する作業に似ている。しかし、この場合の要求仕様は生き物である。既にあるモジュールを一部変更して、再利用できれば、開発コスト、開発時間、バグのリスクが小さくなる。仮に、この方法では、要求仕様の90%しか満足できなくても、残り10%のために、コスト、時間、バグのリスクを増やすことは馬鹿げている。
また、要求仕様は、将来のバージョンアップや、基準化も考慮する必要がある。道路に最初に自動車が走った時には、右側通行も、左側通行もなかった。もちろん、衝突リスクを減らすためには、ルールはあった方がよい。しかし、自社でルールを作っても、多数派になれずに、変更せざるを得なくなることもある。逆に、デファクト・スタンダードといわれる、先行していた企業の方式が標準になることもある。このあたりも、要求書にあるからという杓子定規な方法は通用しない。要求仕様を固定的に考えるのは、部下に命令をだして、部下が命令を完全に守らないといって、怒り出す上司のようなものだ。IT業界では、こうした上司のいる企業はつぶれてしまう。
5日目には、基幹部分だけは、動くようになった。一応の目処がついた。夕食は、ステーキにした。厚さが、4㎝はある特大のステーキだ。このタイプのステーキは、日本では、余りお目にかかれないが、オーストラリア人は、厚いステーキが好きだ。鈴木は、佐々波と久しぶりに、ビールで乾杯した。鈴木は、コーディング作業に入った5日間は、集中力を妨げるアルコールも、過激な運動も、封印していたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み