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 その頃私は、小学校の低学年だったが、私に対してはそこまでの禁止事項はなかった。私には音楽的才能が皆無であることを早い段階で見すかされ、見放されていたのだと思う。多分。兄を音大に行かせ、ピアニストにするために費やす時間が全てで、私はある意味どうでもよかったのだ。
 この差別、区別。でも、私は敏博に嫉妬したりはしなかった。どう見ても愛をかけられているようには思えなかったし、兄も全然幸せそうではなかったから。そうして、申し訳ないけれど兄がそうしていてくれることで、ある種防風林の役目をしてくれているのだ、とも思っていた。それでも、私にとって兄の何十分の一に過ぎない過干渉ぶりが、時に耐えられないこともあった。
 母という強風のそれが、根こそぎ崩れ始めたのは、敏博が高校を卒業する頃。まず音大への夢は、もろくも破れ、現役での大学入学も難しい状況になった。高三の半ばで敏博は、マストの折れた船のように、暗い闇の中で迷い始め、姿こそそこにあるけれど、完全に燃え尽きてしまった。今から思うと、よくそこまで耐えぬいたと思う。
 その頃、敏博に初めて彼女ができた。暗い目をしていた兄の瞳の中に、なにかウキウキするものが見え隠れするようになった。私でさえ気づいたのだから、母が気づかないわけがない。探るような目つきで色々と質問していた。
兄は、ボロを出さぬよう、なるべく具体的な答えを返さず、携帯電話は肌身離さず持っていて、絶対に覗かれないようにしていた。入浴する時は、どうしていたのだろう。多分浴室に持ち込んでいたはずだ。だって母は。兄の不在時に空き巣のように、部屋に入りこみ机の天板の裏側までチェックしていたから。
 初めてその姿を見た時私は、人が排泄するのを見てしまったようなとんでもない嫌悪感と罪悪感に襲われた。人として。超えてはいけない一線を、またいだのではないか。恐ろしくて一人では抱えきれずに、敏博にこっそり告げた。彼女ができて、少し元気を取り戻した兄は、力なく笑い、
「知ってるさ。毎日机の上にある時計がずれてるから」
 とだけ、呟いた。知っているのか。だったら、どうして母を問い詰めないのか。いくら親子でも、プライバシーというものは、ある。歴然とある。
「でも、見られたくないもの見つかっちゃったら、どうするの?」
「大丈夫」
 敏博は、自信たっぷりに言い、小さな紙を私の目の前でぶらぶらさせた。
「駅前のコインロッカーに入れてる。母さんに見られるくらいなら、一日三百円は安いもんだよ。毎日入れ替える手間は必要だけど」
 兄は、預り証であるその紙を、手帳型の携帯ケースのポケットに収納した。
 この時点では、まだ他人事だった。母は、敏博ひとすじ。音大への一縷の望みをまだつないでいたし、彼女の存在を疑ってはいたが、証拠をつかんではいないため、
「私のかわいい息子が、女の子なんかにうつつをぬかすはずがない」
 とどこかでたかを括っていたのだろう。名門の音大に行きたかったのも、ピアニストになりたかったのも、母自身なのに、完全に方向を誤っている。
 年が明け、尻尾を出さない兄に対して猜疑心が強まっていった。いや。嫉妬心か。
 とうとう、尾行を始めた。変装までして。私は、数人の生徒に電話をして、レッスンを他の日に替えてもらっているのを小耳に挟んだが、まさか兄をつける時間を確保するためだとは思わなかった。
 ある夕方、母は蒼ざめて帰宅した。ポストに入っていた夕刊と郵便物を鷲づかみにして。兄の受験前最後の模試の結果通知を、勝手に開封したようだ。かんばしくなかったようで、肩を震わせ、
「無能、無能、無能」
 と念仏のように言い放った。そうして暑苦しいウィッグをはずして床に叩きつけ、
「あんな女にくれてやるために、ここまで育てたんじゃない!」
 と叫んだ。
 私が、いるのに。平気だった。怒りとジェラシーを丸出しにして。彼女の存在をつきとめたらしい。その人が、お気にめさなかったのだろう。
「この大切な時に、惑わしやがって」
 汚い罵り言葉を口にして、そのくやしがること。娘である私の前で、感情をあらわにしたり、親として変装して子供を尾行したりといったことを、とりつくろうつもりなど、まるでなかった。もしこの時に、母を非難していたら、
「自分のかわいい息子に悪い虫がついているかもしれなくて、それを確かめに行って何が悪い?」
 などと、自分の行いを正当化しただろう。絶対に自分が悪いなどと認めるわけがなく。
 その時、私は気づいたのだ。母は、私のことなど眼中にない。私にかまうのは、敏博にかまける時間がちょっと余った時だけ。おまけ程度の時間。それにしても、ここまでないがしろによくできるものだ、と思った時にひらめいた。私は、母の一部として収納されてしまっているのだ。同性ということもあり、自分と私の境界線が見えていないのだろう。だから、取り乱した姿を見せても平気なのだ。なぜなら、醜い姿を自分自身に見せても、どうということはないのだから。
 人間不信になるような行いを見せつけ、私が将来トラウマを抱えてしまうかも、などという心使いは、ゼロである。ただただ敏博が自分の手の中から飛び立っていったことが、受け入れられない。
 気持ち悪い。兄のことを、本気で恋愛対象として見ているのではないか。この乱れようは、尋常ではない。父の不在を、呪う。こんな時、私一人では対処ができない。第一それは、娘の役目なのだろうか。
 目撃したことを黙っていられる母ではなかった。けれど、姑息につけまわして見つけたことは隠し、偶然見かけたことに話を作りかえていた。
「敏くんね。今一番大切な時ですよ。女の子と遊ぶのは、大学受かってからいくらでもできるじゃないですか。それにあの女の子、敏くんと釣り合いませんよ」
 開け放した兄の部屋から聞こえてくる、もっともらしい忠告。釣り合わないって、何を根拠に。こうして私は少しずつ、しかし確実に、母を恐怖の対象として見るようになっていった。
 兄は。何一つ反論しなかった。
「黙っていないで、何か言いなさい」 
 母の感情だけがエスカレートしていくばかり。兄の唇は、ますます糸で縫い合わされたかのように、固く結ばれていた。こういうところは、父とそっくりだ。
 父は。母のこの異常性を一体いつ気づいたのだろう。婚約中なら、結婚しなければよかったのに。私はそのせいでたとえ生まれなくてもいっこうに構わない。こんな人生になるくらいなら、生まれない方が、この世の光を見ない方が、幸せだった。結婚後にこうなったのなら、幾分父のせいでもあるだろうし、こんな大変な腐敗直前の桃のような人間を、子供達と共に残して、一人海外で暮らすなんて身勝手。親として、機能していないではないか。
 どちらにしても兄は沈黙を守ったので、母は次なる作戦に出た。彼女を待ち伏せて、鬼のような形相で別れを迫ったらしい。相手からしたら、まだつきあい始めてまもないのに、こんな母親がしゃしゃり出てきたら、不気味だし興醒めだろう。まもなく別れを迎えた。兄は一浪して、母が「人に言えない」と嘆いた大学の経済学部に入学した。
 浪人中は、今の私と同じ、帰宅時間が狂うと母が異常に心配するので、兄は予備校の講座をいくつか受講せず、新しい彼女とのデートに費やしていたようだ。夕食時には帰ってくるし、帰宅したら夜間外出などしなかったので、ようやく心を入れ換えてくれた、と母は安堵したものだ。でも実は、密かに愛を育んでいたのだ。せっかく合格したのに、
「おめでとう」
 の一言ももらえず、ピアノでなくても良いから、と少し譲歩はしつつ、音大の再受験をしつこく提案されていた。
「あー、返す返すもあの時西田先生になんか任せないで、私が直々に教えていれば」
 当時の母の口癖。そもそも自分が外部の人に託したくせに、今さら何を言っているのかと思ったが、怒りのぶつけ場所を探していただけなのだ。
 敏博は、浪人中勉強に専念したい、とピアノを辞めていた。母には「休む」と伝えていたが、もう二度と鍵盤に触る気などなかったのだろう。それを口にした日の笑顔といったら、それはもう今まで見たこともないようなすがすがしさだった。
 突然に訪れた、決別の日。地中でエネルギーをため込んだマグマが一気に噴き出したかのような兄の様子を思い出すと、あれは最後のとどめを刺すための母への挑発であったのだと思う。
 敏博は、夕方六時頃帰宅した。リビングでテレビを観ていた私に一瞥を加え、そこからキッチンにいる母に声をかける。
「明日と明後日、帰り遅くなるから」
 少し大きめの声で。私は、思った。大学の授業の関係かと。大学入学以降は、母も失望したせいで、少し手綱がゆるくなっていた。帰宅時間に関しては、以前ほど厳しくはなく、事前に伝えておけばある程度遅くなっても良しとされていた。
「はぁい、じゃ晩ご飯は先にいただいているわね」
 兄の周囲の空気が、さっと緊張をまとった。それはそばにいた私でもわかるくらいの張りつめ方だった。
「昨日彼女のお父さんが、急に亡くなったんだ」
 言葉を、切る。母の様子を伺っているもよう。
「明日お通夜なので、駅からお寺まで弔問客を車で運ぶ約束をした。明後日の告別式は、火葬場まで行くマイクロバスに乗り切れない人をお寺からピストンすることになっている」
 母の絶句が、どれくらい続いたかもう思い出せない。長かった。普段ならあれだけ排除したのに新しい彼女がいたことに腹を立てることだろう。敏博は、上手に隠す術を覚えたので、彼女などいないふりを完璧に演じていた。でも、この時は「火葬場」に強く反応した。
「ダメよ! ダメ、ダメ! 出世前の男の子は、火葬場に行っちゃダメなのよ!」
 そんな迷信があるのか。知らなかった。首をぶるんぶるん振りながら、叫ぶ。その時点で兄は、大学三年になっていた。彼女とのつきあいも、相当長くなっていたはずだが、何故このタイミングで言うのか不思議だった。
「もう約束したから」
「どうしてお母さんに相談もなしに、そんな大切な事決めちゃうの? 絶対に許しませんよ。その彼女って人も、どうかと思うわ。赤の他人の敏くんをこき使って!」
「こき使ってるわけじゃないさ。お父さん、本当に急だったんだ。何の心の準備もできていなくて、彼女のお母さんだってあわてふためいてる。だから、俺が自分から申し出た。まだ現役だから、弔問もたくさんあるだろうし」
「まぁ!」
 バカみたいな、絵に描いたような反応。
「だからと言って、敏くんが行くことないでしょ! うちの車は使わせませんよ! 死は、穢れなんだから」
「・・・他の人の車を運転するから、問題ないよ」
 車を、使わせない。意地悪にもほどがある。そして、わかった。敏博は、彼女の存在を今になって公にしたかったのではなく、このような緊急事態に母がどのような態度を取るのか、確認したかったのだ。今この瞬間大切な人を突然失い、打ちひしがれている人がいる。そのことに、思いをはせられない母。多分、敏博は、
「やっぱり」
 と思ったのだと思う。実験というより、単なる実証だった。ことのなりゆきを見守っていた私にも、少なからず衝撃は来た。私は、母を心底軽蔑した。
「何よ! 明日絶対に行かせませんよ。行ったらもううちの子じゃありませんよ」
 一体いくつの男に向かって言っているのか。こんな時なのに、私は噴き出しそうになってしまった。母の中で敏博は、将来ピアニストになることを約束されたかわいいかわいい息子のままなのだ。そうして、この殺し文句を口にすれば従った、小さい頃の兄と愚かな混同をしている。
「それならそれでいいさ」
 敏博は、妙に冷静だった。
 母は。怖いほどの怨念の光線を目から放ち、兄を睨みつけた後、退室した。
「わかった。じゃぁ、やめる」
 とでも言うと思っていたのだろうか。
 母が去ったリビングに、二人。敏博は、そう心乱れた様子もなく、ソファに身を横たえる。
「お兄ちゃん、正直に言わなくても適当に嘘ついて行っちゃえば良かったのに」
 何か言わずにはいられなかったので、声をかける。
「見ただろ。人の悲しみに寄り添えない人間は、何のために生きているのかな。ま、ほとんど予想通りだったけど」
 やはり兄は、考えた上で事実を告げたのだ。先ほどの推測が、当たっていたわけだ。
「それにもう嘘をつくのにも、疲れたから」
 そういう敏博は、本当に疲労困憊しているようで、ソファから起き上がると肩のあたりが力なく下がっていた。
 それが、敏博と交わした最後の言葉。翌朝出かけたきり、帰ってこなくなった。
 当日の夜、何時になっても溺愛する息子が帰って来ない。母のことを、まず心配した。半狂乱になるのではないかと気を揉んだ。どうやってなだめようか。警察に捜索願いを出すのは、どのタイミングか。私がしっかりしなければ、と思った。
 ところが、母は何時になってもいっこうにあわてない。おかしい。平静を装ってはいるが、心の中では心配の嵐が吹いているに違いない。それを表現する術がわからなくて、黙っているだけ。それが、私の見立てだった。
 私は、だんだん兄の心配よりも、母のことが気にかかるようになった。今から思えば、これが母から植えつけられた病理なのだと思う。おかしいだろう。兄がいなくなったのだ。兄は、どこへ。その心配が最優先のはずなのに、私は母を構うことばかりを気にし、それが正しいと思い込んでいた。
 私は母の、一体何なのだ。母を守らねばならない十代の娘。その重すぎる荷物に、身体が地面に埋まりそうだし、そもそもそんな大役は拒否したいのに、選択肢がなかった。父も、いない。そして、兄もいなくなってしまうのか。
 母は、まだ言葉を発しない。警察に電話する場合、正確な住所を伝えなければならないが、今母がそんな冷静な感情を持ち合わせているとは、思えない。通報役は、私かもしれない。住所の他に何を聞かれるのだろう。
 十二時を回った頃、なんと母は寝室に引上げて行った。え。どういうことだ。前日遅くなるとは言っていたが、通常ならそれでも十一時には帰宅する。それより少しでも遅れると、母はいつもそわそわし始めて、
「敏くん、まだかしら」
 と蒼ざめるというのに。拍子抜けもしたが、あまりのことに母がおかしくなってしまったのでは、と別の心配が芽ばえた。でも、本音は騒ぎに巻き込まれたくはなかった。
 そもそも、私は母と兄の本当の関係がわかっていない。なんだかんだ言いながらも、兄は長男として、母を受け入れているのかもしれない。だから、メールで遅くなることも伝えてあるのかもしれない。そうであれば、母の態度にも納得がいく。私は、勝手にそうだと判断して、自分の部屋に入った。
 翌朝。やはり敏博は、帰っていなかった。食卓には、兄の分の朝食は用意されていない。外泊などしたこともない兄。一体どうしたのだ。ここまで来たら、聞かずにはいられない。
「お兄ちゃん、夕べ帰ってきたの?」
「知らないわ」
 母は、私のマグカップにコーヒーを注ぎながら、こともなげに言った。
「知らないって・・・。心配じゃないの? いつもはあんなに大騒ぎするじゃない」 
 今度は、自分のマグカップにミルクを入れ、カフェオレを作った。
「あら、そうだったかしら? そんなことないと思うわよ」
 そんなことない? 大いにあるだろう。
「それにお母さん、他の女に触れた敏くんなんて、気持ち悪くて」
 母が何を言っているのか一瞬わからなかった。彼女がいることを、受け入れられないのか。彼女がいれば当然身体の関係はあると考え、それが許せないということか。今時結婚までイノセントな関係でいるカップルなんているわけがないだろう。母の時代にだって、稀だったに違いない。先程「気持ち悪い」と言わなかったか? その言葉がまだ頭の中で消化しきれていないというのに、さらに。
「その娘さん。片親なわけでしょ? 我が家にはふさわしくないわ。やっぱりご両親が揃っているご家庭でないと」
 片親って。おそらく彼女のお父さんは、病死だろうに。こんなことを堂々と言ってしまう母。世間体重視? それならば、ずっと海外に行きっぱなしの自分の家庭だって、充分に後ろ指さされるにふさわしいだろう。そのあたりのことが、まったくわかっていない。
 敏博は、母の狂気を充分に知っていたのだ。ずっと構われていた間に、感じとったのだろう。だからこそ、強硬手段に出たのだ。私はまだ、そこまで理解していなかったので、母の言葉に震撼し、何の反応もできなかった。
「せっかく生徒さんの中から、清楚でかわいらしい娘さんをみつくろってやろうと思ってたのに。敏博ったら」
 母の眼が憎しみに燃え、ぎらついているのを見た私は、少し後ずさった。怖すぎた。今、「見つくろってやろう」と言わなかったか。「やろう」って。兄の気持ちを考えた発言とは、思えない。
「敏博は、汚らわしいからいりません」
 吐き捨てるように。呼び方も、呼び捨てになってしまっていた。
 この変わりよう。あんなに愛していたのに自分の意にそぐわないからと言って、冷酷に扱う。思い出せば、レッスンに来る生徒さんの中にも何人か急に嫌われて、追い出されるように辞めて行った人がいた。
 そして。
 その時から母の関心は、私に向けられ始めたのだった。
「あっちゃん、今日マフィンを作って待っているから、学校が終わったら急いで帰ってきてね」
 マフィンを焼き始めた日。それは、母が狂っていると確信した日。こんなにも簡単に兄を切り捨て、心配もしない。あんなにいつくしんでいると思っていたのに。この件がきっかけで、狂ったのではない。母は、もとから気が違っていたのだ。気づくのが、遅かった。
 敏博は、どこにいるのか。大学へは、通っているのか。怖くて、聞けない。父には、通学に便利だから大学のそばで暮らしている、ととりつくろっていた。友達とシェアハウスしているので家賃は安く、アルバイト代でまかなえているから、と。学費は、そのまま父の口座から引き落とされていたので、何の疑問も持たずに信じたのだろう。無関心と限りなく、同意語の父の信頼。
 あれから七年、兄からは一切の連絡もなく、どこにいるのかもわからない。今はきっと、就職が決まり地方勤務になった、とでも父に伝えているのかもしれない。それすら、わからない。
 兄も、逃げた。母から。父に続き二人目の逃亡者。そのせいで、今私は母の全てをうけ負い、両肩がずしんと重い。重たい。

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