第1話
文字数 1,734文字
プロローグ
心斎橋の大手菓子メーカーのシンボリテックで大きな看板が、七色の光を放ち周辺のネオン達を、圧倒する存在感を放っていた。
金曜日の深夜二十三時、翌土曜日は休日と言うこともあり、不夜城のネオンの下、ナンパのメッカの橋の上ではせわしなく通りすがりの、女の子達に声を掛けるガキ達で溢れかえり飲みに来ていた会社員が邪魔くさそうにそのガキ達を避けながら駅の方へ千鳥足で歩いて行った。何時もの週末の深夜、香月は橋を南へ渡りきると地図を見ながらアーケードを百メートルほど直進してから、明かりの死角になっている路地へ五十メートル程入っていく。すると昼間のようなネオン街からは信じられないくらいの暗がりが目の前に広がり、その闇に溶け込むように目指す「和彫り師・二代目・流海」の文字を見つけた。
黒を基調にした、その外見はまるでこの世の陰と陽をそのまま表しているように香月には思える。約束の二十三時三十分までには、まだ少しあるが香月は迷わずインターホンのボタンを押した。
「先日、連絡しました、別冊ノンフィクションの香月と申します」
インターホン越しに、話した。
「開いています、入って下さい」
室内からこの店の主、流海とおぼしき女性の返事が聞こえた。声に促されるまま黒い鉄のドアを外側へ開け中に入るとすぐに畳二畳ほどの土間に簀の子が敷かれてあり、その正面に下駄箱が配置されていた。
その中からスリッパを取り出し履いているスニーカーと履き替えると、同じように今度は鉄製の引き戸を開きヒアリング室に入った。部屋には刺青の図柄の見本や店の衛生管理に関する方針、未成年を始め施術が禁止されている人たちへの注意書きが、大きく貼り出されそれを眺めながら通り抜けると、アトリエの札が掛かった部屋の前で立ち止まった。右手で拳を作りドアを軽く二回ノックした。
「どうぞ!」
アトリエの向こうから声が聞こえ、香月は再度挨拶をしながら、引き戸になった黒く重い鉄製の扉を開け中に入った。
薄暗いアトリエには、オレンジ色の明かりが灯り八畳程の部屋には、施術用の簡易ベッド、彫り用の電動針と、その強弱を調整する黄色い変電機色とりどりの墨が規則正しく置かれてあり、取材ライターとしての香月の興味をそそった。ライターとして多くのアンダーグランドな現場を見てきたが、刺青のアトリエに足を踏み入れるのは今回が始めてだった。
「お掛けになって下さい」
アトリエに入ると、無表情の流海が自分の前の椅子を手で指し香月に勧めた。脇のテーブルには、コーヒーメーカーが置かれトリップされた、褐色の液体が湯気を上げながら一滴一滴したたり落ちていた。
「失礼します」
進められるままに、椅子に腰を掛けた香月の瞳の奥に流海の姿が投影された。それは香月には異様に思えた。
黒く長い髪を鼈甲の髪止めで後ろにまとめ赤い縁の眼鏡。紺色の作務衣を纏いはみ出した素肌から刺青が見えた。その絵柄は千差万別で、鬼、鳳凰、菩薩、虎や竜、更には、花やデザインアートのワンポイントまで、おそらくは、自分の体をキャンバスにしての試し彫りをしたにちがいない。これ以上は、彫るところがないくらいの密度で彫りを入れてあるのだろう。刺青を見るのは無論始めてではないが、女性のそれを、しかも和彫りを見るのは今日が最初だった。
「変やと思う!」流海が笑った。
テーブルのコーヒーメーカーからカップに、コーヒーを注ぎながら流海が視線を香月に投げてくる。おそらくこれと同じやりとりを彼女はもう飽きるほど繰り返してきたに違いない。
「いえ!」視線を外して、生返事を返した。
彼女には後ろめたさや世間に媚びへつらう態度は、微塵もなく堂々としておりむしろ凛とした気高ささえ感じる。どんな人生を送ってきたのだろう香月の取材ライターとしての炎が胸の奥に灯る。機会を得れば今度は彼女自身を取材してみたいと思った。
「コーヒー飲んでね」流海の声で我に返る。
「すみません!頂きます」
「大江香穂か?」
香月がコーヒーを口元に運んだそのとき、流海の口からその名が漏れた。まるで昔話の絵本を子供に読み聞かせる母親のような暖かな雰囲気で、香月ではない誰かに聞かせようとするような懐かしく穏やかな口長だった。
心斎橋の大手菓子メーカーのシンボリテックで大きな看板が、七色の光を放ち周辺のネオン達を、圧倒する存在感を放っていた。
金曜日の深夜二十三時、翌土曜日は休日と言うこともあり、不夜城のネオンの下、ナンパのメッカの橋の上ではせわしなく通りすがりの、女の子達に声を掛けるガキ達で溢れかえり飲みに来ていた会社員が邪魔くさそうにそのガキ達を避けながら駅の方へ千鳥足で歩いて行った。何時もの週末の深夜、香月は橋を南へ渡りきると地図を見ながらアーケードを百メートルほど直進してから、明かりの死角になっている路地へ五十メートル程入っていく。すると昼間のようなネオン街からは信じられないくらいの暗がりが目の前に広がり、その闇に溶け込むように目指す「和彫り師・二代目・流海」の文字を見つけた。
黒を基調にした、その外見はまるでこの世の陰と陽をそのまま表しているように香月には思える。約束の二十三時三十分までには、まだ少しあるが香月は迷わずインターホンのボタンを押した。
「先日、連絡しました、別冊ノンフィクションの香月と申します」
インターホン越しに、話した。
「開いています、入って下さい」
室内からこの店の主、流海とおぼしき女性の返事が聞こえた。声に促されるまま黒い鉄のドアを外側へ開け中に入るとすぐに畳二畳ほどの土間に簀の子が敷かれてあり、その正面に下駄箱が配置されていた。
その中からスリッパを取り出し履いているスニーカーと履き替えると、同じように今度は鉄製の引き戸を開きヒアリング室に入った。部屋には刺青の図柄の見本や店の衛生管理に関する方針、未成年を始め施術が禁止されている人たちへの注意書きが、大きく貼り出されそれを眺めながら通り抜けると、アトリエの札が掛かった部屋の前で立ち止まった。右手で拳を作りドアを軽く二回ノックした。
「どうぞ!」
アトリエの向こうから声が聞こえ、香月は再度挨拶をしながら、引き戸になった黒く重い鉄製の扉を開け中に入った。
薄暗いアトリエには、オレンジ色の明かりが灯り八畳程の部屋には、施術用の簡易ベッド、彫り用の電動針と、その強弱を調整する黄色い変電機色とりどりの墨が規則正しく置かれてあり、取材ライターとしての香月の興味をそそった。ライターとして多くのアンダーグランドな現場を見てきたが、刺青のアトリエに足を踏み入れるのは今回が始めてだった。
「お掛けになって下さい」
アトリエに入ると、無表情の流海が自分の前の椅子を手で指し香月に勧めた。脇のテーブルには、コーヒーメーカーが置かれトリップされた、褐色の液体が湯気を上げながら一滴一滴したたり落ちていた。
「失礼します」
進められるままに、椅子に腰を掛けた香月の瞳の奥に流海の姿が投影された。それは香月には異様に思えた。
黒く長い髪を鼈甲の髪止めで後ろにまとめ赤い縁の眼鏡。紺色の作務衣を纏いはみ出した素肌から刺青が見えた。その絵柄は千差万別で、鬼、鳳凰、菩薩、虎や竜、更には、花やデザインアートのワンポイントまで、おそらくは、自分の体をキャンバスにしての試し彫りをしたにちがいない。これ以上は、彫るところがないくらいの密度で彫りを入れてあるのだろう。刺青を見るのは無論始めてではないが、女性のそれを、しかも和彫りを見るのは今日が最初だった。
「変やと思う!」流海が笑った。
テーブルのコーヒーメーカーからカップに、コーヒーを注ぎながら流海が視線を香月に投げてくる。おそらくこれと同じやりとりを彼女はもう飽きるほど繰り返してきたに違いない。
「いえ!」視線を外して、生返事を返した。
彼女には後ろめたさや世間に媚びへつらう態度は、微塵もなく堂々としておりむしろ凛とした気高ささえ感じる。どんな人生を送ってきたのだろう香月の取材ライターとしての炎が胸の奥に灯る。機会を得れば今度は彼女自身を取材してみたいと思った。
「コーヒー飲んでね」流海の声で我に返る。
「すみません!頂きます」
「大江香穂か?」
香月がコーヒーを口元に運んだそのとき、流海の口からその名が漏れた。まるで昔話の絵本を子供に読み聞かせる母親のような暖かな雰囲気で、香月ではない誰かに聞かせようとするような懐かしく穏やかな口長だった。