かく語りきは、偉大なるがゆえか、それとも傲慢なるゆえか。

文字数 4,880文字

 彼女が生まれた時、いや彼女が生まれ直した時のこと。大抵の赤子は生まれた直後、泣きわめくものだろう。しかし彼女は真っすぐ助産師を見つめ、シッダールタもかくやと言わんばかりの笑顔できゃっきゃと笑ったのだ。その笑顔を見て助産師は「偉大なるがゆえか。それとも傲慢なるゆえか」などと自問したが口には出さなかった。誕生の喜びを己の言葉で穢すわけにはいかないと思ったからだ。

 さて、彼女が生まれたばかりで泣きわめかなかったのには理由がある。彼女は前世の記憶を持って生まれていたため、心はすでに赤子ではなかったのである。彼女の名はメアリ・フィディック。グレン・フィディック公爵の大事な一人娘で、ハイランド帝国王子レナード・バルブレアの婚約者でもあった。賢明なる読者諸氏はお気づきであろう。ハイランド帝国なるものはこの世界には存在しない。「地球」上の歴史に刻まれたこともない。彼女は読者諸氏にとっては異世界の住人と言える。そして彼女にとってこれは、まぎれもなき異世界転生であった。

 彼女、メアリは一つの大いなる後悔を残し、我らの世界へと転生してきた。その後悔とは、セシリア・グレングラッサを討ち損ねたということ、それに尽きる。「討ち損ねた」などと穏やかではないと思われるだろう。まことに、穏やかではなかった。メアリはその生を賭してセシリアに挑み、不慮の事故にあって願い破れたのだ。その話はまた後程しよう。

 メアリは生前から智勇に優れた女性であった。己の死と新たな生について、十分な冷静さをもって受け止めるだけの度量もあった。ゆえに彼女は決意する。新たな生を謳歌することを。そして彼女は助産師の前で立ち、歩いた。東京都江戸川区のとある産婦人科にて、元メアリこと北条登紀子は日の出と共に生まれたのだ。

 登紀子は常人の及ばぬ早さで世界を吸収した。言語については一からのスタートであったが、もともと数学的素養があり、学ぶことには長けていた。物理法則も彼女が元居た世界と変わらないものであったため、理解は容易であった。あまりに常人離れした娘に両親は時折不安を見せたが、空気を察した登紀子が見せる子供らしさが二人を和ませた。この程度の政治行為は彼女にとってあまりに容易い。

 そして登紀子は女子高生となった。学業において群を抜いていた彼女であれば、どのような有名校であっても入学は可能であったろう。しかし彼女は平凡な、近所の公立高校に進学するという道を選んだ。理由はいたって単純に男である。登紀子は俊英ながらも乙女であった。

 彼の名は長尾虎次郎。いかつい名前だが、大きく目立つところのないごく普通の高校生男子である。両親が海外出張でいないとか、可愛い妹がいるとか、毎朝迎えに来る幼馴染がいるといった「普通」からかけ離れた要素を持ち合わせていない。正真正銘の普通の男子高校生である。そのあたりのことを登紀子は完璧に調べていた。ゆえに虎次郎が進む東京都立大岩高等学校に登紀子も進学を決意した。そして当たり前のようにトップの成績で合格し、入学式の日に代表挨拶の場に立った。

「諸君」

 登紀子は台本も持たず、整列する生徒、父兄を前にしてよく通る声で言った。ひとたびの静寂は不思議な緊張感を生み、それでいて登紀子の顔は涼し気であった。15歳の少女とは思えぬ貫禄。緊張してしかるべき少女の泰然とした態度に教師たちは息をのんだ。

「君たちと共に学べることを、誇りに思う」

 登紀子はそれだけ言うと、お辞儀もなく、自分の列へと戻って行った。その時のことは誰一人とて忘れはしないだろう。体育館の中、拍手の音が鳴りやまなかった。ある女生徒などは泣き崩れてしまった。ある男子生徒は己の身体が何故震えるのか分からずに困惑していた。その震えは歓喜の震え。仕えるべき主を見つけた喜びの衝動である。登紀子は生ける伝説となり、全校生徒の心をほぼ掌握するのに三日とかからなかった。そのカリスマはもはや魔法と言って差し支えなかっただろう。

 東京都立大岩高等学校における権力を確固たるものにした登紀子にとって、次に狙うべきは虎次郎の心のみである。実は彼女、虎次郎のことを知り尽くしながら、ただの一言も言葉を交わしたことがない。いかなるときも優雅たる彼女が唯一、仮面を被り切れない相手が虎次郎なのだ。何故そうなのか。どことなく、前世の記憶にあるハイランド帝国王子レナード・バルブレアに似ている気がする。しかし顔つきも声も何もかもが違う。そのように感じる原因は自分にあるのかもしれない。少々変態的ではあるが、匂いに惹かれているということもある。会話したこともないのに何故匂いを知っているかは乙女の秘密だ。

 虎次郎の様子を見るに、登紀子に関心を持っている風ではない。彼はごく普通の、男子高校生の日常を謳歌している。それに対して登紀子は一年生ながらに生徒会長となり、周囲の人望厚く、高嶺の花として崇め奉られていた。同じ学校にいながらにして、普通ではないその生活が、虎次郎との距離を広げていた。せめて同じクラスであれば、と登紀子は歯噛みした。

 6月の初め、中間テスト明けにある出来事があった。登紀子のいるクラスに転入生が来たのだ。教師に連れられて現れた生徒に、女生徒たちがにわかに色めき立つ。まだ高校の制服が届いていないらしく、彼は私服だった。背が高く、細長の手足はまるでモデルのように見える。温和な表情に中性的な顔立ちはきっと多くの浮名を流したことだろう。クラス委員長でもある登紀子が彼のサポートをすることになった時、諦めにも似たため息が教室を満たした。彼女のお眼鏡にかなわぬことを祈ろう。その意味で、諦めもまた希望の始まりと言える。

 しかし周囲の思いとは裏腹に、登紀子は非常な困惑を覚えていた。不愉快なのだ。何故にかは分からないが、登紀子は転入生を前にして強く苛立った。転入生は名を武田竜彦と言った。記憶を辿ってみても、竜彦との面識は無かった。単なる生理的嫌悪だろうか。直感的にこれほどの拒否感を抱くことが今まで無かったから、それで驚いているのかもしれない。竜彦は天使のような笑みで「よろしく、北条さん」と言った。登紀子でなければ恋に落ちるところであったろう。

 しばらく辛抱すれば良い。この嫌悪感にもそのうち慣れるだろう。そう思い始めた頃、竜彦たっての願いで江戸川区を案内することになった。小さな牧場があって、そこのポニーに乗りたいのだと言う。その程度のことはてきとうな女子を選んでやってほしいと思ったが、これも仕事と割り切って引き受けることにした。この点、彼女は不注意であったろう。男子高校生と二人の外出を頼まれて、それを受け入れるなど、まるでデートに行くようなものではないか。しかし彼女の精神年齢はそれなりに成熟していたため、ビジネスライクな付き合いが出来る程度に免疫がついていたのだ。その精神を虎次郎に適用出来ないのは、ひとえに彼女が乙女であるがゆえ。

 そして運命の時が来た。

「北条さん。運命って信じる?」
「それは、あらゆる物事はあらかじめそう定められている、という文脈の話?」
「そんなたいそうなもんじゃないよ。もっと、赤い糸で結ばれている、みたいな」
「ごめんなさい。あまりそういうことを考えたことが無くて……」

 などと言いながら、実際のところ登紀子は虎次郎との運命についてひどく執着している。気が向けば答えの分かり切った花占いを始める程度に関心がある。しかしその感情を竜彦と共有したいなどと、露ほどにも思っていない。今も彼女は案内を早く済ませて家に帰り、『花より男子』の続きを観ることしか考えていない。彼女は格差ラブストーリーを研究中である。

「僕は信じてる。だって、北条さんとこうして再会することが出来たんだから」

 再会、という言葉がひっかかる。登紀子の記憶において、武田竜彦なる人物の影はまったく見当たらない。彼女の記憶違い、ということも考えにくい。彼女は前世において、人物を覚えることの重要性を厳しくたたき込まれていたからだ。人間関係を知り尽くしてこそ、腹に一物ある要人たちの動きを推測し、己の利益を最大化することが可能となる。誰かを忘れるということは彼女にとって看過しえぬリスクに他ならない。

 ゆえに彼女は警戒した。彼女の想定せざるリスクが目の前に現れたのだから。しかし竜彦の表情は変わらず天使のようで、何の邪気も孕んでいないように見えた。

「私、物覚えがあまり良くないみたい。あなたのことを思い出せないわ」
「……そっか。でも、仕方ないよ。だってあの頃と全然変わってしまったから。僕たち」
「全然変わってしまった? 小学校か、それとも保育所?」
「ううん。そうじゃないよ。もっともっと昔のこと。ねえ、本当に気付かないの?」
「分からないわ。申し訳ないけれど、武田くんの記憶違いではないかしら」

 もったいぶった言い回しに登紀子は少し苛立ち始めていた。竜彦の近くにいるだけで気分が悪いのに、こうも要領を得ないことを言われ続けると殺意すら芽生えてくる。そのためか、竜彦の言葉の意味を呑み込むのに少し時間がかかった。

「僕は一目見てすぐに気付いたよ、メアリ・フィディック」

 夕方の河川敷。少年たちが走り回ってボールを追いかける声。遠くを電車が走る音。風がそよぎ、木の葉がさざめく。しかし全ての音は無となり、登紀子はメアリの目で竜彦を見た。そしてその発想に至った時、あまりの飛躍に己の脳障害を疑ったほどだ。

「あなた。セシリア……?」
「ご名答。メアリったら全然気づいてくれないんだから。ずっとやきもきしちゃった」
「だって。嘘。あなた、男?」
「こっちではね。前の世界では女の子やってたけど、運命の神様が私を男の子に変えてくれたんだ」

 メアリの記憶がよみがえる。あれは前の世界で、恋敵であるセシリア・グレングラッサを殺そうと決意した時のこと。ハイランド帝国王子レナード・バルブレアをメアリは愛していた。しかしレナードはメアリを愛さなかった。彼はより階級の低い、貧乏貴族の娘セシリアに恋をしたのだ。セシリアは低い身分でありながら、その身のこなし、透き通る声、何よりも美しい容姿が世の男たちを魅了した。かつてはメアリの代名詞でもあった「社交界の花」という言葉は、いつの間にかセシリアのものとなっていた。「絶対に許せない」と思った。

 そしてあの日、メアリはセシリアをひと気のない林へと呼びだした。だまし討ちをしようとは考えていなかった。彼女は決闘を申し込むつもりだったのだ。二本の剣を用意し、メアリは待ち合わせの場所へと向かった。しかし、運命のなんと恐ろしいことか。暴れ馬二頭に曳かれた四輪馬車がメアリに向かい突進してきたのだ。突然のことに避けることが出来ず、馬車にはねられメアリは死んだ。そして今に至る。

「私はあの時、馬車にはねられて死んだ。そして東京都江戸川区に転生したの。けれどセシリア、あなたはどうして。あなたも馬車にはねられたの?」
「いいや。違うよメアリ。僕は君の死を見届けてすぐ、君の後を追って来たんだ。どういうわけか君は剣を持っていたから、それを借りて、喉を切ったのさ。そして運命の女神は僕を救い上げてくれた。僕は埼玉県川越市に転生したんだよ」
「待って。ちょっと意味が分からないんだけど」
「好きなんだ、メアリ。前世の頃からずっと、僕は君だけを見て来た。そして君に会うためにここまで来た。このうらぶれた世界、東京都江戸川区に」

 傍にいるだけで不愉快な人間に告白された少女の反応をイメージできるだろうか。イメージできた読者諸氏には哀悼の意を表する。登紀子の表情はまさにそのようなものであった。そして同時に前世の記憶を呼び覚まし、「そう言えば思い当たるふしが」などと逃避を始めるのだ。許せない。今はまだ。
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