第33話 美香と美香。

文字数 5,899文字

 赤野と美香は、小雨の降る停留所で待っていた。
 
 白地に青いストライプ…。
 
 目の前で停まったバスには、美香には見覚えがあった。
 
 「赤野さん、なんで、このバスなの?もしかして、もう始まってる?ここで何を見せよって言うのよ。」
 
 「そうです。このバスから、もう処方箋は切られています。それぞれの場面を体験してください。私は、ここまでで、現実に戻って見守ります。今回は、久住先生も監修に参加したプログラムです。ですから、私にも分からない内容もありますので、お伝えすることはできません。」
 
 赤野は、そう言いながら、夢の中の雨で波立った気持ちを流すように、自分の気持ちを沈めていった。
 
 「あら、そうなの。楽しみね。」
 
 美香は、赤野の方も見ずに、霧雨の中に現れたバスをじっと見上げながら、そう言った。
 
 さくら商店街行きか…。
 
 
 「あとは、美香先生自身が…。良い…夢を…。行ってらっしゃいませ。」
 
 赤野は、バスに乗り込む美香に向かって、丁寧にお辞儀をした。
 
 
 
 「この度は、久住産婦人科経由、さくら商店街行のバスにご乗車くださり、誠にありがとうございます。」
 
 どこか聞き覚えのある声…
 
 美香は、声の元へ駆け寄り、左側の一番前の席に座り、運転手の横顔を見た。
 
 「もしかして…お父さん…なの?でも顔が…。」
 
 「変だろ?それでも覚えててくれたのかい。今のはどっちの美香だい?」
 
 「どっちって、私は私よ。どっちでもないわ。」
 
 「そうか、そうか。」
 
 美香の鋭利な声に、運転手は、ソフトな声で受けた。
 
 「ね、久住先生のところに行くの?そこで、何を見せるのよ。ねぇ、赤野さん、聴こえてるんでしょ!答えなさいよ!」
 
 「美香、それは無理だよ。もう、処方箋は切られている。変更はきかないよ。美香は深い眠りに入っているから、外の声は届かないんだよ。これ、美香が作ったものだろ?」
 
 「そうだった…。で、いつ着くのよ?」
 
 「私のことを覚えていてくれたね。このバスも覚えてるか?」
 
 「通学に利用してた。あ、確か…お父さん運転手だった?いや、でもなんで、記憶がおかしい。私、バスなんか乗ってない。学校行ってないし。」
 
 「だんだん、思い出してくるから。ま、第一段階はクリアしたから、もう着くよ。他にも思い出せるといいけどな。この顔もな。」
 
 「クリアって何?こんなゲームにした覚えはないわよ。」
 
 「この夢の中、今の美香の記憶だけじゃないから。内容も変わってるんだ。」
 
 「どういう事?何で、お父さんがわかるのよ?」
 
 「さ、着いたよ。行ってらっしゃい。またここへ戻って来るんだよ。美香。」
 
 赤く腫れた横顔は、真っすぐ前を見据えたまま、そう言った。
 
 「変な設定ね。私だけの記憶でないって…こんな回りくどいことしなくても、言いたい事さっさと言えばいいのよ!何を考えてるのよ!」
 
 
 「なんか焦ってるみたいね。ね、赤野さん、何で、こっちの言葉が向こうには聴こえないの?さっき赤野さんの声は聴こえてたんでしょ。」
 
 「博美さん、こっちの話声が聞こえると、治療に支障が出るからなのよ。本人も深い眠りに入っていて、体感の刺激が鈍くなっているから、聴覚も同じね。こっちは、被験者の身体のデーターを音声と映像に変換してるから、拾えてるってこと。」
 
 「なんかよくわからないけど、確かに、雑音が入ったら、私の時も、音のない世界が作れないし、高野さんも、潮の音が聴こえないと、あの風景も台無しだものね。それにしても、意外ね、美香先生の運転手がバスの運転手だったなんて。ね、高野さんもそう思わない?」
 
 「そうだね、何の根拠もないイメージだけどね。でも、美香はハッキリとは覚えてないようだけど。」
 
 「そうだな。おかしなことになってるな。それに、あの顔は何なんだ。」
 
 賢も美香の様子と、父という運転手に疑問を持った。
 
 「この設定は、久住先生よ。美香先生には内緒で、私に話してくれてたの。もし、美香先生が被験者としてプログラムを実施することがあれば、このバスのことを頼むって。どんなバスだったか調べて、父親の事も聞いたわ。怖かったけど。」
 
 「怖い?何かあったの?」
 
 「それは…この夢の中に出てくるから。」
 
 赤野は、目を伏せ、そうつぶやいた。
 
 「ねぇ、これって久住産婦人科?美香が見上げてる。白木に蔦、灯しや診療所そっくりじゃない。」
 
 博美が、映像を指さして言った。
 
 「そう、ここが、原点だからね。この診療所に思いがあったんだろうね。」
 
 
 
 美香は、白木に馴染んだ、真鍮のドアノブを回した。
 
 中へ入ると、一人の女性が待合室の椅子に座り、泣いている姿が映った。
 
 近づくと、女性が顔をあげた。
 
 「お母さん…。なんで泣いてるの?」
 
 母の美佐子だった。
 
 美佐子は何も答えず、目を伏せ、また泣き、始めた。
 
 「なんだか懐かしい…でも、覚えてない。この場面。」

 
 
 美佐子の元へ、久住が現れた。

 久住は、しゃがみ込んで、美佐子に何か語りかけていた。
 
 そして、美佐子の影に隠れるように、小さな女の子が美佐子の足元でぐったりとしているのが見えた。
 
 美佐子は、久住が女の子を抱き上げ、診察室へ連れて行く、その姿を目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。
 
 「誰?あの子。やっぱり、この場面は知らない。何を見せてるの?何故、私が覚えてないのよ。」
 
 美香の視線が、不安定に彷徨った。
 
 「美香、何か様子おかしいな。」

 浜本のつぶやきに赤野が答えた。
 
 「自分の記憶にない場面が出てきたから、この中の場面と同調できないのよ。」
 
 「でも、このプログラムって、忘れていたとしても、思い出させてくれるんじゃないのか?」
 
 「そうね、博美さん。だから知らない場面が出たという事は、美香先生にはこの場面が、経験、体験が無いという事ね。」
 
 「赤野さん、ね、見て。何で?美香が出てきたわ。どういう事?美香が見ている映像でしょ?美香が美香を見ている。」
 
 「何故かしら?夢の中って、客観的に自分を見ていることもあるけど…。えっ、こんなことが…。会話してる。」
 

 「あんた誰?私の姿してるけど、何?どういう事?」
 
 「あの子は、私よ。3歳の私が久住先生に催眠かけられるところなのよ。もう眠らされてるけど。この後、私が見た記憶を、久住先生に操作されるの。」
 
 「はあ?なんで、私の記憶…じゃなくて、あなた?の記憶を操作するのよ?訳が分からないわよ。」
 
 「私が、何か見たからよ。」
 
 「何をよ。私は知らないわよ。それに、眠らされてたのに何で、分かるのよ、そんなこと。」

 「久住先生が教えてくれたのもあるけど、完全には消えていない記憶があるのよ。あなたも気づいているはずよ。もう一人の私がいるって。その、もう一人の私の中にあなたの知らない記憶が残ってるのよ。」
 
 「なるほどね。そういうことだったのね。どうりで、おかしいとは思ったわ。だから、もう一人の私の姿をこの中で見せたのね。まさか、ここで対面出来るなんてね。先生も考えたものね。でも、もう出てこないと思ったのに。」
 
 「そうね。でも、私が出ないように抑制してたのよ。あなたの対抗心が強くてね。私が出ると、エキサイティングして、歯止め聞かなくなるのよ。コントロールをするには、控えた方がいいでしょ。久住先生も協力してくれてたわ。あなたが出現している時も、久住先生が、あなたの記憶操作してたのよ。」

 「嘘よ!そんなはずはないわ。だって、ずっと私が久住をコントロールしていたのよ!」

 美香の視界がぐるぐると回転した。

 「そう思わせてたの。ね、何が、真実か分からなくなってるわね。どう?苦しいでしょ?あなたが、これまで、何人もの人生を、こうやって苦しめてきたのよ。」

 「嘘よ、嘘よ。何言ってるの。そんな、だったら、私はあなたなんだし、同罪でしょ。」

 「そうよ、だから私は、久住先生に、もし、美香の行為がエスカレートをしてきたら、殺しても構わないって言ってあったの。」

 「バカじゃないの?自分を殺しって頼むなんて、頭おかしいんじゃないの?」

 「元々、頭おかしくなってるんだし、もう、あなたを止めるのは、そうするしかないのよ。」
 

 
 
 
 「何が始まっているんだ。美香が二人いるってことか?赤野さん、これはどういう事だ。」

 高野は、目の前の展開が信じられなかった。
 
 「こういう事だったんだ。解離性同一性障害ってことなのね。浜本先生そうなんでしょ。」
 
 「赤野さんの推察通り、そうだと思う。自分もハッキリとは断言できなかったんだが、私が傍で見ている限りでは、ほとんどは今の鬼のような美香だった。でも、彼女は、時々泣くことがあったんだ。あ、夢の中でね。寝室は別だったが、泣き声が聞こえてきた。優しい声で、とても美香の泣き声には聞こえなかった。それを美香に問いただすと、そんな事あるわけないでしょって、いつも以上に興奮して怒ってた。それだけでない、パソコンの前で、ブツブツ言ってることが、あって、『センス悪っ、私がそんな名前つけるわけないのに、勝手に何をやってくれてんだか。』その時は誰に向かって言ってるのかと思ったよ。入浴中に鼻歌を歌ってたり、さくらの歌だったと思う。美香には、違う人格がいるかもしれないと思うようになった。でも確信はなかったけど、これ見てやっぱりって感じだな。」
 
 「解離性何とかって、もしかして、多重人格ってやつ?」
 
 「高野さん、そう、よく知ってるね。そう、記憶は共有しないから、この夢の中では、美香の頭の中に二つの記憶が現れているだな。でも面白いね、ちゃんと二人出てくるなんてね。」


 「黙ってなさいよ!」

 赤野らの耳に、美香の声が突いた。
 
 「いいえ、もう、あなたは現れちゃいけないの。もうこのプログラムも二度と使えないようにしないとね。」

 「あなた、私の血液のデーター改ざんしたでしょ。自分で自分を騙すなんて、バカよ。そうよね、自分を消せば、このプログラムはお仕舞だものね。」
 
 「ね、赤野さん、あの二人…でなくて、鬼の美香…と、神…の美香は何を話しているの?」
 
 「鬼VS神、悪魔VS天使か。まあ、いずれにしても、いい子の美香が、癌であることを示すデーターをすり変えたのね。自分に癌が進行することを故意に止めなかった。自殺行為ってこと。そこまでして、鬼美香を止めたかったってことなんでしょね。」
 
 「ねえ、多重人格の場合、名前って変えるよね。本当の名前と、分離して出来た人格は違う名前だったりする。美香の場合、美香でしょ。なんで?。」
 
 「博美さん、そう言うのは、映画とか、ドラマにはよくある設定だよ。美香の場合は、何故かはわからないが、お互い、自分の存在を認識していて、ただ記憶の共有はできないから、それぞれの美香は、なんらかの形で、自分の行動の痕跡を残して伝えていた。そこで情報を共有して、鬼の美香も、矛盾のない美香でいる必要があったんだろうね。」
 
 「ごめんなさい。訳が分からなくなってきた。自分の中にも、悪魔の私と天使の私が、ほらこの辺で、あぁだ、こうだ言いながら、決断するみたいなことってあるでしょ。そんな感じ?あ、違いますよね。」

 画面を見ながら、混乱する頭を整理しきれず、博美は大きく、ため息をついてから、何かに気がついたように、映像に映っている美香を指差した。
 
 「あの、神の美香の方の映像は映らないの?」

 「神の美香は、この子の記憶なの。この子は今眠らされているから、映らないわね。」

 「そうなんだ、目が覚めれば映るんですね。」
 
 「あ、出てきた。あの子まだ、ぼーっとしてるわ。」
 
 美佐子は、久住から小さな美香を受け取り、抱きかかえて、そのまま久住産婦人科を出て行った。

 博美は、子供の姿を見ながら、赤野に聞いた。
 
 「何を見たんだろう。あの子の記憶、神の方の美香の記憶は元に戻せないの?」
 
 「いったん消した記憶は元には戻せないけど、神の美香はこの夢の中で、記憶を操作されたことを知っているって事は、何か覚えてることがあるんじゃないかしら。完全には消されていないってことなのよ。」
 
 「それにしても、あの久住と美佐子さんの雰囲気は、なんだろうね。まるで夫婦だな。」

 
 「高野さんもそう思った?たぶん、久住先生が見せたかった場面ね。美香がああなったのは、自分のせいだって言ってたから。何か、関係あるのかもしれないわ。」
 
 「多重人格になったのが、久住先生とお母さんの関係と、この小さい頃の記憶操作が関係あるってこと?」
 
 
 「たぶん。この後、この子が何を見たかが分かるのかもね。本当の記憶を伝えたかったのよ。」
 
 「でも、久住先生的には覚えていたら都合悪かったんじゃ。」

 「高野さん、どうかしらね。私にもそれは分からないわ。」

 「もう一人の美香、消えたわ。」

 美香は、強くなった雨の中のバスに戻った。
 
 バスに乗った美香は、運転手の父に声を掛けた。
 
 「この私がまさか、記憶を操作されてたなんて、思わなかったわ。ねぇ、お母さんって久住先生といつからだったの?お父さんは気が付いていたんでしょ。」
 
 「そうだな、まだ、君が出てきてなかったと思うが、なんで、知ってるんだ。」

 「いい子ちゃんの美香がね、自伝みたいなもの書いてたのよ。ま、話を合わせられたからよかったわね。でも、記憶を変えられてるとなると、それが本当はのかも分からないけど。子供のころがね、どうもおかしいのよ。父も母も優しくて、家族がきれいすぎるの。そんな事あり得ないのにね。」
 
 「さすがだね。君って鋭いな。」

 「あなた、父親でしょ。君って何よ。」

 「すまないね。美香は可愛かったよ。大好きだったんだ。」

 そう言って、美香の方に顔を向けた父親の顔を見て、美香はのけ反った。
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