第3話

文字数 5,038文字

 私は幼い頃、年の若い両親が自慢だった。父親はおそらく仕事だったので、学校の授業参観には母親が毎回出席してくれた。ひと際若い私の母親を見て、クラスメイトからは「沙織ちゃんのお母さんって若いね」と、しょっちゅう言われたものだ。若くてきれいで、クラスメイトからの話題にもされる母親を持つ私は得意げだった。その話を母親に話すとまあねと言って笑うのだった。
 父親は母親の1歳年上で、定職に就いていなかった。長距離トラックの運転手をしていたり、配送業で力仕事をしていたり、アルバイトをふらふらと続けている男だった。母親とは高校生の頃に付き合って卒業とともに私を産んだということを母親から聞かされた。物心付いた頃から父親は常に家に居たので、何の仕事をしていたのかは分からない。授業参観に来ないのも仕事が理由ではなくて、娘のために学校にわざわざ来るのが億劫だったのだろう。酒癖も悪く、毎日のように母親に暴力を振るっていた。毎週、学校のある金曜日に「土日のうちに作文を書いてくるように」といった内容で宿題が出されていた。クラスメイトの皆は家族と旅行に行ったり、少し遠くにある大きなショッピングモールへ出かけたりといった家族サービスを書いていた。私の家は貧乏で、毎週の休みは特に何もせず家で過ごしていた。だからその通り書いた。そしたらたまたま部屋に入ってきた父親に作文帳を覗かれた。
「なんだこれは。まるで俺が家族サービスしていないみたいじゃないか」
 激昂した父親はきっとそれがきっかけだったのか、何か嫌なことがあったのか。作文帳は引き裂かれ、私は押入れのふすまにぶん投げられたり蹴とばされたりした。母親はびっくりして飛んできたけど、わき腹を蹴られ続けられ芋虫のようになっていた。妹は恐怖ですみっこで震えて泣いていた。その日はどうやって夜を乗り切ったか覚えてない。けど今も生きてるからきっと泣き疲れて寝たんだろう。
 他にも、父親が珍しくアルバイトに行って、帰宅時間が遅い時があった。父親の帰る時間に、ご飯が出来上がっていなかった。たぶんそれに怒った父親は据え置きのゲーム機を踏んづけて真っ二つに割った。機械の中身ってこうなっているんだと冷静に考えてる自分がおかしかった。毎夜轟く父親の怒鳴り声と、母親が対抗するも空しく響き渡る金切り声。布団を被って恐怖に震えながら夜を過ごしてきた。今でも、大きな音や怒鳴り声、女の金切り声は耳障りで吐き気がする。
 家がこんな状況だったから学校では安全だったかというと、そんなこともなかった。そんな父親を見て育ったから、気に食わないことがあるとすぐ態度に出た。だからグループに入れてもらえず、上級生になるごとに徐々に孤立していった。人付き合いの仕方が分からなかった。家では言うことの聞かない小さな妹の頬をつねったり頭を叩いたりして言うことを聞かせようとした。父親が母親にしていたから真似してた。でも友達は叩いたりつねったりしちゃいけないと分かってたからしなかった。父親は他人には手をあげなかったから。たぶん。
 父親がお金をどうやって稼いでいるのか分からなかったから、盗みでも働いているのだろうと思って、帰ってきて早々父親の脱ぎ捨てた上着で遊ぶふりをしてポケットを漁ってみたこともある。もちろん何もなかった(たまにたばこの箱が入っていた)けど、収穫がなかったのかなと落胆した。当時の幼い私は倫理観よりも、今日の私はご飯を食べていけるのかが大事だった。そんな愚かで怖い父親でも、お金さえ稼いでくれれば居ないよりはマシだった。柔道でもやっていたのかと思われるくらいガタイの良かった父親は、怪しい宗教団体やしつこく来る新聞勧誘のおばさんを追い払っていた。その時はこんな奴でも役に立つ。酒を飲んで酔っ払っていない時は頼りになったのだ。しかし普段は食って寝てばかりで何の役にも立たない家の文鎮であったから、自分が母親と妹を守るのだと思っていた。自分自身の心と体を守ろうとは全く考えていなかった。考えられなかった。母親が殴られれば止めに入って殴り返された。父親はというと、幼き我が子が止めに入ったことで考えを改めることもなく、「顔に傷が付くと他人にバレる」と、アルコールが回った容量の少ない脳みそで悪知恵だけが働いてるのか、私の腹や背中を重点的に蹴っていた。幸いにも骨までは痛まなかったけど、痣はしょっちゅう出来ていた。紫や青色、茶色の斑点が気が付くと様々な箇所にできていて、押すと痛いというけれど押さなくても痛かった。
 父親は嫌いだったから母親は好きだった。母親の言うことは従順に聞いた。言うことを聞いてその通りに動くと非常に喜んでくれるので生きた心地がした。いわゆる良い子にしてさえいれば存在を認めてくれる。私の学生時代は母親の言いなりでほぼ生きてきたようなものだ。母親の悲しい顔はもう見たくなかった。でも、私がどんな顔をして生きてきたのかは最早分からない。私の心は私にも分からなかったし、考えたこともなかった。母親の気持ちが何より大事で、私自身の気持ちはこの世界に存在してはいけなかった。
 妹は友達を作って運動部にも入って、元気にやっていた。妹が言うことを聞かなくても叩いてはいけないと、尊大な母親の教えにより叩くことも頬をつねることもしなくなった。私と違って頭も良くて、要領もいいから友達と仲良く学校に行けていた。私は中学生に上がると、途端に友達もいなくなった。家では母親の命を守りご飯を食べることが大切だったから、身だしなみを気にすることを知らなかった。入学してすぐにクラスでも孤立してしまって、学校が楽しくなくなった。他の小学校から来たボスのような女の子が主体となり、教室に入るなり「馬鹿」だの「ブスが学校に来るな」だのと悪口を大声で言われている子もいた。私は席替えで同じグループになった子が優しい子だったことが幸いして学校に通えていた時期もあったけど、席替えやクラス替えで離れてしまうと孤立するの繰り返しだった。頭も良くなくて、成績も下から数えたほうが早かった。勉強もつまづいて、友達作りもできなくて、家でも居場所がない私は心を殺すことにした。悲しい、寂しい、そんな感情は感じなければ存在しないことと同じだから。私は、私という存在を、この世に生かすことを禁じた。
 そのうち、学校に行きたくても玄関先で足がすくんでしまい外に出られなくなった。誰かに見られていると感じて赤面してしまう。人前で話すこともできなくなり、文字を書くことさえも震えて出来なくなった。人の視線がとてつもなく怖くなった。学校には行けないけど、両親の買い物には着いていった。本当は1人でも外に出ていきたかったけれど、両親がいないと怖くて外出できなかった。「もし外出先でクラスメイトや同級生にあったらどうしよう。あいつ学校には来ないくせにスーパーにはいたぜ」と言われてしまうのも怖くて、両親がいたとしても近場のスーパーが行先だった時は着いていくのを止めて家で留守番していた。たまに宅配便や電話が鳴っても怖くて居留守を使った。帰宅してきた母親は怒って、「家に居るのにどうして出ないの」と言われるが、「人と会うのが怖い」といくら伝えても理解されなかった。理解されず、母親からも煙たがられたのは深く傷付いた。ピンポンの音も、電話の回線と回線が繋がる瞬間のカチッと鳴る些細な音さえも恐怖で震えていた。新学期でいわゆる「生徒想いの優しい先生」に担任が変わったが、不登校の私を気にかけて毎朝かけてくる電話は正直恐怖の対象でしかなかった。先生には申し訳ないけど、大変いい迷惑であった。母親も初めの数回は電話に出て体調を伝えて休みの連絡を入れてくれていたけど、「あんたに用があるんだから、あんたが電話に出なさいよ」と取り次いでくれなくなった。パートに出た母親は電話に気づくこともなくなり、父親は家で寝ていて(この頃は全く仕事していなかったのかもしれない)、私は恐怖で寝ることもできずに布団を被って夜になるのを待っていた。朝起きて、携帯を見て、ご飯を食べる時だけリビングに出て、すぐに部屋に引きこもって夜更かしをする。そんな生活を3年程続けた。毎日死にたかったが、なぜこんなにも死にたいのかは分からなかった。自分が存在しては周囲に迷惑をかけてしまう、私なんて生きていないほうが良いのだと、本気で思い込んでいた。
 だから自殺未遂をした。生きていれば家賃も食費もかかるし、存在してはいけない私はカッターで腕を切って死のうとした。サイトでよく調べて、血が飛び散っても良いようにゴミ袋を広げて新聞紙を敷いて、床ににじまないようにした。本当は浴室に水を張って決行したかったけど、親にバレて怒られるのが嫌だったので自分の部屋で行うことにした。手首にカッターを置き、あとは引くだけだったけど、死ぬ前に友達の声を聴きたかったので「今すぐ電話をしたい」とメールを送った。でもすぐに返事が来なくて、そのうち私の気が変わったので未遂に終わった。その時の友達には感謝している。言われても困るだろうから本人には伝えていないけど。
 中学の成績は絶望的だったが、入試で名前を書けば受かると噂の県内の高校に合格できた。入学してもやっぱり人付き合いに苦労してしまい、1年生のうちに不登校になってしまった。けど、私のように中学校に行きたくても行けなかった生徒が多く入ってくる高校だからか、毎日出席して授業を教室で受けなくても、レポートを出してテストもきちんと受けて合格点を取れば進級できる通信制高校のような制度があったのが本当に救いだった。通信制高校に変えることも当初は考えたが、そのまま通い続けることができた。そのうちに人との付き合い方に慣れてきて、無事に通えるようになり、卒業する頃には学年でも上位の成績で卒業することができた。勉強すれば身に付くし、初めて勉強が楽しいと思えた。進路を決める時期がやってきた。この大切な時期でも、やはり母親の意見が絶対だった。当時、母親には専属の占い師がいた。私の進路なのに、自分で決めることがどうしてもできなかった。私の意見は存在しなくて、考えられなくて、全て母親に頼っていた。その占い師が見た私の未来は、当時好きで続けていたことは私に合っていないから進路を変えたほうが良いと断定された。「じゃあ何が合っているんですか」と聞くと、私が全く今までやってこなかったことを道として示された。お金の心配をする私に、占い師は「あなたには優しい母親が付いているじゃない」と言い、母親は「お金の心配はしなくてもいいからね」と言った。
 ここまでの短い人生をほとんど母親に尽くし、自分自身の心は存在しないものとしてきた私では最早何も決められなかった。占い師が言う道を信じて私は示された道の大学に入学した。今までアルバイトをして稼いだお金を、全て入学金につぎ込んだ。母親からは「自分で選んだ道なのだから甘えないで頑張りなさい」と言われた。大学では知らないことだらけだったが、知らないことを学べるのが楽しくて最後まで通い続けた。奨学金の借りる額は膨れ続けた。

 「お母さんが守ってあげるからね。安心してね」
 そう私たちに言った母親も、そんな父親と離婚した後は同じ道をたどった。きっと無意識のうちに学習してしまったのだろう。私や妹の反応が鈍く、自分の行いが良くないものだと感じ取ると、途端に聞く耳を持たずに金切り声を上げてヒステリックになった。私が進学とともに母親のもとから去ろうとすると、キッチンに置いていた花瓶が投げられ、金属製のベルトが飛んできた。胡蝶蘭の白い花びらが舞い、私の頬にベルトが当たり、フローリングに敷いていた絨毯に赤いシミができた。結局母親のもとを去ることができなかった。私自身、母親を1人にしておけない、私が支えてあげなきゃと思い込んでいた。隠し事はしなかった。母親が悲しむから。彼氏ができたことも伝えた。彼氏に「沙織ちゃんのお母さんは少しおかしいよ」と言われれば母親にも隠さずちゃんと伝えた。「沙織を洗脳させるためにそんな非道なことを言うのだ。彼とは別れなさい」と言われた。別れろと言われたので母親が望むままに別れた。そんな母親に何も疑わず生きてきた。妹は要領良く生きてきたから、生きるのが上手いなと少し羨ましかった。
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