第76話 煩悩との戦い

文字数 1,985文字

 隣村との密約を交わした僕はその後、村の整備計画を立てるための情報収拾をした。
 夕暮れ時に村長の息子夫婦が帰ってきて、僕をもてなす食事を用意してもらう。
 去年の収穫からこっち食料に余裕のある僕の町と違ってとても質素なご馳走だったけど、心を込めて作ってもらったことに感謝しながら食べた。
 夜は早々に寝る。
 もちろん、リリムに眠りの魔法をかけてもらってだ。
 そして翌日、早朝には村を立つ。
 なにか言いたそうなケイロ少年に

「また来るよ」

 と、約束して。

「オギン」

「はい」

「一晩野宿したいんだけど、いい?」

「……この時期なら野営の準備などせずに一晩過ごすことはできますが、どうしてまた」

「経験しておきたいのが一つと、ちよっと道々確認したいことがあってさ」

「経験……ですか?」

「そう。ケ・イ・ケ・ン」

「あの……」

「ん?」

 すげぇなんか言いたそうなんだけど。

「いえ、かしこまりました」

 オギンはそれっきりなにも言ってこなかった。
 さて、僕は懐から黒墨(チョーク)と、背負い袋から木簡を取り出した。
 木簡は取り扱いを考慮して縦一シャッケン横三スンブの長さにしている。
 ちょうど僕の前腕くらいの大きさだ。
 今回はそれを六枚持ってきてる。
 重ねた厚さが大体三スンブになる。
 これがなければもっと入れられるものがあるとオギンに言われていたのだけど、これは絶対に必要だと主張して持ってきた貴重な木簡だ。
 これを使って道々様々なことを書き込んでいく。
 木簡は六枚しかないから書くことは厳選しなきゃならなくて苦労したよ。
 そなんこんなで道程六割くらいのところで日が暮れ出した。

「お館様、日暮れまでに野営地につかないと、野宿も危険になります」

 と、オギンに促されて、後ろ髪ひかれる思いでホルスを走らせる。
 少々ホルスには無理をさせた代わりになんとか日没までに間に合った。
 とはいえそこからが大変だった。
 黄昏時に半ば手探りで火を熾し、簡易松明片手に水汲みにでる。
 水汲みはオギンがやってくれたんで、僕はぼーっと火の番をしてただけなんだけど。
 いや、むしろ僕が水汲みに行く方が良かったんだ。
 僕にはリリム(の明かりの魔法)という強い味方がいたのだから。
 でも、リリムの存在を転生者じゃないオギンに教えるのはちょっと抵抗があったんだよね。
 予備で持ってきていた保存食で腹を満たした僕たちは、一応交代で見張りに立つということになった。
 あれ?

「なにか?」

「オギンには時々用を頼んでこの道往復させてたけど、一人で旅をしていた時はどうしていたんだ?」

 疑問に思うよね。

「野生動物は火を嫌いますから、火を大きくして寝ます」

 ……それはごめん。
 今度から最低二人で出かけてもらうよ。

「ぐっすり寝られるの?」

「無理ですね。一晩で二度ほど目が覚めます。大体火力が弱くなっていますので、薪を焼べて寝直します」

 ……ほんと、ごめん。

「…………」

 …………。

 なんだ?
 この気まずい沈黙は。

「お館様」

「はい?」

「どちらが先に寝……見張りになりますか?」

「そうだね、睡眠時間がいつもの半分になるんなら、僕は先に寝たいかな?」

「……では、私が先に見張りとなりましょう。ごゆっくりお休みくださいませ」

 なんだったんだ?
 今の間は。
 まぁいいか。
 寝る寝る。

(今日は眠りの魔法に頼れないわよ)

 リリムが横になった僕の耳元で意地悪く囁いてくる。
 それもワザと色っぽい声で。
 くそっ、意識は前世の四十オヤジを引きずっているとはいえ、今は十七歳の健康的な男の子なんだぞ。
 いや、四十オヤジを引きずってるからなおのこと気になるじゃないか!

(あのくたらさんみゃくさんぼだい あのくたらさんみゃくさんぼだい……)

 あーダメだ。
 煩悩が湧き上がる。
 昨日見たオギンのおっぱい大きかったなぁ……。

(スケベ)

 あ(汗)

 これは本格的にやばいぞ。
 くそ。
 煩悩退散 煩悩退散……。
 これじゃダメだ。
 そうだ、般若心経を唱えよう。
 僕の前世記憶は完コピだ。
 オタク趣味の一環で般若心経を写経したこともある。
 あれを無心で唱えるんだ。
 それしかない!

 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
 照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子
 色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識
 亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
 不増不減是故空中無色無受想行識
 無限耳鼻舌身意無色声香味触法無限界乃至
 無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
 亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
 所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無
 罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
 想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
 得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多
 是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪
 能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多
 呪即説呪曰掲帝掲帝波羅掲帝
 波羅僧掲帝菩提僧莎訶般若心経

 …………。

 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時…………。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み