戦いの歌
文字数 5,618文字
会社からさっさと早退して自宅でゲームをしていた黒はそう言った。
早退した、と言っておきながら、今回の騒ぎでライフスパイトオンラインの世界が盛大に盛り上がってしまったので、後日黒には会社から表彰状が送られるだろう。
TwitterなどのSNSを見てみても、今回の乖離光とブラックアイの戦いは1000以上のユーザーから観戦されており、決着がつかなかったことを徹底的に叩く自称有識者たちがちらほらと見える。
言ってる意味が解らないかもしれないが、いつものライフスパイトオンラインだ。
レッドエモーション
「目黒、いや、ブラックアイ、お前の活躍、見届けさせてもらった。会社から早退した、とかお前は申請したけど、これは立派な社益行為なので、あとで特別手当を出してやろう。で、ブラックアイのアカウントはこれからレッドエモーションで使わないか? そうしてくれれば今よりも給料は2倍にする。どうだ?」
レッドエモーション
「そうか……まあ個人の財産だからな。会社がいうことは拒む権利がある。だが、当然ムーンシャインのアカウントが乗っ取られたことは知っているだろう? 職場でのお前の役割を与えられないなら、いろいろ問題があるんだよな、会社的にも。社員に役割を与えないとか、パワハラになっちゃうから」
レッドエモーション
「お前、自分の言動に疑問を持ったことはないのか?」
レッドエモーション
「そうか。じゃあ仕方ない。命令だ、ブラックアイのアカウントを使てレッドエモーションで働け。というか、LSO2.comの困窮者たちをレッドエモーションの兵士として雇ってやってもいい。何しろ、AIが最近いなくなってるからな」
レッドエモーション
「今はわからないということにしておこう。調べたければいくらでもできるが、調査するための人材が足りない」
レッドエモーション
「乖離光もどうせワールドエコノミカカンパニーが注文して作り出させたAIだ。最初から会社にしてみたら興味のない代物。話題作りのために作った広告に過ぎないんだからね。お前もCMのイメージに引っ張られるだけの存在になりたくないだろ?」
レッドエモーション
「最初からそう提案している。どうする?」
レッドエモーション
「なるほど、LSO2.comにも代表がいるのか。だったらその人に話をして、受け入れてもらえ。悪くない取引のはずだから」
黒の悪い癖だった。
何か自分の思い通りにならない、不快な環境がやってくると、自分の殻に閉じこもり、誰にも相談をしない。
そうだな……舞鹿とか、少し話せば意見をくれそうなものだけど、だが黒は誰にも言わない。
こうやって黒は貴重な時間を考えることに費やして、結局答えは出ないまま、その日は睡魔にその意識を水没させるしかなかった。
しかしながら、一体どういうことか、眠っている間も黒の脳は動き続けて、自分自身の考えにとらわれたまま、ある意味意識を覚醒させながら眠っていたのだった。
他でもない自分自身しかいない眠っている間、どういうわけか、黒は異物が存在しない感情世界で、大きな嫌悪感を抱え眠っていた。
そして目が覚めると、再びPCに向き合ってライフスパイトオンラインを起動させる。
ホワイトノイズからの返信はまだない。
代わりに、艶斬姫からこんなメッセージが入っていた。
心の内という抽象的で直接的な言葉の意味を舞鹿と共有できていない、と黒は感じる。
黒のいう心、舞鹿のいう心、全然違うものだろう。
意味が違うものをどうやって他人と分かり合えというのか。
その日、黒が出社すると青枝が待ち構えていた。
レッドエモーションの黒のデスクに青枝が座っていたのだ。
そして舞鹿大好き大人の隠れ家的な店へレッツゴー。
二人は向き合って座るかと思いきや、4人掛けの椅子とソファのソファ側に黒が座ると、その隣に舞鹿も座った。
舞鹿はここで言葉のやり取りに戸惑った。
黒は自分の気持ちを犠牲にして働いている。
やりたいことができず、耐え忍びながら生きている。
それがいったいどれだけ苦痛なことなのか、舞鹿にはわからない、が想像することはできる。
無意識のうちに今の仕事で黒がどれだけ苦しんでいるのか、それを理解してしまったのだ。
価値がないと言ってしまえば、黒の人生そのものを否定することになる。
望み通りの一生にしか価値がないとすれば、黒という存在はいったい何のために存在するのだろう?
価値のない人生は見限って、さっさと死ねと、舞鹿はそんなことを遠回しに黒に言ってしまったような気がしてならない。
ライフスパイトオンラインは狂人が遊ぶゲームだと思うのでターゲットであることに違いはないが。
しかし、黒のその言葉は舞鹿の心臓を深く、大きく、そして目には見えないほど抉っていた。
生きたいように生きる、それが舞鹿の至上の価値。
しかし目の前の黒は苦しみに耐えながら生きている。
それに価値がないかと言われてしまえば、本音で言えば価値はない。
だが、黒の人生を否定することはできない。
生きたいように生きる、黒の人生への思い、その二つがぶつかったとき、舞鹿の心に迷いが生じた。
舞鹿は黒の人生へのフラットな感情に愕然とした。
確かに舞鹿にも望んだように生きられない時期があった。
だが、それはあくまでも将来望み通り生きるための準備期間だった。
どちらかといえば不幸な時期だったのだ。
しかし、黒はそんな舞鹿の不幸もいい加減なものだと断じている。
舞鹿は自分が絶対だと思っていた価値観にゆさぶりをかけられているのだ。
この状況で冷静さを保てる人はそうそういない。
舞鹿は大人なので表面上は反応していないが、その心臓は時を刻むごとに圧迫される。
時計の秒針のわずかな音でさえ今は刃と感じるほど。
黒を弱者と軽蔑することはできるが、彼は今まで自分を支えてくれていた欠かすことのできない存在。
そんな存在に、弱者と冷たくあしらうことが舞鹿にはできるのか?
その日、結局答えは出ないまま、黒はグラスの水を飲みほした。
舞鹿は相変わらずカロリーの高いクリーム入りの飲み物を飲んでエネルギーを補給していたが、恐らくはエネルギーを補給しているのではない。
舞鹿は黒の恐ろしい人生観を聞いて、甘いものという快楽に逃げているだけ。
目黒という人物が湛えるブラックコーヒーを飲み干すことができなかっただけだ。