第1話 麻酔

文字数 4,968文字

麻酔


点滴袋の液体が、チューブを伝って滴下筒へと流れ堕ちていく。
昔、何処かで見た記憶がある。
くたびれた顔で笑う母親の手と、珈琲サロンのサイフォンだ。
学生時代は、宮崎市内の店舗兼自宅のこの店で、小遣い欲しさにせっせと働いた。
母親はえらく喜んでくれて、私を自慢げに客に紹介しては言っていた。
初恋の人にそっくりでしょうと。
私は、その言葉が大嫌いだった。
家を出て20年後。
母親はボロアパートの2階で死んだ。
周囲は、街路樹の蘇鉄しか見当たらない辺鄙な場所だった。
死後1ヶ月は経過していた。
遺書はなかった。

孤独死。

周りのみんなはそう呼んで、故人を哀れみながら、自分の健康には安堵していた。
当時、私は韓国・仁川に出張していたから、身元確認や部屋の片付けは兄夫婦に頼るしかなかった。
本葬の席上で、嫌味っぽく義姉が言った。
外の雨は止みそうもない。

「いつもそうなんですね。面倒はこちらに任せて、後から何食わぬ顔して良い人ぶって。もっと早くに帰国出来なかったんですか?それとも、お母様のことなんて、忘れてらしたの?」

兄貴は苦笑いするだけで、何も言葉を発しなかった。それが答えだと言わんばかりに。

私は田舎暮らしの窮屈さに嫌気がさして、高校卒業後に上京し、輸入雑貨を扱う商社に勤めて販促部長となっていた。
母親にはそれなりの仕送りもしていた。
だが私達遺族は、残された通帳を確認して驚いた。
仕送りを始めた18年前から、母親は口座から金を下ろしていなかったからだ。

「これはお母様の財産なんですから、諸々の費用に使わせて貰いますからね」

そう言う義姉の顔を見る気にもなれないから、私はひととおり用を済ませると、飛行機に乗って東京の自宅へと戻った。
今後、宮崎に戻ることはないだろう。
機体の揺れる雨雲の中で、私は決意した。


あの日から、そんなに時間は経っていない。
忌引き休暇の後、私は腸閉塞で緊急入院することになった。

病室には様々な患者がいて、病院には沢山の医療従事者がいる。
歯切れの良すぎる主治医と、愛想の良い女性看護師。
童顔な麻酔科医は礼儀正しくて。

「こんな息子がいてくれたらな」

と、思う。
1泊2500円を支払って入院する4人部屋は、プライベート空間は洋服箪笥とカーテンで守られてはいるが、音に関しては無法地帯だ。
医師や看護師との会話、イビキ、寝言まで筒抜けである。
私の唯一の救いは、ベッドが窓際だということ。
新宿にある病院だから、景色は良くて気は紛れる。
それに、ブラインドを開け放しているから、朝陽と共に目も覚める。
こんな生活は、小学校の夏休み以来だ。

「小倉さん、血圧も安定してますね。明日退院ですって?淋しいけど、もう来ちゃダメだよ」

向かいの部屋から声がする。
愛想の良い女性看護師の声。
患者の小倉さんは糖尿病を患っていて、1ヶ月も入院している。
全ては会話から得た情報だ。
小倉さんと看護師さんの楽しげなやり取りに、私はいつも癒されていた。
おじいちゃんと孫娘の会話を、盗み聞きしているようで愉快だった。

「うんうん、もう来ないよ。ここに居ると甘えちゃうからね、根坂さん優しいお方だから」

「優しくないですよ。ただの職業スマイルです」

入院の先輩でもある小倉さんに、最後の日くらい挨拶を交わそうか。
しかし気が引ける。
何を今更。
結局、お互いに顔を合わせないまま、小倉さんは退院して行った。


「運命ですかね、今度は右で、また宮坂先生が担当だなんて」

入れ替わるように入って来たのは中年の男で、鼠径ヘルニアの手術を明日に控えている。
以前は左を悪くして、この病院で宮坂先生に診てもらったのだろうが、とにかくよく喋る。
斜向かいの部屋はまるで寄席だ。

「先生に任せますよ。あ、毛はちゃんと剃って来ましたし、おへそもしっかりサラダ油で洗って来ましたから。あ、違う、オリーブ油でしたっけ?何か違いはあります?困ります?メシは夜から食べれないんでしょう。なんでも判ってんですから、最近じゃあ入院のベテランの風格まで出て来ちゃって、あまりよろしいこっちゃないんでしょうがね、えへへ」

対する宮坂医師は、穏やかな低い声で言って退けた。

「入院にベテランは要りませんよ。お腹周りはこちらでちゃんとやりますから。それと、聞いておられるとは思いますが、HCUに入って貰います」

「え、なんで?」

「以前と違って通風も患ってらっしゃるし、血糖値も高い。ちゃんと摂生しないと。これを機に、おタバコもやめてみたらどうですか?」

「一昨日からやめました」

途端にシュンとなる男の声が、妙に可愛く聴こえた。

「先生、オレ死んだりしない?脱腸で死ぬ運命なんてやだなあ」

「そんな病気ではないですよ」

私も心の中で呟いた。

「大丈夫だよ。運命なんてないから」

間も無く正午になろうとしている。
私は自分の手術の時間まで、しばらく眠りに就くことにした。
いかんせん、腹も減って仕方なかった。

「14時が私の運命の時間かな。笑わせる」

そう思いながら目を瞑る。
疲れと緊張のせいか、私は直ぐに微睡んでしまった。

母親の作るちゃんぽんの味が、どうしても思い出せないでいる。
甦るのは、チェーン店で食べた記憶の味ばかり。
そんなに母親と疎遠だったのだろうか?
違う。
昔はことあるたびに長電話をして、互いにビールを飲みながら笑った。
かあちゃんのことは心配するな、自分の生きたいようにやれ。
それが母親の口癖だった。
仕事が忙しくなったここ数年、連絡が疎かになっただけだ。
珈琲サロンを閉店して、ひとりで暮らしているのは聞いていたが、そこがボロアパートだとは知らなかった。
近くにいた兄夫婦は、何故反対しなかったのだろう。
木造のアパートに、年老いた母親をひとりにさせてー。

「ここが良いって聞かないんだよ」

兄貴の声がした。
確かにそう言っていた。
火葬場内の喫茶室で。
私の目の前のちゃんぽんは、既にのびている。
食べる気にもなれないのに、豪快に麺を啜る音も聞こえる。
私はそこで目が覚めた。
斜向かいの部屋から響く音。
よく喋る男が麺を啜るが、汁を飲む気配がない。
昼食は焼うどんだろうか、それにしては粘っこい啜り音ではない。
スルスルと軽快なリズム。
これは焼きそばだな。
いや、折角だから焼きちゃんぽんにでもしとこうか。
私はほくそ笑んだ。
と、同時に腹もなった。
勘弁してくれよ。何にも食べてないってのに・・・。


手術室の天井は、決して白くはない。
柳色とでも言おうか、つなぎ目には赤茶けた汚れも付いていて、私はそれが何なのかを想像しようとしたがやめた。
心持ちが良くない。
歯切れの良すぎる主治医の声は、この部屋にぴったりだ。
舞台役者の如く響く。

「買い換えなきゃ駄目だね、最新の機器にさ。あ、波川さんはこっち、君はここにいて」

薄れていく景色には申し分のないプロローグ。
麻酔科医のまんまるの目が、私を覗いている。

「安心してくださいね。さ、もっと深く息を吸い込めますか?深呼吸をしてみてくださいね」

巨大な真空管の中を、私は落下している。瞼が重たい。
ああ、母親は来てくれるのかな。
そこで記憶は無くなった。
降りたままの緞帳。
幕が上がらない限り、人生は始まらない。
それならそれで、仕方がない。
観客達は、知らぬ顔で三流芝居をひやかしに来ている。
非常口は用意されてはいるが、そこを使う役者は誰も居なくて、皆舞台上で道化師を演じている。
そんなもんだよ。
そう、それで良いんだ。
人生なんて道化している。
運命なんてないのだ。
全ては偶然の繰り返し。
その方が気楽だろう?
道化している世の中なんだから。
くすぐったい生き様と、魅せられない死に様。
そんなざらついた感覚。
十二支が私を取り囲み、ぺろぺろぺろぺろ舐め回している。
その中に何食わぬ顔で混ざる、昔いっしょに暮らしていた猫。

「くすぐったいよ、なんだ、君がついていてくれたんだね」

私は麻酔から覚めた。
後から聞いた話だと、笑っていたという。
心地の良い目覚めだった。


「今夜は鯖の煮付けなの。苦手じゃないでしょう?」

パートナーの君子は、私が入院していた病院で管理栄養士をしている。
退院から1か月後、行きつけのバーで飲んでいると、聞き覚えのある声に呼ばれた。
振り返ると、あの愛想の良い看護師さんがいて、その隣で控えめに笑っていたのが君子だった。
交際に至るまで、さほどの時間は要さなかった。
互いに40歳を越えていたから、結婚という概念はなく、ユニオン・リーブルという認識のもと暮らしを始めた。
子供は要らない。
だけど不安を解消出来る何かが欲しかったのも事実だ。
君子も同じ言葉を使っていた。
炊事を強要した覚えはないが、君子は趣味だからと言って聞かなかった。
薄口ながら旨味はしっかりと残っている料理。
私はその味に甘えたし、正直有り難かった。

「ねえ、お兄様から届いた荷物、ずっとあのままで良いの?」

「食べたら整理しておくよ」

食事中の何気ない会話だった。
リビングの脇に置かれた小包の段ボール。中は形見分けの遺品が入っている。
勝手に送られた処分品。
私はそう解釈していたから、箱を開けることを躊躇していた。
食べ終えた食器を食洗機にかけていると、私の耳に君子の声が聞こえた。

「私が開けようか?」

「いいよ」

「冗談よ」

他愛もない会話。
見透かされているようで、すこし腹も立ったが新鮮だった。ちゃんと話をしている。そんな実感もあった。
サイフォンで淹れる珈琲を、君子はとても喜んでくれた。

「おふくろの味さ」

と、私が言うと、君子は不思議そうな顔をした。

「さて、中を見るかな」

私はしゃがんで箱を開けた。
母親が使っていた眼鏡、誕生日プレゼントに送ったスマートフォン、一冊の薄いアルバム。
これらの品は、いつも母親が持ち歩いていたもので、玄関先のバックの中から見つかった。
母親が倒れていたのは窓際のベッドの上だから、異臭の付着は免れたと特殊清掃業者は言っていたらしい。
私はアルバムを捲った。
写真屋さんで売っている、薄手のアルバムは黄ばんでいた。
色あせた写真の中に写る家族の思いで。
私と似ている大嫌いな父親は、この後に女と心中するとは思えない柔和な顔をしている。
手を引かれているのは生意気そうな兄貴。
ニッコリ微笑んで、膨れたお腹に手をあてがっている母親。
とすると、私はこの中にいるのか?

「素敵な写真じゃない」

いつの間にか君子が隣にいて、私と同じ目線で写真を眺めていた。

「そうかもね」

「そうよ」

私の記憶には無い、知らない場所。
スーパーマーケットの駐車場だろうか、産前の買い出しを撮った1枚の写真。
撮影者も判らない。
ふと、背景の街路樹に目が止まる。
蘇鉄の木々が並んでいる。
殺風景で辺鄙な景色。

「あれ?」

「どうかしたの?」

「いや」

私は写真を指でなぞっていた。
そうか。
そっか。
と、呟きながら。
母親が終の住処に選んだのは、幸せいっぱいの記憶の場所だった。
スーパーマーケットは無くなっていても、蘇鉄の木々とあの日の匂いは残っていたのだろう。
男と出会って恋に堕ちて、ふたりの子宝に恵まれて家族ができた。

「私は決して孤独死ではないから、気に病まないようにして、兄弟仲良くするんだよ」

母親がそう言ってくれている。
そんな気がした。

「この土地で生まれたあなたと、東京で生まれた私がここに居るなんて、運命なのかしらね」

君子は淡々と言った。
私は笑った。
そうして身体を少しだけ寄せて言ってみた。
反応を確かめたいのと、答えも聞きたかったからだ。

「いや、簡単な奇跡だよ」

「そうなの?」

「多分ね」
 
「簡単な麻酔みたいなもの、じゃなくて?」

ふたりで散々語り合った後で、私と君子は初めてキスをした。



おしまい。
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