檀の森にふる雨に

文字数 5,000文字

 ようやく決心がついたので、最期に手紙を残しておこうと思う。

 こういうことをすると、まるでまだ未練があるみたいで、あまりかっこよくはないかもしれないけれど、檀が手紙すら残してくれなかったのは、やっぱりすこし寂しかったから。

 わたしは檀ほど潔くはなれない。

 普段のわたしなら、通りすがりにすこし知っている子が泣いているのを見たとしても、気にしなかっただろう。それどころか、知っている子だということにも気がつかなかったはずだ。その頃のわたしはいつも薄ぼんやりと世界を見ていて、クラスメイトの顔や名前をいちいち区別するのが苦手だった。その子が柏原檀だとすぐに分かったのは、彼女が森になりたいと言っていたのをよく覚えていたからだった。
 場所は通学路にしている河川敷で、わたしは学校から帰るところだった。距離てきにはむしろすこし遠回りになってしまうのだけれど、わたしは昔から、なぜか流れる水の近くにいるのが好きで、よほど天気が悪くない限りはそこをとおって通学していた。
 西の空が馬鹿みたいに晴れていて、綺麗な夕陽が川と檀の輪郭を金色に染めていた。目の前にセロハンを貼られたみたいに世界のすべてが金色がかっていて、見慣れた馴染みの風景が、普段よりもモワッとよそよそしそうに見えた。
「柏原」
 体育座りで夕陽を見つめる横顔にわたしが声を掛けると、檀はこちらに顔を向けて、すこし驚いたように目を開いて、それから、やわらかく笑った。
「木下さん」
 檀が迷わずわたしの名前を呼んだので、わたしもすこし驚いた。「名前、知ってたんだ」と、言うと、檀は、当然でしょう? という表情で「クラスメイトだから」と、返事をした。
「それに、木下さん目立つタイプだし」
「目立つかな。まあ、背は高いほうだけど」
「そういう意味じゃなくて」
 会話はそこで途切れた。わたしはぜんぜん饒舌な性質ではなく、檀も決してお喋りなほうではなかった。仕方がないので、わたしはすこし間を空けて、檀のとなりに腰を下ろした。どこか遠くのほうで、トラックのクラクションが鳴っていた。しばらく、なんとなくお尻のあたりがむずむずとするような居心地の悪い沈黙があって、不意に檀が「木下さんは、将来なりたいものって決まっているの?」と、訊いてきた。
「いまはまだ、あんまり分からないかも。とりあえず、大学に進学するつもりではいるけれど」と、わたしは答えた。檀は「そう」と返事をしただけで、それ以上はなにも言わなかったから、わたしは思い切って「柏原は、森になりたいんだよね」と、質問した。
 檀がフッと息を吐くのが聴こえた。ひょっとしたら、笑ったのかもしれなかった。
「うん。でも、無理だって。そんな夢みたいなこと言ってないで、ちゃんと現実的な進路を考えなさいって」
 笑ってもいいんだよと、檀は言った。笑わないよと、わたしは答えた。
 笑うなんてとんでもなかった。わたしは憧れたのだ。教師の前で、たくさんの同級生たちの前で、臆することなく堂々と森になりたいと言える檀に。
 高校生にもなって、まだ子供とはいえ、少なからず現実を知って自分の身の程というのを分かっているはずなのに、それでも、無理かもしれないなんて微塵も思わずに、思ったとしてもそれを表に見せずに、確信を持って森になりたいと言い切れる檀に。
 嫉妬したと言ってもいい。
 だからわたしは、檀に「なにも、そう急ぐこともないんじゃないかな」といったようなことを言った。檀に憧れていたにも関わらず、敢えてその足を引っ張るようなことを、わざと言ってみたりした。
「まだ高校生なんだし、なにも今からさじなうことを考える必要もないだろう? 大学に行って、仕事をしてみて、もうちょっと見識を広げてからでもいいんじゃないかな。そのうちに、また考えだって変わるかもしれない」
「でも、木下さん。わたしは森になりたいんだよ」
 檀はわたしの目をしっかりと見て、迷わずそう答えた。

 さじなうことじたいは、もうそれほど珍しくもない。当時もすでに、宝石や貴金属なんかの高い耐久性を持つものは人気が高かったし、同じくらいに木や草なんかの植物になる人も多かった。今では宗教的な信念でもない限りは、さじなってなんらかのものになるのが一般的だ。きっと、古代エジプトの王が巨大なピラミッドを残したのと同じような心理なのだろう。生の終わりになにかを残したいという気持ちになるのは、人に普遍的にある傾向のようだ。
 けれど、それはやはり人としての生を謳歌したあとで、人生の最期に志向するものだと思う。最初からさじなうために生きるというのは、今でも極端な人生観だろう。
 ある朝、檀が頬を赤く腫らしていたので、どうしたのかと訊ねてみたら「母親に殴られたの」と言っていた。
「親よりも先にさじなおうだなんて、なにを考えているんだって」
 そのときは、わたしは檀の母親の言い分ももっともだと考えた。もちろん、暴力なんて旧世代的で野蛮な手段に訴えるのは言語道断ではあるけれど、でもまだ十代の娘がさじないたいと言い始めたら、仮にわたしだったとしても混乱したと思う。きっと、檀の母親も混乱した結果、つい手が出てしまったのだろう。人間は未だ、完全に成熟した文化的な存在とはなり得ていない。
「わたしたちはまだ子供なんだ。ある程度は、教師や両親や、大人たちの言うことにも耳を貸したほうがいい」と、わたしは言った。檀はすこしショックを受けたような顔を一瞬見せて、けれどやっぱり、やわらかく笑った。
「木下さん。そんなこと、これっぽっちも思ってなんかいないくせに」
 まったくもって、その通りだった。
「わたしはね、木下さん。木になりたいんじゃないの。ちゃんと手の行き届いた植林地で、たくさんの他の人たちと一緒に木になって、生きている人たちに末永く管理してもらいたいんじゃない。わたしは森になりたいのよ。そのためには、すっかり年老いてしまってからでは遅いのよ」
 すっかり年老いたあとで、自分の生を永遠のものにするためにさじなう人たちのせいで、この星の地表はめっきり年老いたものたちで覆い尽くされてしまっていた。木々には旧世紀ほどの生命力はなく、岩も草も、川も海も、かつてのような荒々しさはなく、あらゆるものがただ人に慈しまれ守り伝えられるだけの、大人しい存在になってしまっていた。
「わたしは、わたしの森になりたいの」
 檀はしっかりとわたしの目を見て、もう一度そう言った。

 気の早い同級生たちが受験勉強に取り組み始めた頃、檀は学校にこなくなった。

 名簿で住所を調べ、まるで墓石のように四角く硬質な檀のヘーベルハウスを訪ねると、まるで喪中のように陰気な顔をした檀の母親は、訝しみながらもわたしを家の中にあげてくれた。
「家を空けた隙に、勝手にさじなってしまったのよ。以前は二階の洋室を使っていたのだけれど、今は一階の和室にいるわ」
 今では、さじなうことは個人の侵されざるべき権利だと多くの人に認識されている。それでも未成年のわたしたちの場合、本来は親の同意が必要となるのだけれど、かといって、本気でさじなおうと決意してしまった人間を止める手段など、本質的には誰も持ち合わせてはいないのだ。
 わたしが襖を開くと、眠っていたのか瞼を閉じていた檀が目を開き、それからいつもと同じように、やわらかく笑った。
「木下さん、きてくれたんだ」
 檀はクスになっていた。すでに両脚は畳に埋まり、そのしたの地面にまで根を張っているようだった。
「学校にこないから、どうしたのかと思って」
「学校がきらいになったわけじゃないんだけど、でも、もう動けなくなっちゃったから」
 この頃は、身体はまだ檀のかたちを残していたけれど、膝から下は木肌のようにゴワゴワとした質感になっていた。見た目はけっこう変わってしまったのに、やわらかな笑顔と雰囲気は相変わらずの檀のままで、わたしもすこし混乱した。
「本当に木になっちゃったんだね」と、わたしが言うと、檀は悪戯っぽく笑って「今はまだね」と、首を傾げた。そしてまた「わたしは森になるの」と、言った。
 お茶を運んできてくれた母親は、勝手に木になってしまった娘に戸惑いながらも、その足元に栄養剤のボトルを刺していった。帰り際に台所のほうに一声掛けると、母親は奥から出てきて「もうあの子は外に出ることもできないから、よかったら、また会いにきてあげて」と、わたしに頭を下げた。

 学校帰りに檀の家に寄っていくのが、わたしの日課になった。

 ある日、檀の耳たぶの下にかわいらしいどんぐりの実が生っていた。
「ピアスみたいでかわいいね」と、わたしが言うと、檀は「ありがとう」と、やわらかく笑って「木下さん、窓を開けてもらえない?」と、言った。この頃には、木肌はもう全身に拡がっていて、首を傾げることもできなくなっていた。
 窓を開けてしばらくすると、外から小鳥が飛び込んできて、檀の耳たぶの下のどんぐりを啄んでいった。
「あの実から芽が出たら、それもまた檀の一部になるのかな?」と、わたしが訊くと、檀はただ一言「分からないわ」とだけ言った。この時点でもまだ、檀は完全にさじなってしまったわけではなかった。
 木になってみないことには、木のことは分からない。けれど、木になってしまった人から話を聞くことはもうできない。だから、あの実から芽が出たとき、檀の精神がそれをどう感じるのかというのは、人には永久に知りようのないことなのだった。
「でもきっと、それもまたわたしの一部になるのだと思う」と言って、檀はまたやわらかく笑った。

 その次に訪れたときには、もう檀はかなり木に近づいていて、言葉を交わすこともできなくなっていた。母親は相変わらず、困惑したような、疲れ切ったような顔のままで、自分の娘の、かつては自分の娘だったクスの木の根元に栄養剤のボトルを刺していた。もはや、檀にわたしを認識できているのかも怪しかったけれど、檀の母親はわたしを追い返すことはなく、わたしも檀の家に通い続けた。
 言葉は交わせなかったけれど、檀の足元に耳をくっつけると、ゆっくりとしたコトコトという、地面から水を吸い上げている音が聴こえてきて、なんだか安心した。

 あれから十年以上が経ち、わたしは大学を卒業してつまらない社会人になった。生活が忙しく、以前のように足しげくというわけにはいかないけれど、ときどきは檀のところに顔を出した。
 かつては、この世界のなにかのバグみたいに空間を直線的に切り取っていたへーベルハウスも、今では完全に檀の一部に取り込まれてしまっている。檀の両親も、いつの間にかいなくなっていた。巨木になった檀の枝にはたくさんの小鳥がとまり、洞には昆虫たちが集まり、森は拡がって周辺の街も浸食しはじめている。おかげで、檀の元まで辿り着くだけでも、ちょっとしたトレッキングだ。

「ちゃんと森になれたんだね」
 わたしは檀の根元に横たわり、そっと耳をくっつけた。以前はとてもささやかだったコトコトという音が、深みと拡がりのある低い音に変わっていた。
「檀。わたしは、雨になるよ」
 わたしはかつて憧れた友達に、そう伝えた。檀に比べるとずいぶんと遠回りしてしまったけれど、わたしもようやく、自分が本当になりたいものに気付くことができたのだ。
「雨になって、檀の森のうえに降るよ。檀の根に吸い上げられて、檀の葉の裏からまた空に登って、何度も檀の森のうえに降る。そういう風に、わたしも檀の森の一部になりたい」
 わたしではきっと、わたしの森にはなれない。だから、わたしは雨になる。誰かの叶えた夢に後ノリするみたいでちょっとダサいけれど、でも本当にそうしたいと思うのだから、きっとそうするべきなのだ。
 たぶん、ちょっとくらいのダサさを受け入れるために、わたしは大人になったのだ。
「今からでも、きっと水にはなれるよね。うまく、雨になれるといいな」
 そう言って、わたしは目を閉じた。檀のふとい根の内側で、コトコトと音が鳴っていた。

 わたしは雨になる。
 きっと、檀はやわらかく笑って、わたしを受け入れてくれるだろう。
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