第6話 ブルーレディ
文字数 1,491文字
哀しみの貴婦人、という意味を持つ「ブルーレディ」は、上海のメインストリート・南京路にある西洋風のナイトクラブだった。
結成して以来、悠哉たちのバンドはこの店で演奏している。品のいい装飾と落ち着いた雰囲気で、馴染みの客たちに愛されている。
夕刻、まだ開店前に悠哉に連れられ、そのブルーレディに唯音は初めて足を踏み入れた。
「こちらだよ、唯ちゃん」
裏口から入り、彼の後について廊下をフロアへと向かう。
フロアにはゆったりと客席が配置されており、トーンを落とした照明が辺りを照らしている。
一段高くなったステージでは、バンドのメンバーがそれぞれ準備をしているところだった。ピアノ、ドラムス、ベース、クラリネット、そして悠哉のサックスの編成だ。
そちらに歩み寄っていくと、彼らが手を止め、一斉に顔を上げる。
「やあ、悠哉くん」
「すみません、遅くなって」
「大丈夫、まだ時間はあるさ」
軽く頭を下げる悠哉に、ピアノの前に座っていた年長者らしい男性が笑いかける。
「それより、彼女が君が言っていた本国から来たお嬢さんだな」
ええ、と答え、皆に唯音を紹介してくれる。
「こちらが貴堂 唯音 さん。素晴らしい声を持つ、歌い手のお嬢さんです」
「いやだわ、悠哉さん。買いかぶりすぎよ。わたしなんてまだ働くところも決まっていない歌手の卵でしかないのに」
恐縮して身をすくませる唯音に、そんなことはないさ、と微笑する。
「で、唯ちゃん、こちらがピアニストの葉村 さん、それからドラムスの水澤 くん、ベースの慶 さん、クラリネットの秦 さん」
この街で結成された「バーボン・ドリーマー」などという酔狂な名前のジャズ・バンド。音楽に国境はないを地でいく、日中合同チームだ。
唯音はにこやかに、ひとりひとりと初対面の挨拶を交わす。
「始めまして、貴堂唯音と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
「いやあ、しかし、綺麗なお嬢さんだなあ。悠哉くんが熱心になるのもわかるよ」
ドラマーの水澤のからかうような台詞に、うっほんと悠哉が咳払いした時だ。
仕立てのよい背広を着こなした、四十代くらいの男性がこちらに歩いてきた。
「おはようございます、支配人」
背の高いその男性に向かってバンドのメンバーたちが頭を下げる。一緒にお辞儀する唯音に、この店の支配人の巳月 さんだよ、と悠哉が教えてくれる。
「ああ、おはよう」
会釈を返すと彼は表情を曇らせた。
「実は、ちょっと困ったことが起きてね」
「困ったこと、ですか?」
怪訝そうに訊き返すバンドの面々に、腕組みして低い声で告げる。
「急にイレーヌが入院してしまったんだ」
「イレーヌが!?」
口々に上がる、驚愕の声。
「イレーヌって?」
「歌手さ。僕らのバンドと一緒に、この店に出演していたんだ」
小声でたずねる唯音に、悠哉がそっと説明してくれる。
「最近、どうも体調が思わしくないと言っていたんだが、今日倒れて入院したそうだ。腎臓を悪くしていたらしい。今さっきイレーヌのご主人が店に知らせにやって来てね」
何てこった、と皆が愕然とするそばで、巳月が続ける。
「これを機に、彼女の具合が良くなったら夫婦で故国に帰るそうだ」
「彼女、帰国しちまうのか」
「残念だなあ」
「では、イレーヌが出演できないなら、今夜は歌手なしということですか?」
そうせざるを得ないだろう、と腕組みしたまま、支配人は結論を出す。
「シンガーなしなんて華に欠けるよなあ」
「歌をリクエストするお客も多いし、急いで次の人材を探さないと」
「だけど、イレーヌくらいの歌手はそう簡単には見つからないんじゃないかな」
「彼女はいい歌い手だったからね」

結成して以来、悠哉たちのバンドはこの店で演奏している。品のいい装飾と落ち着いた雰囲気で、馴染みの客たちに愛されている。
夕刻、まだ開店前に悠哉に連れられ、そのブルーレディに唯音は初めて足を踏み入れた。
「こちらだよ、唯ちゃん」
裏口から入り、彼の後について廊下をフロアへと向かう。
フロアにはゆったりと客席が配置されており、トーンを落とした照明が辺りを照らしている。
一段高くなったステージでは、バンドのメンバーがそれぞれ準備をしているところだった。ピアノ、ドラムス、ベース、クラリネット、そして悠哉のサックスの編成だ。
そちらに歩み寄っていくと、彼らが手を止め、一斉に顔を上げる。
「やあ、悠哉くん」
「すみません、遅くなって」
「大丈夫、まだ時間はあるさ」
軽く頭を下げる悠哉に、ピアノの前に座っていた年長者らしい男性が笑いかける。
「それより、彼女が君が言っていた本国から来たお嬢さんだな」
ええ、と答え、皆に唯音を紹介してくれる。
「こちらが
「いやだわ、悠哉さん。買いかぶりすぎよ。わたしなんてまだ働くところも決まっていない歌手の卵でしかないのに」
恐縮して身をすくませる唯音に、そんなことはないさ、と微笑する。
「で、唯ちゃん、こちらがピアニストの
この街で結成された「バーボン・ドリーマー」などという酔狂な名前のジャズ・バンド。音楽に国境はないを地でいく、日中合同チームだ。
唯音はにこやかに、ひとりひとりと初対面の挨拶を交わす。
「始めまして、貴堂唯音と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
「いやあ、しかし、綺麗なお嬢さんだなあ。悠哉くんが熱心になるのもわかるよ」
ドラマーの水澤のからかうような台詞に、うっほんと悠哉が咳払いした時だ。
仕立てのよい背広を着こなした、四十代くらいの男性がこちらに歩いてきた。
「おはようございます、支配人」
背の高いその男性に向かってバンドのメンバーたちが頭を下げる。一緒にお辞儀する唯音に、この店の支配人の
「ああ、おはよう」
会釈を返すと彼は表情を曇らせた。
「実は、ちょっと困ったことが起きてね」
「困ったこと、ですか?」
怪訝そうに訊き返すバンドの面々に、腕組みして低い声で告げる。
「急にイレーヌが入院してしまったんだ」
「イレーヌが!?」
口々に上がる、驚愕の声。
「イレーヌって?」
「歌手さ。僕らのバンドと一緒に、この店に出演していたんだ」
小声でたずねる唯音に、悠哉がそっと説明してくれる。
「最近、どうも体調が思わしくないと言っていたんだが、今日倒れて入院したそうだ。腎臓を悪くしていたらしい。今さっきイレーヌのご主人が店に知らせにやって来てね」
何てこった、と皆が愕然とするそばで、巳月が続ける。
「これを機に、彼女の具合が良くなったら夫婦で故国に帰るそうだ」
「彼女、帰国しちまうのか」
「残念だなあ」
「では、イレーヌが出演できないなら、今夜は歌手なしということですか?」
そうせざるを得ないだろう、と腕組みしたまま、支配人は結論を出す。
「シンガーなしなんて華に欠けるよなあ」
「歌をリクエストするお客も多いし、急いで次の人材を探さないと」
「だけど、イレーヌくらいの歌手はそう簡単には見つからないんじゃないかな」
「彼女はいい歌い手だったからね」
