第6話 生活様式

文字数 1,926文字

 妻にとって、わたしという存在は、いつの頃からか、我慢できない存在になったらしい。
 わたしは、わたしであり続けただけである。ということは、いつの頃からか、妻はずっと我慢をし続けていたことになる。妻に、わたしが具体的に、何か我慢を強いた覚えはない。だが、わたしがわたしであるということが、彼女に、耐え難い、何か重いものを与え続けたようなのだ。
 思い当たることといえば── 「思い当たっても、仕方がない」と考えるわたし自身に、思い当たる。ものの弾み論を唱え、いわば諦念を基盤に生きてきたわたしに、妻はいつの頃からか、ずっと否定の気持ち、好ましくない気持ちをもって、連れ添ってきたことになる。
 これは、ショックといえばショックだった。彼女の心模様もショックだったが、そこから派生する、現在の妻のわたしに対する関係の仕方が、打ち明けさせてもらえば、最もつらいものだ。
 だが、壮年を過ぎ、老年となった今、わたしに何ができよう。わたしの何が変われよう、と思う。

 わたしにだって、穴を掘れば、言いたいことが出てこないわけでもない。わたしは公務員を続け、収入を得、家庭生活の維持に、少なからず貢献してきたと思う。あなたは家事をこなし、子を育て、家庭を守ってきた。わたしは、あなたがして来たような家事をして来なかった。あなたは、わたしがして来たような仕事をして来なかった。
 だが、そうして、この家庭をふたりでつくってきたのではなかったか。子どもたちも独立し、あとの余生、穏やかに、過ぎたことを許し合い、和やかに暮らせないものか。
 大体、お見合いをして、何回かのデートを重ね、この人とやっていこう、と納得した上で、われわれは結婚したのではなかったか──
 だが、そんなこと、わたしは言わない。飲み込むことが、わたしの処生術であり、とりえであるからだ。
 ただ、わたしが唯一、強く妻に言ったことはある。定年退職後、「もうあなたの食事なんか作りたくない」という妻に、「それは困る、食事だけは作ってほしい」と、ほとんど懇願したことだ。
 で、しぶしぶ、彼女は昼と晩の、わたしの食事を作ってくれている。いや、調理する姿を、しばらく見ていないから、想像上の姿だ。

 まったく、いまや誰もいない家で、わたしは一人で暮らしているかのようなのだ。
 朝、一階の台所でわたしはパンを焼き、湯を沸かし、小さなテーブルで紅茶を飲み、それから図書館へ行く。本を読んで、12時に家に戻り、二階に行く。妻の姿はなく、用意された昼食を摂り、一階に下りて、ひとりコーヒーなどを飲み、また図書館へ行く。
 6時に帰宅し、二階でひとり夕食を摂る。わたしは決まった時間に生活をしているので、妻はわたしとの面会を避けるために、子どもの部屋に行ったり他の部屋へ行ったりしている。けっしてわたしと顔を合わせない。そして夜になり、妻は二階のベッドで、わたしは一階に布団をのべ、それぞれに眠る。

 ひとりひとりの時間を、大切にすること。それは、確かに大切なことで、この点については、わたしは異を唱えない。だが、一軒家の、同じ家に暮らし、どこかで顔を合わす…無理にとはいわないが、顔を合わせることぐらい、あってもいいのではないかと思う。
 人生の最終段階に差し掛かり、それまで生活を共にし、同じ舟に乗ってきた妻の、いわば、反乱。わたしという存在を、全否定・完全否定したいような、彼女の心が為せる、この現実。
 何がいけなかったのかと思う。
 食事のことを、何もしてこなかったこと。情熱的に、妻を愛するということを、してこなかったこと。
 誕生日や記念日には、欠かさずケーキや何やらを買ったり、家族旅行などもしてきたが、それも「形式だけ」と思われていたのか。燃え盛る暖炉に、わたしは乾木をくべていたのか、と、わたしの想像は翼をつける。
 フロイトによれば、それまでの性的欲求の満たされ具合によって、老後の精神状態、したがって行動形態に、顕著な差異が生まれる、ということだ。これについては、思い当たらないこともない。

 ところで、わたしは一日三回、食後に治験薬を飲むことを忘れない。(いわせてもらえば、このアルバイトは「定年後も働く」と、妻とした約束を果たすべく、始めたものだ。年金だけで、十分生活はできるのだ)
 飲み込むこと、この身に降りかかるあらゆること飲み込むこと。これをわたしは人生の指針とし、実践してきたつもりだ。だが、そのわたしの最も身近にいた妻に、苦々しく、我慢ならぬ存在として、接せられることになろうとは、思いもよらなかった。
 それは、今まで積もりに積もった恨みのようなもので、その復讐を、彼女はわたしに、今、遂げているかのようなのだ。
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