――意識が朦朧としていた。
脳へと伝達された緊急信号は、死。
魔術という異能の技術が当たり前の世の中、不可解な出来事の原因の多くは悪魔やら妖怪やらの仕業だ。あるいは、魔術を私利私欲に使い、他人を貶めようとする輩、俗に言う魔術犯罪者の手によるものという可能性もある。
しかし、絶対などということはあり得ないことだ。今回のドキドキ絶叫臨死体験も例外ではない。
神庭真広は、完璧主義者だ。
常に不貞腐れているような顔つき以外は、中肉中背で如何にもな平均体型。濃い藍色の頭髪は生まれつき。別に、どこにでもいる普通の完璧主義者である。
その完璧主義者とあろうものが、まさか失敗することなどないのだ。
魔術という便利スキルがあるのにも関わらず、こんな初歩的な薬品の調合で、有毒ガスを発生させてしまい、意識を失ってしまうなんてことは決してあり得ない。
次の日の朝に、「黒魔術科高校の生徒が酸性洗剤とアルカリ性洗剤を誤って混ぜてしまって救急搬送」なんてニュースが流されてしまったら、今後の完璧主義者ライフに支障を来す。それは断固として阻止しなければならない。
真広は、腹の底に眠る気合い的な何かで、意識を戻す。
完璧主義者として、論理的に説明出来ない根性論は信じないが、この時ばかりは、使わせてもらう。後で適当な理由をつけておけば後悔はしないだろう。
バケツの中にある禍々しい色をした液体から、真広は一旦目を離し、離れた場所にいる連れの少女に声を掛ける。
「出来た……合成洗剤『カビスレイヤーMk.2』の完成だ」
「聞いてなかったのか、マリー。もう一度説明する。この超合成洗剤『カビスレイヤーMk.2』さえあれば、面倒なプール掃除も一瞬で終わる! ははは、すごいだろう!」
自信満々に高らかに笑う真広だが、連れの少女――マリーは、呆れ顔で掃除用のブラシを持ち直す。
「それはまぁ、マリーが警戒区域の建物を焼き壊してしまったからな……」
「――そ・れ・は! 真広が責任を持つって約束したからでしょ! わたし、まだ燃やし分けられないんだから!」
「……分別出来ないやつが悪い。大体、普段からもそうだ。燃えるゴミと燃えないゴミはきちんと分けてくれ……」
「はいはい。ってそういう問題じゃないでしょ。……第一、真広が細かすぎるの!」
マリーは深く溜め息を吐いて、ブラシを持つ手をてきぱき動かしていく。
世の中はゴールデンウィーク。お盆休みや正月休みに並ぶ日本三大大型連休の一つである。
それは、魔法士学校黒魔術科の生徒にとっても、一般の学生と変わらず同じことが言える。
それなのにも関わらず、真広とマリーは、学内の室内プールの掃除をさせられていた。
真広は、現状を作り出した最たる責任がマリーにあるとは思わない。彼女と一緒に黒魔術科でやっていくと決めた時から、契約者であるマリーの全てを抱えているのだ。
「……本当にそういうところばっかりは強情なんだから……」
背を向け、上着のフードを深く被っているせいかマリーの表情は分からない。ただ、それまで続いていたマリーの反論はそこでピタリと止まった。
真広には法律や規則を破ってでも、果たさなければならない約束がある。
それはマリーとの約束よりも、さらに昔、真広が幼い頃に姉と交わしたものだ。それが例え、不条理で嘘に満ち溢れていたとしても、それが彼女の願望であるのならば、家族として最後まで付き合わなければならない。
何より、経緯はどうあれ、一度交わされた約束を破るというのは完璧主義者としては、許し難い行為なのだ。
真広の姉はもういない。約束は決して果たされることはなくなってしまった。
十年の年月が過ぎても、完璧主義者は唯一の失態をどうすることも出来ない。
元より、真広の完璧主義のはじまりは、その根本から欠けていて、完全であり無欠であることはあり得ないのだ。
だから、これは過去の戒めのようなものなのだ。マリーとの約束だけは、守り続ける。これだけは、真広が死んでも譲れないことだ。
心ここにあらず。呆けた返答でお茶を濁した真広に、とうとうマリーが耐え兼ねた。ブラシを動かす手を止めて、マリーは振り返る。
「その『カビスレイヤーMk.2』? 大丈夫なの?」
マリーの円らな赤い瞳が訝しげにバケツの中身を見つめる。
神庭真広、黒魔術科一年、十八歳。その程度のことのみならず、マリーなら分かっていることだろう。真広とマリーは知り合って長くはないものの、同じ問題児同士、互いの変わり者加減には敏感だ。
「この超合成洗剤『カビスレイヤーMk.2』さえあれば、油汚れから頑固な黒カビまで全てが解決! 風呂場掃除の殺し屋という最強の異名すら持つくらいだ。大船に乗ったつもりで任せてくれ!」
ネットショッピングのような胡散臭い謳い文句を並べ立て、真広は嬉々として、バケツを傾けて中身を見せる。粘性のある紫色の液体は、誰がどう見ても危険物のそれと言っていい程の毒々しさだ。
しかし、一度自分のペースを掴んでしまった真広を止めるのは難しい。マリーは軽くあしらおうと、純粋な疑問を投げかける。
「……すごいのは、わかったけど、何でMk.2? Mk.1はどこにいったの?」
「……失敗なんてなかった。そう、Mk.1は犠牲になったのだ……」
痛いところを突かれた。完璧主義者に失敗はあってはならない。
「そ、そんなことより、マリー! お前何でそんな恰好なんだ!?」
マリーの優勢を感じ、真広は話を逸らす。
マリーは、学校指定のスクール水着に、防寒用の上着を羽織っている。上着のフードを深く被っているのは、洗剤が飛んで髪を傷めることを恐れてなのか。あるいは、彼女が何たるかを象徴する異形を隠すためか。
真広は、初めて彼女と会った時も同じように頭頂部を隠していたことを思い出す。
「動きやすいし、汚れちゃっても困るでしょ? それに……」
答えは単純だった。加えて、彼女の視線の先には、『カビスレイヤーMk.2』。やはり、信用されていないのだろう。マリーは見るからに嫌そうな顔をしている。そこまで、否定されるとさすがの真広でも凹みそうになる。ならばと、真広は反撃を開始する。
真広の想像通り、みるみる内に顔を紅くするマリー。フードの隙間から見える彼女の真っ赤な頭髪と良い勝負をしている。マリーは冗談が通じない。正直者で一途で、馬鹿真面目故に、こういった言動には滅法弱い。
「……えー? まさかとは思うけどマリーさん何か勘違いしてないですかー?」
「か、勘違いって何!? 真広は、その……わたしのことがタイプってことは……その、つまり……?」
勝った。マリーは分かりやすい。
真広は勝算のある勝負なら、負けることは決してない。この調子で、会話をこちらのペースに持っていけば、無理やり『カビスレイヤーMk.2』の有用性を納得させることが出来るだろう。
「外見と中身は別。将来俺の嫁になる女性は、完璧な俺に従順で一途でなければならない。それに、俺は巨乳派だ!」
「……本当に真広ってこの上なくデリカシーないよね……」
「デリカシー? そんなものあってたまるか! いや……繊細さ、か」
真広は制服の十数個あるポケットの内の一つから、ボールペンを取り出し、メモ帳を開く。
「完璧への最短攻略マニュアル7」と書かれたページに綺麗な筆記で「繊細さ」と記していく。
マリーはきっと真広の完璧主義について指摘したいのだろう。
潔癖症の人間の部屋が不衛生で散らかっている。一見矛盾しているが、実はよくある現象だ。真広の完璧主義も同様で、完璧を目指す故に遠回りをして、端から見れば「ダサい」「ひねくれている」行動となる。
普通なら、面倒臭い奴だと言って真広の近くから離れていく。しかし、マリーは違った。真っ向から思ったことを口にする。彼女の辞書には、噓や建前なんて言葉はない。
そう間を空けずに、マリーは率直な疑問を真広に投げつけた。
「……というか、真広こそ制服で大丈夫なの? 汚れちゃったりしない?」
「ふ、よくぞ聞いてくれた。この改造制服は、防水抗菌機能においては、水着のさらにその上を行く」
真広の制服は、黒魔術科高校の一般的な男子制服とは異なる。
校則によって、校内での制服や学校指定の体操服及び水着以外の着用は禁じられているが、ある程度手を加えたものに関してはグレーゾーンなので、教師から咎められることは無い。
「さっきも言っただろ? 外見と中身は別。耐熱性、通気性、対魔性等々、完璧な機能性を備えている自慢の代物だ」
見た目こそ冬服の上着の丈を大きくしただけの暑苦しいものに見えるだろうが、この制服の着用下であれば、どんな過酷な環境であっても汗一つかくことはない。また、ネットショッピングのような胡散臭い謳い文句になってしまったが、それを実現するものこそが魔術なのである。
「何か矛盾してるし……魔術に対しても効果があるって……」
「実際、この間も防いで見せただろ。だから、同じく俺の作ったこの『カビスレイヤーMk.2』の力を侮っていられるのも今の内だ」
「でも、こればかりは、『カビスレイヤーMk.2』じゃ溶かせないでしょ?」
「いいえ、ご安心下さい奥さん。そんな頑固な黒カビもこの通り――」
マリーが指差した先のプールの排水溝に向けて、真広は『カビスレイヤーMk.2』を散布する。実際に効果の程を見てもらえれば、マリーも納得せざるを得ない。
こんなことで躍起になるのもこれで終わりだと思ったその時、排水溝の奥から、物凄い勢いで黒い物体の群れが流れ出て、広がっていった。
真広は、思わずバケツをひっくり返して、腰を抜かしてしまった。何とも恰好が悪いことこの上ない。完璧とは程遠い自分に嫌気がさす。
マリーの声で、後ろ向きな気持ちが消える。状況はそれどころではない。想定外の事態には、相応の対処の仕方というものがある。
黒い物体が流れ出て来ていた瞬間、視界が奪われたその一瞬で、真広は無意識的な生存本能でマリーの背後まで逃げ出していた。
「あの……少しは、こう「ここは俺に任せて下がれ! マリー」みたいな? そういうカッコイイところ見せてくれてもよくない?」
「おかしいなぁ。真広って、それなりに強いはずなのになぁ~」
「ふ、最終兵器ってのは最後の最後まで使わないもんなんだ」
そんな夫婦漫才のような会話をしている間に、流れ出してきた黒い物体の群れが、排水溝近くに再び終結し出す。どうやら流れ出してきた黒い物体の群れが、排水溝近くに再び終結し出す。明るいところや、一人でいることが苦手な生き物のようだ。
テニスボールサイズの黒い毛玉に、瞼と充血した一つ眼。どうやら、『カビスレイヤーMk.2』の対魔性にやられて、怒りを買ってしまったらしい。
真広は、マリーの背後という安全地帯で冷静に分析を始める。そんな真広の様子を見て、張り詰めていたマリーの表情が少しばかり綻ぶ。
「『廃都の黒魔術』の悪魔だよね? 何でこんなところに……」
「そうだな……実戦授業帰りの黒魔術科の生徒に付着して運ばれてきた。そして、暗がりで繁殖した……と考えるのが妥当かもな」
数からして数百はいるだろう。『廃都の黒魔術』の悪魔は例外無く、殲滅対象だ。それが、危害を加えるような存在ではなかったとしても、ひいては魔法士黒魔術殲滅部隊に所属することになる黒魔術科高校の生徒の役目である。
真広は何かを言いかけて、喉に刺激的な物体が通過する感覚を覚えた。
人は、身体に害を為す者を外へと排出する機能を備えている。所謂、吐き気というものだ。
「真広!? まさか、毒ガス!? え、これ、あの黒いのか『カビスレイヤーMk.2』なのかどっちなの!?」
「いや、そこまで信用無いのかよ! 当然、悪魔の方だ!」
吐いてしまえば少しは楽になると思ったが、それはむしろ逆効果だ。今はなるべく、外気を遮断しなければならない。
真広は鼻を左手で覆い、上着の襟で口元を隠す。改造制服は比較的大きく作られているので、少し俯けば容易に口元はカバー出来るし、何しろ対魔性に優れている。
マリーには常日頃から、用意が過剰過ぎると言われるが、こういう時のためにこそあるのだ。
防災訓練を怠るような人間が真っ先に建物の下敷きになるなんて話は間違っていない。
ただ、呼吸を断った状況では、いつもの仕返しをマリーに口煩くぶつける余裕はない。それは、この場を無事無傷で完璧に脱した時に考えるべきだ。
真広は、持っていたメモ帳とペンを用いて、筆談という判断に至る。
「『一刀火神』を使え。最小火力でいい――って、プロミネンスって漢字で書くの!? ってルビ書いてる余裕無いよね!? やっぱ真広ってバカなの!?」
男には、ロマンというものがあるのだ。真広も例外ではない。マリーには理解出来なくても、世の中の男子の過半数は理解してくれるだろう。
後でSNSとかでアンケートを取っても構わない。そのためだけにアカウントを取得する気にはなれないが。
「何でわざわざ技名叫ばないといけないんだろう……」
「そんなキラキラした目で見ないで! わかった! やるからっ!」
マリーは、こんな状況でもいつもと変わらない調子の真広を見て、吹っ切れたのか、フードを下ろし、上着を脱ぐ。
少し目が疲れてしまうくらいの鮮やかな朱色が彼女のトレードカラー。育ち盛りのきめ細やかな肌に、大きな瞳と艶やかな髪。長い後ろ髪は片方の側頭部で団子状に結っている。
真広の思う完璧とは異なるが、それでも欠点など無い美少女の体を成している。
ただ一点を除けば――。
彼女の頭頂部に対を成して生えているのは、マリーの華奢な体躯には不釣り合いの禍々しい二本の角。くの字に生えた角もまた、彼女のトレードマークだ。
だからこそ、彼女もまた完璧ではなく――真広と同じ変わり者なのだ。
マリーは腰に掛けている打刀を鞘から抜く。
鬼のような角に、真っ黒な刀身の日本刀。これが、彼女の在り方を象徴する姿だ。
毒が充満しつつある室内でも、平気な顔をしていられるのは、彼女が他の人間とは少し変わっているためである。
辺りに火花が散り始める。これは真広とマリーの間で決められた合図のようなものだ。
マリーは未だ自身の中の変わり者を制御しきれていない。彼女の表情には曇りがある。それでも、この合図を出したということは、「大丈夫」ということのサインだ。強がっているだけではない。彼女の中で、他者を頼ろうという気持ちがあるからこそ出来ることだ。
マリーは小さな手で、力強く打刀の柄を握る。真広はマリーに声を掛けることは無い。
それは、毒を吸い込んでしまうからということよりも何より、真広がマリーの実力を信じていることは言葉にするまでもないからだ。
彼女のその真っ直ぐな気持ちは誰にも止められない。それなら、道を踏み外さないように、真広が支えるのみだ。
『カビスレイヤーMk.2』には対魔性以外にも、もう一つ有力な機能性が備えられている。ある種欠点ではあるものの、それはマリーの『一刀火神』との相性は抜群だ。
真広はマリーの傍にいたまま、ポケットからA4サイズの紙を数枚取り出し、広げる。
それらを組み合わせ、自身を中心とした魔法円を構成していく。マリーの強さを最大限に引き出すための奥の手だ。
火花が大きくなり始めると、マリーは一歩踏み込み、刃先で虚空をなぞり切った。
打刀の先端から小さな爆発が生じ、そこから花が開くように火炎が広がる。破壊を生み出すものが開花のように見えてしまうのは、単に美しいと思えたからだ。
爆音が消え、チリチリと音が響いている頃には、辺りの黒一色の景色が、焦げによる色のみになっていた。
真広は焦げた毛先を気にしながら、室内プールの天井部を見上げる。火災報知器が鳴り出し、スプリンクラーが作動した。『廃都の黒魔術』の悪魔の姿は無い。
「……まぁお陰様で、何とか助かった。耐火術式も間に合ったし」
室内全体に及ぶ程の大爆発で、壁の所々にひびが入り始めている。予想以上の爆発を引き出してしまったのは、『カビスレイヤーMk.2』の揮発性、発火性の高さが起因している。
それを正直に打ち明けてしまったら、また面倒な問答になり兼ねないため、あえてマリーには種明かしをしない。
「ごぉおおおおおおるぁあああああああお前らあああああああ!!!!」
遠くから、聞き覚えのある担任教師の声が聞こえる。
ここまで激しくドンパチやってしまえば、何かしらの責が問われそうだ。担任の性格上、話して分かってもらえるとも思えない。
真広はマリーの手を取り、走り出す。刀を納めたところを急に掴まれたので、マリーは転びかける。何とか、転ばないようについて行こうにも、思考がついて行かない。
「え、逃げるの!? だって謝ったら許してくれるかもしれないし……」
「マリーは許してくれても、俺のことは許してくれないだろ先生は!」
こういうところばかりは理解が速い。真広としてはそれを素直に喜ぶことが出来ない。
「それに……俺たちは契約関係、パートナーだ。一人が怒られるなら、もう一人も怒られないといけない。マリーの失敗は俺の失敗でもあるんだ」
一人で完璧な人間などいない。ましてや、真広やマリーのような変わり者は、尖った強さがある反面、弱さも明確だ。それを支え合うのが、変わり者同士の生き方である。
珍しくまともなことを言ったものだと感心しているマリーであったが、角による超感覚なのか、あるいは女の勘か、真広の巧妙な話術の裏に気付く。
「って……それ、何かわたしが悪いみたいになってない!?」
「細かいことは気にするな! あ、術式用の紙を回収しておかないと――」
耐火の能力が優れているため、術式用紙は一切焦げていない。それらを律儀に回収して、マリーの元へ戻る真広。
「証拠隠滅のためでしょ? どっちが細かいのだか……」
大きく溜め息を吐いたマリーだったが、穏やかな表情で手を差し伸ばした。一度離された手をもう一度掴み、エスコートするように真広を促しているつもりなのだろう。
純粋無垢な彼女だからこそ、何もかも一人で背負いがちだ。
そんな彼女を一人にさせないと約束したことがある。
だから真広は、マリーの手を取る。この手を二度と離してはいけないと思った。