第1話 ハエトリグモはサザンカに出会う

文字数 2,112文字

 肉食のクモの中にも大人しい、狩りの下手な者たちがいる。そういったクモたちは、生き残りの厳しい大自然から身を引いて、人間の家を縄張りにする。なぜなら人間の家は、大きな獲物が獲れない代わり、天敵のハチなども滅多に来ず、何より細々とでも小物の虫が獲れるからだ。
 ハエトリグモのチズもその口だった。一度は同胞たちと同じように、茂みや木のうろ、あらゆるところに潜み、獲物を狩ろうと奮闘した。けれどもちっとも捕まえられない。チズは同族の男よりも小柄で、獲物を押さえ切れないのだ。運良く食事にありつけるのは一週間に1度がよいところ。そんな調子だから、チズは求愛の時期が来ても、踊りを見せるまでもなく女たちから相手にされない。同性からは馬鹿にされる。チズは毎日ひとりで細々と生きていた。
 そんな日々が一日、また一日と重なって、秋の終わりのある日、チズはとうとう野山で生きることに見切りをつけた。手近な古い人間の家に移り住み、家の天井の目立たぬところで人間に隠れて生きることにした。 だが人間の家に来るような弱い虫でも、チズの狩りは奮わない。成功するのは一日に1、2匹くらいのものだった。それでも毎日食べられるだけましになったとチズは自分を慰める。けれども自分は本当にクモなのかという卑屈な思いはどうしても消えなかった。
 寒さが身に染みるようになった頃、チズは散歩に出かけた、気晴らしと良い餌場開拓も兼ねて。梁伝いに家の主である老婦人や女中の頭上をこそこそ歩き、すうっと何の気なしに入った和室でチズは息を呑んだ。
 そこには一輪の真白なサザンカがいた。サザンカは黒漆塗りの座卓に置かれたガラスの一輪挿しに品良く活けられている。抜けるように白い花びらは豊かで、二枚だけついた葉も朝日に青々と艶めいている。チズが今までに見たどの花よりもそのサザンカは美しかった。
 チズはサザンカに吸い寄せられるように梁を進んだ。そうしてサザンカに近い梁まで行くと、しおり糸を使ってするするとサザンカのもとへ降りていった。サザンカは近づけば近づくほど美しく、かぐわしく、大きくなった。それと同時に、チズは背中が苦しくなっていって、やがて足を止めてしまった。けれど這い上がりもせず、チズは宙ぶらりんのまま、二、三十センチセンチ下で咲いている美しい花を見下ろした。
 するとサザンカがチズのことを見上げてきた。
「まあ、なんて小さな方! ねえ、あなた。そんなところでぶら下がってないで、こっちに降りてらっしゃいな」
 甘く艶やかな声を掛けられチズはノミのように飛び上がった。顔がぼっと熱くなって、背中にある心臓がやけに大きく波打った。それでもチズは黙って糸にぶら下がったままでいた。騒がしく波打つ心臓以外、チズの体は石っころになってしまったようだ。体の節の一節でさえ今は動かせそうにない。
 そんなチズを知ってか知らずか、サザンカはふっと微笑んで「お話しましょ」と再び呼びかけた。その微笑みの力だろうか、チズの体は少しだけ元に戻り、ぎこちない動きで座卓の上へと降り立てた。
 間近で見るサザンカはチズには見上げるほど大きく、香り高く、そして美しかった。
「可愛らしい方ね」
 サザンカはクスクス笑ってから、自分はカタシだと名乗った。
「今朝まで庭で咲いていたけど、この家の奥方があたしを摘んでこの花瓶に活けたのよ。なかなかしゃれた花瓶でしょ。あなたのお名前は?」
「僕は、チズです」
 チズはかき消えそうな声で答えた。
「ちず、チズね。覚えたわ。ねえ、チズさん。あなた、綺麗な糸を作るのね。朝日が当たってきらきらしてた。おかげであたし、あなたがぶら下がってるのに気付けたのよ」
 カタシに自分の糸を褒められ、チズは全身がむずがゆくなり、八個の目があちこち泳ぎまわった。 
「……大したものじゃないですよ、糸なんて」
 実際チズは糸も褒められたことがない。糸自体に取り立てて欠陥はないが、単純にハエトリグモの一族内で糸に対する関心が低いのが原因だった。ハエトリグモにとっての糸は高所での命綱であり、狩りの拠点を作る素材ではあるのだが、狩りの成否を左右するような類いのものではないため、相手を評価する際の特徴になってこなかった。これがジョロウグモやユウレイグモの一族ならおそらく違ったろう。彼らにとっての糸は狩りに使う罠の側面もあるのだ。
 だがカタシはおかしそうにころころと笑った。
「とんでもない! 大したものよ。あたし、全部のクモを知ってる訳じゃないけれど、あんな綺麗な糸はきっとあなただけだと思うわ」
 カタシは真っ直ぐにチズを見つめて言った。
「あたしは好きよ、あなたの糸」
 この言葉にチズはもう一刻もこの場にいるのが耐えられなくなった。
「あの、もうお暇します……!」
 チズは座卓から立ち去ろうと緑の土壁へ駆け出した。
「あ! 待って!」
 カタシの慌てた声が後ろからかかる。
「明日もまた来て! 待ってるから!」
 チズはちらっとカタシを振り返り、首だけでぺこりと会釈をした。そして無言で土壁をよじ登り、自分の巣へ逃げ出した。巣へ帰りほっと一息ついた後も、チズを襲ったむずがゆさは眠るまで収まらなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み