文字数 6,418文字

 翌週の学習会の夜、小会議室で作業をしていると、コンコン、と小さなノックの音がした。見ると、開いたドアの脇に長谷さんが立っていた。片手に黒いバッグを下げ、もう片手をドアに軽く当てている。
「こんばんは」長谷さんは理香に向かってにっこりし、一緒に作業をしていた篠崎先生に軽く頭を下げた。
 長谷さんから「版下データの納品にうかがいたい」と電話があったのは、昨日のことだ。
「事務所でも区民センターでも、都合のいい方に行きますよ」。そう言ってくれた長谷さんに、理香は迷わず「区民センターにお願いします」と答えていた。
 公私混同だったかもしれない。でも、二人きりで話をすることは避けるべきだと、心の中の何かが告げていた。
 長谷さんと顔を合わせるのは、十二月のフォーラム以来だ。理香は立ち上がって、深々とお辞儀をした。
「フォーラムの際は、ありがとうございました。お忙しいのに、今日は、わざわざ寄ってくださって申し訳ありません」
──大丈夫だ。
 長谷さんと目を合わせながら、理香は密かにほっとしていた。正直なところ、この人に会うのが怖かった。顔を見たら、自分がどうにかなってしまうんじゃないかと不安だった。でも、ちゃんと普通に会話ができている。大丈夫だ。
「あ、長谷さんだ。ちーす」
 戸口に現れた和希ちゃんが、陽気に声をかけた。若干あっけに取られながら片手を上げた長谷さんの脇をすり抜け、荷物をごそごそあさってから、「おじゃましましたー」と去っていく。忘れものを取りに来たらしい。
「相変わらず賑やかですね」
 長谷さんの言葉に、理香は「はい」とうなずいた。
「電話でお話しした版下データを持ってきたんですが──。それどころじゃなさそうですね」
 長谷さんは、室内の様子を見て言った。
 二台合わせた長机の上に、今日配布する予定のプリントが散らばっている。事務所でちゃんと準備してきたのに、急に項目の追加があって、やむを得ずこの場で差し替え作業を行うことになった。たまたま手が空いた篠崎先生が手伝ってくれている。
「僕も手伝いましょうか?」
「え? そんな、いいですよ。もう少しですから、ちょっと待っていてもらえたら──」
 焦る理香の向かいから、篠崎先生が「時間があるなら、ぜひ」とホチキスを差し出した。
 篠崎先生は、人を巻き込むのが上手だ。理香に対しても、以前「素直に人の手を借りることも大事だ」と助言してくれたことがある。「その方が相手だって嬉しいし、終わったあと一緒に喜べるでしょう?」──。
 長谷さんは、先生の手からホチキスを受け取り、パイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「これ、綴じればいいんですね。左肩一か所? それとも、縦に二か所?」
「──一か所です」
「斜めに綴じていいですか?」
「すみません、お願いします──」
 まさか一緒に作業をすることになるとは思わなかった。
 長谷さんは、机の上でトントンとプリントの端をそろえ、ホチキスでとめていく。手際がよくて、ずれがない。器用な指にみとれていたら本人と目が合って、気まずい思いで視線をそらした。
「リカちゃん先生」
 呼ばれて目を上げると、ドアの脇から、沙彩ちゃんがのぞいていた。
 あれから、ちょうど一週間が経っていた。お父さんの回復は順調で、そう遠くないうちに退院できるだろうと聞いている。それまでは、おばあちゃんが家に泊まってくれているらしい。
「あのね、ちょっと話があって。今、いい?」
「いいよ、もちろん」
 言いながら、わたしで大丈夫だろうか、と思う。でも、頼ってくれるからには少しでも力になりたい。
「場所、かえる?」
 ほかに人がいると話しづらいかもしれない。そう思って確認したら、沙彩ちゃんは「ううん、ここでいい」とあっさり言った。
 沙彩ちゃんは、いつになく真面目な顔をしている。部屋の奥に移動して、椅子に腰かけた。
「あたしね、学校やめて、働こうと思って」
──え?
 理香は目を見開いた。
「お父さん、働きすぎだったと思う。あたし、こんなことになるまで、全然何も考えてなかった。ずっといてくれるのが当たり前だと思ってて──」お母さんだっていなくなっちゃったのに、バカだよね、とつけ加える。
「どうせ進級できるか分かんないし。授業料ももったいないし、やめて働く方がいいと思う」
「だめだよ」考えるより先に言葉が出ていた。「絶対、学校はやめちゃだめ」
──バカじゃないよ、大事に育てられた、素直な子なだけだよ。だから、そんな風に思っちゃうんだよ。やめちゃだめ──。
 心の中で声が渦巻く。沙彩ちゃんが困ったように笑った。
「なんでダメなの?」
「──絶対、後で困るから」
 これまで、高校を中退した子どもたちを何人も見てきた。やめた直後はいいかもしれない。でも、二年後、三年後、まして十年後を考えれば、いいことなんて一つもない。
「あと一年だよ。卒業さえできれば──」
 沙彩ちゃんが、ふいに小さく鼻をすすった。
「でもさ、リカちゃん。うち、お父さんしかいないんだよ。また具合悪くなったら──。高校卒業することって、そんなに大事? 今、働くことの方が大事なんじゃないの?」
 どう答えたらいいのか分からない。将来のためには中退すべきじゃない。それは間違いない。でも、「将来のため」なんていう悠長な言葉を、今の沙彩ちゃんにはとても言えない。
「この話、ちゃんとお父さんとした?」
「できるわけないよ。もっと具合悪くなっちゃうもん」
 その時、背後から声がかかった。
「どうして中退しちゃいけないか。難しいことじゃない、算数の問題だよ」篠崎先生が手招きをしていた。「来てごらん、一緒に考えよう」
 長谷さんが立ち上がった。いつの間にか取り出していたらしい封筒を、そっと机に置く。たぶん持ってきてくれたデータだ。それから理香に向かって小さく頭を下げ、バッグを手に部屋を出ていった。これ以上は遠慮すべきだと思ったのだろう。
 篠崎先生は、差し替えたあとのいらなくなったプリントを一枚取って、裏返した。胸ポケットからボールペンを取り出す。
「最低賃金って知ってるかな? まあ、バイトの時給を決める基準みたいなもんだね。都内だと時給九百五十八円。大雑把に九百六十円としようか」
 “960”とプリントの裏に書く。
「朝八時半から五時半まで働いたら、勤務時間は何時間になる?」
「九時間です」
「昼休みが一時間だとして、時給が出るのは八時間だね。そして、一か月に働く日数は、週に二日休むとすれば、平均で二十一日くらい」
 “960×8×21=”
「月にいくらになるか計算してごらん。スマホ使っていいから」
 “960×8×21=”の横に、沙彩ちゃんが“161,280”と書き込んだ。
「十六万ちょっと。一見、悪くないと思うだろ?」
 沙彩ちゃんがうなずいた。
「でもね、まず税金が天引きされる。あと、バイトだと、健康保険も年金も全額自分で払わないといけない。そこからさらに、家賃、電気、水道、ガス、携帯電話、食費──」
 先生が大雑把に数字を書き出していく。沙彩ちゃんが驚いた顔になった。ぎりぎりだ。
 先生の話は分かりやすかった。学校でもこんな話を生徒にしていたのかもしれない。
「それがずっと続く。何十円か時給が高くても、そう大きくは変わらない。休みを取れば、当然給料は減る。病気で一週間休んだら? 四万円くらい減ることになるね。それどころか、いきなり仕事自体がなくなることもある。理香先生が言っているのは、そういうことだよ」
 篠崎先生って、こういう人だったんだ──。
 先生は、穏やかに続けた。
「高校生の君には、別の道がある。家にお金を入れたいならなおさら、ちゃんと卒業して学校推薦で就職しなさい。学校の先生にも家の状態を伝えなさい。きっと助けてくれるから。言いづらければ僕が連絡してもいい。卒業するのが最優先。ここで間違えちゃだめだ。絶対に」
「──はい」
 沙彩ちゃんが泣いている。悩みに悩んでいたはずだ。まだ大人の支えが必要な彼女に、どれだけの重圧がかかっているんだろう。
 そして、わたしは、何の力にもなれていない。


 カウンターに会議室の鍵を返却し、区民センターを出た。
 屋根の下から出た途端に、雪まじりの風が吹きつける。理香は、コートの襟元をぎゅっと押さえた。夜になってまた冷えてきたみたいだ。心の中まで冷たくて、凍えそうになる。
 駅まで歩くことさえ億劫に思えた。理香は暗い中に足を踏み出した。駐車場の一角を横切って、通りに向かってとぼとぼと歩いていく。
 その時、駐車場にとまっていた車のヘッドライトがついた。
 警戒心が頭をもたげた。今日は、理香たちの団体が最後の利用者だったはずだ。そして、メンバーの大半は電車を利用している。
 エンジン音をほとんどさせずに、車が近づいてくる。怖くなって急いで歩道に出ようとした時、車の窓から誰かがひらひらと手を振っているのに気がついた。
「理香さん」
──まさか。
 聞き覚えのある声に、理香は足を止めた。雪が舞っている。黒っぽいセダンが、すぐ脇にとまった。運転席の窓に見知った顔があった。
「──長谷さん」
「乗ってください。送ります」
 帰ってしまったのだと思っていた。用事を済ませて戻って来たのか、それとも──もしかしたら、今まで待っていてくれたのだろうか。
「あの──」
 声が震えた。
「ほら、早く。震えてるじゃないですか。寒いでしょう?」
 震えているのは、たぶん寒いからじゃない。でも、本当の理由を認めるわけにはいかない。
「大丈夫です、電車で帰りますから」
「──お願いだから、送らせてください。乗って」
 真剣な顔でうながされて、理香は、ふらふらと助手席に歩み寄った。凍えているのは、身体じゃなくて心だ。
 ドアを開けて「おじゃまします」と小声で言い、そうっと乗り込んだ理香に、長谷さんが安心したように「寒かったでしょう?」と声をかけた。
「家はどちらですか?」
「あの、駅までで充分です」
「まだ言いますか?」笑いを含んだ声が温かい。「いいから、送らせて。家の前まで送られるのが嫌なら、せめて家の近くまで」
 そんな風に思ったわけじゃなかった。そして、本気で言ってくれているのが分かる。返事を待っている長谷さんに、恐縮しながら地名を告げた。
「三十分くらいかな。シートベルト、締めて」
 車は、区民センターの駐車場を滑らかに出て、通りを走り出した。雪が、フロントガラスを分けて、左右に流れていく。
 理香は車内に目を遣った。暗い中に、オレンジと白でデザインされたメーター類が浮かび上がっている。そして、すぐ隣に長谷さんがいる。後ろに乗るべきだっただろうか。助手席に座るなんて図々しかったかもしれない、と今さらながら気になった。
 長谷さんが、前を向いたまま口を開いた。
「すみません、押しつけがましい真似をして。どうしても気になってしまって。あなたが誰かと一緒だったら、そのまま帰るつもりだったんですが、おひとりだったので」
 待ってくれていた──。
「どうして?」
 思わず尋ねると、長谷さんはためらうように少しだけ口をつぐみ、それから、答えを口にした。
「苦しそうに見えたから。苦しかったり悲しかったりする時に、雪の中を一人で帰るのは寂しいでしょう? 車でなければ、飲みにでも誘ったんですけどね。いつもは電車なのに、残念ながら今日は、遠方のクライアントを訪問した帰りだったもので」
 軽い口調に、長谷さんの気遣いが伝わってくる。涙が理香の頬を伝って落ちた。でも、目元に手を遣れば、隣にいる人に泣いていることが分かってしまうから、動かずにそのまま前を向き続ける。
「理香さん?」
 静かになってしまった車内に、長谷さんの声が響いた。
「──わたし、ダメですね。全然ダメ」
 優しい人の隣で、とうとう弱音が口からこぼれた。
「ダメじゃないですよ」
 穏やかな声が返ってくる。理香は、その声を無視して続けた。
「少しでも自分にできることがあればと思っているんです。でも、気持ちばかりで、結局何の役にも立てない。沙彩ちゃんのお父さんが倒れた時も、今日も」
 話し始めたら止まらなくなった。こんなのはダメな自分の言い訳に過ぎないと分かっている。聞き苦しいだけだ。
 こらえきれずに、しゃくり上げてしまう。今度はごまかしようもなくて、バッグからハンカチを取り出し、口元に押し当てた。好意で乗せた知り合いに助手席で泣かれるなんて最悪だろう。申し訳なくて仕方がない。
「すみません──」
 本当にすみません、と繰り返す。
 フロントガラスの向こう、夜の通りにどこまでも続いている青信号が、遠くから順番に赤に変わっていく。一番手前の信号が点滅をはじめ、長谷さんは、ゆっくりとブレーキをかけた。前を向いたままでいてくれるのも、気遣いなのかもしれない。
「あやまらないでください」
 声がやわらかい。オレンジがかった道路照明灯が、ハンドルの上の手に光を落としている。きれいな手だ、とふいに思う。
「あのね」と長谷さんが口にした。
「研がね、最近本気でスミレさんとの距離を詰めようと努力してるみたいなんですが──」ちょっとだけ声が笑いを含み、すぐに真面目な調子に戻る。「先週、スミレさんから聞いたと言っていました」
──何を?
「救急車が到着して、スミレさんが沙彩ちゃんのスマホの通話を切ったら、発信履歴が見えたそうです。“119”の一つ前の文字は“リカちゃん”だった、と」
 理香は、一瞬息をのんだ。長谷さんは少しほほえんで、静かに続けた。
「沙彩ちゃんは、事務局に電話したんじゃなくて、あなたに電話したんです。今日だって、あなたに会いに来た。たぶん、あの子の中で、本当に困った時に最初に浮かぶ大人が、あなたなんです」
 沙彩ちゃんの顔が浮かんだ。また涙がこぼれた。長谷さんはハンドルをぎゅっと握りしめ、小さく息をはいた。
「ごめん。泣かせるつもりじゃなかった。ただ、分かっていないみたいだから」
「わたしにそんな価値はないです──」
「じゃあ、結果から考えてはどうですか。理香さんの存在がなければスミレさんは駆けつけなかったし、篠崎先生にもつながらなかった。間違いではないでしょう?」
「ね?」と笑う穏やかな横顔に、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
 ふいに、長谷さんがフロントガラスから視線を外し、理香を見た。それから、理香の髪に左手を伸ばし、指先で頬のあたりにそっと触れた。驚いて目を見開くと、長谷さんは「ごめん」と謝って、伸ばした手を引っ込め、そのまま視線を逸らした。
──どうしよう。
 理香は、伏せた目の奥でひどく動揺していた。単に慰めようとしてくれたのだということは、ちゃんと分かっている。でも──。
 触れられた頬が熱い。さっきまでとは別の感情、これまで抑え込んできた感情が、急速にふくらんでいく。
 だめだ、と理性が最後の抵抗をする。
──この人には、家族がいる。
 痛みを伴う言葉を、心の中で呪文のように唱えた。欲しがってはいけないものを欲しがろうとしている自分に懸命に言い聞かせる。
──こんなの、だめだ。絶対に。
 分かっているのに、胸の奥がうずく。すぐ隣に座る人の指に触れたいと思う。自分が何をのぞんでいるか、もう分かっている。気がつかないふりをしていたのに──。
──この人に会わなければよかった。
 絶望が押し寄せてくる。長谷さんは、ハンドルに手を置いたまま、黙って前を見つめている。
 やがて、信号が青になった。車は、ゆっくりと夜の中を走り出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み