第5話 仕事納め

文字数 15,451文字

 エピローグ

 あれから、何日か。
 酒を喰らい、昼寝をし、時々、思い出したように仕事をして、さすがに飽きてきた頃、騎馬命はスカートのポケットに【経費】と刺繍の入った巾着を見つけて飛び上がった。あの日、すっからかんにして、突っ込んだことを忘れていた。
 指を折って数える。
 すると今日は、十二月最後の営業日、仕事納めだ。
 咄嗟に思った。経費の精算を問われる前にトンズラするべきだ、と。
 小太郎を見ると、忙しく裁きを下していて、今日はもう、だいぶ疲れ切って集中力を保つのに必死だ。年末というのは関係なく、夕方前なので、仕方がない。
(エスケープ…!)
 騎馬命は足音を忍ばせて閻魔殿の事務机まで行くと、書類受に空の巾着をペロンと放り込み、そのまま裏口から閻魔殿の外へ出た。
 その途端、カラスたちが集まってきた。
「シッ、シッ! 見つかっちまうだろ…!」
 追い払おうとする。けれどカラスたちは言うことを聞かない。それどころか、全員が裏口の軒先に整列して、騎馬命に向けてくちばしを開くそぶりをした。
 そして全員そろって、深呼吸…!
「待った!」
 騎馬命は慌ててそれを制止した。
「おまえらの言いたいことはわかってるよ、わかってるって。けどよ、こっちも心構えってモンがいるんだよ。わかってくれよ」
 カラスたちはくちばしを収めようとしない。連中がガア!と一声鳴いたが最後、小太郎に気づかれるだろう。カラスたちの黒い瞳は、覚悟しろと言わんばかりだった。
「くそっ…!」騎馬命は吐き捨てた。「行くよ、行きゃあいいんだろ…!」
 そう言ってその場を逃げ出すように歩き出す。カラスたちはくちばしを閉ざし、肩を怒らせて去る後ろ姿を見送った。

 騎馬命は、街道から森に入って、獣道をどんどんと奥へ行った。そして、人の目のないところまで来ると、ふぅ……とため息をついた。
 そこまでの道のり、街道筋では、すれ違う鬼たちに、いちいち振り向かれた。どいつもこいつも、敵意こそ見せなかったが、好感のまなざしではなかった。それを完全無視しつづけるのも、楽じゃなかったのだ。
 夕暮れ前というのもあって、薄暗い中を進んでいくと、幅が五間ほどの川に出た。森の中を音もなくゆっくりと流れている。それは下流で三途の川と合流する支流の一つだった。さらに行くと、少し広くなったところにひっそりと小屋があった。
 傾斜のきつい鱗屋根、屋根裏部屋の小窓、そして暖炉の煙突。こぢんまりとしていたけれど、よくまとまってセンスがあった。さらに、川に面してテラスとプライベート桟橋があった。プライベート桟橋には、水の都のゴンドラが係留されていた。
 フランソワーズの家だった。彼女の仕事は、朝七時から午後三時まで、【この世】から【あの世】へ、罪の薄い死人を乗せて運ぶのが仕事だ。閻魔殿より少し早く仕事を始め、少し早く終わるのが日常だった。
 もう四時を過ぎているので、プライベート桟橋には当然のようにゴンドラが係留されていた。そして、煙突からは、地獄のガスを燃しているときの熱気が上がっていた。
「………」
 フランソワーズに会うのは、実は、あの日以来だった。正確に言うと、赤フーで桟橋に戻り、ゴンドラを漕いで去る後ろ姿を見送って以来だった。
 フランソワーズは、甘王女と別れてから、いや、その前から、笑顔はおろか、ろくに表情を見せなくなった。そして、こちらへ戻ってきてからの別れ際、夜の川をゴンドラに立って去る後ろ姿は、これまで見たことがないくらいに沈んで見えた。それでも次の日は、三途の渡しをこなしたらしい。けれど一方では、気になる話も聞こえてきた。
 とある、気がかりな話だった。
 それでも騎馬命の足は、なかなかここに向かなかった。昏い眼をしたフランソワーズと、向き合う自信が無かったからだ。
「………」
 フランソワーズはきっと、思い出したくないことを思い出してしまった。それがどういう記憶なのか、騎馬命は知らなかったが、きっと、死んだときのことだろうと察してはいた。地獄の連中が、そんな風にまわりを拒むときは、たいてい、それが理由だからだ。いわゆる、一人になりたい時というやつだ。それでも、だいたいの連中が、一晩寝るか、酒に酔い潰れるかで復帰してくるのだが…。
 気づけば、クリスマスイブから指折り数えて、今日はもう五日目だった。そして聞くところによると、とある気がかりも、まだ解消してないらしい。
 そんな状態で会って話をする自信は、まだ沸いていなかった。それなのに、ここまで来てしまった。
 ドアの隙間に耳をそばだてた。
「………」
 人の気配はしない。けれど、いるのは間違いないだろう。
 ノックしようとして、手が止まった。
 あの日、街灯の下で待っていた時、甘王女の手を引き、心の闇に口を切り結んで、見えるものも見えていないような昏い眼差しをして、ゆっくりと歩み来た姿が、目に焼き付いていた。
 騎馬命はもう一度、自分に問い直した。あんた、そんな目をしたフランソワーズと、まともに向き合えるのかい、と。


 閻魔殿で五時の鐘が鳴り、御白砂の戸が閉め切られた。小太郎は、しばし閻魔の椅子に身を沈めた。
「……一年、終わった……」
 仕事納めと言っても、特別なことはない。
 ただ、明日からしばらく、年末年始を挟んで、地獄にも休暇がくるというだけだ。
 しかし、終った気がしない。
 小太郎は、背後を振り返った。
「………」
 棺桶の並ぶ奥の間には、誰の気配もない。確か、昼過ぎまでは騎馬命があくびをしていたはずだ。
 嫌な予感がして奥へ行き、そこでふと執務机に目が行った。受け箱に、経費と刺繍された巾着があった。
 それを手に取り、ひっくり返すと、ホコリも出なかった。
「報告をしてこないのはいつものことですが……、賄賂、買収、袖の下、それから使い倒された経費。船頭のうわさも気がかりです。
 今回ばかりは、報告を求めなければなりませんね」
 くったりとなった巾着を手のひらに載せる。小太郎は、皺の寄った巾着に哀れを感じながら、ギッと目をつり上げた。
 決然とした歩みで門に向かう。
 門番の鬼が慌てて閂を抜き、ゴゴゴゴ…と音を響かせて閻魔殿の正門を押し開けた。
 外にいた鬼達が大慌てで整列する。
 小太郎が閻魔殿を正面切って出ることなど、そうあることではない。誰もが大事の予感をして息を詰めた。
 しかし。
 「以後、忍びで参る」
 ははーっ!
 一同が頭を下げる。
 誰一人、目を上げられなくなった中、小太郎は白い鶴の姿になると、バサッ、バサッと翼を大きく羽ばたかせて飛び立った。誰も顔を上げることは許されない。その中、一羽のカラスが、遠ざかる白い姿を追うようにして閻魔殿の屋根から羽ばたいた。
 


 地獄にいる限り、直属の配下である騎馬命の居場所など、探るまでもなくすぐわかる。小太郎は雲の上を飛び、宵闇に紛れて森へと来た。そして、小屋の近くへ舞い降りると少年の姿に戻り、木立の影に立って様子を見た。
 三途の川のほとり、小屋とは言え、その家にはどこか洒落た雰囲気があった。そこのポーチに、思い悩むスケバンの姿があった。
 扉の横の壁に背を持たれ、手をグーパーしながら、さっきからなにかを考え倦ねている。
 小太郎は木立の陰を出ると、まっすぐに騎馬命の元へ向かった。


 騎馬命は、もう一時間も、その場でノックをためらっていた。どうにも、掛ける言葉に迷っていたのだ。そして、人の気配にハッと顔を上げたとき、森の中からまっすぐにこちらへやってくる小太郎と目が合ってしまった。
 しまった!と思ったが、もう遅い。目が合った以上、騎馬命には逃げ出すという選択肢がない。
 騎馬命は、頭を掻きながら急ぎ足でドアのそばを離れ、殺風景な庭で小太郎と向き合った。小太郎は、何を考えてか、庭に結界を張った。いずれにしてもこれで、家の中に声は届かない。騎馬命は気兼ねなく口を開いた。
「お茶会かい?」
「いえ」
「じゃあ、どういう風の吹き回しだい?」
 いけしゃあしゃあと聞くと、小太郎は冷ややかな目で言った。
「ハロウィンのお化けを、なぜこちらへ渡したのか、……あなたがわたしに報告しないので、船頭に直接聞きに来ました」
「あ、ああ、ハロウィンちゃんのことか。残念だけど、船頭…な、うん、今、留守みたいだぜ」
 騎馬命は咄嗟に嘘をつく。
 小太郎は煙突から上がる熱気を見、そして、結界に取り込まれた空気の、微かな香りを嗅ぎとった。
「この甘いにおいは、なんでしょうね。だれが、どこで何を調理しているのでしょう?」
「え……甘い匂い? そ、そんなのしてるか?」
 それは正直な感想だった。たぶん、甘い物好きにしか嗅ぎ分けられない程度の匂いがしているのだろう。しかし、論点はそこではなかった。
「わたしに嘘が通じると思うのなら、あなたは一度、体験入獄してくる必要があるでしょうか」
「あ……ははは」
 騎馬命は、わざとらしくドアを振り返った。そして無意識に声のトーンを上げた。
「あれれー、あたし、居眠りしちゃったかなー。その間に船頭のヤツ、テラスから部屋に入ったのかもー」
「どうしてアイドルっぽくなってるんですか?」
「あ、あ、アイドル?」
「なぜ、スカートの中で膝を閉じているのです? あなた、内股でしたっけ?」
 騎馬命は口が滑ったという顔をする。ケーキの売り子をしたときにメイド服を着たのが、どうも悪さをしている。
「こ、小太郎さま。あたしだって年頃の女なんで、時々、そんな幽霊が取り憑いてきたりするんでさぁ…」
「……だから、嘘は無駄だって言ってますが」
 小太郎は冷ややかに言う。
 騎馬命はぐうの音も出なくなった。
「それから」小太郎は手の中の巾着を見せた。「この経費、一人で使い切りましたか? 巾着殿に尋ねたところ、あちこちの店で大量のケーキ代を支払わされたと聞きました」
「う……」
 騎馬命は巾着を睨む。しかし巾着は、スカートのポケットで忘れ去られていたからだろう、知らんぷりだ。
「豪遊ですか? どうなんです?」
「う……う、うらやましいのかい?」
「ええ、うらやましいですね。正直に言って、死ぬほど、うらやましい、です」
 そういえば、小太郎は甘党だった。経費でケーキを食べたと知られた時点で、明らかに恨みを買っている。観念するしかない。
「……フランソワーズと」
「やはりそうですか。でしたら、あなたを追ってここに来たのは一石二鳥です」
「え? 一席……?」
「一石二鳥。一つの弾丸で、二羽の小閻魔を撃ち落とせます」
「う…撃ち落とすんですかい…」
「だめですか? このわたしに、だめというのですか?」
 怒りの炎がどんどんと大きくなる。
 騎馬命は慌てて火消しを考えたが、小太郎が先手を打って言った。
「船頭には、収賄の疑いがあります」
「え」
「あの妖怪を渡すのに、報酬を受け取った疑いです」
「な、なぜ…」
「現世では、乗り物を用意する場合、対価を払うのが普通でしょう。けれどそれは、乗り物が営業用だからです。しかし、三途の川を渡す舟は営業用ではなく、地獄の備品であり、金品を受け取ることは許されません。ましてや私腹を肥やすことなど言語道断です。それに、本来は死人を渡す決まりです。それを曲げて妖怪を渡したのですから、もしもなにかを受け取っていた場合は収賄になります」
「くそっ…」
「今、くそ…といいましたか?」
「……言ってませんぜ」
 騎馬命はチッとやった。
「舌打ち、しましたね」
「してませんけど」
 足が地面を蹴る。
「蹴りましたね」
「蹴ってません」
「おや、拳が鳴りましたよ」
「鳴らしてません!」
 騎馬命はありとあらゆる不満の表明を自然としてしまう。それをいちいち見咎められて、とうとう頭に血を上らせた。
「小太郎様は、もしもフランソワーズが過ちを犯していたら、どうするつもりなんですぜ? あたしにするみたいに、地獄に落とすと脅すつもりなんですかね?」
「脅しなんてしません。即刻、落とします」
「!」
 冷たい一言で騎馬命はキレた。考えるより先に手が出て、騎馬命は小太郎の胸ぐらを掴むと顔より高く吊し上げた。
「あいつの魂は貧弱だ! あたしとは違う! それよりなにより、今、すごく、落ち込んでる! なのに追い打ち掛けるようなことするってのかい? だったら、あたしだって黙ってないよ!」
 刹那、フランソワーズの暗い顔を見ていた。
 小太郎は怯えることもなく、淡々と騎馬命を見下ろした。
「どうして落ち込んでいると? その理由は? それをあなたが、きちんと説明できるというのなら、脅しで済ましてもいいですよ」
「てめぇ…。なにか知ってやがるな?」
 騎馬命は目を血走らせる。
 小太郎は冷徹に言った。
「ここへ来る道すがら、わたしの先回りをしようとしたカラスがいたのでシめました。カラスとしては、もちろん、フランソワーズを心配してのことでしょうが、藪蛇でした」
 小太郎は、二本指の間に、カラスの風斬り羽根を数枚、出現させて見せた。騎馬命が目を剥くと、その羽根は星になって消失し、後には歯を食いしばる騎馬命と、それを淡々と見る小太郎の視線だけが、激しく火花を散らしていた。
「そのカラスが目撃したところ、フランソワーズは己の死に様を妖怪に語ったようです。いかなる理由があろうとも、それは閻魔の掟に触れることです。
 己の死に様は語らない。それをいかなる理由にもしない。それが守れないような者は、もはや必要ありません。地獄に落とします」
「……本気で、言ってるのか?」
「これが本気で言えないようでは、閻魔は務まりません」
 小太郎が目に力を込めた。さながら、龍と黒豹の睨み合いだ。
 しかし、騎馬命は歯がみするしかない。小太郎の言葉が、この世界での正論だったからだ。そう思うと、吊し上げている腕に震えも走った。
「騎馬命」小太郎は迷いを見抜いた上で言った。「あなたもフランソワーズも、わたしの配下です。不正や失敗を不問にできるのは、わたしだけです。ただそれは、戯れと言える程度のこと…までです。
 フランソワーズは、掟を侵したときの罰が、どれほどのものか、想像していたでしょうか。お茶の相手のわたしのことを、甘く見ていたのではないでしょうか。騎馬命、あなたはどう思いますか? そして、わたしが与える罰に、あの魂が、一瞬でも耐えられると思いますか?」
 騎馬命は答えられなかった。だが、小太郎の下す罰が想像を絶するだろう事は、本人の気配からわかった。それは恐らく、騎馬命の身に宿った黒蛇が反乱を起こす程度のものではないだろう。
「今からフランソワーズと向き合えば、すべてつまびらかになるでしょう。どんな不正を働いたのか、どんな風に掟に触れたのか、なにを、どこまで話してしまったのか、そのすべてが…です。同時にわたしは、おそらく、フランソワーズの死の経緯を知ってしまうでしょう。
 そして、知ってしまった以上、わたしは罰を与えるでしょう。それは、わたしのためでもあり、閻魔の秩序を保つためでもあります。そうなれば、恐らくフランソワーズの魂では、もう二度と、ここには戻って来られないでしょう。
 けれど、わたしは予感しているのです。わたしをこんな風につるし上げる、あなたを見て、予感しているのです」
「あたしを…見て?」
「いつものあなたなら、今頃、フランソワーズと酒を酌み交わしているところでしょう。しかし今日のあなたは、まだ、ここで迷っている。つまり、フランソワーズとあなたの間に、このように粗暴で、いつもは粗忽なあなたを、そんな風に迷わせるほどの何かが起こった。そういうことだと理解しました。
 わたしにとって、罰を与えることはたやすいことです。罰を与え、償いをさせる。それはわたしの日常ですから。しかし、同時にわたしは恐れてもいます。フランソワーズの死の経緯を知り、それでもなお掟を振りかざし、罰したとき、わたしは後悔しないでしょうか」
「……何が、言いたいんだい?」
 小太郎の目に、迷いが見えた。
 それでも騎馬命は、疑いの目を向け続けた。
 小太郎は、珍しく、感情らしいものを瞳に浮かべた。悲しみと言うほど深いものでも無く、嘆きというほど浅いものでもない、そんな程度の感情だったが、それでも騎馬命は内心で驚かされた。
「さっきのカラスですが、わたしが閻魔殿を出た直後、ここへ先回りをしようと全力で羽ばたいていました。なぜでしょうね。
 それに、ここ何日か、鬼達から、報告を受けています。三途の川から、歌声が絶えてしまったと。そんなこと、なぜわたしに、報告するのでしょうね。
 そして極めつけが、騎馬命、あなたです。わたしを吊し上げてまでフランソワーズを庇う理由が、どこにあると言うのでしょうね。
 それを考えると、わたしはフランソワーズに罰を与えることが、空恐ろしくなるのです。その時、鬼や、カラスや、あなたが、どのような顔をするのか、それが怖いのです」
 騎馬命はゴクリとツバを飲んだ。
 正直に、冷や汗が出てきた。
 だが、口は悪ぶった。
「閻魔小太郎ともあろうお方が、高々、小閻魔ひとりのことで、怖いだなんて言葉を口にするとはね……」
「見損ないましたか? ですが、こんな話、あなたでなければ、しませんよ?」
「……たく、なんなんだよ、あんたら……」
 カラス、鬼、小太郎……みんなして、一体なんなんだ……。
 騎馬命は心で頭を抱え、小太郎を睨み上げた。
「小太郎さんよぅ……。
 あんた、さっきのあたしのこと、見てたんだろ? ここで、手をグーパーして、ドア一つ叩けないあたしを見てたんだろ? なのに、こんなあたしに、どうしろって? あんただけじゃないよ。みんなして、一体、あたしにどうしろって言うんだい?」
「………」
 小太郎はじっと騎馬命を見下ろす。
 騎馬命は嘆いた。
「あんたまでだんまりかよ、やってらんねぇぜ」
 口では 悪態を ついたが、 心では 途方に暮れていた。もし、迂闊に家へ入って、フランソワーズに泣きつかれでもしたら……と、怖れていた。
「褒賞が必要ですか?」
「! なめんじゃねェ!」
 その一言に留め金が吹っ飛んだ! 騎馬命は怒鳴るなり、小太郎を頭の上まで振り上げて地面に叩きつけていた。
 小太郎の体は、土の上で大きくはねて、うつ伏せに転がった。人間の子どもなら、即死してもおかしくない音が辺りに響いた。事実、小太郎は、そのまま動かなかった。
 騎馬命は我に返った。
「お…おい……」
 そばによって揺り起こす。
 すでに肩の骨が外れていた。
 顔も傷だらけだった。
「おい! 何で怪我してんだ! テメエなら無意識で防御出来ただろ!」
 抱き起こそうとすると、その手を力なく払いのけられた。
 小太郎は自力で体を起こし、揺らぎながらも、なんとか立ち上がった。しかし体はまっすぐならずに一方へ傾いていた。
 白い衣装は一発で泥まみれだった。そして、口の中を切ったのだろうか、唇に血が滲んでいた。いや、それどころの量じゃない。肋骨が折れて、肺を破ったに違いない。
 小太郎はなにかを言おうと口を開いた。途端、血が唇から溢れ、彼はそれを腕でグイと拭った。白い上着が血で染まる。小太郎は唾を吐くと、外れた肩をグキリとはめ、そこを片手で押さえながら目を上げた。
「噂に違わず、強烈ですね」
 苦しげな声だ。しかし屈していない。そして騎馬命に一歩一歩と向かってきた。そのせいで騎馬命は、言葉を奪われてしまった。
「この体、すぐ壊れる…。腹が立つでしょう? でも、いいんですよ、もっとやっても。どうせ死ぬことなんて、もうないんですから」
 小太郎は己の姿を見回し、卑下するように言って、それからゆっくりと顔を上げ、騎馬命の瞳を見上げた。
「ですがわたしは、どんなにされたって屈しませんよ。閻魔ですからね、苦痛に屈するようでは、相手に本当の苦痛など与えられるわけがないでしょう?」
 小太郎の目は、昏かった。騎馬命は、小太郎の目に昏さを感じたことなどなかった。閻魔殿で罰を下すときも、極めて無表情な彼が、今は昏い目をしていた。
 騎馬命は、怯んだ。
「今日のあんた、おかしいよ……」
「………」
 小太郎は口をつぐんだ。
 そして、考えてから言った。
「以前、ここでお茶をいただいたことがあります。フランソワーズが、来たばかりの頃のことです。手作りの、おいしいお菓子をいただきました。とてもおいしかった。ですが、それをただ、おいしかったと評するのは、間違いなのです。
 フランソワーズは、わたしの笑顔を思って、お菓子を焼きました。そして、笑顔でわたしに食べさせてくれました。そのときわたしも笑顔になれたら、どんなに良かったかと、今でも思います。
 驚くべきは、フランソワーズが無口なわたしに幻滅しなかったことです。最後、見送るまで笑顔でいてくれました。閻魔殿に帰って気づいたのですが、彼女はその時すでに、閻魔の本質を見抜いていたのです。生あるときよりも厳しく、己を殺して生きていかなければならないという、使命に気づいていたのです。だからこそ、こんなところでも人に笑顔を向けられるのでしょう。ですがそれは……、それは天生のものでしょうか、それとも努力なのでしょうか。
 彼女は、自分の過去を捨てていたはずです。そんな彼女が、閻魔の掟を侵して、過去を呼び覚ました理由は、ただ一つ。他人のためのはずです」
「?」
「どういう理由か、わかりません。本来、辛い場所であるはずの三途の川で、彼女は歌っていると聞きます。死を悲しみ、苦しむ人たちに、笑顔で歌を披露していると言います。滑稽ですよね、そんなこと。
 ですが、少なからず耳を傾ける者もいると言います。地獄で焼かれながら、その歌声を思い出す者もいるかもしれません。もし、もしも、フランソワーズが、歌を死人のために歌っているのだとしたら、掟を自分のためではなく、他人のために破ることは、大いに考えられます。
 己のことは己で律することができても、他人となるとそうはいきませんよね。なにか、業を煮やしての事だったのかもしれません。いずれにしてもフランソワーズは、他人のために掟を破った…と、わたしは考えています」
「………」
 小太郎はまっすぐに騎馬命を見た。知っていることがあれば教えて欲しいという目だ。
 騎馬命は首を横に振った。
「間違いなく、あんたの言うとおりだと思うぜ。けど、残念だけど、あたしも、あんたがシめたカラス以上のことは知らねぇよ。あいつ、たぶん、その話をするとき、あたしを追い払ってたから。それによ、そこまで気になるなら、自分で聞きゃぁいいじゃねえか」
「それは即ち、罰することと同じです」
「あ……」
「もしも彼女が一つでも嘘をつけば、わたしはすべてを暴いてしまうでしょうね。正直に語っても、結果は同じです。そうなれば、弱い魂の彼女は、あなたと違って、おしまいです」
「デッドエンドかよ…」
 騎馬命は二度、言葉を失った。
 小太郎は、ジッと騎馬命を見上げた。
「デッドエンドです。わたしは閻魔小太郎、たとえ身内だとしても、裁きに手心を加えるわけにはいきません」
「くそっ……」
 騎馬命は唇を噛みながら、どうすればフランソワーズを救えるのかと考えを巡らせた。
 しかし、袋小路を抜け出す方法がが見つからない。
 その時、なぜか、小太郎の拳が握られた。怪訝に思って目を向けると、小太郎は、重々しく言った。
「ただし…」
「ただし? なんだよ?」
「わたしが何事もなかったと思うことが出来れば、もうこれ以上、何も起こらないかも知れません」
 騎馬命は、耳を疑いつつ、顎を引いて聞き返した。
「何事もなかったって、どういう意味だよ?」
「苺の妖怪が、何事もなく現世へ帰り、あなたとフランソワーズが、何事もなくここへ戻り、誰もが何事もなくフランソワーズの笑顔に触れ、すべて、何事もなかったのだと私が思うことができれば、それは偽りでなく、何事もなかったことになるのではないでしょうか」
「回りくどいぜ。なにが言いたい?」
「最初に言いましたよね。あなたもフランソワーズも、わたしの配下です。不正や失敗を不問にできるのは、わたしだけです。ただそれは、戯れと言える程度のこと…までなのです」
「だから、何が言いたい!」
「フランソワーズに起こったことは戯れ。明日にも、三途の川に、いつも通りの歌声が戻るというのなら……、今回の件、不問にしようといっています」
「おいおいおい」騎馬命は信じられないと笑った。「思いっきり手心加えてんじゃねぇか。閻魔の掟も形無しだ…な……」
 そこまで言ってしまってから、騎馬命は笑いを呑み込んだ。感情も見せず、見上げてくる小太郎は、痛みの残る肩を手で押さえ、口から流れた血で腕を汚し、全身、地獄の泥に汚されて……。その姿には閻魔の威厳は微塵もなく、ただ、一人の少年の姿があるのみだった。
 騎馬命は、絞りだした。
「……あんたが罰をうけて、どうするんだよ」
「この程度で罰というなら、いくらでも負いますよ」
 返す小太郎の声には、意地が垣間見えた。
 騎馬命はおののきながらも、それを隠して言った。
「そうか、ようやくわかったよ、あんたの覚悟…。そこまでして、どうにかしたいんだな?」
「ええ。たとえこんなところでも、大切にしたいものはありますから」
「だったら、最初っからそう言えばいいだろ。それじゃ、あたしがあんたに酷いことしただけみたいじゃねぇか」
「いいんです、これで」
「いいわけねぇだろ…」
 騎馬命はしゃがむと、小太郎の怪我の具合を見ようとした。ところが小太郎は、一歩退いて拒み、決意固く言った。
「ガチ、ですから」
「………」
 騎馬命は閉口した。
 小太郎は、口を切り結ぶと、それ以上、何も言おうとしなかった。
「……わかったよ。あんたの代わりをすりゃぁ、いいってことだろ」
 騎馬命は肩を落として立ち上がった。そして、視線を避けるように背を向けると、結界を破り、改めて扉の前に立った。
 けれど。
 扉については、さっきから、なにが変わったというわけでもない。
(くそ……。どうしたらいいってんだ……)
 提案を請けたはいいが、現実は厳しい。
 みんなが心配していると言って、機嫌をとるのがいいのか、それとも小太郎が心配してると言って改心させるのがいいのか、はたまた殴り合いのケンカでもして屈服させるのがいいのか……。だが、そのどの手を使っても、フランソワーズの歌声はもう、戻ってこないような気がした。
(考えすぎてもう、何が何だかわかんねぇ…)
 チラッと後ろを振り返ると、小太郎は今にも倒れそうになりながら、じっと騎馬命のことを見ていた。その目に感情はなかったが、騎馬命に、過大な期待をしているのは明かだった。
(く……っ。ままよ!)
 騎馬命は、頬に流れてきた汗を手の甲で拭うと、ノックもせずにドアを蹴り飛ばした! ラッチが吹き飛び、扉はバァン!と開いた。
「よーっ! 茶ァ、しばきに来たぜー!」
 笑顔でなければお礼参りだ。
 ところが、いつものテーブルに、瀟洒を気取る少女の姿はなかった。
「おーい…」
 気楽を装いつつ入っていくと、フランソワーズは奥の厨房にいるようだった。ぐつぐつと、なにかを煮る音が聞こえてくる。
 のぞき込むと……。
「いたいた。遊びに来てやったぜー」
 厨房の戸口から背中に声をかけた。
 フランソワーズはこちらに背を向け、かまどにかけた寸胴鍋に向かい、大きなしゃもじで、なにかをかき混ぜていた。
「なにやってんだ?」
「ジャム作り」
 フランソワーズの声は、いつもと変わらず不機嫌だ。それでも、糸口を探ってわざわざ聞いた。
「機嫌、悪そうだな」
「あんたが来たんだから、いいわけないでしょ」
「うわー、傷つくぜー」
 騎馬命はカッカと笑う。
 けれどフランソワーズは振り向きもしない。
(重傷……かよ)
 騎馬命は内心で汗を掻く。それでもとりつく島を探して辺りを探る。すると、調理台の上に積み重ねられた紙箱が目に入った。
「なんだそれ、苺の箱か?」
 両手で抱える大きさの平たい紙箱が、適当に三段重ねになっていた。そこには【苺の女王/甘王女】とブランド名が印刷されていた。
「あ、お礼の三パックか?」
「ええ。昨日、届いたわ」
「……てか、三パックじゃなくて、これ、三箱だろ」
「お礼のつもりだろうけど多すぎるわ。ちょっとは食べたけど、食べきれないから、ジャムにしてるのよ。
 だから。
 邪魔しないで」
「おーおー……」
 邪魔しないでというところに力がこもっていて、騎馬命は苦笑いだ。
「ひと箱に何パック入ってたんだ?」
「六パック」
「おー、じゃあ十五パックも多く送ってきたのか。ボロ儲けだな!……てか、あたしのとこにはなにも届かなかったぞ?」
「ろくなこと、しなかったからじゃない?」
「おーおーおー……」
 騎馬命はムッとして赤くなった。思わずスカートを抑えそうになったが、今日はきっちり、足首まで隠れていた。
「じゃあ、ジャムができるまで待たせてもらおうかな」
「バカね。今日は煮込むだけ。冷まさなきゃ食べられないわよ」
「あ、そうなんだ。じゃ、今日は、茶ぁだけで我慢しとくかな」
「我慢して飲んでもらうような粗茶は、ウチにはありませんけど」
「………」
「さっさと、帰って」
 超絶、機嫌が悪い。
 あの日、ケーキ屋を離れるときから、なんにも変わっていなかった。

 あの夜、ケーキを売り切って赤フーに乗り込むとき、フランソワーズは甘王女の乗船を拒否した。
 もう、地獄に用はないのだから当然なのだが、甘王女は、今度はフランソワーズを慕って、なにか未練がある様子だった。
 フランソワーズは念押しするように言った。
「地獄は死人が来るところ。お化けがくるところじゃないわ」
 突き放す言葉は冷徹だった。それを聞く限り、甘王女の涙を胸で受け止めた姿、そして髪をなでていたあの姿は、まさに幻想だった。

(まさかあれ、最後のおつとめの覚悟だった……わけじゃねぇよな?)
 粗野な騎馬命でさえ、そう感じる光景だった。神々しいと言えば良いのか。ある意味、なにかの覚悟を決めていたと言われれば、しっくりくる光景だった。
 騎馬命は、そばのスツールに腰を乗せ、作業台に寄りかかった。フランソワーズの後ろ姿を見るとはなしに見る……ふりをする。
(たのむから、機嫌直せよ……)
 小太郎の目が浮かぶ。
 それが通じたのか、フランソワーズが口を開いた。
「なんの用なの?」
「あ? 用事がなけりゃ、来ちゃダメかい?」
「………」
 フランソワーズは返事をしない。横顔もわからない。
(そんなで沈黙すんなや……)
 騎馬命は胸でため息をつくと、何でもなさげに切り出した。
「鬼どもが…さ、元気ねぇのよ」
「元気がない?」
「カラスも、うるせえんだ」
「カラスは、うるさいものよ」
「あー……なんていうか、そうじゃないんだよなぁ……」
 騎馬命は頭を掻いた。
「なんかさ、やなんだよな。湿っぽくて」
「いいじゃない、静かで」
「まあ、そうなんだけどよ…。ただ…さ」
「ただ?」
「みんながあたしのことをさ、冷たい目で見たりするんだよな」
「普段、そういうことしてるからでしょ」
「いや…冷たいっていうか、そうじゃないかなぁ」
「なによ、わからないわ」
「なんてーか、そのぉ……、なんとかしろって、せがんでくるわけよ」
「せがむ? なにを?」
「……地獄を、楽しくしろって……」
「……はあ?」
 騎馬命は、フランソワーズの機嫌が気になった。それで顔を覗き込もうとすると、わずかに顔を背けられた。
「無理じゃない?」
「だよ…なぁ……」
 冷たく言われ、騎馬命はしぼむ。
 冷や汗を掻きながら、目を逃がす。その先に、苺のヘタの山があった。煮込むのに、あらかじめ取ったものだろう。
「ん?」
 その小山の麓に、折りたたまれた手紙があった。
「お? あいつ、ちゃんとお礼状まで付けてきてんじゃんか」
 わざと声に出して言う。フランソワーズは振り向かない。つまり、読んでもいいと言うことだ。
「どれどれ」
 騎馬命はパシッ!と紙を弾いて手紙を開いた。
「えー…。親愛なるフランソワーズお姉さま。……え、お姉さま? うけるぜー!」
 のっけからからかう。けれど、フランソワーズは相手にしてくれない。調子が狂うどころか逆にヤバい。焦りながら、騎馬命は続きを読んだ。
「お約束の苺をお送りします。ちょっと多めにお送りします。鬼畜お姉さまの分も一緒です。……て、鬼畜ってなんだ。てか、あたしの分も混じってんじゃねぇか。届いた時点でカラス寄越せよなー」
 騎馬命は文句を言うが反応はない。ただ、大きなしゃもじが、一定の速度で寸胴鍋の中をかき回すばかりだ。
 騎馬命は、完全に歯車が狂ったのを意識しながら続きを読んだ。
「えーなになに?
 あの後、ストロベリータイムスは、クリスマスの日にお店を畳みました。おじいさんとおばあさんは厨房のお片付け、わたしは故郷に戻って、今は、タネになる準備をしてます…? タネって、種か? あ、そっか、苺の妖怪だったもんな。未練がなくなりゃ、種に戻るよな。
 ……で? なんだって?
 さっき、みそぎも済ませました。なので、この手紙が届く頃にはもう、全部忘れてしまっていると思います。どんなお話も、全部、全部です。そこは全然心配しないでください。それに、怖くもないです。全然、まったく、怖くないです。お姉さまの言いつけ通り、種族を絶やしてはいけないとわかってますから。だから、心配しないでくださいね。また、立派な苺になって、誰かの笑顔に会えたらいいなって思ってます。だから、全然怖くないです。……へえー、妖怪も、人間の生まれ変わりとおんなじなんだな。
 ま、よかったじゃねぇか。……で?
 全然、関係ないですけど、どうしても報告したくて書きますね。
 あの次の日のことです。クリスマスの朝ですけど、あの少年、もう一度頭下げに来ました。お母様とお父様と一緒でしたけど。ガキ、ですよね。笑っちゃいますよね。
 でも、いいこともありました。彼、やっぱり、ケーキ屋さんになりたいみたいです。お店でいきなり言い出して、お母様もお父様も慌ててましたけどね。それでわたし、握手しました。でも、もし、彼が約束破ったら、もう一度、化けて出てくるかもしれません。……って、生まれ変わったら忘れちまってるんじゃねぇの? うん。まあ、いいか。
 だから、わたしは今、笑顔です。おばあさんもおじいさんも、嬉しそうでした。ぜんぜん心配ないです。悲しくないです。だから、わたしの仲間のことも、お店をたたむことも、ぜんぜん、これっぽっちもさみしくありません。なので、鬼畜お姉さまにも宜しくお伝えください。くれぐれもよろしくお伝えください。しつこいようですが、この手紙も読んでもらって、くれぐれも、くれぐれもよろしくお伝えください。
 あと、苺を食べるときは、わたしを思い出してください。もしかしたら、その苺、わたしの生まれ変わりかもしれませんから。……だってさ。うへぇ、これから苺食べるとき、どうしたらいいんだ……」
 騎馬命は、手紙で何度も何度も念押しされて、その意味と期待を重圧に感じて脂汗を流した。正直、コイツもかよ……と苦虫を噛んでいた。だが、それを気づかれまいと天を仰ぐ。そして、チラッとフランソワーズを見た。
 相変わらず後ろ姿、鍋に向かっているばかりでこちらを見ようともしない。淡々と、安定して、大きなしゃもじを回している。
「おーい、フランソワーズさん」
「……なによ?」
「なんだ、ちゃんと聞いてんのかぁ」
「聞いてないわよ」
「あ?」
「耳に入ってるだけ。だってわたし宛の手紙よ。とっくに読んだわよ。そんなことより、そこのヘタの山、捨ててきてよ。ちょっとは手伝って。じゃないとジャム、分けてあげないわよ」
「へいへい……って、あれ、追伸がついてるじゃねぇか」
「………」
 フランソワーズが再び黙り込む。
 けれど相変わらず、鍋は回している。
 騎馬命は怪訝に思いながら、追伸に目を走らせた。
「追伸…お胸で泣かせてくれてありがとう。なんだかスッキリしました。なので、お姉さまも、誰かの胸で泣いたらいいです。そしていつか、青い星色の瞳を、取り戻してくださいね」

 フランソワーズの記憶は、何度だって蘇る。
 桟橋に横たわる兄の死体と、泣き崩れた恋人と、悲しむ人々と、笑う自分と……。
 わたし、後悔なんてしてない!
 兄さんは、わたしと一緒に死ぬべきだった!
 そんな言葉を、立ち尽くす兄の背に浴びせていた。
 けれど、死体が荷車に乗せられたとき、見てしまったのだ。
 兄の、濡れたズボンのポケットから、見覚えのある赤いリボンが、こぼれている……

「青い星色の……って? おまえ、瞳は灰色だよな?」
 騎馬命はフランソワーズの顔をのぞき込む。そして息をのんだ。
 灰色のはずのフランソワーズの瞳が、綺麗な海の色に見えた。そしてそこから、青い星色のしずくが、赤く煮立った鍋の中へとこぼれ落ちていた。
「おい……」
 騎馬命は慌ててスツールを立ち、フランソワーズのそばへ行った。
 フランソワーズは、振り向きもしない。しゃくり上げもせず、あふれ出るままに涙をこぼしていた。
 騎馬命は、その瞳と涙をまじまじと見てしまってから、極めてばつが悪くなって目をそらした。そして、大きなしゃもじを握る手に、おずおずと自分の手を重ねた。
 フランソワーズの手は、柄を握りしめて、すっかり固くなっていている。その指を、力を込めてゆっくりとほどいていく。そして、大きなしゃもじを奪うと、フランソワーズを胸に抱き寄せた。そして、「なあ…」と前置きして言った。

「泣きな。ちょっとだけ、鍋の番、代わってやるから」

                   終



*** web版あとがき ***

こんにちは、第六文芸です♪
今回のお話、いかがだったでしょうか?
楽しいクリスマスにしたかったのですが、無理でした(苦笑)
でも、希望のある話にはできたのかなと思ってます。
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また、次のお話でお会いしましょう♪
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