第5話 ブルース・スプリングスティーン

文字数 803文字

 兄のステレオの上にあった、「The River」。このLPジャケットを見た時、ぼくは吸い込まれて、何も言えなくなった。スプリングスティーンの顔の、ドアップだ。うっすら、不精髭。頑なそうに閉ざされた口。細おもての顔に、大きな眼が、こちらをじっと見つめてきた。
 よくよく見ると、その眼は、何か、訴えかけてくるようにも見えた。ところが、何も云わず、ただ「虚空を見ている」ようにも見えた。すると急に、薄い唇が、何か話し出しそうな気配をみせた。で、ぼくも何か、言おうとした。言おうとして、でも、その眼を見ると、また何も言えなくなった。

 その眼は、ぼくの内面を、外面でなく内面を、見つめてくるようで、あんな人の顔を見たのは、このLPジャケットが初めてだった。そしてそのレコードに針を落とせば、とんでもなく音が良かった。エレキギターも、ドラムも、ぜんぶの音がはじけて、踊り出したくなった。
 
 それから、「明日なき暴走」「青春の叫び」を買った。中学生のぼくは、その歌詞カードの英文と和訳を、スプリングスティーンの歌声に合わせて、追った。
 その3枚のLPジャケットの、スプリングスティーンの顔。「River」は青年のようで、「明日なき…」は、ちょっとした中年、そして「青春…」は、まるで初老のように見えた。「River」が最新作で、「青春」が一番古いアルバムなのに。年齢が若くなればなるほど、その顔は、まるで老いていた。ぼくは奇妙なショックを受けた…

 ちょうど梅雨時で、スプリングスティーンと大瀧詠一のCMアルバムの「サイダー」をよく聴いた。しっとりと、時間が流れていた…
 しかし、あの、ぼくを真っ直ぐ見つめてきたスプリングスティーンの顔が。
 老荘思想の荘子は云った、「虚無は、すべてを包み込む」。だからあの眼に、ぼくは何も言えなくなったのか。それとも、あのジャケットは鏡で、ぼくの空っぽな性質を映し出していたものなのか…
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