さらば、やさしさ刑事

文字数 1,434文字

 山上は朝の散歩から、ずっと歩きっぱなしだった。もう日が傾きかけている。足は棒のようになり、腫れ上がったふくらはぎに激痛も走っているが、山上は踏み出すことを止めようとしなかった。片足を地面から上げると、軸足に全体重がかかる。体重のかかった軸足はその抱える重さを前に下ろそうと、地面を蹴り上げる。軸がずれて、体重が前に倒れこもうとする。それを止めるように上げた足を支えるように前に下ろす。降ろされた足に体重がかかる。その重さを前に下ろそうと・・・頭の中で体の重さをどこに持って行こうかとしているのを考えているが、大概それは前に持っていくしかない。他の方法があるのかとぼんやり考えながら、機械のように足を動かし、体を前へと進ませていく。体を動かすことしか考えてなかった。だから、景色が変わろうが、日が傾こうが、気がつかなかった。疲労さえも自分の外の出来事のように、客観的に溜まっていくだけだった。
 「俺は一体、どうしようとしているんだ?」
 山上は考えたが、これから何をしようとしていたのか、何処に行こうとしていたのか、目的というものが、ぼんやりとして、白い靄の中に消えていた。前を見ても何もわからないのなら、じゃあ、これまで、何をしていたのか考えてみた。すぐには何も浮かばず、薄っすらと、誰かが笑っているような顔が浮かんだ。しかし、それが誰であるのか判らなかった。ただ、その笑顔が心を和ませたのは確かだった。そのためなら、全てを投げ打っても良いと本気で思っていた。心の弾みが、何か靄を一瞬吹き飛ばしたような気がした。
 「俺は、誰かの笑顔のために、何かをしてきた。だが、その笑顔は俺が思っていたほどじゃないことや、笑顔でないことも多かった。今の俺みたいに、何か吸い取られていたんだ。」
 山上はひどく懐かしい気持ちがしたが、それは何が懐かしいのか分からなかった。知らない山奥の国道の横を歩いている。辺りはすっかり暗くなり、誰も道路脇に歩いてはいなかったが、並ぶ水銀灯の下、車だけがひっきりなしに走っている。トラックが通り過ぎると熱い風圧が山上を暗闇の藪の中に飛ばそうとする。その度に死ぬような思いをしたが、足を止めることなく、何処に行くのか判らないまま、前に進んでいた。足はとっくに感覚がなくなり、錆びた釘で刺されたような激痛が膝を襲い、ふくらはぎは引きちぎれそうに腫れていた。背中の汗は冷え切り、喉の渇きは限界となり、意識はどんどん遠くなり、視界が狭く暗くなっていく。暗いトンネルを通っているような心細さと怖さがどんどん増していった。このとき初めて山上は死を予感した。
 「このままじゃ、俺は、死んじゃうな。止まって、休んで、水を飲むべきなのだが、体が止まらないし、これ以上生きることを望んでいない気がする。俺は、生きた。十分なのだろう。何しろ、進行を止める気が起きないのだ。」
 一人今の気持ちを持ち出してみたが、それが他人の言葉に聞こえる。山上は、自分を自分として捉えることができないようになっていることをここで初めて気がついた。まるで、自分の大事な何かが、永久に欠落して、自分の命を守ろうとすることが考えられなくなっているのだ。
 動悸が急に上がりだした。体が干上がりそうに熱くなったかと思うと、心臓の動きが遅くなり始めた。世界を手放す時がいよいよ迫ってきた。ゼンマイが切れそうな人形のように、動きが遅くなっていく。止まるとともに、山上は「さよなら」も言わず世界から消える。
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