腹の弓

文字数 1,178文字

運転席に座ってからも、私はしばらく病院の方を見ていた。
どの部屋を見ればいいのかも、分からないまま。
胸から込み上げてきた不安を喉元でせき止めていたが、
鍵を回していなかった車内のむせ返るような湿気に、わざとらしく咳をした。
エンジンをかけると、力強い冷房の吹き出す音と、FMから知らないナンバーが流れた。
デジタル時計が24時50分を示していた。
病院の玄関先の電気が、フッと消えた。
たぶん、1時間と少し前。妻が無事、子どもを産んだ。
~~~
入院が決まってから、私は一度帰るように言われたが、
帰宅早々、看護婦さんから「もう生まれるよ」と催促の電話が鳴った。
ちょうど台風が近づいている頃で、山間のこの町一帯は霧で覆われていた。
視界の悪さは、車を飛ばしても30分はかかる道のりと結託して、私の焦燥を煽った。

到着後、看護婦から白衣とゴーグル。それとゴム手袋を手渡された。
「まず、お手洗いでそちらをすべて身に着けてもらって」
暗い廊下の先に、WCの看板が見えた。
「あ、最後まで聞いてもらっていいい?」
私のどうしようもない焦りを見抜いた看護師は淡々と…いや、落ち着いていた。
説明を受けると、すぐに着替え、指示にあった2階に向かった。
こちらです、と案内された分娩室の前で、漸く一陣の緊張が体中を駆け抜けた。

部屋に入ってすぐだった。
あっという間に子どもが顔を出したかと思うと、産声が部屋中に響き渡り、全身が露わになった。
実際に時計を見ると、ものの10分程度の出来事だった。
私は気が付くと、左手を妻の手に、右手を妻の頭の下に添えていた。
妻の顔を覗く。驚きと痛々しさを混ぜたような表情をして、こちらを見た。
「待ってたんだよ。もう…遅い!」
妻は、昔から身体の強いほうではなかった。
それに加えて、過去には捻挫で大泣きするほど痛がりなのを知っていた。
そんな妻が、叫び声をほとんど挙げることなく出産を終えて尚、元気なことに、私は涙を止められなかった。

先生に抱きかかえられた子どもは、羊水や血をぬぐってもらい、ベッドに寝かせられた。
子どもの方に寄る。
頭。手足。髪の毛。目鼻。頬。口。指。爪。肌色。温度。表情。動き。泣き声。
産後にどっち似だ、と話す件(くだり)を兄夫婦の経験から聞いていたが、
そんなことは僅かも思わなかった。
ただただそこに存在してくれている子どもに、その対価となる感謝の言葉も見つからず、私はさっきよりも沢山泣いた。
~~~
深夜帯のFMは、たった数分前まで見ていた景色が、まるで夢だったかのような錯覚を煽った。
だが、スマホに表示された我が子の写真を見て、ありありと現実身が私を包んだ。
「待ってたんだよ。」
妻のセリフを思い出した。
私も、待ってたんだ。
子どもと、君の無事を見届けられるこの日を。

先ずは安全運転で帰ろう。
そう独り言をして顔を上げると、さっきまでの霧は晴れ、月が頬を見せていた。
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