Ⅶ 海を渡る蝶

文字数 3,151文字

 シスターは目路に()えた恋人を見送りつづける、そんなうるんだ瞳を私にむけた。
 私はといえば、昔話しに聞き旧した〝木の葉にかわった小判の話し〟を思いうかべていた。が、彼女のくれたあつい眼差しは私の蛇足を咽元で押しとどめ、揶揄することを(ゆる)さなかった。修女は物語の第二幕を語りはじめた。

  #海を渡る蝶

 その夜のこと。いつものように賑わう酒場のなかに、いつもとようすのちがうひとりの男がいた。男はうつろな目で、悪夢にうなされる譫言(うわごと)のように、おなじ話しをくり返していた。男は漁師だった。漁師の話しはこうだった。
 その日の朝、男は嵐の余波が残る群青の海に漁にでた。潮流に魚影を追った舟は、やがて沖合に錨をおろし、男はそこで投網(とまみ)を引き上げていた。
 最初、漁師の目にそれは異様な雲と映った。ひとひらの白雲さえない青い空に、低く棚引く原色の黄金雲(こがねぐも)紡錘型(つむがた)に伸びたその彩雲(さいうん)は、北のほうからゆっくりと流れてくるようだった。
 網の手綱を引きよせながら、ふと北の空に目をやると、遥か遠くにあったはずの浮雲が、いまはその距離を半分にちぢめ、なおもこちらに近づいてくる。ひき息で吹き飛ばせるくらいに見えた小さな千切雲は、いまや積乱雲のようにふくれあがり、()きかわすカモメよりも低い空を、海面をわたる風よりも(はや)く飛んでくる。
 山小屋を呑みこむ雪崩のようにその妖雲(よううん)が小舟の上に押し寄せたとき、男は初めてそれが夥しい数の蝶の群であることに気づいた。数え切れない蝶の大群が、陽を遮るほどの群れをなし、頭の上を飛翔していく。男は恐ろしさのあまり網を()げすて、錨を切りおとし、懸命に逃げ還ってきたのだった。
「つまり」私は言った。「その漁師が見た蝶の群というのが、女の部屋から翔び発った蝶たち」
 私の

は正鵠を射たようだった。シスターは嫣然(えんぜん)と口の端をゆるめると、
「海をわたる蝶をごぞんじですか」
 私は曖昧にうなずいた。
「そうです、群をなして海をわたる蝶たちのことです。空のつぎに広い大海の海原へ、花片(はなびら)のような翅だけをたよりに翔び発っていく蝶たち。彼らは海をわたり、山脈を越え、砂漠を横切る。シルクロードをしのぐその軌跡は赤道と交わり大陸を結ぶ。ではなぜ彼らはそんな地球をまわるような旅をすると思います」
「それは気候とか食性、あるいは繁殖のため」
「いいえ、ある特殊な条件下に産れた蝶たちだけが、そんな(はて)しのない旅をするのです。それは彼らにとっての運命であり、産れ出づる前から与えられた宿命なのです」
「おっしゃってる意味が……」
「異常な過密状態のもとで羽化した蝶たちは、翔ぶための変異を課せられるのです。生誕の環境は運命であり、それが課す変異は宿命にほかなりません。彼らには同種の蝶よりも大きな翅と小さな体が、産れながらにして与えられます。そして習性とも本能ともちがうなにかに導かれ、どこへともなく旅立っていくのです。せめて肩をよせあうように群をなして。彼らの旅立は極限の飽和状態を緩和し、残る蝶たちに生命を育む環境を与えます。彼らはそのために択ばれ、そのために翔び発っていくのです。
 でもその旅の終着は悲しい結末です。彼らの旅は安住の地を求めての旅ではありません。翔ぶために翔び、翔ぶことがすなわち旅なのです。海をわたる蝶たちに安息の地はありません。気まぐれに華をうつろい、蜜を頬張り、優しい陽差とたわむれる終焉の花園は、この世にはないのです。風に()たれ、埃にまみれた翅は、襤褸(ぼろきれ)のようにやぶれ、やがて翔ぶことに力()きた蝶たちは、枝をはなれる病葉のように大地におちてゆくのです。土の温もりを(つか)れた体に感じるとき、彼らの一生はおわり、その旅もおわりを告げるのです」
 哀悼にみちた口調で語りおえると、シスターは口をつぐんでしまった。私はここにきて話の真意をつかみかねていた。正直なところ、ため息まじりに(くび)をふりたいところだった。異常発生した蝶の大群が数千キロにおよぶ大移動をくりひろげ、その末路は結果としての集団自殺に終わる。この現象を悲劇と採るか自然の摂理と採るかは人それぞれ。さらにこのような行動をとるのは、なにも蝶にかぎったことではない。私の識る範囲でもバッタやネズミも……。ここまで敷衍(ふえん)して、私は話の寓意を把握したような気がした。
 『レミングの悲劇』──それは大繁殖したタビネズミがひきおこす死の行進。延々とつづく大行進は束の間も休むことなく、たとえその先頭が海に削り立つ断崖に到達しても止むことはない。集団の力に押し出された懸崖のタビネズミは、あたかも(にじ)を架ける瀑布のように獣の(ころも)をかがやかせ、深淵の海に顛落(てんらく)していく。最後の一疋までも。
 生きることの本来の意味、価値、目的を見失った個体と集合におとずれる悲劇は、現代に活きる我々人間にも決して無関係ではない、という論旨。
 おそらくシスターはこの古色を帯びた警句を、杞憂の引喩を、山巓(さんてん)のイエスよろしく口授するにちがいない。それならば……。
 私はあれこれと諧謔をめぐらせながらシスターの口上を待った。はたして修女は笑みわれるように口をひらいて言った。
「海をわたる蝶はその海の上で、どうやって休息をとると思います」
「えっ!」
「おわかりになりません」
「海の上で……」
「降参ですか」
「ちょっと待ってください」
 私は文字どおり頭をかかえた。海をわたる蝶はその海の上で、どうやって休息をとるのか? まさか渡り鳥のようにくわえた小枝を棲木(とまりぎ)にするわけはないし……。
 私は両手をあげて白旗をかかげた。シスターは降参ですねと笑って答を明かした。
「海をわたる蝶はその海の上で(やす)むんです。片方の翅をぴったりと海面につけ、もう片方の翅を垂直に、ちょうどヨットの帆のように立てて。そうして紺碧の海に憩う蝶たちは砂漠をさまよう湖のように、海原に咲いたひとときの花園を見せてくれます。しかし人は誰もそこに踏み入ることはできません。なぜなら、もしそれを(おか)そうとすればその瞬間、胡蝶の花園は翔び去ってしまうからです」
 黙示は解けた。私は三幕目があがるよりはやく、この物語の終幕を悟った。
「要は、その男──魔術師は、旅の途中で嵐に遭った蝶たちを助けるために、ひと芝居打って女たちを(だま)したと、そういうことですね」
「いいえ、だましてはいません。たしかに部屋を埋めつくした金貨は蝶にかわり、マダムがうけとった金貨も象牙のチップにもどってしまいました。けれどもリタがうけとった金貨だけは、つゆほどのくもりも見せず耀きつづけました。かわることのない永久(とわ)の光に愛を知ったとき、リタは神の御許にひざまずき修道女になったのです」
 話のオチは、落ちつくところに落ちついた。当然といえば当然の帰結だったが、鼻白む思いは禁じ得なかった。私はゆっくりと腰をあげた。
「とてもおもしろいお話しでした。日曜学校でもウケるでしょう」
「これは聖書のお話しではありません」
「そうでした。K教授のお話しでしたね」
「いいえ、これは真実です」
「真実?」
「これがその金貨です」
 見るとシスターの手のなかで一枚の金貨が耀いていた。
「手を」
 言われるままに手をさしだすと私の手のなかで、きわやかな輪形の光が、一枚の金貨が、金鑞の曄めくような光を放っていた。
「シスター」
 私が呼びかけたとき彼女の姿はなく、ふりかえった中央の扉はドアに挟んだレースのような光を堂内に引き入れていた。私はこのとき、そのわずかにあいたドアの隙間から中を覗いている一人を少年を見た。少年は扉のかげに隠れるようにこちらを窺がっていたが、私と目が合うとにっこりと笑った。その顔はまぎれもなく私の顔だった。


〈 了 〉


【参考文献】
『主の祈り』竹森満佐一(東京神学大学出版委員会)
『海をわたる蝶』日浦勇(蒼樹書房)
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