第5話

文字数 7,126文字

 雪は次第に強くなり舞い降りるという表現から降り続くという表現を用いる強さになった。道路や田畑の土の部分には雪が積もり、様々な熱を奪い始めている。横たわった美佳にも雪が積もって、彼女の身体や乳房から熱を奪うだろう。美佳はこの大地に同化しつつある存在になっただろうから、それは自然の摂理だと思った。
 優斗の家の雑木林まで来る頃には、もう雪が玄関に繋がる小道にうっすら積もっていた。私はその足跡の無い道を進み、優斗の家の玄関まで来た。
 鍵が掛かっていたので、私は呼び鈴を鳴らした。古く埃をかぶっていたと思われるベルが鳴り、曇りガラスの向こうで誰かが蠢く気配がする。
 その後、ガラス戸の鍵が開いて中から優斗が現れた。優斗はジーンズにシャツと毛糸のセーターと言う古めかしい服装で私を出迎える。
「ああ、香澄さん」
 優斗は出迎えたが、私に異変があるのをすぐ読み取ったのか、初めて私の前で眉を顰める表情をした。
「何かありました?」
 優斗は訝しげに尋ねた。やはり彼は他人の心を読む能力に優れているのだろう。だから私を引き付け、美佳の中にあるものを得る事が出来たのだ。
「何かあったって、わかるの?」
「何となく」
 優斗は私の言葉に答えた。私は優斗の身体に抱き着き、家の中に居たのに硬くてあまり温かくない優斗の体温を感じる。彼を強く抱きしめ、自分の中から猛毒を吐き出すようにしてこう言った。
「美佳を殺したの。鉄パイプで殴ってそれで」
 私は淡々と答えた。人を殺したというのに、心と体に動揺が全くない。自分でも不思議なくらいだ。優斗を前にすると何も思考が働かなくなるからだろうか。
「そう。わかった」
 優斗は驚かずに答えた。自分を支えてくれた相手が消え去っても平然としているのは、彼が強い意志の持ち主で、様々な辛苦を味わってきたからだろうか。それとも心を捨ててしまったのだろうか。
「これからどうするの?」
 優斗は優しく耳元でささやいた。
「警察に自首しようか?」
 私も同じように囁く。
「香澄さんがそうしたいならいいけれど、それは本心ではないよね。本当はどうしたいの?」
 優斗は私に質問してきた。私は一切の善悪の感情、理念や道徳心を捨て、最後に残った素直な気持ちを表す言葉を述べた。
「出来るなら、残った時間をあなたと過ごしていたい。死ぬ運命が待っていたとしても、あなたと過ごしたい」
 私の言葉は一つ一つの文字が半透明で冬の寒い空気に消えて行く。つまり力が無く何も残らない言葉だったが、優斗はそれを耳で拾ってくれた。
「わかった。香澄さんの気持ちに答えてあげる」
 優斗はそこで区切り、私を引き離してこう続けた。
「俺は香澄さんの言うことを聞くから、するべき事を指示して」
 その言葉に、空っぽで何もなかったはずの私の心に一つの炎が灯るのを感じた。その炎は満たされていた可燃性の液体らしきものに引火して、あっという間に燃え広がり、私の内側にあった様々な物を燃やして、すべて使えなくした。そしてその中には、自分の中に入れた優斗と言う概念が一つ残って、私の内側にある唯一の存在になった。


 それから私達は十分程で身支度を整え、優斗の家にあった金三十五万円を手元に持って、家を後にして蓮田の駅に向かった。そこで電車を待ち、やって来た上野東京ラインの上り列車に乗って大宮を目指した。電車が来て乗り込むと、私は自分が犯罪をして逃げる逃亡者になったという自覚を味わったが、優斗が隣に居たお陰でそれ以上の罪悪感はなかった。
 大宮にたどり着くと、次はどうしようかとか考えた。逃走資金の面と、足が付く事を考えると新幹線は使いたくなかった。時計を見ると、時間は午後二時を少し過ぎた辺りだった。そろそろ私の家族が返ってこない事を不自然だと思うはずだ。スマートフォンを見てみると、案の定居所を教えろという内容のLINEが母から届いていた。私はそれを無視し、隣の優斗に言った。
「優斗、連絡は何かある?」
 私は優斗に質問した。
「何もありません。僕が使っているのは古いガラケーですから。LINEとかやっていないんです」
「なら、あなたの携帯電話を使うわ。私はスマートフォンで足が付きやすいから」
 私はそう言って、上野東京ラインのホームから京浜東北線のホームに行き、始発列車に電源を切ったスマートフォンを置いて後にした。色々情報が入っていたが、惜しい気持ちはなかった。
 私達はその始発列車を見送った後に再び上野東京ラインのホームに戻り、再びやって来た電車で上野駅に向かった。
 私達は上野駅に到着すると、そこからどうするべきか考えた。
「行きたい所とか、ある?」
 私は優斗に尋ねた。私達が居る上野駅は、師走の予定を過ごすために行き交う人々でごった返しており、私達二人を気に留める人間などいなかった。人混みは人間であることをやめて、ただの風景の一つに成り下がっている。
「千葉方面に行こうよ」
「京成線で行こうか」
 私は答えた。私達はJRの改札を抜け、京成線の上野駅に向かった。
 京成線の駅は地下にあり、空の見えるJR線の駅より重苦しい空気が漂っていた。私と優斗は入って来た快速電車に乗り、そのまま成田方面に向かった。地上の高架に出て、日暮里から新三河島、そして松戸を越えて千葉に入る。窓の外を見ると、まだ雪が降り続いている。日が傾くと、雪は白さを失い灰色に濁っていた。
 京成成田駅に降り立ち、ホームから改札を抜けて街に出る。成田はそれ程大きな街ではないのに、新年を海外で過ごす日本人と、日本で新年を過ごす外国人が入り混じり、東京とはまた違った賑わいと空気が漂っていた。
 私達は駅を離れ、コンビニで夕食の弁当と飲み物を買ってから、日本人の旅行客向けのビジネスホテルに入った。フロントに頼んで空いている部屋に何とか二人ねじ込んでもらい、四階のシャワー付きの二人部屋に入った。小さなベッドが二つと、化粧台とテレビ、奥にはシャワーとクローゼットがあり、窓際にはミニテーブルが一つ。部屋は清潔感があったが、全体的にすべてが安っぽいもので構成されていた。
 テレビを点けると、ニュースはNHKのみが流し、民放はやはり俗悪な内容の番組ばかり流していた。私と優斗は社会のうねり、惑星の公転周期のようなサイクルからはみ出した存在だったが、テレビは昨日から続く時間を紡いでいたのかと思うと可笑しい。私は人を殺した事で逃げ出し、知らない異世界に来たようなものだと思っていた。だが、私の居る物理的な場所は少なくとも地球の日本であるらしい。自分の肉体は地球上に存在する日本国の千葉県成田市にあるビジネスホテルにあるのだが、意識と魂、知覚を伝達する感覚器官はここにはいない気がした。私は何処にいるのだろうか?
 食事を終えて、私と優斗はシャワーを浴びると、部屋の明かりを消してそのままベッドに潜り込んだ。初めは別々のベッドに潜り込んだが、私は殺人を犯した時の違和感が頭と体に残って眠れなかった。仕方ないので私は優斗とのベッドに潜り込んだが、優斗は何もしてこなかった。優斗と肌を重ねる時、美佳は自分から優斗に迫るのだろうか。優斗に聞いてみたかったが、会話の中で罪悪感に襲われる気がしたのでやめる事にした。
 私は優斗を抱きしめ、美佳を鉄パイプで殺す時に使った手で優斗の背中に触れる。優斗の体温は服越しであったがあまり高くなく、辛うじて命の温もりを感じる程度の温かさしかなかった。この寒さで冷え切っているのだろうと思った私はさらに優斗を抱きしめ、彼にキスし、一方的に熱を宿らせた。私は着ていた服を脱ぎ、彼に熱を与えようする。だが熱が高まるのは私だけで、優斗はその気になってくれなかった。私は乳房の先端を優斗の口元に押し付けたりしてみたが、やはり美佳とは違うのか求めてこなかった。結局、私は一方的に優斗を包んだあと気持ちが萎んでしまい、そのまま優斗と共に眠りに着いた。
 
 次の日は朝六時半に目覚めた。部屋の中は暖房が効いていたお陰で温かったが、ベッドから這い出て、カーテンを開けて嵌め殺しの窓の外を見ると、朝の弱々しい光に照らされ、青白く光る街の様子が寒々しかった。恐らく気温は摂氏零度前後のはずだ。やはり地球は私達の事を尻目に普段通りに動いている。私は優斗と過ごしている時、自分が世界で唯一の女であり優斗を理解できる唯一の存在だと思っていた。それは変わらぬ気持ちであったのだが、その意識が揺らぎ始めている。嵌め殺しの窓ガラスに触れると、ガラスの冷たさをあまり感じない。何故だろうと思うと、私の指先が冷えているからだった。
 その事に違和感を覚えた私は掛けてあるバスタオルを手に取り、一人でシャワーを浴びた。流れ出るお湯で身体を温めてみるが、温まるのは皮膚に覆われた部分とその内側にある薄い肉だけで、身体の中まで温まる事は無かった。
 シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、目を覚ました優斗はベッドの上で何時ものノートに何かを書き綴っている。ここに来るまでの事を書いているのだろうか、それともいつも通りの短文だろうか。私はノートの内容が気になった。
「何を書いているの?」
 私は優斗に尋ねたが、優斗はノートを見つめたまま答えなかった。その瞳はノートの白さを反射し、白く霞んでいた。
「秘密」
 優斗は答えた。前なら見せてくれたと私は思ったが、その事は口に出さない事にした。
 そのあと私達はテレビの音を聞きながら身支度を整えた。NHKのニュースを見ると、見出しには『埼玉 不明中学生死亡』という文字があった。恐らく美佳が見つかったのだろう。私は心臓がせりあがって破裂するような感覚を覚え、気管の辺りから目元に向かって罪悪感が溢れそうな感覚を味わった。だがそれよりも早く優斗が私の腕を掴むと、その罪悪感はどういう訳だか消えて無くなった。まるで優斗が私の認知機能と痛覚を消してしまったかのようだ。
「早く行こう」
 優斗は静かに言葉を漏らす。罪悪感の消えた私は胸が空っぽになり、魂が喪失したように抜け殻に近い存在に変化してしまう。
 チェックアウトをフロントで済ませると、私と優斗は冷え切った成田の街に出た。何か行けそうな場所は無いか考えたが、パスポートもなく所持金も少ししかない私達に海外逃亡は出来なかった。電車に乗ってまた別の街へ行っても良かったが、東京方面に戻りたくなかった。とりあえず駅に入って路線図を見ると、成田線に乗って佐倉駅に向かい、総武本線に乗ってここから離れる事にした。
 改札を抜けてホームに入る。佐倉方面に向かう電車が来ると、私と優斗は無言で乗り込んだ。車内は東京方面に向かう人たちで混雑しており、周囲の風景が開けているのに人が多いのは違和感を覚えた。違和感を覚えるのは、私がいまだに都会の人間だからだろうか。
「不思議そうにしているね」
 突然、沈黙を貫き通していた優斗が漏らした。
「どうしてそう思うの」
 私は優斗に聞き返した。優斗は私の目を見てこう答えた。
「香澄さんの目を覗くと、何もない世界が広がっているのがわかるんだよ」
 優斗は答えた。そして口を閉じて再び沈黙の世界に戻った。
 電車は佐倉の駅に着き、私達はそこから総武本線のホームへと向かった。求めているのは下り方面の電車。東京には戻りたくなかった。
 下りの電車が来ると、私達はそれに乗った。車内の内装は水道橋や錦糸町を走る総武本線であったが、乗客の数と車窓に流れる景色は地方鉄道のそれだった。窓から差し込む自然光が、プラスチックと金属で彩られた細長い空間を浮かび上がらせているのが、私には可笑しく思える。私は入り口ドア付近の路線図を見た。二つ先に「横芝」という文字を見つけると、私はそこで降りる決心をした。
 横芝駅のホームに降り立ち、改札を抜けて再び駅前に出る。私と優斗はバスターミナルにやって来たバスに乗り、行き先も確認せずに乗り込んだ。バスの車内は私と優斗以外には地元の高齢者が数人いるだけで、人間の時間ではなく人生を運んでいる気がする。幸せな人生もあれば、私のように歯車が完全に狂って、破滅の道に進む人生もある。公共交通は、それすらもベルトコンベアのように運んでしまう。社会とか自然とか時間は、そこに存在する人間など愛していないのだと思った。
 私は何もない場所をバスが走っているのに気付くと、停止のボタンを押した。暫くしてバスは何もない道路の真ん中に置かれたバス停に止まり、私と優斗はそこでバスを降りた。運転手は私達の事を不審に思うだろうと思ったが、気にしなかった。彼はただの社会の道具なのだ。
 バスが過ぎ去って行くと、私は周囲を見回した。雑木林と青空、そして雪の積もった田んぼがあるだけだった。人工的に作られたものは、人間の社会に繋がる舗装された道路とバス停。私と優斗は社会から隔絶された場所にやって来た。自分達を構成する様々な社会的な要素がすべて削ぎ落されて、ただの人間の男女になった気分だ。
 土地勘が全くないので、私と優斗は道路沿いを少し歩いて、雪の積もった田んぼの方へとつながるあぜ道を歩いた。
 目の前に広がる光景は私と優斗の住む蓮田の街と同じ静寂と冷たさ、湿度を持っていたが何かが違っていた。育てている品種が違うからとかという理由ではなく、流れる空気や時間が違うような気がするのだ。千葉だから埼玉より海が近く、人間の生息区域の終わりがすぐそこまで迫っているからだろうか。見える景色に果ては無いのだが、私自身は限界点に近づいている気がする。見上げると、中国の陶工で作られた白磁器の表面のような空が、何処までも続いている。
「空、綺麗よね」
 私は何気なく漏らした。その場で美しいと感じた物は、それだけだった。優斗の反応があるかと思ったが、彼は何も答えなかった。
 私と優斗はあぜ道を進み、そこから雑木林に入った。私の感覚と意識の中から都市と人間社会の存在が弱まり、自然と優斗のみが私の意識に入ってくる。雑木林の切れ目、また別の田畑と接する辺りで私と優斗は足を止め、地面に座った。ここまで来る途中に私と優斗は何も口にしていなかったが、喉の渇きや空腹は感じなかった。
 暫く沈黙が続くと、優斗は鞄からノートを取り出してまた何かを書き始めた。私はその様子を見て、優斗の視界に私が入っていない事に気付いた。
「何を書いているの?」
 私は優斗に聞いたが、彼は反応しなかった。何かを書く事に没頭している優斗の瞳に私はおらず。ただ白いノートの中身だけが映っていた。私はその場から立ち上がって優斗の背後に回り、ノートに書かれている言葉を見た。

「どこまで行っても、何かを求めても、僕は天と大地の間にある。二つが無ければ人間は存在できない生き物だが、どちらかに同化する事は無い。なぜなら僕は僕と言う存在の主人であり、誰の物でもないからだ。天と大地は自分の事を僕の主人だと思っているだろうが、僕はそれを否定する。僕の意識は僕の物だ」
 
 その言葉は私に深く刺さった。私は天から優斗を見下ろして彼を見守り、光を照らしてその存在を私の中に取り込んでいた。だが彼は一人の人間であって自らの意志を持った存在だったのだ。本当の意味で彼の中に踏み入る事は出来ていなかったのだ。私が包んでいたのは、私と言う人間が知覚できる範囲での優斗だったのだ。私は天であると思い込んでいた哀れな人間の女だったのだ。
 優斗はノートを閉じ、私の方を見た。その瞳に移る私の姿を見て、私は自分が人間であった事に気付いた。何らかの付加価値はあっただろうが、私はこの世界の人間だったのだ。
 優斗は無言で私から目を背け、その場から立ち去ろうと立ち上がって私から離れようとした。私は優斗を捕まえて抱き寄せて自分の物に、彼の存在と意識を取り込ませようと手を伸ばした。だが優斗は私の手を振り払い、その場を離れようとした。私はもう一度彼に掴みかかり、引き倒して仰向けにした後、優斗に覆い被さった。優斗は表情を変えず、その黒い瞳に私の姿を映していたが、その瞳に移る私は、私自身が知覚している私ではなかった。
 気が付くと、私は手を優斗の首元に伸ばし指に力を入れて体重を掛けていた。瞳に映る私の姿を追い払いたくなったのだ。優斗は暴れかけたが、抵抗はしなかった。だがどんなに力を込めても、瞳に映る自分は優斗から消えなかった。やがて優斗の力が抜けて行く感触が指先に伝わり、何も反応を示さなくなった。微かな熱が消えてて瞬きのなくなった瞳には、彼の持っていた世界が消えて、二人の人間を殺した私の姿が映っている。私のせいで優斗と美佳はこの冷たい世界の一部に同化してしまったのだ。その事実に気づくと、私は自分の中が空洞になり外の空気と同じ温度になるのを感じた。
 私は手を離し、立ち上がって動かなくなった優斗から離れた。あぜ道を少し歩くと、文字も言葉も文章もない、まっさらなノートのような世界が広がっている。私は東北自動車道脇に建つ埼玉スタジアムを思い出した。周囲から見放されて、苦しいのに灰色の空に向かって口を開ける事しか出来ない、空虚で哀れな存在。一時の気持ちの昂りに任せて、何も無いところに無駄に大きな何かを残してしまったのだ。誰かが見れば、様々な言葉を浴びせたり、疑問を投げかけたりするだろう。

 目の前には大地と空が広がっていて、黒く深い水面を湛えた川は無かった。限りなくモノトーンに近い世界の中で、私はただ一人の存在だった。


                                       (了)
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