追憶

文字数 995文字

 電話が鳴った。こんな深夜の場末のバーに、いったい誰だろう。そう思いながら受話器を取る。

「はい、BARハードボイルドですが」
「……お久し振りです。 T です」

 T ? 初めて聞く名前。だがその声に懐かしさを覚える。遠い記憶を辿っていた。

「あっ、旧姓 U です」

 U …… 七年前に別れた女だった。
 しばらく忘れていた。だが体は彼女を覚えている。俺の性癖までも変えてしまったのだから。
 ある日、風のように消えた自然消滅のような愛だった。もう少し優しくすれば良かったという悔いだけが残る。

「なんか声が聴きたくなって…」
「懐かしいな。結婚したんだね…でも、驚いたよ。ここの電話番号、よく分かったね」
「ごめん、色々聞いて回っちゃった」
「いや、全然。嬉しいよ、声が聴けて。元気だった? 」
「うん」

 思いがけない再会だ。話したいことは色々あった。連絡先を探しあてて来たということは、きっと何か事情があるに違いない。俺は慎重に言葉を選びすぎて、会話が少し途切れる。
 そのとき受話器の向こうで、赤ちゃんが泣きだした。

「子供がいるんだ」
「うん。その後、あなたのほうは? 」
「俺? 結婚したよ」

 嘘だった。
 瞬間、色々な考えが頭を駆け巡る。
 子供の泣き声、「あなた」という呼び方。七年の歳月がそこにあった。
 彼女だと分かった瞬間、ヨリを戻したいとも思った。だが受話器から聞こえた泣き声で、見事にそれは吹き飛んだ。
 お互い別々の人生だ、もう過去には戻れない。ここは大人として対応しよう。
 電話の泣き声は止まらなかった。

「泣いているよ、赤ちゃん…」
「うん…」

 子供を気にしていることが、受話器を通し伝わって来る。

「じゃぁ、元気で。今日はありがとう」

 そんな会話で受話器を置く。言葉少なだったが、気持ちは通じ合っていた。彼女に逢いたい……
 彼女が近くに居るのなら、俺はすぐにでも飲みに誘ったに違いない。今になり連絡先すら聞かなかったことが悔やまれた。

 だがこれで良かったのだ。
 俺が誘えば、恐らく彼女は無理をして来ただろう。そして逢えば、再び一つの愛を手にしたに違いない。
 だがその一方で、七年の歳月で得たはずの別の何かを、きっと失っていたであろう。残るのはただの喪失感。だから、七年前の感覚で逢ってはいけない。そういうことだ。

 ふと我に返る。夢から目覚めた感覚だった。店の中は相変わらず、誰もいなかった。
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