第1話 星に願いを

文字数 2,518文字

 西暦1378年、14世紀の神聖ロマーニュ帝国、フラーベント地方に長い冬が到来していた。
 冬の冷たい朝の光が、聖ミカライト教会のステンドグラスを通して差し込んでいた。教会内は荘厳な美しさをたたえていたが、今年、十四歳になる彼女に光は当たっていなかった。
 アデルハイト・バウムガルトナーは床に這いつくばり、雑巾で丁寧に床を磨いている。固く編んだ三つ編みが床に垂れる。汚れた水を取り替えるため、裏口の貯水桶へと向かった。だが、早朝の寒さで分厚く凍てついた水面が広がっていた。アデルはあかぎれになった手の甲をさすりながら、ため息をついた。病弱なほど色白な顔が寒さを際立たせる。
 祭壇の掃除を始めたアデルは、聖母像を丁寧に拭きながら、心の中で祈りを捧げていた。どうか、今日という日に平穏を。マリア様の優しい微笑みに、アデルは一時の安らぎを覚えた。指でその唇をなぞろうとした時。
 重い革靴の足音が教会内に響き渡った。振り返ると、父であるヴァルター・バウムガルトナーが足早にアデルに近づいてきた。長身で黒髪を撫でつけた四十代の大司教は周辺一帯の教会に大きな影響力を持つ。常に身にまとう黒い司祭服が威厳を振りまいた。。
「アーデルハイト、これは何の本だ?また意味不明な記号ばかりだな!おまえが覚えても、なにも意味がないものだ。聖書の勉強より大事なことか!」
 図書館で借りた数論の本だ。勝手にアデルの部屋に入ったのだ。ヴァルターが本を叩く。アデルは思わず本を取り返そうと飛びかかった。
「お願い、お父様!それを返して!」
 だが、ヴァルターは難なく本をアデルの手の届かないところまで高く掲げた。
「大司教の娘たるお前が……」彼は後ろめたいことがあるかのように、それ以上強くは言わなかった。「いや、なんでもない。とにかくこの本は没収だ。今日は大事な集会がある。特に祭壇の掃除は念入りにやっておけ、わかったな、返事は」
 アデルは無言で父を対峙した。ヴァルターはふいに目を逸らし、踵を返した。ドアが乱暴に閉められる音が、冷たく空虚な教会内に木霊した。アデルは質素な黒のワンピースの裾を強く握りしめた。皮が張りつめ、あかぎれが広がるほどに。
 静まり返った祭壇の前で、彼女は聖母を睨みつけ、叩き割りたい衝動をなんとか止めた。
「まだ、解けていない問題があったのに……神さまのいじわる。平穏を願っただけなのに、嘘つき!」
 だが、アデルの瞳は絶望に沈んでいない。歯を食いしばり、彼女は再び祭壇の掃除に取り掛かった。聖母の温かな眼差しが今は少しいとましい。アデルは黙々と雑巾を動かし続けた。この困難も、いつかきっと乗り越えられる、そう信じて。
*   *   *
 会話のない、冷めた味気ない夕食を終え、アデルは自室に入った。夜の闇に包まれたアデルの部屋は、ほの暗い蝋燭の明かりだけが頼りだった。
 彼女は慎重にベッドメイキングをしながら、服を丁寧に詰め込んでいく。ベッドの中央が、まるで人が眠っているかのようにふくらんでいった。
 火打石、羊皮紙、ガチョウの羽ペンを手に取ると、アデルはそっとポケットに滑り込ませた。最後に蝋燭と、小さなガラスオイルランプを割らないように布で包んだ。
 世界が闇に沈む中、アデルは窓辺に近づいた。開けるときの衝立の悪い、ギギギという音がひときわ大きく聞こえてビクッとする。冷たい夜風が入り込み、頬をかすめる。月明かりを頼りに、彼女は静かに窓枠にまたがり、外の世界へと身を投じた。
 丘の頂に佇む大樹は、夜空に向かって堂々と枝を伸ばしている。木々のさざめきを聞きながら、アデルはゆっくりと根元へと近づいた。そこには、まるで彼女を待ち構えていたかのように、座り心地のいい丸太が転がっている。腰を下ろすと、冷たい木肌が体温を奪っていく。わずかに身震いしながら、ウールのケープを首元に引き寄せた。
 アデルは地面に視線を落とした。枯れ葉が風に舞い、足下に小さな渦を巻いている。彼女は慣れた手つきで枯れ葉を集め、そっと火打石を取り出した。
 何度かの挑戦で、火花が枯れ葉に飛び火した。「よしっと!」細い炎が生まれ、彼女は蝋燭の芯を火に入れた。そしてオイルランプの保護ケースの中に立てた。
 ケープを頭から被り、蝋燭を風から保護した。アデルは羊皮紙を広げる。近視のため、紙に目を近づけないと見えない。近頃では、目つきが悪いと難癖をつけられることもある。ガチョウの羽ペンを軽く弾くと、インクの雫が紙の上で踊った。彼女の脳裏に、本の中の問題が鮮明に浮かび上がる。常人離れした記憶力のおかげだ。
 羊皮紙の上を、ペンが滑らかに走り始めた。
 時が経ち、空の彼方が突如として光に包まれた。
 遠くでハレー彗星が、その長く、青い尾を夜空に引きずりながら、地上へと近づいてくる。この年のハレー彗星は、過去最も地球に近づき、大きく見えたとされる。
 人々は恐れ、敬い、そして祈った。中には不安に押しつぶされ、窓を閉め切って部屋に閉じこもる者もいた。
 アデルは手を止め、高台の端まで行くと、淡い光が点在する街並みを眺めた。そして、つま先を立てて、彗星に手を伸ばした。
「ねえ、ハレー彗星。みんなはあなたを不吉だと言うけれど、私は気にしないわ。神様が私の祈りを無視するのなら、あなたに願いを託す。お願い、私から本を奪わないで。それだけで、私は満足なの……」
 彗星が返事をするかのように、強い北風が吹き、オイルランプが倒れた。そして、その輝きを増していった。アデルは手の平で、夜空の彗星を捕まえた。
「あなたはものすごい大きいんですってね。でも、ここからでは豆粒みたい。真実を知りたければ、自分で近づいて、飛び込まなくてはいけないのかもしれない……」
 アデルはハレー彗星が何かを運んでくることを期待したのかもれない。それは現時点では漠然としていて、形を成していなかった。ただ、明日の朝、目覚めたら違う世界が到来している、というくらい淡い希望だった。
 
 同時刻、遠く隔てた、だが、人間界のすぐ裏側にある悪魔界にも、憂いに満ちた瞳でハレー彗星を眺める少女がいた。彼女もまたその光の軌跡に何かを願ったのだろうか。
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