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文字数 4,154文字

 町は、儚いまどろみの中にいた。夜光が溶けだす前だった。かすかな鳥の羽音の他は、しんとしている。
 藍色の朝の静けさにおいて、しかし同じだけの静けさを持って動く影があった。手ずから家々へ届け物をしている。
 新聞配達だ。特段変わった行為ではない。ただ、乗り物は使っておらず、自らの脚による配達で、そして疾走しながらも足音はしていない。通った後には切られた風がゆらぐのみであり、飛騨麓丸(ひだろくまる)にとっては、基本の体さばきであった。
 高校に入学後、アルバイトをはじめるに際して新聞配達を選んだのは、家計を助けながらも足腰を鍛えるという修行を兼ねられるからだった。また、人通りの少ない早朝とはいえ、誰かに出くわす可能性がないとも言えず、普段は素性を隠して暮らさなければいけない麓丸にとって、隠密行動の訓練にもなるのだ。
 配達を終え、事務所を出た麓丸は、周囲に人がいないのを確かめてから、民家の石塀を伝って屋根へ飛び移った。不作法ながら、地道を行くよりは屋根上を跳んでいったほうが早い。まだ薄暗く、高速で動いているため、見咎められる心配はしていなかった。
 ところが、麓丸は視線を感じてもいた。今だけじゃない。配達中はおろか、家を出るところから、いや、もっといえばいくらでも以前からのものだ。麓丸はこの隠す気のない視線を、知りすぎるほど知っていた。どこぞから飽きもせず観察しているのだ。
 いつも通り無視を決め込むことにした麓丸は、二十四時間営業のスーパーで買い物を済ませ、家に帰った。だが、門扉も玄関もきちんと施錠をして居間に入ると、はたして視線の主は座っていた。
「おかえり。ただいま」
 テレビを見ながら、当然のようにくつろぐ姿も見慣れたものだった。
「ただいまはおかしい」
 テーブルに買い物袋を置いて麓丸は言う。
「お前の家じゃないぞ」
「つれないわねえ。大差ないのに」
「お前の家は隣りだ」
 言ってみたところで、にやにやするして手ごたえがない。ずっと見ていたくせに、いつの間に先回りしたのかという疑問もあるが、今さらだった。
「お疲れさま、にいちゃん。唯良乃(ゆらの)さんもいらっしゃい」
 手を拭きながら、台所から少年が顔を出した。
「早いな梅之助(うめのすけ)
「にいちゃんがバイト行ってるのに、寝てもいられないだろ」
 我が弟ながら殊勝なやつだ、と麓丸はちょっとうれしくなる。そこな幼なじみにも見習わせたい。
「ほい、牛乳とたまご」
「ありがと。あと、お味噌汁するからここにお願い」
「おう」梅之助が差し出した皿に味噌を盛る。
「それじゃあ朝ごはん作っちまうね」言いつつ、梅之助は腕まくりをした。「残りは?」
「まあ一応な。渡してくる」
 袋を持った麓丸はふすまを開け、廊下を通って奥座敷へ入った。使用人たちが集められている部屋だ。
「おかえりなさい。坊ちゃん」
 皆が寄ってきて、口々に言う。しかしそもそも、帰ったときに出迎えもしていないのだから、大して意味のない言葉だ。本命は別にあった。
「で、あのう」
 そら見たことか。催促するような上目遣いに軽くため息をつきながらも、麓丸は袋の中身をひとつずつ渡していった。
 河童にミネラルウォーター。
「へえへえ、すいませんな」
 ろくろ首に保湿化粧水。
「おおきに。アルブチン配合のも悪くないけど、やっぱりハトムギが一番やわあ」
 化け犬にドッグフード。これは器に入れてやる。
「みゃんみゃん」
 浮遊霊にアイドル雑誌。
「へへへへへへへ、悪いね」
 その他、豆粒ほどの群がる餓鬼たちに、ひなあられをばらまいた。わらわらと食事にありつく彼らをみて、麓丸は愚痴をこぼす。「なんでおれが」
「仕方ないでさ。われわれは常人には見えませぬからな」
 頭の皿に水を注いで河童が言った。
「盗みをするわけにもいきますまい」
「そうなんだがな」
 だったら水道水で我慢しろといいたくなる。けれどもこれが給料代わりなのだから仕方ない。
「お前ら、然るべき時にはしっかり働くんだぞ」
「へーい」
 だらしない返事を背に、部屋を後にする。居間に戻り、少しすると梅之助が朝ごはんを運んできた。と同時、母も起きてきた。
「唯良乃ちゃん。いらっしゃい」
「お邪魔してますわ。お母さま」
「いつも言ってるが、お母さまはやめろ。なんか怖気がするんだよ。母上もこいつを甘やかさないでください」
「麓丸。別にバイトなんてしなくていいのよ」
 母がおっとりほほえむ。
「唯良乃ちゃんと結婚しちゃえばね」
「まあ。お母さまったら、気が早いですわよ」
「その遅かれ早かれみたいなのをやめろ」
 飛騨家は貧しいわけではない。住居だってなかなか立派な日本家屋である。中流の少し上くらいだろう。だが、それを持ってして、というより比較にならないほど伊豪(いごう)唯良乃の家は大金持ちだった。維新の代から続く巨大貿易会社の社長令嬢なのだ。
 位置は確かにお隣りさんといえど、伊豪家の敷地が広すぎるため、どうもお隣りという感じがしない。三人家族では持て余す広さだと思うのだが、金があり余れば、使い道として自然に行きつくところなのかもしれない、とも考えられるが、窓を開ければ今でもなにかしら建造しているのが見え、やはり麓丸の金銭感覚とはかけ離れている。
 小学生の時分、麓丸は毎月コミック誌を買っていた。月のおこづかいが五百円で、買うと二十円しか残らない。その話を唯良乃にしたときだ。
「大変ねえ」
「ゆらのは、おこづかいどれくらいもらってる?」
「言い値よ」
 言葉の意味はわからなかったが、次元の違いを見せつけられた気がした。
 二人の出会いはもっと幼少期にさかのぼる。
 両親が共働きで、海外を飛び回りほとんど家にいないため、唯良乃の世話はすべて執事がやっていた。どこへ行くにも何をするにもついてくる。やめてと言っても、仕事ですのでと取り合ってくれない。甲斐甲斐しく面倒を見てくれるならまだよかったのだが、どの執事も事務的な世話ばかりで、唯良乃の心情を慮りはしなかった。何を欲しても即座に与えられる環境は退屈だった。
 心を閉ざそうとしてもうまくできない。孤独感は募る。ぎこちなくなった笑い方は、次第に頬を緩ませることさえ忘れさせていった。
 だから公園で他の子供たちが遊んでいるときも、唯良乃はじっと見るにとどまっていた。まざって遊びたい気持ちはあるが、気兼ねして誘えないのだ。他の子も彼女を見ないようにしていた。彼女の後ろに控える執事は、いずれも長身かつ鉄仮面。子どもからすれば特に圧力を感じてしまう。すべては娘に危険が及ばないようにという両親の配慮だったが、幼い唯良乃にとってはわずらわしいものでしかなかった。
「なんだおまえ、すみっこで。おまえも来いよ」
 しかし麓丸だけは違っていた。それはあまり物怖じしない性格で、執事のことなど気にしていなかったというだけなのだが、唯良乃からすれば、その少しぶきっちょな言い方もそうだし、なにより自分のことをちゃんと見てくれているのがうれしかった。
 しかも麓丸と一緒にいると、とにかく面白い出来事がたくさん起こった。とりわけ大きなことが二点ある。
 まず、家に妖怪が住み着いていた。
 原因は、捨て犬だ猫だと、困っている者がいれば何でも拾ってきた曽祖父の癖にあった。いくら妻が怒っても、どうにも見過ごせず、しまいには行き場のない魑魅魍魎の類まで家に住まわせるようになったのだ。妖の寿命は長く、当の曽祖父が亡くなり麓丸の代になっても、ずっと使用人として居続けている。最初から家にいたわけだから、麓丸からすれば特に驚きもないのだが、唯良乃にとってははじめて接する摩訶不思議であり、子どもの好奇心も手伝い、それはもう目を輝かせた。
 そしてもう一点、割愛などできぬ話があった。
 子どもの頃といえば男女の隔たりなく遊ぶため、いつも一緒にいる唯良乃は、麓丸にとって一番の友だちになっていた。だから麓丸は、うっかり教えてしまったのだ。自分が忍の末裔だということを。
 忍者とはその仕事柄、正体を悟られてはいけない。あくまで隠密に事を運ぶ必要がある。ゆえに、父から口外せぬように固く言い含められていたのだが、ちょっと得意になりたい子ども心が働いた、あるいは秘密を打ち明けたときのどきどき感が味わいたくて、つい言ってしまったのだ。
 唯良乃はわきまえているので、今日に至るまで麓丸の「内緒だぞ」を破ったことはない。そんなことより、家に妖怪が住んでいる忍者、という存在が面白くて仕方なかった。絶対に目を離さないとさえ決めてしまったのだった。
 それからというもの、いつ起こるとも知れぬが起こりそうな面白い出来事を見逃すまいとして、つきっきりの唯良乃は今日もご相伴に預かっている。
 当の麓丸からすれば、困ることこの上なかった。何度恥ずかしい現場を目撃され、指をさされて笑われたか。基本的な情報として、身長体重血液型、誕生日や星座くらいなら知られても差し支えないが、唯良乃のそれは並のストーキングではない。
 例えば、毎日の行動記録をつけているのは勿論のこと、髪と爪を切る周期、血圧の数値、歩きだす時はどちらの足からが多いか、(はな)をかんだ後のティッシュを確認するか否か、ショートケーキの苺はいつ食べるか、などの仔細な生態に加え、さらに、風呂に入ればどこから洗うか、毛が生えたのは何歳何ヶ月何日なのか、トイレットペーパーは一回で何巻き使うか、果ては女性のどの部位に性的興奮を覚えるかの変遷、どの媒体でなんというタイトルなのかまで熟知されている。思春期の男子には耐えがたき恥辱である。
 しかも近ごろは母と結託して、婚姻の流れに乗せようとしてくる。冗談とわかっていても、誰が乗るか、と三回は思う。事情を知らぬ同級生は「あんな可愛い子につきまとわれてうらやましい。うらやましにさらせ」などと言ってくる。じゃあ代われと、声高に叫ぶも届かぬ悲しみに暮れて暮れての幾星霜。
 だのに「ロク。お醤油ちょうだい」と言われれば「ん」と差しだす自分がいる。慣れとはおそろしい。子どもの頃の失敗がこうも尾を引き続けるとは。光陰矢の如し。月日は経つも同じ高校同じ教室隣りの座席変わらぬ横顔。もはや嘆く段階はとうに過ぎている。
 加えてまことに遺憾ながら、負の遺産はこれだけではなかった。
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