エピローグ グングニル

文字数 1,206文字

昨夜掃除した男は、死の直前、牙を剥き出しにした俺の姿を見てこう言った。
「欲しいものならなんでもくれてやるっ!! 金か? 情報か? なんでもやるから、命だけは、命だけはっ……!!」
「黙れ。お前は自分を神とでも勘違いしているのか。安心しろ、痛みを感じる前に地獄に堕としてやる」
「いっ、嫌だっやめろ! こっちに来るな!! 助けてくれっお前の望みを叶えるから!!」

たわけが。お前に叶えられるはずがないだろう。俺の欲しいものは、もうこの世にはない。


「死して詫びろ。無に還れ」 


その夜は月がなく、一層濃い影の中を潜って帰った。家に着く頃には時計の針は午前3時を過ぎていた。明かりもつけず、ベッド以外の家具がない簡素な部屋にひとり。返り血の着いたジャケットを脱いでその場に放る。シャツを第三ボタンまで開襟してスマホの電源を落とし、荒っぽくカーテンを閉め、そのままベッドに身を任せた。今日は休日。ただひらすらに、眠りたかった。

***

「お兄ちゃん、おかえり」

バイトを終えてボロアパートに帰ると、雅矢は笑って両手を広げ、俺を抱きしめた。靴を脱いで玄関を上がり畳に座るまで、雅矢はずっとくっついていた。狭い部屋の中、二人して壁に背をつけて体育座りで並んで座る。俺の右隣が弟の定位置だった。

「急に抱きついてどうした。何かあったのか?」
「ううん。お兄ちゃん、寂しそうな顔してたから」
「バカ言うなよ。俺は大丈夫だ」
「ほんとに?」
寂しいなんて感情は、とうの昔に捨て去った。
「いいんだよ、お兄ちゃん。僕はちゃんと見てるよ。お兄ちゃんがいつも頑張ってるとこ。僕は知ってるよ。お兄ちゃんが僕のために、世界を変えようとしてくれてること」
「……っ!!」

俺は反射的に雅矢に向き直る。そのとき俺は、大人の姿になっていた。いつの間にか血で汚れたジャケットも着ていた。けれどそれを見ても雅矢は表情ひとつ変えず、にっこり笑って俺の右腕を撫でた。そしておもむろに立ち上がり正面で向き合ってから、俺の首元に両腕を優しく回して、全身で抱きしめてくれた。とても、温かかった。

「悠矢兄ちゃん、ありがとう」
「雅矢……俺……」
涙がこぼれた。これまで頑なに抑えていた反動で、とめどなく流れた。どうしていいか、わからなくなった。

***

カーテンの隙間から目元をめがけて光が漏れ、強制的に覚醒を促した。ため息をついて、重い体を動かし仰向けになり、両手で顔を覆う。上体を起こして、ベッドサイドに両足を下ろす。そこには汚れたジャケットが落ちていた。
「捨てるか」
獣能力を発動させ、鋭い爪を引っ掛けて八つ裂きにした。そこに感情はなかった。ただ捨てるためだけの行為。足元に広がる、散りじりになった黒い布。爪を剥き出しにししたまま、しばらくカラの手の平を眺めた。

「……もう、止まれないんだよ。雅矢」

寂しいなんて感情は、とうの昔に捨て去った。だけど、会いたい気持ちは、いつまでたっても、ここにある。

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