第1話

文字数 1,935文字

 突風が吹いて制服のスカートがひるがえり、凛の身体はくるくると回った。中学からの下校時、公園沿いの道を歩いていた時のことだ。
 落ち葉を巻き上げながら遠ざかってゆく、ランニングシャツと短パンに身を包んだ後ろ姿を凛の視界が捕えた。それが凛のすぐ横を走り抜いてゆく際に吹いた風だった。
 凛に気づかせることなく迫った姿があっという間に消えて見えなくなった。なんというスピードだ。一度空に放たれた落ち葉が、はらはらとまた地面に落ちてゆく様を凛は見守った。

 以来凛は不思議な感覚にとらわれた。未知だが不安はない、浮き立つような浮遊感があり、凛をかりたてる。それでいて恐ろしい、底なしの畏怖の念にからめとられもし、定まらぬ思惑に凛は翻弄されていた。

 ちょうど一週間後のことである。下校時、また公園沿いの道で、突風が再度凛をくるくると踊らせた。
 凛はスカートの裾目一杯に足を踏ん張り、注意深く周囲に目を凝らす。そしてはるか遠方にランニングシャツの背中を認めるや否や、後を追うように一目散に駆け出した。
 ところが体を動かすのはせいぜい体育の授業中くらい、凛は上手く走ることができなかった。すぐに足をもつれさせるようにしてスピードを落とし、肩を落として歩き出す。
 落ち葉をじゃくじゃくと踏みしめると、突風に掴まれ自分の心は抜き取られてしまったのだ、とぼんやりと考えていた凛の仮定は確信に変わった。後ろ姿はとっくに見えなくなっていた。
 またあの正体不明の心持ちのままやり過ごすより他はない、今や凛の歩調はほとんど立ち止まってしまいそうなほど弱々しいものになっていた。

 その時だった。ふと風の変わり目を察知した凛が顔を上げると、驚くべきことに前方からあの姿が凛の方に向かって近づいてきていた。どこかでUターンしたのだろう、去った道をまた走りながら戻ってくる彼は、見る間に大きくなって、ずんずんと凛の視界いっぱいに広がりつつあった。
 凛は歓喜のあまり叫び出しそうになるのを堪えつつ、今度こそその姿をこの目に焼き付けようと、両足の裏でアスファルトをしっかりとつかみ、腰を落として瞬きも忘れて待ち構えた。あっという間だった。
 どっと押し寄せた風にやはり身体を持っていかれ、それでもくるりと一回転で耐えた凛は、目をかっ開いて、実像を視野に捕える。
 短パンからのぞく、一切の無駄を削ぎ落としたももから膝、ふくらはぎへと続くライン、繰り返し振りかざす両腕とぶれることなく保たれた上半身、一点を見つめて動かぬ視線とまっすぐ真一文字に結ばれたくちびるをのせた頭は舞い上がる落ち葉の中、カクリともぶれない。
 凛の真横を走り抜ける、それは刹那の逢瀬だった。されどその動きは、輪郭は、スローモーションよろしく強烈な残像を凛に焼き付けた。凛が考える人をはるかに超えた人、がそこにいた。

 ただ前へ、走る、己の限界を超えるべく、前へ。混じりけのない思いに直撃され、胸を撃ち抜かれた凛は大きくのけぞってその場にバタンと倒れた。彼が舞い上げた赤や黄色の落ち葉が、折り重なってはらはらと凛の上に降り注ぐ。

「怪我はない?」

 急ブレーキをかけ戻ってくるや凛を覗き込み、そう発した彼が同じ人間の言葉を話したことにより、凛は一気に親近感を持った。ランニングシャツには、駅伝の強豪校である近隣に建つ高校の名が刺繍してある。

「わたし、ぶつかったわけでは――」
「ないよね、怪我はない?」

 突風男子はそう言うと、手を貸して凛を立ち上がらせる。
 凛はこれ幸いと、静止した彼の、シャツから伸びる腕やももの上にのる筋肉を凝視してやった。骨と筋肉と皮だけで成り立っているかのようなその造形美に、凛は再び卒倒しそうになるほどの目眩を覚える。食い入るような凛の視線を気にする様子もない彼に、凛は問うた。

「好きなんですか? 走るのが」
「好きだ」

 吐かれたほとんど愛の告白のような台詞に再度ふらつく凛を、彼は軽々と支える。
 凛は走ることになど全く興味を持っていないはずだった。突風に巻き込まれて、心を抜き取られたが最後、有無を言わさず惹き込まれてしまったのだ。

「走ると、自分が風に溶けてなくなるんだ。おれはもっと速くなりたい」

 凛に対して、彼が個人的に特別何かをしてくれたわけではない。ただ、一心にひとつのことを極めようと努力する彼の迫真の情熱が、凛の心に突きつける。己の人生において、これほどまで何かに真剣に打ち込むことがあっただろうか。
 凛はたまらなくなって、聞いていた。

「走り方を教えてください。私、私も走ってみたい」

 彼は驚いた顔をしはしたが、すぐにははっ、と声を出して笑うと、凛に頷いてみせた。その時にはもう凛の心は凛を離れ、既に駆け出し始めていた。
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