清くも冷たき水の聖霊
文字数 2,534文字
「そうだな。気を抜くだけで、魂を奪われてしまいそうだ」
ベネットはザウバーと顔を見合わせ、一歩一歩を踏みしめる様に歩き始める。彼らは、歩みを進める度に重苦しくなる空気に幾度となく立ち止まりそうになった。しかし、それでも諦めず、互いに励まし合いながら進んで行った。
そうして、見上げなければ上部が見えない程に大きな扉の前に到着した時、二人は息を飲んで立ち止まる。
「この扉の向こう……居るな」
「ああ。恐くもあるが、進まない訳にはいかねえ!」
ザウバーは、そう言うと扉の取っ手に手を掛けた。不思議なことに扉は軽く、魔力を封じられたザウバーでさえ簡単に開ける事が出来た。
ザウバーとベネットが室内に入ると、全方向から謎の笑い声が響き渡った。この為、二人は声の主を探そうと、警戒しながら部屋中を見回す。
すると、蒼い長髪を備えた女性が、部屋の奥から二人を見つめていた。不意に彼らの目線が合った時、女性は笑みを浮かべながら白い右手を振り上げる。すると、その女性の右側には、氷浸けにされた少年が現れた。
少年の顔色は蒼白で、全身を氷に覆われている為か全く身動きをみせない。
「ダーム!」
ベネットは、その少年の姿を見るなり、彼の元へ駆け寄ろうと足に力を込める。しかし、ベネットの行く手を阻む様に水柱が現れ、彼女は後退を余儀無くされてしまった。
「ここで一つ、妾から提案が有る」
ザウバーとベネットの立つ中程に、細長い剣が現れた。その剣は、ゆっくりと上下しながら宙に浮遊し、その刃からは蒼い光が発せられている。
「その剣で相手を貫け。さすれば、その命を糧に子供を解放し、聖霊の力を与えてやろう」
女性は口元を押さえながら妖艶な表情を浮かべる。その話を聞いた二人は、訝し気な表情を浮かべて女性の顔を見つめた。
「どうした? どちらか一方の命と引き換えに、子供を解放し、水聖霊の力を与えてやろうと言うておるのだぞ」
淡々と言葉を発し続けながら、聖霊はダームを閉じ込めた
一方、ザウバーは溜め息混じりに鼻で笑うと、無言で先程現れた剣を手に取る。
「そこまで言われちゃ、答えは一つだな」
彼は剣を眺め、身じろぎ一つ出来ないでいるベネットを思い切り蹴り飛ばす。
「残念だが、ここでお別れだ」
そう言うと、ザウバーは手に持っている剣の柄をしっかりと握り締める。そして、彼は剣の切っ先を自分の喉元に突きつけると、突然の衝撃で立ち上がれないでいるベネットに対して微笑んだ。
「じゃあな」
ザウバーは、そう言うと柄を掴んだ手に力を込め、思い切り自分の方に引き寄せる。その一方、ベネットは反射的に目を瞑り、顔を背けた。
「これ程早く決着がつくとは。それも、自らへ剣を突き刺すか」
聖霊は、息の続く限り笑い続けると、ダームが閉じ込められている氷柱に軽く手を触れた。
「約束通り、子供は返してやろう」
聖霊が言い放った瞬間、少年を包んでいた氷柱は一気に砕けた。そして、氷の檻から解放された少年は、冷たい床に力無く横たわる。
「それと、聖霊の力だな」
そう言うと、女性はザウバーに音も無く近付いていく。
「リヒトとカニファに認められし者よ。聖霊の力を持ちながら、考えに気付かんとは」
それを聞いたベネットは、瞳を震わせながら恐る恐る青年の方に向き直った。すると、ベネットの瞳には、唖然とした表情を浮かべて立ち尽くす青年の姿が映し出される。
ザウバーの手に剣はなく、代わりに青白い靄が輝いていた。暫くして、ベネットの視線に気付いた青年は、何が起きたか分からないといった様子で、仲間の顔を見る。
「我が力を与える条件は二つ。一つは此処に辿り着く事。もう一つは、我が力を悪用しようと考えていない事」
聖霊は、二人の状態に構うことなく、尚も話を続けていく。
「力を得る為に他者を犠牲にする様な輩には、力を与えぬ」
そう言うと、聖霊は高らかに笑い始めた。
聖霊の話を聞いたベネットは、気が抜けてしまったのかその場で膝をつく。しかし、死ぬ覚悟でいた青年は、未だに何が起きたか分からない様子で固まっていた。
「それに、男。ファンゼの力を手に入れているのなら、もう分かっただろう」
そのような状況の中、聖霊だけは気丈に言葉を連ねていく。この時、尚も微動だにしない青年を見たベネットは、立ち上がるとザウバーの方に歩み寄っていった。
そして、彼女は首の前で止まっている仲間の手を掴むと、そのまま腰の高さまで下ろす。
「全ては終わった。早く目を覚ませ」
強い口調で言い放つと、べネットは青年の目をしっかりと見た。すると、虚ろだったザウバーの瞳は焦点を取り戻した。
「問題ない様だな」
ザウバーの安否を確認したベネットは、倒れ込んだままの少年に駆け寄る。彼女は、ダームの横に膝をつくと、冷えきった体を抱えて詠唱を始めた。
呪文の詠唱を終えると、ベネットはその感触を確かめるように、少年の髪を優しく撫でる。程無くして、少年はゆっくりと目を開き、焦点の定まらない瞳でベネットを見つめた。すると、ダームの頬には温かな水滴が零れ落ち、その水滴が乾く前にベネットは彼の体を強く抱き締める。
そんな中、聖霊は青年へ歩み寄った。聖霊は、呆けているザウバーの顔を下から覗き込むと、苛立った様子で口を開く。
「秘められた力を持ちながら、守られているとは愉快な話だ」
そう言うと、聖霊は部屋中に響く様な声で笑い始める。
「用は済んだのであろう? 下らぬ事で時間を取っていないで早く帰れ」
聖霊が艶笑しながら右手を振ると、氷上に紫光を放つ陣が現れた。そして、その陣の放つ光が薄い紫色から白色に近い黄色へと変わった時、聖霊以外の三人が陣へ引き寄せられていく。
「せめてもの情けだ。町に転送してやろう」
聖霊が嘲笑しながら言い放つと、途端に三人は陣に吸い込まれてしまう。
「さらばだ。選ばれし者達よ」
誰も居なくなった部屋で呟くと、聖霊は静かに微笑を浮かべる。この時、陣は光を失い、聖霊も昇華する様に消えていった。
闇を食らう者:紅 に続く――