第1話

文字数 1,828文字

一九四六年、ニューヨークのリトルイタリーにある安アパートでのお話。

「あいつ、また踊っていやがる!」
 ラジオで野球の中継を聴いていたロレンゾが怒鳴った。
 床のカーペット越しでも、一階下の天井で踊るステップの音は激しく響いた。
「また恋をしてるんじゃない?彼、例の病気でしょ」
 皿を洗いながら、妻のリザが台所から言った。
「試合に集中出来ないじゃないか!」
 ビールを振り回しながらロレンゾは怒った。

 ロレンゾたちの部屋である四〇二号室の階下、三〇二号室では、リザの想像通りに新しい恋の相手を見つけたヘンリーが踊っていた。床で、壁、天井で。
「ああ、君の事が一時も頭から離れないよ」
 近くの花屋で働き始めたパットを考えると、ヘンリーの足は自然とステップを踏んでしまう。
 彼女の笑顔を想うと、彼の気持ちはより強く燃え上がった。
 そして、床から壁へ、壁から天井へ、舞い上がる気持ちと共にダンスの舞台は移動していくのだった。
 ヘンリーが十代の後半になった頃、恋をするとステップを踏みたくなった。そして、それが次第に床で踊るだけでは済まなくなってきた。
「恋愛性浮遊症候群ですな」
 分厚い眼鏡をした初老のドクターは診断を述べた。
 二十代に入って最初の大きな恋をした時、症状がひどくなる一方。ついに病院へ行ったのだ。内科やら外科、いろいろ回ったあげく、精神科でやっと診断が下された。
「稀な病気ですな、ワシも論文でしか読んだ事はありませんでした。これまでフランスやルーマニアなどで五例ほどが報告されています」
「原因は何ですか?」
「そら、恋ですね」
「でも、他にも恋する人間は沢山!」
「相手に対する想いが強く、真面目で内気な若者が罹りやすいそうです。それ以外に遺伝要素とか太陽光線の影響やら色んな他の要因が推測されていますが、よく分かっていないというのが実情ですな」
「で、治療法はあるんですか?」
 精神科医は白衣の裾で眼鏡を拭きながら、答えた。
「恋する気持ちが収まれば、自然に落ち着きます」

 ヘンリーの奇妙な病気の症状を聞きつけ、新聞記者とカメラマンがやって来た。
「本当に天井で踊れるのかい、君?」
「ええ、愛しいパットの事を想うとこんな風に」
 額縁に入った恋人の写真を見ながら、ヘンリーはステップを踏み始めた。そして、興が乗ってくるとついに天井へ!
「撮れ、早く撮るんだ!」
 カメラマンはフラッシュを焚いて数枚の写真を撮った。

 翌日、新聞の片隅に‟天井で踊る男”の記事が掲載された。写真も載り一部で話題になった。しかし、トリック撮影だろうという声が多かった。
「なんで真実なのに信じてくれないんだ」
 ヘンリーは憤った。そんな折、ニュース映画会社から撮影の話が来た。
「よし、これで人々の疑いを晴らしてやる!」
 ところが…。

 約束の当日、撮影隊がヘンリーの部屋にやって来た。
 扉をノックをした。
「どうぞ入ってください…」
 小さな声で返事があった。
 そこには椅子でうなだれるヘンリーの姿があった。
「どうしたんだい?」
 監督が尋ねた。
「失恋してしまったのです…」
 ヘンリーはかぼそい声で言った。
「また新しい相手が見つかるよ。さあ、撮影をしよう」
「駄目なんです」
「えっ?」
「もう心が沸き立たず、天井では踊れません…」
 撮影隊のメンバーは顔を見合わせた。

 ロレンゾは仕事を終えアパートに帰って来た。入口の階段にヘンリーが座っていた。放心状態で。
「元気を出せよ」
「パットを失い、人々からは嘘つき呼ばわりされ…もう生きているのが嫌です」
 ロレンゾは頭を掻いた。そして、抱えていた茶色の紙袋からビールを一本取り出した。
「ビールでも飲めよ」
「僕は飲めないんです」
 またロレンゾは頭を掻いた。少し考えた後、今度は紙袋からハムを取り出した。
「じゃあ、これだ」
「悪いですよ…」
「いいから、いいからよ」
 ヘンリーに肉の塊りを押しつけ、ロレンゾはアパートの中へ入って行った。

 それから数週間後。
「あいつ、また踊ってやがる!」
 ロレンゾは怒鳴った。
 床から軽快なステップの音が響いていた。
「今、ツーアウト満塁で大事な時なのによ!」
 ビールを喉に流し込むと、ロレンゾはソファに落ち込むように座った。
「ふんっ、まったく手間のかかる若僧だ」
 彼の口の端が少し上がった。

 ヘンリーについての小さな記事を読んだフレッド・アステアが、そこからヒント得て、数年後に映画『恋愛準決勝戦』の中で天井で踊る場面を撮ったが…それはまた別なお話。
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