第4話
文字数 1,922文字
私はこの発見を母上に伝えようと考えた。母上、母上、0.003ならば大輝殿は寂しくないはずである。
大輝殿は学校へ出掛けていた。私は大輝殿の部屋のベッドの上で、掛け布団を排熱で暖めていた。
母上、母上、と二階の部屋から階段を降りたところで、私の耳はぴんと立った。聴覚センサが、声を捉えたのだ。
家族のみなが自由に移動できるようにするため、家は昼間は窓を開け放し、空気が自由に通るようにしてある。風が吹かないときはみなが暇だというので、私が前脚でつついて動かしてまわるのだが、なかなかに大変である。
開け放たれた障子の向こうから、やめなさいという母上の声が聞こえた。それから、ぷしゅうううと大きな音と、よいしょ、と見知らぬ声。
和室に、歳のころ大輝殿と同じくらいの、一人の少年の姿があった。
赤いキャップを斜めにかぶって、首にやわらかそうな茶斑のマフラーを巻いている。
「やめなさいって言っているのに」
母上の声を、ぷしゅううう! と空気の抜ける音がかき消す。見ると畳の上には、円筒のシリンダーを黒いプラスチックが覆った空気入れがひとつ据えてある。
シリンダーから伸びたチューブの先が、母上の背中の空気穴に差し込まれている。少年が空気入れのハンドルを押したり引いたりするごとに、母上の空気が抜けていくのである。空気抜きモード搭載の空気入れ。しかもダブルアクションタイプである。
「いやねえ。小皺が目立つようになってきちゃったわ」
ぱんと張っていた母上の身体に、シワが刻まれていく。やがてべこりとおなかがへこんで、上半身がクタンと前に垂れた。それでも空気が抜かれていくと、徐々に小さく萎んでいきなさる。
いやねえ、皺が目立つのよ、と呟く声を最後に、母上の空気は完全に抜き去られ、平らに圧縮されてしまった。
あとでアイロンで綺麗に皺を伸ばしてさしあげよう。考えていると、空気穴から口金を抜き取った少年が、私を見下ろして眉をあげた。
「おまえ、大輝の飼い猫か」
私は応えて少年を見上げ、にゃあおと鳴き声を再生した。
少年はぱちりと目を瞬いて、それから声をあげて笑った。
「なんだよ、メカ猫じゃねえか。本物の猫を飼うこともできないのかよ」
少年の首に巻かれた茶斑のマフラーがもぞもぞと動き、くるりと尻尾を振ってこちらを向いた。二つの目玉が開いて細まり、じいと私を見下ろした。猫である。メカじゃない猫である。もふもふとしている。私は劣等感を感じた。
少年は帽子のつばを斜めにずらし、腕組みをして胸を反らせた。
「メカねこ。大輝に伝えておけ。おまえの空気入れ生活ももう終わりだってな。いや……帰ってきたようだな」
開け放たれた窓の向こうから、アプローチの階段を昇る、とんとんという足音が聞こえてきた。玄関の戸が開く鈴の音がして、ただいまーと大輝殿がおでましになる。
少年を見て、びっくりと目を見開いた。
「おまえが大輝だな。それが、おまえの空気入れか」
棒立ちになった大輝殿に、少年は躊躇なく詰め寄った。大輝殿の前に立ちはだかり、拳一つぶんの身長差でもって見下ろす。靴を履いたままの足を上げ、壁に挟んで大輝殿の動きを封じる。
「おれの名は亮太。隣町の小学校に通ってる。なに、隣町でみんなの空気を入れてまわるいけ好かない奴がいるって噂を聞いてな。どんな奴なのか気になって、今日はちょっと挨拶にきたってわけだ」
「そうなんだ」
大輝殿はぺこりと頭を垂れた。
「わざわざありがとう。お茶も出さずにごめん」
「フン。おかまいなく」
亮太はにやりと不敵な笑みを浮かべると、センセンフコク、と口を動かした。
「おまえにセンセンフコクしに来た。大輝。今日からおれが、みんなの空気を抜いてやる。おまえがいくら空気を入れても、おれが全部抜き取ってまわってやるぜ」
亮太はそう言うと、大輝殿の反応を吟味するような間をあけた。
それから、どうしてそんなことするんだって訊かないのか? と言った。
大輝殿は困った様子で目をぱちぱちさせている。
「おれの村正とおまえの空気入れじゃ勝負にならない。それを思い知らせてやる」
亮太は誇示するように自分の空気入れを掲げる。彼の空気入れは村正というようだ。では大輝殿の空気入れは正宗とかエクスカリバーとかでいいであろう。
亮太はしばらく大輝殿を見据えていたが、やがてまた不満げに唇を尖らせた。
「どうしてそんなことするんだって訊かないのか?」
「ど、どうしてそんなことするんだー!」
床の上からぺらぺらの母上が言った。母上優しい。
大輝殿は学校へ出掛けていた。私は大輝殿の部屋のベッドの上で、掛け布団を排熱で暖めていた。
母上、母上、と二階の部屋から階段を降りたところで、私の耳はぴんと立った。聴覚センサが、声を捉えたのだ。
家族のみなが自由に移動できるようにするため、家は昼間は窓を開け放し、空気が自由に通るようにしてある。風が吹かないときはみなが暇だというので、私が前脚でつついて動かしてまわるのだが、なかなかに大変である。
開け放たれた障子の向こうから、やめなさいという母上の声が聞こえた。それから、ぷしゅうううと大きな音と、よいしょ、と見知らぬ声。
和室に、歳のころ大輝殿と同じくらいの、一人の少年の姿があった。
赤いキャップを斜めにかぶって、首にやわらかそうな茶斑のマフラーを巻いている。
「やめなさいって言っているのに」
母上の声を、ぷしゅううう! と空気の抜ける音がかき消す。見ると畳の上には、円筒のシリンダーを黒いプラスチックが覆った空気入れがひとつ据えてある。
シリンダーから伸びたチューブの先が、母上の背中の空気穴に差し込まれている。少年が空気入れのハンドルを押したり引いたりするごとに、母上の空気が抜けていくのである。空気抜きモード搭載の空気入れ。しかもダブルアクションタイプである。
「いやねえ。小皺が目立つようになってきちゃったわ」
ぱんと張っていた母上の身体に、シワが刻まれていく。やがてべこりとおなかがへこんで、上半身がクタンと前に垂れた。それでも空気が抜かれていくと、徐々に小さく萎んでいきなさる。
いやねえ、皺が目立つのよ、と呟く声を最後に、母上の空気は完全に抜き去られ、平らに圧縮されてしまった。
あとでアイロンで綺麗に皺を伸ばしてさしあげよう。考えていると、空気穴から口金を抜き取った少年が、私を見下ろして眉をあげた。
「おまえ、大輝の飼い猫か」
私は応えて少年を見上げ、にゃあおと鳴き声を再生した。
少年はぱちりと目を瞬いて、それから声をあげて笑った。
「なんだよ、メカ猫じゃねえか。本物の猫を飼うこともできないのかよ」
少年の首に巻かれた茶斑のマフラーがもぞもぞと動き、くるりと尻尾を振ってこちらを向いた。二つの目玉が開いて細まり、じいと私を見下ろした。猫である。メカじゃない猫である。もふもふとしている。私は劣等感を感じた。
少年は帽子のつばを斜めにずらし、腕組みをして胸を反らせた。
「メカねこ。大輝に伝えておけ。おまえの空気入れ生活ももう終わりだってな。いや……帰ってきたようだな」
開け放たれた窓の向こうから、アプローチの階段を昇る、とんとんという足音が聞こえてきた。玄関の戸が開く鈴の音がして、ただいまーと大輝殿がおでましになる。
少年を見て、びっくりと目を見開いた。
「おまえが大輝だな。それが、おまえの空気入れか」
棒立ちになった大輝殿に、少年は躊躇なく詰め寄った。大輝殿の前に立ちはだかり、拳一つぶんの身長差でもって見下ろす。靴を履いたままの足を上げ、壁に挟んで大輝殿の動きを封じる。
「おれの名は亮太。隣町の小学校に通ってる。なに、隣町でみんなの空気を入れてまわるいけ好かない奴がいるって噂を聞いてな。どんな奴なのか気になって、今日はちょっと挨拶にきたってわけだ」
「そうなんだ」
大輝殿はぺこりと頭を垂れた。
「わざわざありがとう。お茶も出さずにごめん」
「フン。おかまいなく」
亮太はにやりと不敵な笑みを浮かべると、センセンフコク、と口を動かした。
「おまえにセンセンフコクしに来た。大輝。今日からおれが、みんなの空気を抜いてやる。おまえがいくら空気を入れても、おれが全部抜き取ってまわってやるぜ」
亮太はそう言うと、大輝殿の反応を吟味するような間をあけた。
それから、どうしてそんなことするんだって訊かないのか? と言った。
大輝殿は困った様子で目をぱちぱちさせている。
「おれの村正とおまえの空気入れじゃ勝負にならない。それを思い知らせてやる」
亮太は誇示するように自分の空気入れを掲げる。彼の空気入れは村正というようだ。では大輝殿の空気入れは正宗とかエクスカリバーとかでいいであろう。
亮太はしばらく大輝殿を見据えていたが、やがてまた不満げに唇を尖らせた。
「どうしてそんなことするんだって訊かないのか?」
「ど、どうしてそんなことするんだー!」
床の上からぺらぺらの母上が言った。母上優しい。