第13話 雪解雨 ―麻琴side―

文字数 9,682文字


 十二月に入ると冬は本格化して、気温が下がった夕方から夜にかけて雪が舞う日が増えた。十一月の半ばに退院してから、動悸を感じることなく仕事にも復帰した。夜勤は師長さんの配慮もあって、十二月から慣らしていくことになった。念の為、いつも持ち歩くショルダーバックの中にパルスモニターを入れておいた。すぐにでも使えるようにしておけば、安心と思ったせいか、元々の図太さのせいか、私の症状は二回目以降出現する事はなかった。
 勤務の話を史悠さんにすると、身体を気遣われ、仕事の行き帰りにも花屋にはちょくちょくといつもと同じように顔を出した。
 退院した日、海に史悠さんが連れて行ってくれてから彼はもの凄く優しい。
元々、穏やかな人だとは思うが、私に対する優しさは父親のようなものもある。心配とか、無理しちゃダメ、とか、保護者みたいでこそばゆい感じがしてしまう。そんなに言ってくれなくても、彼より若いけれど、もういい大人だし、社会人だし、ある程度の常識的な行動には気をつけている。やっぱり、歳下と言うのはそんな扱いを受けてしまうものなのだろうか。彼と対等に歩いて行きたいのにな。守られたいわけじゃない。むしろ、守ってあげたいと思うぐらい。それはさすがに図々しすぎるか。
 緑のアーケードを抜けて、橋元記念病院を目指す。
頬に当たる風は冷たい。息を吐くと白い息が空中に浮かんだ。マフラーの中に顎を少し入れて、手袋の中で指先を丸める。
 ショルダーカバンを持ち直して、足を進めた。
 商店街の中ではクリスマスソングが流れていた。

 昔、私は季節の移ろいを数字で感じていた。入院した窓から見えるのは、桜の木、庭の芝、駐車場、大通りの道、病院に出入りする人々。そして、空。
 この中で季節を感じるものは、桜で春を、芝の緑の濃さで夏を、病院に出入りする人の服装で冬を感じていた。それ以外、季節は病院の中には存在しなかった。だから、せめて、自分も子供心に季節を探したのかもしれない。今思えば、食べ物とか、病院の飾り付けとか色々探せばあったとは思うが、その時は自分の病室が世界の全てだった。視野が狭かったのだと思う。
 だから、カレンダーの残りの枚数を見たときに、自分の知らない何かが過ぎ去ってしまったことを知ってショックだった。中学生の時は特にその想いが強かったかもしれない。だから、外に出られない時の雨の空は大嫌いだった。
 その空は私の心全てを表しているようだった。
 私は仕事終わりにぼんやりと窓越しに冬の暮れゆく空を見た。冬の夕暮れはなんだか物悲しい。年末が近いからか目に見えない何かが終わっていく感じがする。
 休憩室に入ると、先に春香が座って、コーヒーを飲んでいた。
「麻琴、クリスマス休み、いいな〜」
彼女は入ってきた私を見て、机の上の勤務表を指差した。
「春香は仕事?」
私は春香の勤務の欄を見て、日と書かれたのを見つけた。
「あ、日勤だね」
「だね」
私もコーヒーを淹れようと思って、コップにインスタントコーヒーの粉を入れた。ポットのお湯を注いで、軽く混ぜて、コップを持って春香の向かいに座った。
 春香は右手で肘をついて私の顔をじっと見た。
「なに?」
「花屋のイケメンって結構、情熱的なんだね」
春香のその言葉に飲んでいたコーヒーを溢しそうになった。
「ちょっと、春香っ、ゴホッ、ゴホッ」
「何よ?」
何よ、じゃなくて。私はコーヒーを机に置いた。白衣にごげ茶色の小さなシミが何個かできた。
「それ、どーゆう意味?」
「小山先生が退治された話」
「退治された話って」
顔が赤くなるのを感じる。
「人が人に愛してるって言うのを初めて聞いたって言ってたよ。ドラマ以外で」
その言葉に何も言えなくなる。
「麻琴は超えちゃったんだねぇ」
春香は私の事などお構い無しに話を進める。
華やかな顔のクッと上を向いたまつ毛が私を見た。
「亡くなった奥さんの壁が高いって言ってたけど、そんな事なかったね。壁じゃなくて、違う星の生き物だったんじゃない? それか、麻琴の一途さに負けたか」
違う星って、宇宙人扱い? でも、根負けしてくれたのもあるのかもしれないな。でも、今はどっちでも、なんでもいいな。一緒に居られる理由があるだけで、私は十分だ。
 笑っていると春香は眉を寄せた。
「何、その笑顔。何か言いなさいよ。幸せ者の余裕か〜」
「いやでも、やっぱり歳上だからか、向こうは余裕そうだし、過度に心配される感じはあるよ」
春香はその言葉にますます眉を寄せた。
「そりゃ、他の人が居ても、愛してるって言うぐらいだからね。麻琴のことが可愛くて可愛くて仕方ないんじゃない? で、大事なんでしょ」
その言葉に自分の顔がますます赤くなっていくのを感じた。
「あぁ〜いいな〜、私も一途に好きになってくれる人いないかな〜、出来れば玉の輿もセットで」
その言葉で笑ってしまった。
「春香その玉の輿、何度も言ってるね。そんなに仕事辞めたいの?」
「違う、違う。やっぱり、病院で働いてると医者と出会える可能性が高いけど、私は玉の輿だけじゃなくて、愛も欲しいんだよ〜」
「それを世間では、理想が高い、と言う」
春香は笑った。そうそう、と相槌を打つ。
「それを世間では、行き遅れる原因、と言う」
コーヒーを持った春香は自分で言って、笑った。

 春香とは更衣室で別れて、携帯の時計を見ると午後六時過ぎだった。携帯をしまって、手袋とマフラーをして、橋元商店街を目指す。緑のアーケードが目に入り、イルミネーションとクリスマスソングが耳に入った。ベージュで印字された山瀬生花店を目指す。
 生花店の入り口は赤い花と小さなクリスマスツリーみたいな鉢植えの木が並んでおり、店先にスノーマンの光る大きな人形が飾られていた。
「あ、まこっちゃぁぁぁん!」
郁人くんが店から出てきており、私と目が合った。後ろから史悠さんの姿が見えた。
二人とも同じ緑のセーターを着ている。
お揃いに笑ってしまった。二人ともよく似合っている。
「郁人くん、史悠さん、こんばんは」
白い息を上げて、二人に近付く。
「こんばんわっ」
「こんばんは」
二人は返事をして、店先の花を片付け始めた。
「あれ、もうお店閉めちゃうんですか?」
「うん、一緒にイルミネーション見に行こうかなって。ことちゃんも一緒に行こう。明日休みでしょ?」
史悠さんは鉢を店に入れながら、目尻を下げて笑った。
昨日メッセージで仕事帰りに寄ってね、と来ていた理由はこれだったのか、と思わず笑ってしまった。
「……また笑ってる。思い出し笑い?」
「史悠さんの事、考えてたんです」
私の返事に彼は、口元を緩ませた。
「目の前に本人がいるのにこっち………」
彼はそこまで言って、口をつぐんだ。
郁人くんがじーっと史悠さんを見ている。
「おとーさん、もうにやにやしないでよぉ。イルミネーションみにいくんでしょ〜」
「だから、にやにやじゃなくて、ニコニコって言え」
その何度目かのやりとりに笑ってしまった。
 片付けを済ませて、白の軽ワゴンに乗って近くのイルミネーションがある公園に三人で向かった。シーズンのせいか人は多く、私と郁人くんははぐれないように手を繋いだ。私の横に頭二つ分上の史悠さんが並んでいた。
「人、多いね」
史悠さんの口から白い息が上がる。
「そうですね。はぐれないようにしないといけないですね」
色とりどりの鮮やかなイルミネーションが眩しい。サンタクロースにトナカイ、光のドームもあり、LEDの電飾が点滅して明るい。史悠さんの笑顔が光に照らされている。郁人くんの手を右手に握っているから、左にいる史悠さんの手を握れるかもしれない。ドキドキしながら、彼の手を見る。茶色の手袋がカーキの上着から覗いている。それを目指して手を伸ばした。
史悠さんは私が握った手を持った。持ってくれたが、そのまま、私のポケットに入れた。
「手握るより、ポケットの方がいいよ。暖かいし、人が多いから転けたら、そっち郁人と手を繋いでるから、こっちは自由な方がいい」
耳に口を寄せてそう言った。近い低い声にドキッとしたが、なんだか、ショックだった。ちょっと勇気出して手を伸ばしたのにな。こんな時まで子供扱いしなくていいのに、と思う。
「みてぇぇぇ! まこっちゃん! あのトナカイうごいてる!」
公園の端のトナカイの電飾を見て、郁人くんはキラキラした笑顔を浮かべた。
「本当だ〜、何匹いる? 三匹? 四匹?」
さっきの気持ちを打ち消すように声を出す。
「四ひきっ」
「一、二、三、四匹だねぇ〜」
公園内のイルミネーションを見て、帰りに三人でファミリーレストランに寄って食事をし、生花店に帰った。
時計を見るともう九時過ぎだった。
「郁人、もう遅いから家の中で待ってて、ことちゃん送ってくるから」
「おとーさん、おふろじゅんびしとくよ」
郁人くんは、まこっちゃん、またあそぼうね、と手を振って別れた。
 車は私の家に向かった。夜の国道は昼間より車通りが少し減っていた。
「寒くない? 大丈夫?」
「大丈夫です、でも」
「でも?」
彼は私の顔をちらっと見た。
「手を繋ぎたかったです」
私がそう言うと、彼はあからさまに困った顔をした。なんで?前に海にドライブに行った時は優しく抱きしめてくれたのに距離がいきなり開いたみたいに感じた。
「えっと、それは、今日は人が多かったし。また今度ね」
赤信号で車を止める。車の中に沈黙が流れる。ちょっと重い沈黙。
「分かりました」
渋々返事をしたが、声は全然納得していなかった。
 車はあっと言う間に家の前に着いた。私はなんだかこの空気のまま、家に入るのが嫌でシートベルトを外して、彼を見た。史悠さんは一瞬、瞳を揺らした。
「史悠さん」
名前を呼んで、彼の両腕に手を伸ばす。両手で服の袖を掴んで目を閉じた。不安になってしまった気持ちを消して欲しかった。彼の顔がゆっくりと近づく気配がして、唇が寄せられた。でも、その場所は私の唇ではなく、額だった。
「寒いから、早く家に入って。今日は、ありがとう。おやすみ」
唇はすぐに離れて、抱きしめられる事もなく、私は促されるように車から出た。
「今日はありがとうございました」
運転席の窓が開いて、彼は手を振った。家の中に入ると車が去った音がした。
 なんで、急に彼は私と距離を取ってしまったのだろう。不安がよぎる。入院した時、小山先生にはっきりと恋人だ、と言ってくれた。そして退院した日も私に対して、優しくでも少しだけ激しく気持ちを伝えてくれた。それがすごく私は嬉しかった。でも、今日の彼は違った。なんだか、遠慮していたし、大事にしてはくれているけれど少し遠かった。
 そして、唇ではなく額にキス。
 自分の唇に触れて、キスして欲しかったと思い、恥ずかしくなる。前は彼と一緒にいれるだけで、十分だと思っていた。会える約束ができるだけで奇跡だった。けれど、彼に触れられないと足りなくなっている自分がいる事に気づく。恋心が膨らみわがままになっていく自分をコントロールできない。それを彼に気づかれたのかもしれない。厚かましい女と思われたのかも。
 私はため息をついて、自分の部屋にショルダーカバンとコートを置いた。明日は休みだけれど、どうしようか。そう思って携帯を見ると、明日はどこに行く?とさっきの事はなかったかのように史悠さんからメッセージが来ていた。
 明日は火曜日。
 火曜日は店の定休日で私の休みが合えば、出かけたり、ご飯を食べたりすることが習慣化しつつあった。
 あんなに楽しみで嬉しくて仕方なかった火曜日に少し陰りが出てしまったように思えた。


 火曜日は彼が車で家まで迎えに来てくれて、県外まで足を伸ばし、観光し帰ってきた。夕方五時過ぎに郁人くんの迎えの前に家まで送り届けてくれた。
 昨日の事は完全にスルーされ、私もそんな史悠さんの様子に合わせた。恋人になっても好きが大きいと自分の気持ちを持て余すんだ、と彼に送ってもらった後に思った。でも、その気持ちは言えなかった。彼はとても私を大事にしてくれていた。連絡は欠かさずくれたし、休みの日が合えば一緒に出かけ、一緒に居ようと合わせてくれる。体調も気遣ってくれるし、夜勤の後も私が眠そうにしていたら、家に私専用のひざ掛けを買ってくれたぐらいだった。
 でも、なんか違う。これは贅沢な悩みなのだろうか。好きだけど、大事にされているけれど、何かが引っかかっていた。

 そんな気持ちのまま私はクリスマスを郁人くんと史悠さんと三人で過ごして、クリスマスケーキを一緒に食べた。彼は私にクリスマスプレゼントとしてネックレスをくれた。私は彼にマフラーをプレゼントした。郁人くんにはバルーンジャーの変身セット。郁人くんは大喜びでそれを受け取ってくれた。
 クリスマスの日も彼は家まで車で送ってくれたけれど、手にも触れなかった。私は段々と自分が彼の彼女として自信がなくなっていくのを感じていた。プレゼントも貰って、一緒にクリスマスを過ごしても、もう少し私だけの特別が欲しかったのかもしれない。片想いしていた私が今の私を見たら怒るかもしれない。わがまま言うな、一緒に居られるだけ、幸せでしょ、と。
 でも、私の気持ちは徐々に膨らんで、本当に際限がない。


クリスマスが過ぎ世間は一気にお正月ムードになったが、元旦早々仕事だった。
「麻琴も仕事だね」
更衣室で白衣に着替えながら、春香は私を見た。私も白衣に着替える。
「今日は元旦だから、道空いてたね」
「うん、電車も少なかったよ」
「元旦早々、働くのは良いのか悪いのか分かんないね」
「確かに」
着替えて病棟に入る。仕事に取り掛かった。


 一月、二月と行く、逃げると表すように時間は流れるように過ぎ去ってしまった。史悠さんとの関係は平行線で、彼はドライブに行って海に落ちる雪を見て以降、彼は私に一切、触れなくなってしまった。もしかしたら、私の色気がないことが原因で、彼は、今頃、魅力がない事に言い出せずにいるのかもしれない。やっぱり恋人になって、全然子供だ、つまらないと思われているのかもしれない。その証拠にキスなんて口にすらされなくなってしまった。手も繋いでくれなかった。会いたいから会いに行って、一緒に過ごして、嬉しい。でも、関係が進まない事にショックを受けて、でも会いたいを繰り返す。なんだか、私らしくない感じ。もう図々しいなりに彼が何を思っているのか聞いてしまおうか。聞くのはちょっと怖い。私の魅力がないのであれば、それはどうしようもない。彼もそれを言い出せずいて、それが態度に表れているのかもしれない。
 私はぐっと覚悟を決めた。ヘタしたら、思わず告白した時よりも緊張しているかもしれない。今度、会った時に彼に自分の気持ちを伝えようと思った。


 二月の最終週の月曜日。
 日本列島は記録的寒波に襲われ大雪に見舞われた。交通機関はマヒし、大通りの国道は積雪10㎝を記録した。
 次の日の火曜日、天候は一転し、陽の光で雪はゆっくりと溶けていった。しかし、午後からの降水確率は80%と高かった。
 火曜日の朝に天気予報を見た後、史悠さんに電話をかけた。
「ことちゃん」
低い声が近く聞こえる。会っている時より近いその声にドキッとする。会っている時はこんなに近くで声を聞けない。最近は特に。
「麻琴です」
浮つく気持ちを抑えながら、声を出す。
「今日、午後から天気が悪そうなんで、私が史悠さんの家に行きますね」
その言葉にすぐに史悠さんは、いや、と声を出した。
「いや、家はダメ」
ダメって。その言葉が頭を回る。なんで、家に行くのがダメなのだろうか。いつも行っているのに。
「え、どうしてですか?」
「いや、今、ちょっと、散らかってるし、その、綺麗じゃないし」
なんだかはっきりとしない。今まで仕事の行き帰りで、小上がりの畳の部屋や店で過ごすことが多かったのに今更だ。
「私は全然、散らかってても気にしないですよ。一緒に片付けしましょうか?」
「あ、そうだ、行きたいところがあるんだけど」
話を思いっきり逸らされた。行きたいところって言っても、午後から雨が降るのに、史悠さん大丈夫かな。嫌じゃないんだろうか。
「でも、午後から降水確率80%ですよ。昨日の大雪も残ってるし、家で過ごす方が良いーーー」
「いや、今日は外に行きたいところがあるから」
珍しく史悠さんが言うので、私は渋々了承した。
 私の家の近くの駅に待ち合わせ場所を変更して、服を着替えて駅に向かった。道の横には残雪が道路の泥と混じって、灰色に染まっていた。ゆっくりと陽の光を浴びて溶けていく。その水分で道路は湿っている。ショルダーバッグの紐を握り直して、足を進める。気温が低いのか足先が少し悴む。
 駅の出入口にカーキのジャケットを着て、茶色の手袋をした、男性が立っていた。ビニール傘を持っている。視線が合うと目尻にシワを作って笑顔になった。私は走って彼に駆け寄る。
「ことちゃん、走ったら危ないよ」
「大丈夫ですって」
私は彼に近づいた。白い息が上がる。
「これ見て」
史悠さんは携帯の画面を私に見せた。
「ここの公園、もう梅の花が咲いてるらしいから、これ見に行こう」
「分かりました。ここに行きたかったんですね。すみません、雨が降るから、家の方がいいと思って気を使いすぎました」
彼の隣に並んで、駅に向いた。
「いや、行きたかったというか、家に居たく無かったというか、まあ、行こう。ことちゃん花好きって言ってたよね」
私はその質問に思わず笑ってしまった。そういえば、史悠さんに出会った頃なんとか彼と接点を持とうとして、花が好きで、郁人くんと話したいと言って、必死で近づいていった。
「史悠さんの方が好きですけどね」
そう言って彼を見つめると、史悠さんはまた困ったように笑った。
「私、今日、史悠さんに話があるんです」
彼の様子を気にせずに続ける。困った顔を見たくない。けど、緊張するけど、ちゃんと伝えて分かってもらいたいし、彼がどう思っているのか知りたい。
「話?」
私の言葉に彼は首を傾げた。
「はい、大事な話です」
彼は私の言葉を聞いて、真剣な表情を浮かべた。
「分かった、公園で落ち着いて聞くよ」

 電車に乗って、梅の花の公園の最寄りの駅で降りた時から雲行きは怪しくなっていた。天気予報は当たりそうだ。携帯を見ると午後一時過ぎ。灰色の分厚い雲が上空に広がる。
 彼の横に並んで、公園を目指す。公園に着くと小雨が降り始めた。私は折りたたみ傘を、彼はビニール傘を広げた。傘に当たる雨の音が小さく響く。周りには誰もいなかった。
 公園には残雪があり、雨がそれを溶かすように降り注いでいた。屋根付きのベンチがあり、その横に紅梅が蕾を少し膨らませていた。薄く開いているのもある。
「咲いてますね。少しですけど」
「そうだね。まだやっぱり早かったね。寒いし」
白い息が彼の口から登った。傘を持っていない反対の手はポケットに収まっている。
今日も手は繋がなかったな。
「あ、あそこに自動販売機ありますね。暖かいの飲みましょう」
二人でコーヒーとカフェラテを買って、屋根のあるベンチに座った。傘をベンチの横に置く。カフェラテを口に入れながら、十一月に行った海でのドライブデートを思い出した。あの日もこうやって二人で暖かい飲み物を見ながら車の席に座って、同じ方向を見ていた。今はあの日が懐かしく思える。確かにあの日は史悠さんの心の近くに居ると思えた。
今は全然その時の心境と違う。でも、この距離を諦めたくない。持っていたカフェオレを左手に持ち替えて、右手を彼の手に伸ばした。
「あっ」
避けられた。ショック。
 そこまで触るのが嫌なのだろうかと涙が出そうになる。私はあの日から自分知らないうちに彼に避けられるような事をしてしまったのだろうか。
「あ、ごめん。えっと、避けたわけじゃない、えっと」
彼は動揺して、言葉を探していた。
その行動でもう、手を握って貰えないのだなと思った。
「史悠さん」
名前を呼んで彼の目を見た。
彼は一瞬だけ瞳を揺らした。前はそんなに居心地悪そうにしていなかった。
「女性としての魅力ないですか? 私、史悠さんからみて子供っぽいですか?」
ずっと自分の中で不安だった言葉を口に出す。付き合って、思ってたのと違って、がっかりしてるんですか。
「そんな事ない。ことちゃんは女の子として可愛いだけじゃなくて、女性としても魅力的だよ」
苦笑いを浮かべながら彼はそう言って、私を見た。
「じゃあ、なんで」
私はカフェオレの缶を両手で握る。
「じゃあ、なんで、触ってくれないんですか?………もっと、触って欲しい」
彼を見る。彼はますます困った顔を浮かべて私を見た。
そんなに困る事、言ってる? そんなに嫌?
 史悠さんは私から視線を逸らした。大きく、はぁぁぁ、とため息を漏らした。缶コーヒーをベンチに置いて、頭を抱えた。
「あの、さ」
横目で私を見て言う。
「それ、分かって言ってる?」
その目の鋭さに心臓が騒ぎ出した。
「分かってます」
「いや、分かってない」
「分かってますっ!」
「全然、分かってないよ」
彼は私の腕を強く握って、自分の体に抱き寄せた。史悠さんの匂いに包まれる。久しぶりにこの腕に包まれて、私はずっとこうして欲しかったと、強く思った。顔を彼の胸に埋める。
 彼は体を離して、私を真っ直ぐに見つめた。その視線を向けられ、急に身が竦む思いがした。電気が走った感じ。彼の目で動きを止められる。
「ずっと僕、我慢してた。もう何度も夢で抱いてるし、閉じ込めてる」
その言葉に体の熱が急激に上がる。さっきまで足先まで冷たかったのに、言われた言葉で一気に沸騰しそうになる。彼の言葉一つで、単純な私。
 史悠さんは私の両腕を掴んだまま続けた。
「そんな事、現実のことちゃんに出来るわけない。若いのに君の世界も大事にしたい」
「わ、わたしは」
「わたしは史悠さんに大事にされてます、分かってます。でも、子供じゃないです。女の人として大事にされたい。わがままですか?」
彼は、も〜、と言って、私を見つめて、再び抱きしめた。今度はさっきより優しく、包み込まれるようだった。
「僕も本当なら今すぐ抱きたい。何度も愛を囁いて、溶かして、僕の事しか考えられなくなるようにしたい」
彼のその言葉に私の不安が溶けていくようだった。
「でも、ことちゃんが大事なんだよ」
大事にしてくれているの分かってます。でも、私もあなたに優しくしたいんです。触れ合って、それを伝えたい。
「あなたの腕の中で大事に溶かして下さい」
私がそう言うと彼は、体をゆっくりと離した。顔が近付いてくる。唇を私の口に落として、角度を何度も変えた。キスは触れるだけのものから、徐々に深くなる。体が舌によって熱を帯びていく。寒いはずなのに体温が体の内側から上がっていく。熱い。胸が痛い。甘い。舌が吸われて痺れる。脳天まで引っ張られている気がする。両腕で彼の体にしがみつく。しばらく、彼の舌に溺れていると舌と唾液が口から、少し糸を引いて出て行った。熱を帯びた目で史悠さんは私を見た。その視線をもっと向けられたい。
「家、来る?」
私は頷いた。彼は立ち上がって、傘を持った。私にも渡した後、右手を握られる。彼は、小雨の中をやや急いだ様子で進んだ。
 小雨が残雪に降っている。雪は雨と混じって、公園の地面に飲み込まれていく。その様子を横目に、彼に手を引かれながら、家路に急ぐ愛しい人の背中を見つめた。
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