第二章 奇妙な符丁
文字数 12,622文字
ああ、仕事が面倒臭い。
実践主義の現場は自分向きではないとよく判る。そうかと言ってこんなことを考えると志気に係わるので、仕事も一所に集中する様にしている。周囲にも気を配らないといけないのだが、それが上手く行かない。これが生来の持つ性格なのか病んで倒れてから形成された変化なのか記憶が朧なのでよく判らなかった。
ただ、頭の片隅にあったのは少年とどう接しようと言うことだ。
少女は向こう側から来ると確信めいた口調だった。
と言うことはだ、少年は自分程度の行動なら予測出来る程度の諜報能力を持っていることになる。
本当に何者なのだろうか?
少女と居た場所に偶然居たと言うのは余りにも出来過ぎている話だった。
これは推測の域を超えないが、もしかしたら同盟国にとって相当注意深く観察されている人物ではないかと邪推してしまう。
「まあ、そんな巨大な案件は私には回って来ないか」
独りで冷徹に苦笑する。
理由がない。
同盟国群が態々そんな回りくどいやり方をするとも考えがたい。
自分が住んでいる寮に帰ると玄関前には少年が居た。
何で?
そう言う思いに駆られたが、慌てて家の中に招き入れた。
落ち着く為にジュースを一本取り出し、口を潤す。蓋の開いてないジュースを少年に差し出すが、首を横に振った。
要らないと言う意味合いなのだろう。
「折角奢ってくれるのに、ごめんね」
少年は申し訳なさそうな表情をして頭を下げた。
「別に……気にする程のことじゃない」
一度、家に来ていたとは言え、突然の来訪には戸惑う。
「で、何の用だ?」
「『籠』は渡せないよ」
籠? 何の話だ。すると少年は唐突に切り出す。
「『彼女』にそう伝えて欲しい。これ以上教えることは出来ないって」
「………………」
今言ったことは聞き間違いがなければ『彼女』と言った。つまり自分の背後にあの名も教えて貰えていない少女の存在がいると知っている。その事実を仄めかしている?
この少年はどこまで知っている? 『籠』とは何だ?
「じゃあ、お邪魔な様だから失礼するよ」
「あ……」
「うん?」
少年は無邪気にこちらの顔色を伺う。その少年に自分が取った行動は。
結局、引き止めてしまった。
詳しく知ることは自殺行為にも等しいこの世界で何故こんな判断を下してしまったのだろうか?
だが、論理的な思考が世界の全てではない。寧ろ、論理に頼らない直観こそ得てして正しい時もある。
論理と直観は必ずしも一致しなければならないものではない。
旧教の指導者の中にはそう言った指導者も居た様な気がした。
実は自分が主観的に考えていることこそ所詮は主観なのだ。自分の演算処理内で論理を組み立てているに過ぎない。
信徒として考えるなら聖霊の助言に沿うのが正しい。それは得てして人の論理ではなく、神の論理の中で与えられるものだ。
「『籠』とは?」
「僕達の組織への呼び名の隠喩みたいものだね。だけど、この場合は意味が違う」
少年は自分をジィッと見詰める。
意味が違うとはどういうことか? 少年は呆気なく答えを与える。
「君達信徒一人一人のことを僕達は『籠』と指す場合もあるんだ」
信徒一人一人が『籠』? 全く意味が判らない。少年は尋ねる。
「旧約聖典はどれ程読んだことがあるの?」
「いい加減な信徒なもんでね、旧約の方はほとんどさっぱりだ」
大体、旧約聖典は謎が多すぎて手に負えない。先に新約聖典から解釈しなければ、解釈の仕方も相当変わってくるだろうと思う。原語においては全く手を付けていない。辛うじて自分の国の言葉に訳された訳文を少し眼に通しているだけだ。
少年は自分の言葉を素直に受け止めた様で説明し始める。
「出エジプト記は読んだことはあるの?」
「ほんの少し」
「その中に出てくるのが『籠』だよ」
そんな単語があっただろうか? よく憶えていない。
出エジプト記。確か、ノアやアブラハムの後の時代だと思うが。イスラエル民族がエジプトに移住して段々奴隷化して行って苦しい最中に解放者が現れる話だった筈だ。その解放者こそが。
「預言者モーセの話か?」
「そう、彼が赤ちゃんだった時にパロによる迫害が起きていたよね。彼のお母さんが彼を護る為に『籠』を造って川の岸の葦の中に置いた」
記憶は定かではないが、大体そんな話もあった気がする。
しかし、何で。
「何で『籠』?」
そこがよく解らない。信徒一人一人を『籠』に当て嵌めるのと、モーセの『籠』が繋がらない。更に少年の口振りからするともう一つ意味がありそうだが、見当も付かない。
「信徒一人一人が預言者モーセの様に大事に想われているんだよ。信徒だけじゃなくて世界中の人達も、全ての命が、全ての存在がお父様の創った『籠』の中にいるんだよ」
「うーん」
どうにも納得出来ない。神は愛である。ならば、神は全てを愛しているのも道理として通る。確かに通るが、腑に落ちない。
「ごめん、そうだよね。納得出来ないよね。でも、今の僕の口から言えるのはこれ位なんだ」
その科白は少年の背後には何か巨大な後ろ盾があると見て良い。接してから未だ僅かだが、この少年は隠し事をしたくない様に見える。だとすれば、少年の背後にいる者が口止めしていると言う可能性が浮かび上がってくる。そうかと言って、この少年が格下の序列にいる様にも思えなかった。どちらかと言うと不可思議な存在ではあるが、何となく凄いと言う印象を与える。その何となく凄いと言う感覚自体が奇妙なものなのだ。
恐らくだが、少年は確固たる信仰、信念の持ち主なのだと感じられる。金で愛は買えないときっぱり断言する辺りが良い証明だろう。
他方で少年からは権力者特有の威圧感が感じられないのだ。何となくなのだが、親しい間柄、心を許せる人特有の何かがあるとしか言えない。厳しさや威圧感より慈悲や優しさが圧倒的に優っている感じがする。
だからこそ自分は少年を何となく凄いと感じてしまう。
「あんたも大変なんだな」
自然と科白が出た。これは紛れもなく本心だ。すると少年はこちらに詰め寄って来て真剣な表情で説く。
「大変なのは君の方だよ」
その言い方だと本当に大変なのは少年ではなく自分の方だと言わんばかりの主張である。少年は懐からタブレットを取り出した。何処からそんなものをしまっておく余裕があったのだと言うこちらの疑問を挿む余地もなく一つの動画が流される。
流された画質は鮮明である。少し広い部屋があり、複数の人々が映し出されていた。
件の少女が映し出されていた。少女と向かい合う様に知らない男性が椅子に縛り付けられていた。男性は自分と同じ国の出身らしい。少女は自分にも判る言葉を話している。
「で、どうするのかしら?」
少女は威圧的に男性に訊ねていた。男性は口を封じられていた。だから呻くことしか出来ない。
だが、その呻きの内容を解したとばかりに少女は不気味な嗤いを浮かべて答えている。
「そう。それがあなたの答えなのね。じゃあ、質問するわ」
ここで少女の口調が変わり始める。
「貴君は教会に連なる信徒たる私に刃向かうか? 貴君は神の代理たる教会に逆らうか? 貴君は完全なる神に背くのか? そうか! 宜しい! ならば屠られよ! 私は屠殺が好きだ。陵辱が、暗殺が、虐殺が、殺戮が、撲殺が、抹消が、根絶が、ありとあらゆる殺人が好きだ。希望に満ちた子供らの瞳が絶望に彩られていくのを眺めるのが無性に好きだ。未来に何も希望を持てない若者らがただ屠り場に連れ去られて行く姿が無性に心地よい。人生を諦めた大人らががらくたの如く使い潰され、心が壊れていく様を観ていると喜んで踊りたくなる。老人らの未来への希望が一縷の希望さえ握り潰された瞬間、虚無に服す姿に感動すら覚える。世界の人間よ、遍く生命共よ、貴君らが神の子羊の様に無残に無様に愚かに屠られる姿を私は観たいのだ!」
何処かの独裁者宜しく演説染みた言葉を嬉々として垂れる少女に画面の中の人達も自分も寒気を覚え、戦慄する。
何これ? 馬鹿じゃないの? 何言ってるの?
この三言が正直な感想だった。
動画の中の少女はレイピアを持って男性を突き刺す。決して死なない様に、それでいて苦しみを長く味わわせる。何度も何度も突き刺す。少女はこうすれば死なないで苦しみ続ける方法を熟知している様子だ。男性は至る所から血を流し、叫ぼうとしていた。 男性が恐怖に絡み捕られ、無残にも失禁していた様子だった。
少女はやがて飽きたのか違う方法で男性を苦しめ始める。釘打ち機でより椅子に固定出来る様に半ば強引に肉に釘を打ち込み始めたのだ。音が鳴る度、男性より悲鳴染みた呻きが挙がる。
それにも飽きたのか少女は趣向を変え始めた。
やがて、少女の側近達が一組の老夫婦と親子を連れてくる。子供は息子と娘で必死に母親が守っていた。母親は男性の妻なのだろう。
「選びなさい。父母か、妻と息子と娘か」
男性が小刻みに震え、呻き、涙を流しながら懇願する。口を封じられても言いたいことは判る。
それだけは赦してくれ。
男性の眼はそう訴えていた。
だが、少女の瞳は冷徹そのものだった。
「選択が出来ない人は駄目ね」
少女が手を挙げると側近の一人が老父の眼を抉った。
短い悲鳴と共に老父は膝を屈しかけた。だが、老父は倒れなかった。
何が老人をそうさせるのか理解出来ないが、老父は息子に語りかける。
「わしらを捧げよ」
老母も強い意志の眼で訴えている。
「私達は屈しません。そして、あなたに赦しが訪れていることも確信しています」
老母は少女に向かって語りかけた。
少女は老夫婦を嘲笑い、男性に語りかける。
「だそうだが、お前はどうする?」
男性は悲しそうな瞳をして彼の父母を見詰めた。それは悲しい決断だった。家族を守る為に家族を犠牲にしか出来なかった男性の無念さ。それは動画を通しても感じるものがあった。
家族が駆け寄ろうとすると途端に屈強な側近達に囲まれた。
男性は疑問符を浮かべた顔付きで焦っていた。少女は側近達に二言三言語ると母と娘は屈強な男達に衣服を破られ、あられもない姿にされ、慰みものにされて行った。親子は悲鳴を上げながら彼女ら自身に降りかかった不条理に力弱い限りで精一杯抵抗している。
男性は突如として声にならない声で喚き立て、少女達に抗議の意を示した。少女は下らないことだと言わんばかりに確認する。
「私は『選べ』と言ったが、助けるなどと言ってないわ」
老夫婦が抗議しようと屈強な男達に抵抗するが逆に抑え付けられてしまった。
「その子供達に薬を打ってやりなさい。男の子の方は初体験を私が務めてあげましょう。何、偶にはこう言う余興も必要よ」
とは言っても、と付け加え、続ける少女。
「薬によって感度が数千倍にも上がるのでしょうから行為が終わった後は廃人よね。後、老害共を強制労働所に連れて行きなさい。使い終わったら肥溜めに加工するのを忘れない様に」
側近達に連れて行かれようとする老夫婦を見て男性は怒りの呻きを挙げた。
それを観た少女はレイピアで四肢を切り刻む。信じられないことに綺麗に両手足首を切断してしまった。少女は男の子を手招きする。側近達に薬物を打たれながらも子供は震え、失禁していた。
「残念ねえ。あなたが楽しませてくれないとお父さんがもっと酷い目に合うけど、良いかしら?」
子供は酷く怯えながらも少女の方に近づいて行く。少女はレイピアで男の子の衣服を綺麗に切り刻む。裸体になった子供は恐怖と死を目前した本能からか、それても即効性の薬物の影響なのか、幼いながら膨らみかかった陰部が見えた。
少女は服を脱ぎ、男性に見える形で男の子と合体する。それを見た瞬間の男性は呪いを吐き出す様に声を唸らせる。男の子の方は早々に果ててしまい、それでも薬の効果が強いのか陰部が大きくなって少女を求めている。
「近頃の子供は早いわね。淡白なのも特徴的ねえ」
少女は男性を見遣る、男性の眼に憎しみが宿っていた。それはもう呪詛と言って良い程の殺意の眼付きだった。
「良い眼付きになってきたわ。ただ、未だ絶望に到っていない。ところで坊や、お姉さんの中はいかが?」
男の子は声で答えられない代わりに恍惚とした表情と少女に見せる思慕の情を男性に見せ付けた。少女は呆れた様に肩を竦める。
「まあ、性の快楽を知らない子供が性の快楽の虜になっている。つくづく屑ねえ。あの女共も見なさい」
少女が指し示した先には薬で快楽漬けになっている先程の親子が居た。最初こそ抵抗していたにも係わらず、今では自分から身体を差し出している。
「これやあれが今やあなたの心配をしているとでも思う?」
男性は怒りを持ちつつもその瞳には虚無が満ち足りつつあった。そんな男性に少女は宣言する。
「誰も助けてくれないわよ。世界なんてそんなものよ」
でも、と少女は付け加えて続ける。
「私達と共に歩むならあなた達の自由と平等を神はお返しするわ」
その言葉を聴いた男性は微かに眼が蘇った。だが、暫く眼で逡巡し、妻や子供達の姿を見てから少女を見据えた。その瞳はよく解らないが何らかの覚悟を宿している様にも見える。少女はそんな男性を見て詰まらなそうに呟く。
「ああ、下らない。本当に下らない。もういいわ、そこで死ぬまで妻や子供が遊ばれているところを見てなさい」
少女が立ち上がると男の子の動きが止まった。男の子は眼球を真っ赤にし。血の涙が流れていた。薬物の影響か、もう視界が視えてないのか手探りで探り当てている雰囲気だ。少女は邪魔そうに男の子を突き飛ばし、側近達に二言三言告げると好色そうな者達が男の子を羽交い絞めにし、慰みものにして行った。
「それらを使い終わったら奴隷と売り飛ばしなさい」
少女は男性の妻や子供達をもの呼ばわりして男性の反応を観ていた。男性は震える様に何かに祈っている様子だった。そんな男性を観て少女は吹き出していた。
「馬鹿みたい。皆、御覧なさい。神に背き見放された愚かな屑共を嗤ってやりなさい」
側近達は下卑た表情で男性を見詰め、恥ずべき行為を男性に見せ付け、更なる快楽に浸っていた。男性の家族も心の壊れた人形の様に笑っていた。それはあたかも見られたくない痴態を観られ、更なる欲情が湧き上がっている様にさえ見えた。
その時、別の側近が入室してきて少女に耳打ちする。
「あらあら、そう」
少女は嗤って無礼な口調であることを男性に伝える。
「残念ねえ、あなたの父は先程死んだみたい。何でも妻への待遇に耐えられなくて抵抗したみたい。それで運悪く死んでしまったみたいねえ、まあ、とても背教者らしい最期だわ。屑には屑なりの最期と言うものがあるのねえ」
その言葉を聴いた男性は瞳が死んでいった。恐らく、男性にとって父親は誇り高い存在だったのだろう。それを根から全否定された死によって、少女の悪質な言葉で男性の心も死んでしまったかの様な虚ろを男性は漂わせていた。
少女は興味が失せたのか服を着直し、まるで誰もいなかったかの様に部屋を後にした。
動画はそこで終わっている。
「何だ、これ……」
一言で言うと信じられないである。
倫理の領域を逸脱し過ぎた一連の流れにおぞましさを覚える。
いくら同盟国でもこんなやり方は許されていない筈だ。いや、許されているのか。末端や世界の表舞台に出てこないだけでこんなやり方自体はどこの国でも黙認されているのかも知れない。
だが、そのやり方は明らかに教会の教えから逸脱していた。
どうにも先程から腑に落ちないことばかりだ。『籠』のことと言い、少女の非日常と言い、不可解な点ばかりだ。それとも、この非日常こそ世界の裏なのか? 人を愛すると言いながら人を殺す。大義の前に正義は黙する。裏の世界などではないのだろう。これが人の世界なのだ。人を活かすと唱えながら合理的に人を処分し、一部の支配者が世界を自由に動かす。大小あれども、この不条理こそ世界なのか。
この動画を見て少女の性質と言うものがよく理解出来る。己自身の為に教会と神の権威を利用し、自らは罪に耽る。己自身を神の代行者と喧伝している訳だ。
「判らないな。結局あんたは何が言いたい?」
「彼女の為に祈って欲しい。そして今の彼女との関係を改めるべきだと思う。判っていると思うけど、君達の関係は対等じゃない」
「そんなことは当たり前だ」
同盟国群の重要人物と事実上の植民地国の末端では立場が違う。
「人は生まれながらに自由で平等なのに?」
「そんなのは建前上だけの話だ」
同盟国の話にある。創造主の創りし国として人は生まれながらに自由と平等が保障される。建前は立派だ。
だが、現実には神はまるで不在の様で人々が喘いで苦しんでいる。だからこそ人は却って救いを求めるのかも知れない。自分も含め、心の何処かで神の存在が感じ取れない。まるで自分達が社会の歯車になってしまったかの無機質感、平たく言えば人として見做されていない。人を名乗ることを許されたのは少女の様な強権者だけなのだ。この歪な構造そのものが自分達の世界そのものなのだ。神を神と認識するのではなく自分達の権威付けの理由として利用する世界。本当に神のことを第一に考えている人間がどれ程いるだろうか? 肉による生き物である人間は肉の思いに囚われているのに。そう心の中で批判する自分が最も肉の思いに囚われていると言うのに。
少女との繋がりは切りたくても切れない。そう世界は歪に構成されているからだ。そこで叫ぶ者は抹消されるし、碌な生き方も出来ないだろう。
「そこまで言うなら、あんたが何とかしてくれ」
半ば投げやり気味に言って見た。この少年は何処かその肉の思いとかけ離れた感じがする。不思議だ。自分がここまで心を開く、もっと言えば甘える、駄々をこねると言った行為を何故この少年に行っているのか? それが自分でもよく解らない。
「うん、分かった」
「………………」
少年の答えは予想出来たと言えば出来た。だが、その先の行動はどうするつもりなのだ? それが予想出来ない。少女の要求に応えるのか? それとも他に何か選択肢があるのだろうか?
「次に彼女から連絡が着たら僕も一緒に行く」
「話し合いが通用する相手じゃない」
「それでも話し合いの卓に着いて貰うよ」
穏やかな少年が珍しく強気の発言をした。
この少年の背後にいるのはとんでもない存在かも知れない。もしかすると旧教の最高指導者だったりしてな。
同盟国相手に対面切れるのは世の中にそうそう居やしない。話し合いとは対等の力かほぼ均衡する勢力にのみ適用される。
「で、そちらは何人で行ける?」
「何言っているの? 君と僕とで彼女を話し合いの場に着いて貰うよ。必要なのは盾であって剣じゃないよ。無駄な警戒心を煽るのはよくないよ」
「………………」
もしかしなくてもだが、今自分はかなり危ういのではなかろうか? 直観を信じて少女を裏切って少年に付こうと言う答えは間違いだったか? 最悪、轢き殺されるかも知れない。比喩とかではなくそのまま文字の通りに。いや、それで済めばよい方と思う殺され方を少女が用意している保証は十分あるのだ。少年が見せてくれた少女の性質を表した動画を見てよく判る。
冷静にならないといけないかも知れない。
しかし、直観は告げる。
この少年が最も正解に近しい。信仰の世界に正答なぞないが、それでも少年の信念が自分にとって最も安心すべき位置にいると告げている。
それに、もしかしたら少年の取っている行動は合理性に基づくものかも知れない。
少人数で行って警戒心を持たせないのも一理ある。交渉とはやり方次第で大きく展開を変えていく。
そして、この少年の背後には何かが居る話し振りだ。少年はそれを明かすことは出来ない様子だが、逆に考えればそれだけ手を出してもいけない存在ではあると推定出来る。
何だ、直観も論理も一致するではないか。尤も論理は推論の域を出ないし、強引な解釈ではあるが。
「今度、少女から連絡があったらあんたを呼ぶ。無駄かも知れんが合言葉を作っておきたい。いつ、どんな場所でどんな言葉を言えばあんたと会えるのか?」
「いつでもいいよ。場所もどこだって行くよ」
「ほう」
感心する言葉だ。では自分が同盟国本国に連行されようと少年はいつでも来られると言うのか。大した自信だ。
「合言葉は……神は『全てに救い』をお与えになる、でお願いしていいかな? 長いなら『全てに救い』だけでもいいよ」
「それはそれは何とも言えない御都合主義に溢れた言葉だな」
ある意味、皮肉な合言葉だ。これから殺されるかも知れないのに自分が救われているかの様な言い方だ。もっと言えば、少女に向けられた言葉でもあるかも知れない。それはそれで皮肉だな。救い様がない者にさえ赦しを与える姿勢が何とも言えない。
世界のほとんどの教派はその考え方は採用しないだろう。
だが、符丁として使い易い。
「じゃあ、それで決まりだね」
少年は微笑むと玄関に向かった。このまま帰ると言うことなのだろう。
そう言えば、少年のくれた十字架とは結局何だったのだろう? 特に盗聴器の類でもなさそうだが。
「なあ」
尋ねようと思い、再び玄関の方に行くと少年の姿は既にない。
まるで風だな。風の様に気儘に何処からともなく現われたり、消えたりする人だ。風の行く所は自分には解らない。
ただ何となくでは少年はすぐ傍にいるのではないかと言う思いに駆られた。
馬鹿な譬えをしたものだ。自分は疲れているのだ。この一週間で随分疲れた気がする。なのに、気力は充実している。心の何処かがあの少年と会えて嬉しいのか。阿呆らしい。男色ではない自分が少年と会えて嬉しいと思う心が理解出来ない。
女性だったらなあ、とは思っても求婚はしないだろう。あの少年の持つ独特の雰囲気が婚姻には結び付くとは言えない。
不思議な人だ。
少女とは正反対の人。
そう考えると突如スマホが鳴る。一瞬だけ振るえたのを見ると恐らく少女だろう。
落ち着け。自然と話を持ち出さなければならない。一呼吸し、電話を掛け直す。
「良い塩梅ね」
珍しく上機嫌に話す少女の声だった。
「ああ……」
ここで気取られてはならない。
「で、あなたが組織を抜ける為の交渉にあの子が来てくれる訳ね?」
内心、驚愕し絶望に陥る。全てを見抜かれている? いや、そんな筈はない。
「あなたもつくづく馬鹿ね」
冷徹に変わった少女の声を聞いて肝が冷える。その言葉はまるでこれから処刑の判決文を読み上げられる感覚に近かった。少女は言葉を続ける。
「よりによってあんな作り物の動画で騙されているなんてね」
「へ?」
一体何が何だ? 何故先程の少年とのやり取りを彼女は知っている? 自分の声に動揺が混じっているのを察してか少女は呆れ声で説明を始める。
「はあ、先ずあなたの今の立場から説明するわ。ただ今私達における最重要人物はあなたの接しているあの子なのよ。で、当然あなたへの監視体制も強まる訳。近くに私達の基地ないし情報局からあなたの行動を監視していたのよ」
しかし、周りに人がいる気配はないし、家の中に盗聴器や監視装置がある気配がない。少女はそれを先読みしたかの様に説明を続ける。
「良い? 身近に監視装置や諜報員がいたら向こうは怪しむでしょうが。それはあまり公に出来ないわ。ま、簡単な話。近くに居なくても音や会話を拾う技術や内部の様子を探る幾つかの技術はある。今回は早い話が新型衛星と情報局のお陰よ」
機密情報に当たる部分があるのだろう、具体性のある話はない。ここから近隣の情報局から集音していた可能性が高いとしか推測しようがない。
「それであなたは裏切るの?」
「あ、いや、その……」
「止めておいた方が良いわよ。私達はそういうところは容赦しないから」
そして、続けて少女は言う。
「あの子に続くのも危ないわよ。冷静に考えなさい。神は『全てに救い』をお与えになるなんて万物救済論の主張よ。現代の同盟国でも少数派の思想よ。そんな考えをもったあの子が普通だと思う?」
確かに論理的に考えて普通ではない。
だが、あの少年は確信している。何を基にその信仰を成り立たせているのか解らないが、とても強い信念だ。
しかし、少女はその信念を一言で片付ける。
「ああ言う者を狂信者と呼ぶのよ。あんな加工動画であなたの心を乱したのが良い証明でしょうが。ああ言う者は自分の正しさを疑わないものよ。二週間。考える時間をあげるわ。冷静になって組織の一員として務めを果たしなさい」
一見すると自分のことを思い遣っている掛け声なのだろうか?
何処から何処までが少女の性質が判別出来なくありつつある。
冷徹そうで自分の心配もしてくれているのか?
だが、少年の瞳を思い出すとどうしても裏切りや腹黒い気持ちとは無縁の気がしたのだ。
自分の気持ちに判断を下さなければならない。
「かしこまりました……」
そう言うのが精一杯だった。裏を掻ける筈もなくただひたすら平身低頭するばかりだった。
情けない。少年と居ると何でも出来そうな気持ちになるのに独りになると途端に卑屈だ。
どうすれば良い?
考えても答えは出ない。
先ずは心を落ち着かせることだ。少女は二週間の猶予を与えてきた。
「ああ、それと」
通話先の少女が付け加え忘れたとでも言う様に言葉を出してきた。
「悪魔は天の御使いや預言者の振りをして近づいてくるのよ」
少女はそう言うや否や通話を一方的に切ってしまった。
どう言う意味だ? 少年が悪い人みたいな言い振りだ。
あの少女は最後に疑いの釘を刺していった。
どうする。少女は危険性において高いが、同盟国への忠誠を求めている。少年を渡すことで身の安泰を保障してくれるのか? いや、あの少女に限って他者の都合を計算してくれるとは思えない。
しかし、少女の言う少年の持つ信条そのものの危険性も正しくその通りであるものだ。
ぐだぐだ考えても埒が明かない。落ち着いて情報を整理し、少女との対面の前に少年にもう一度会っておく必要がある。
それにしても自分が自分の保身しか考えていない事実に気付くと反吐が出そうになる。少年は自分のことを兄弟などと慰めてくれたが、屑からは屑しか産まれない様に自分は自分のことばかり考えている。
「信徒失格だな」
独り愚痴る。正しくその通りで今の自分はまるで神の独り子を銀貨三十枚で売り払った弟子に似ていた。いや、似ていると言う表現は違う。自分は既に兄弟を売り払っている弟子なのだ。
あれから一週間経った。
その間は仕事に没頭する以外何もしない様にしていた。余計なことを考えると行き詰まる。端的に言えば今日を待っていた。今日、少年を呼ぼうと思った。思ったのだが、何故か少年が今日も玄関にて待っていた。
別に嫌な気分ではない、寧ろ会えたのは僥倖だ。ただ、残念なのは符丁の実用性を確認出来なかったことだが。
「何か嫌な出来事があった様だね?」
少年は心配そうにこちらを伺う。
何を言えば良い? ふとそう思い尋ねてみる。
「なあ、あんたは『全てに救い』が訪れると確信しているんだっけな?」
「うん」
少年は頷く。ここはハッキリさせて置かねばなるまい。
「何であんたはそんなことを信じたんだ?」
少年は少し考えて曖昧ながらも喋り始める。
「僕には兄がいるんだ」
少年の身内話など初めてだった。少年が訥々と語り始める。
「とても偉大な兄だった。出来ないことなんてほとんどなかったし、多くの仲間から人望を集めていた方だった。僕をとても大切に愛してくれて、いつでも護ってくれた。いつも一緒だった。でも、ある日を境に変わってしまわれた。ある人は言った、自由が欲しかったから彼は変わったのだって。でも、本当のところ僕には解らない。でも、変わってしまわれた。兄は聖なる道を棄ててしまった。でも、僕は兄を信じている。だから、兄様の残した『全てに救い』の教義の欠片を拾い直しているんだ。信仰を棄てた兄様に救いがあるんだって証明したいんだ」
「それはあんたの組織絡みのことか?」
「間接的にはね。でも。それよりもっと大昔の話だよ」
その話し振りから察するに少年の幼い時の話ではなかろうか? 話したいが、今は話せない。何かそんな口調だった。抽象的会話の内容からして背後にいる存在にその話題は戒められているのだろうか?
「ごめんね、君は誠実に信仰を告白してくれたのに、僕はあまり話せないなんて不公平にも程があるよね」
少年は少し寂しい表情をした。穏やかな表情をしているこの少年が哀愁漂う表情を浮かべるなんて意外だった。
この少年に兄がおり、兄の背信が切っ掛けで『全てに救い』が訪れるなんてことを信じるのも珍しい話だ。しかし、他方で少年が静かに兄を敬愛している姿が何となく感じる。
本当に好きなんだろうな、と思った。少年は少年の兄を心から慕っている。少年の科白は静かにだが、同時にとても感情的でもある言い方だった。
だが、それが自分の安全を保障してくれるかは又別だった。
「少女が言った。あの動画は作成されたものだ、と。あんたはこの論理を破れる保証はあるのか?」
「ないね。あの動画を一から造り出す技術を僕らは持っているからね」
誠実で正直な少年だ。だが、今それが逆に仇になっている。
「あんた、何か担保の様なものは持っていないのか?」
「ないね。これは信頼関係で成り立つ契約だからね。君が不信心ならヨナの印しか与えられない」
ちょっとムッときた。不信心なのは認めよう。だが、ヨナの印とはどう言うことか? これは意味が今一解らない。
そうかと言って少年はおどけている訳でもない。ひょっとしたら少年なりの言い回しで信頼関係でしかやれない計画だと念を押したいのかも知れない。
「解かったよ。信頼しなければ計画は御破算だ」
「ありがとう」
それでも一抹の不安は残るが、この少年を見ると何処か和らぐのであった。
何故だろう。とても温かいのだ。冷え切った心を溶かす陽光の様な少年だ。この少年には計算や論理と言う代物は大して意味を持たないかも知れない。劇的には表さないが、少年の中には計算を超えた感情が働いているのか。
「いざとなったら」
少年は躊躇いがちに言い続ける。
「君達の無事だけは保障して貰える様にするよ」
少年はそう言って又玄関に向かう。
そう言えば、少年からのメッセージを少女に伝えてなかった。もう少女の方は会話の内容を把握しているから意味を成さないが、少年には包み隠さず伝えておくべきだろう。そう思い、玄関に向かう。
相変わらず行動が読めない少年だ。追って見るともうそこには姿はない。
何だか後ろめたい気持ちがして部屋に籠もり心の中で密かに祈る。
自分はとんでもない大馬鹿者だろう。滑稽な道化だろう。我が身可愛さで誰かを犠牲にするのだから。正しく自分は罪人の頭だ。だが、願わくは、自分の無事だけでなく周囲の人々や愛するものにも危害が加わらない様に。願わくは、少年にも神の御加護があります様に。
それだけだ。
運命に翻弄される弱い祈りは聞き届けられるのか?
祈っても答えはなかった。