第32話 一度振り返ってみる

文字数 2,999文字

 結心さんは、たまに遊びに来てくれていた。普通に何気ない穏やかで落ち着いた話題が中心で、まったりと会話を楽しんでいたと思う。

 ところが、あの「金曜告白事件」が発生して以来、家に帰ってからも何かと慌ただしい日々が続いた。天野さんや結心さんが来て食事やお茶をしながら、行動解析とか行動予測とかの色々な話で賑やかになった。

 天野さんの会社に行ったし、帰りを全部歩いてしまったなど、いつもの生活パターンと異なる状態が続いている。頭の中も、この一連の話と近藤先生のことで結構占められているので、余計に落ち着かないのだ。
 この辺で一度頭の中を整理しておこう。心の中も含めて、記録しておきたい。


 あの「金曜告白事件」のときは、本当に頭の中がパニックになってしまった。その意味では、金曜日の夕方で良かったのかも知れない。仕事に影響が出なくてよかったからだ。あの時は、近藤先生のことを怖いと思ったわけではない。確かに殆ど誰も居なくなる時間帯でもあるから、危ないと言えばそうかも知れないけれど、今まで危険とかを感じたことはなかったし、あの時も危険を感じたわけではなかった。ただ、とにかく焦ってパニックのような感情に支配されたのだ。

 その結果、この事件に関しては頭が正常に働かなくなっていたのは間違いない。心理学的に、こういう現象が発生するのか否かは知らないが、誰かに頼らないと考えが纏まらなくなっていたのは事実だ。それが、やっと最近になって、正常になってきたのではないかと思えるのだから、何らかのパニック症候群が発症していたと考えてもいいのではないかと思う。

 その症候群の発症していたと思われる期間を、姉の先輩である天野さんに頼って、事件に対する解説や対処方法を指導して貰った。そして、親友の結心さんに話を聞いて貰ったり纏めて貰ったりして、天野さんとは違う面でフォローをして貰った。この二人がいてくれたお陰で、外見的には何のトラブルもなかったように過ごすことができた。本当に心から感謝している。友とはありがたいものだと実感した。

 結局のところ、研究会開催という形で近藤先生が私の研究室に自由に出入りできる環境を作られてしまった。着々と近藤先生の思惑どおりに進んでいるのだ。でも、それほど脅威に思わなくてもいい人のようなので、今は静観することにした。それでも、天野さんたちに一度会って欲しいと思っていたら、コンピュータの関係で近藤先生から相談を持ち掛けられたお陰で、天野さんたちとの面談が決まった。その結果を待ってから、次の方針を考えればいい。

 ところが、この過程で、天野さんと結心さんの二人を家に呼んで効率よくフォローして貰おうと思ったら、この二人が会った途端恋に落ちてしまった。これは想定外というよりも、もはやハプニングと言ってもいい展開だ。天野さんは既婚者だから、これは不倫の始まりではないかと心配。結心さんはもう結婚を考えていないので独身を謳歌する中でのひと時の愛を得ることで満足し、それ以上は決して望まないという覚悟をしていると言う。誰が悪いとかいう話ではなく、恋に落ちればどうしようもないのだと知った。理性を持って、「失楽園」のような事態にならないようにと祈るしかない。その上で、彼女を応援したい。

 結心さんたちの恋を見て、もう私たちの年齢では、こうした恋しかできないのではないかということに気が付いた。独身の相手を探せばいるかも知れないが、自分の恋の相手になる確率は低いと言わざるを得ない。理由は、条件の整った男性は既に既婚者ということが多いからだ。恋をしなければいいではないかと言われるかも知れないが、それは無理だ。恋は突然予告なくやってくるのだから。――その例が天野さんと結心さんの恋だ。

 私は、まだそのような恋に巡り合っていないのだが、もしそういう事態になったとき、どういう覚悟を持つことになるのだろうか? 結心さんのように燃えるような恋をできるのだろうか?  人それぞれの考えがあり、同じような恋の仕方ではないと思うが、正直に言うと、結心さんのことを羨ましいと思った。道徳上はさておき、一度はこうした燃えるような恋の経験をしてみたいと思うのは誰しも同じではないだろうか。

 でも、その恋は一方で苦しく切ない思いも抱えることになる。だからこそ、余計に激しく燃え上がるのかも知れない。恋とは、きっとそういうものなのだ。古今東西、恋は心を惑わす麻薬のような存在に違いない。恋に落ちた人々を喜びと悲しみに打ち震えさせ、幸せと切なさで涙に濡れさせる。そうやって、人類は数多(あまた)の恋物語を(つむ)いできた。その渦中に存在するなら、無責任な他人とすれば、羨ましいと言っても過言ではない。身を焦がすような恋に恵まれることは、そう容易に経験できないのだから。

 そして、忘れてならないのは、当事者が既婚者である場合は、その配偶者の立場だ。まず法律上は一夫一婦制であることを忘れてはならない。配偶者としての権利を主張できる立場が擁護されている。その割に、所謂慰謝料の金額は大して多くない。せいぜい100万から200万円前後らしい。これで法律上保護されていると言えるのかは疑問が残る。もちろん、別にそれぞれの所有する財産は保護されるのだろうが、それは当然のことだ。

 この法律上の権利という慰謝料の計算根拠は、心の問題が中心となっているらしい。さらに、道義上の問題も当然に含まれている。慰謝料という言葉は、すべての不利益を金額に換算して解決しようとする試みだからだ。もちろん、他に適当な解決方法が見当たらないのであれば、それはそれで仕方ない。だから、私は、浮気や不倫を法律論だけで論じるのは妥当だとは思えない。

 ではどうすればいいのか? もちろん、そういう事件の発生しないことが理想なのだが、問題は「心」なので、そう簡単に制御できない。だから、配偶者の心を大切に考えて行動して欲しいとしか言えない。それに尽きる。――解決策なんて簡単に発見できるはずがないのだ。

 一夫多妻制ならば解決できるのか? これは過去に存在した男尊女卑の時代の話だ。女は泣くものとして当然のように扱われていた時代の悪弊にすぎない。機械ではない人間の心は、法律や理論では制御できない。一夫一婦制を廃止したらどうなるのか? 甲斐性のある人――性別は関係ない――だけが、好き放題になるのだが、やはり心の問題は置いてけぼりになってしまう。婚姻制度そのものの存在意義がなくなってしまいかねない。ま、これは現代の社会が崩壊してしまうかも知れないから、素人が考えるのは止めておこう。

 私は今、一般論を展開しても解決できないということを認識しなければならない。となれば、論点は1つ。天野さんと結心さんの問題だけ解決できればいい。結心さんの覚悟は聞いた。私は、それを応援したい。でも、天野さんの家庭の問題について、天野さんから気持ちを聞いていないので、それは結心さんを紹介してしまった者として確認しておく義務があると思うのだ。たとえ、何もできないとしても。

 そこで明日の夜、天野さんと結心さんの二人に来て貰って、来週火曜日の打ち合わせと天野さんの気持ちというか覚悟を確認したいと思う。
 天野さんに電話して、予定を組んで貰った。結心さんが来るか来ないかは、天野さんに決めて貰えばいい。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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