第1話 烏羽色

文字数 1,285文字

落ちている。色彩を持たない剥き出しな空間の中を切り裂きながら、僕は意外にもまだ沈み続けていた。実母からの電話は、幾重にも重なる夜中を弄りながら歩いていると錯覚させた。長く思えた。

深夜2時40分、祖父の訃報と共にカップ焼そばを可楽で流し込む。僕は最近、精神障害者のために住みやすく最適化された集合住宅で、本業の傍らアルバイトとして働き出した。働くと言うがただそこにいるだけである。しかし、稼働時間が深夜だということもあり僕の生活リズムはそれに合わせるように必然的に形を変えていた。この時間に外をほっつき歩き、駅前の階段で俯き気味に深く話し込む男女を横目に見ながらコンビニに夜食を買いに行ってしまうのも肯ける。

祖父には世話になった。幼少期の僕を大きくしたのは間違いなく祖父の目元、眼差しである。
僕が祖母と並んで横になっている傍らで、実母と口も聞かぬほどに喧嘩しているその脇で、いつも目尻に細波のようなしわを寄せて微笑んでくれていた。当時5歳かそこらの僕には時間が早すぎた朝市場に連れて行ってくれた。夏休みの朝、無花果の箱を組み立てる度に僕に500円玉をくれた。じっとしていた僕を連れ出して、トラクターに乗せて畑を耕させてくれた。友達が少なかった僕と一緒に暇してくれた。買ってきた魚を捌いて、祖母と一緒に煮込んで食べさせてくれた。僕が落ち込んでいる時にじっと一緒にテレビを見てくれた。僕が何事をするときもいつも頑張れと言ってくれた。
今思えば、全て孫の特権であり、僕は特権濫用気味であったのかも知れない。彼は僕の延長であり、僕もまた彼の延長にある。そう勝手に思い込んでいたからに違いない。

実母が実母の実家を出ていく時、祖父母と実母は酷く喧嘩を起こしていた。こうして文章を綴りながら振り返ると、祖父母の家での母に関する記憶はここから薄く、祖父母には何もしてあげれてない。この時以来、僕はずっとぼんやりとした形容し難いもやのようなものを心に纏うことになった。それが何かはわからないが、精神の占有面積を大きく占めるようなものではなかったのかもしれない。それのせいで僕はなぜか心の底から両親のことを敬えなくなり、祖父母にはろくな恩返しをすることもできない、半完全な男になってしまっていた。意味も分からず両親に花束を渡し、意味の無い言葉を紡いだ紙切れを手渡しし、意味の無い会話を永遠に続けてきた。意味の無い会話が止まらなかった。止める術を知らなかった。口を噤んだ瞬間に、烏の様に黒い、犬の死体を執拗に飲み込む森のようなものが側から襲ってくるような気がしていたのだ。今考えると胃に大きな穴が空きそうな気分になる。

きっと、彼は瞼の中にいるのであろう。僕の中には、まだどんよりとだまになった何かが住みついている。底知れぬ悲哀の中にいた僕にも、まだ底流があったんだ。そんな、そんな風にして僕は沈んでいくのだろう。

深夜3時2分、この30分に満たない時間は、底抜けの井戸に投げられた小石の返事を待っている時のように長かった。祖父の目が、じっとこちらを見ているかのような。


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