一里塚まで幾光年

文字数 3,152文字

「正月なんぞめでたくはないだろうが。私ほどの爺となれば、正月が来る度に墓場に近くなる」
今日も博士はそのようなことをぼやきながら、私に綺麗な布製品を装着させます。腹部を帯というものできつく締め付けられ、全体が筒形状に設計されているそれはどうにも動きにくく、私はすぐにでも脱ぎ捨ててしまいたい気持ちになるのですが、博士は製造者権限を振り翳し、私に異論を許しません。線の太さが同じストライプ……我が主の故郷では夫婦縞と呼ばれるパターンを白地に藍染めした着物に、これまた白地に藍糸で刺繍をした鱗柄の帯を合わせられ、私は不本意ながらも丁寧に着飾らされます。博士の27体目の創作物である私は今や3世代は前の型落ちであり、人間で言うなれば老人と呼ばれても仕方のない古物であり。あまり派手に飾り付けられるのは無生物ながらに恥ずかしく思いながら、けれどもいまだ自立式思考人形に於いての倫理的拘束論、つまりはロボット三原則に縛られた私は自分の主に逆らうことが出来ません。自壊を迫られているのならば自己保身の為に逃げることも出来ますでしょうが、彼は私を美しく飾り付けているだけなのです。全く、西暦2500年以前のロボット工学者達はろくでもない原則を作ってくださったもので、私のような老ロボットは今も我儘な博士という困難と闘わなければならないのです。

着付けを終えた私に、博士はポチ袋と呼ばれる小さな紙製の袋を渡します。中に入っている物はこれまた紙であり、しかしこの紙がその昔、人間達にとって日常生活に欠かせぬ財であったというのだから驚きです。10000と数字の刻まれた紙は、それ自体の原価で言えば10円玉という銅製のボタンのようなものを2枚分の価値しかないというのに、その紙に与えられた価値は10000円、つまりは自分自身を作り上げる銅製ボタンの500倍の価値があるというのだから不思議です。因みに10円玉は10円程度のコストで完成するというのだから、人間の価値観とは実に適当なものだと常々思います。因みに、私は博士がくださるポチ袋に5円玉が入っていると嬉しいのですが、博士はそうそう5円玉をくださいません。
「お前の縁なんぞ私一人で十分だろうが。多縁多情はろくなことにならんぞ」
御縁と5円を合わせた言葉遊びに、何故だか博士は真剣な顔をして私を窘めるのです。それでもどうしても5円玉が欲しいと抗議をすれば偏屈な我が主もしぶしぶと、銅を60%と亜鉛を40%調合した黄銅を型抜いて私の為だけの5円玉を作ってくださいます。
遠い昔、まだ10000円札が人間達の間で価値を持っていた頃には、個人の趣味で貨幣を作ることは価格の暴落などを防ぐ為、法律で禁じられていたそうです。しかし、現代ではそのようなことが起こる可能性は完全に排除され、それどころか「お金」という概念そのものが失われている為、個人の楽しみとして貨幣を作ることに何ら問題はありません。博士などはオリジナルのデザインから幾つかのアレンジを施し、毎年私の為だけの「お年玉」を作るのです。何の意味もない、資産価値で言えば子供の玩具ほども重要ではないこのお年玉が、お正月にだけ手渡される理由を私は未だ知らないままでいます。
それでも、普段は我儘な博士がお正月ばかりは、私の為だけにその繊細な指先を動かしてくださったのだと思うと、それだけで胸が張り裂けんばかりに喜びで溢れてしまうのです。私は博士から貰ったお年玉を、硝子の額縁に嵌め込んでは年代別の思い出にまどろむのです。

お年玉を終えると、博士は「おせちが食べたい」と言い出します。おせちとは御節料理というもので季節行事に欠かせない食事であり、特に正月という一大イベントに持ち込まれるおせちは料理一品にも縁起を担ぐというのだから面白い。私は早速昨晩、基、昨年が明けぬ内に作り上げたおせちを腕に抱き、博士の元へと戻ります。漆細工の重箱の中に色彩豊かな料理が並び、幼い人の子は自らの父や母に料理の名前を聞いて楽しむのでしょう。この地域には最早、幼いと呼ばれる人の子はいないのだけれど。
「伊達巻をくれ。栗きんとんもな」
甘い物ばかりでは体を壊しますよ。私がそう窘めても、博士はどこ吹く風で重箱に指を突っ込み、伊達巻を一つ盗み食いします。成人男性にもなってお行儀の悪いこととは思いますが、此処には私しかいないので気を緩めているのでしょう。仕方なしに、私は博士の命令通りに栗きんとんを箸で抓み、咀嚼した伊達巻をコクリと飲み込んだばかりの博士の口へと運ぶのです。
食事が終わって一休みした後、博士は私を呼んではがきを読みます。それはただのはがきではなく、お正月ごとに贈られてくる「年賀状」という挨拶文のようなものです。博士にはたくさんの同僚も先駆者もいた為、お正月には年賀状が絶えないのです。私は博士の膝枕に横たわりながら、彼が穏やかな声で紡ぐ人々の手紙の内容を聞くことが好きでした。

(お元気でしょうか博士)
(学会を追われた貴方が地球へ向かわされることを知っておりました)
(貴方を一人こんなところへ置き去った)
(我々の罪をどうかお許し下さい)
(今更こんな言葉が何の慰めになるかもしれないが)
(あけましておめでとう)

紡がれる懺悔の間に、耳障りな機械音が鳴る。周りを見回したところで、原因が博士にあり――――気まぐれに私を創造し、地球まで引っ張り出した、酷く我儘で子供っぽい彼は――――既に人間ではなくなっておりました。陰謀と欲望が渦巻く政府の失敗作、それが我が博士の評価でした。博士は人間でありながら実験的に産み落とされ、それからまた他者と自分の違いを確認する為に殺し続けたのです。殺して、治して、生み出して、殺して。そんな日常の繰り返しの中、博士が安寧を向けたのが、左遷先の地球でした。いずれ地球を真っ二つに割るような、楽しい出来事が増えたら良いと笑う博士は、けれども楽しさだけで生きていける人間ではなかったのです。
徐々に衰弱を見せた博士は散々に我儘をぶつけながら、その傍に置いてくれた私に永遠を誓ってくれました。永遠なんてものがこの世に存在すると信じ込むほどに、彼が私へ向ける愛は鮮烈だったのです。

そうして、鮮烈な愛を与えられるままに、その愛を与えることを理解出来ぬ私の目の前。しわくちゃの顔の中で幸福そうな笑みを浮かべる博士を、私は宙へと見送ったのでした。
そう、これは全部、私の妄想――――型落ちで失敗作な私なりの、博士への愛でありました。
年賀状を読み終えた「兄弟」が、私に「成り代わり」の時間を示します。互いに決めたパスワードを打ち込んで、私は博士に、兄弟は私に成り代わります。
「全くもって、皆が皆正月に浮かれおって。一体何が楽しいと言うんだ」
声帯を変形させ、博士の声を真似てみます。博士が亡くなってから数十年、この声が本当に博士の声だったのかと、自らの記憶装置に疑問を抱いてしまいすらいます。そうして、私に成り代わった兄弟は私に問う。今日は何をするのですか、と。
「何、決まっているだろう?二人でお正月をするのだ、大してめでたくもない、な」

そう、これが私の弔いなのです。
人のいない地球で、汚れた大地を美しい着物で練り歩き、家に帰っては家族と共に挨拶をして。
「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
「貴方の一年が、よりよい幸福に満ちていますように」
空虚な命を歯車に宿す私と兄弟達が唯一出来る儀式。どうかこの世界にもいつか終わりが来ますように。そんな祈りを捧げながら、博士の作り上げた想い出をリフレインする私達は、結局のところ壊れたがらくたに過ぎないのです。
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