第8話 新しき世界  ― さよならストロベリー ― 4

文字数 1,852文字

 くれぐれも不審者に気を付けて欲しいと、ドライバーに伝えて車を降りた。
「佐和子ちゃん、怪我はない?」
 建部女史がリビングの扉を開けると、夜食の準備をしている佐和子嬢がいた。いつものように、白のブラウスに紺のスカート。その上にレース付きのエプロンをして立ち働いていた。
 敬礼している婦人警官と目があった。
「いったい何があったのか教えてくれ。佐和子嬢も、手を止めて話を聞かせて欲しい」
 はい、と佐和子嬢は箸を並べ終えると、わたしのそばへやってきた。
「夜食の材料が足りなかったので、近くのお店まで出かけたんです」
 佐和子嬢はすまなそうにうつむくと、組み合わせた指に視線を落とした。
「それで買い物帰りに、突然背中を押されて転んだだけなんです。すみません、おおごとになって総理のお仕事の邪魔に……」
 彼女の手の甲と膝小僧にはバンソーコーが貼られてあった。
「だれが佐和子ちゃんにそんなことをしたの」
 いきり立つ建部女史にベテランとみえる年齢層の女性警官が、背筋をぴんと伸ばしたまま答えた。
「もっか防犯カメラの映像を解析して犯人の足取りを追跡調査しています」
「ケガといっても、ちょっと擦りむいただけです。ご迷惑おかけしました」
 佐和子嬢は青白い顔でわたしたちに詫びた。
「謝らなくていいから。総理、警備員を入り口門扉に二名配置して、よろしいですよね?」
 もちろんだ。
「……すまない、もっと配慮すべきだった。なんなら、しばらく仕事を休んでも構わないよ」
 わたしが声をかけると、彼女は思い切り首を左右にふった。
「へいきです! 仕事を続けさせてください。私、戻るところが……それに、家族が」
 最後は消え入りそうな声になった。わたしと女史は目配せしあった。
 佐和子嬢は施設出身で、近隣の市の施設にはまだ小さい妹たちがいる。いぜん、幼い年子の妹さんたちの写真を、見せてもらったことがある。
 当惑するわたしたちの横をオトラが行きすぎ、小さくなってうつむいたままの佐和子嬢の前に来た。
「佐和子ちゃん」
 言うか言わないかのうちに、オトラはいきなり佐和子嬢を抱きしめた。
「ちょっ……オトラ!」
 引きはなそうとする建部女史など無視して、オトラは佐和子嬢をがっしりと両の腕のなかに入れている。佐和子嬢本人は目をぱちくりさせたかと思うと、急激に赤くなった。
「離すんだ、セクハラだぞ、セクハラ!」
「ふるえているんです、佐和子ちゃん。さっきからずっと。だから抱きしめてあげないと!」
 いやいや、なにか違うぞ、オトラ。
「怖かったんだね……大丈夫、もう大丈夫。必ずオレが守るよ」
 そう言って、頭をだきよせて髪を撫でた。建部女史は爆発寸前だ。どっちを止めるべきか戸惑う。
 と、真っ赤になっていた佐和子嬢の目から涙が流れ落ちた。
 いちどあふれると、涙は止めどなく流れ続け、小さくしゃくりあげた。
「……怖かったんだね、そうだよね。怪我の大小なんて関係ない、怖かったんだよね」
 建部女史が佐和子嬢を背中から抱いて優しく声をかけた。
 テーブルのうえには、わたしがリクエストした茸の炒め煮が、小鉢に盛られ用意されていた。
 これを作るために買い物に出かけたのか。わたしのわがままのせいで危険な目にあわせてしまった。
 女性警官が目を丸くしているけれど、すまない。わたしたちは、小さな家族になっているようだ。

 事件の翌日から、門扉には二名の警備員が二十四時間常駐することになった。
「ものものしいねえ」
 朝のコーヒーを飲みながら新聞をめくる。おお、中川内閣の支持率、低空飛行だ。いつ墜落してもおかしくない。
「悪いね。きみにまで不自由させて……来週の討論会が終わったら、妹さんたちに会いに行けるように手配するから」
「はい」
 佐和子嬢は、オトラの前にプロテイン飲料のおかわりを置くと、頬を桜色に染めてキッチンへ早足で戻っていった。
 そのようすを見送って、わたしと女史は無言で見つめあい会話する。
 どうする? 昨日の一件で、お嬢ちゃんはオトラを憎からず思っているようだぞ。
 たしかに見てくれは悪くない。いきなり抱きしめられたら初(うぶ)なお嬢ちゃんなど、イチコロだろう。もっとも、いつも少しばかり行きすぎた感じがするが。服装も髪型も性格も。
「ともかく、今日をのりこえましょう」
 ざっくりまとめて建部女史が椅子から立つ。本日はパンツスーツ、髪は後ろにまとめてアップにしてある。決まっていますよ、姐さん。ひと息でプロテインを飲みほしたオトラのネクタイは、濃緑のペイズリー柄だけれど。
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