第71話 心残り

文字数 731文字

 阿梨はふうっと大きく息をつき、ぽつりと言った。
「夢を見ていた」
「夢?」
「母上の葬儀の時の夢だ」
「真綾さまの……」
 どう答えていいかわからずにいる勇駿に、
「勇駿、頼みがある」
「何だ?」
「もしわたしが死んだら、一族のしきたりに従い、母上や祖父のように水葬にして欲しい」
 勇駿は一瞬あっけにとられ、それから声を荒げた。
「何を縁起でもないことを言っている!」
 阿梨はかすかに笑って、
「そんなに怒らないでくれ。もしもの話だ」
 体がだるくて鉛のように重い。ここしばらく体の不調を感じないわけではなかった。だが、やることが多すぎて自分の身の心配など後回しにしてしまっていた。
 母の夢は何かの暗示かもしれない。
 死の淵にいた梨華を母は助けてくれた。今度は自分を迎えにきたのだろうか。
 勇駿に叱られるのを承知の上で、阿梨は言葉を続けた。
「恐ろしくはない。誰でもいずれは死ぬ。早いか遅いかの違いだ」
 後悔はない。思う存分生きた。いい人生だった。
「ただ、心残りは子供たちのことだ」
 子供たちはまだ八歳。母親が必要な年齢だ。
 けれど子供たちには父がいる。勇駿になら安心して子供たちを任せられる。
「わたしがいなくなったら再婚してもよいぞ。あの子たちを大切にしてくれる相手なら」
「馬鹿なことを……頼むから不吉な話は止めてくれ」
 怒るというより懇願に近い口調で勇駿は言った。
 阿梨が生まれたのは自分が五つの時。
 水軍の船の中で生まれた、小さな儚げな姫君。その時からずっと、そばにいて阿梨を見つめてきた。
 阿梨のいない人生など考えられない──。




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登場人物紹介

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の美しき長。結婚して母となっても、変わらず颯爽と水軍を率いている。

勇駿(ゆうしゅん)


公私共に阿梨を支える夫。阿梨と子供たちをこよなく愛している。

梨華(りか)


双子の妹。母譲りの容姿と武術の才能を持つ。勝気な性格でいつも兄を振り回している。

勇利(ゆうり)


双子の兄。学問には秀でているが、ちょっと気弱。常に妹に押され気味。

勇仁(ゆうじん)


勇駿の父。以前は長の補佐として采配をふるっていたが、今は孫たちの教育がもっぱらの生きがい。

アディーナ姫


タジク国第一王女。二つの国の絆を深めるために海を渡る花嫁。金髪と緑の瞳の、美しく優しい姫君。

寄港地のフローレスでひと時の自由を願う。

ケイン


荒事屋。名の通り、目的のためなら荒っぽい手段も辞さない裏社会の人間だが、殺しはやらないのが信条。

ラルフ


ケインの相棒。孤児だった自分に手を差し伸べてくれたケインに恩義を感じ、行動を共にしている。

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