第六章 この世の邪魔者

文字数 7,720文字

第六章 この世の邪魔者

杉三の家では、観音講から戻ってきた杉三と蘭が、昼食をとっていたところであった。沼袋さんは、蘭がそこへ行ったときいて、とても驚いていた。

「いやあ、難しい講座だねえ。仏法用語の連発で何がなんだかさっぱりわからなかったよ。」

「そうか。でも、教訓はあるだろ。」

「まあ、少なくとも無識界の住人になるには、生まれたばかりの赤ちゃんとか、大人であれば、重度の知的障害でもなければなれないということはわかった。それか、どこかの秘境地域に住んでいる原住民とか。」

「そういう事だな。それだけでもわかってくれたらそれでいいって庵主様も言ってた。」

杉三は、梨にガブリついた。

「しかし、受講生のほとんどが女の人ばかりなので恥ずかしかったよ。」

まあその通り、観音講に来訪するのは、八割強が女性である。男性の参加者というと、夫婦とか親子で参加することがほとんどで、単独ではやってこない。

「しょうがないよ。住職が女だから、自動的に女の人が集まるんじゃないの。庵主様は、女性だけの集まりにはしたくないみたいだけどね。」

「まあ、そう言えばそうだよな。女のご住職の仏法講座なんてなかなかないだろうしね。でも、あれだけ参加者が多かったら、そのうち本堂にも入りきれなくなるのではないか?」

蘭が指摘した通り、観音講の参加者は年々増加している。最近ではスマートフォンによる口コミ投稿をたまたま見て、参加を申し込んでくる者が増えているという。昔は、檀家さんだけで行われていた講座だったが、今は檀家さんでない者のほうが多い。そして、参加者の年齢もだんだん下がっており、女子高生が参加してきたことさえある。

「そうだよねえ。もっと広い会場を探さなきゃだめだよね。しかし、この近くにあれだけの人数が入れる建物なんてあるかな?」

杉三がそういう通り、そのような建物は近くには存在しなかった。

「それに、観音講には、重い病気の人も来るよ。そういう人も入りやすい建物なんて、まだないよ。だったら多少狭くても、寺の中しかないんじゃないの。バラ公園で青空教室という手もあるが、雨が降ったら取りやめだし。学校の余っている教室を借りて講座をすることもよくあるようだけど、学校というところは、ひろいのかもしれないが、僕たちみたいな人のためには、まるでできていない。」

確かにその通りだ。

「そうだよね。気管切開している人も見かけたもんな。本当は、そういう人こそ受けてみたい講座なんだろうが、きっと場所がないんだろうな。でも、だからこそ、もっと広い場所を用意してやりたいよ。」

「調べてみましょうか?」

不意に沼袋さんが言った。

「もしかしたら、不要になったコミュニティセンターとかあるかもしれませんので。」

「あるのかい、沼袋さん。」

杉三が聞き返すと、

「はい、ほら、最近では幼稚園などが、子供の激減で倒産することがよくあるじゃないですか。中には、運営法人が撤退しても、建物だけが処分されずに、貸し物件として残っているケースがあるようです。」

と、沼袋さんは答える。

「あ、そうか。幼稚園ならいいかもしれないね。小さな子供さんを対象にした建物だから、段差なんかもなるべく少なくして、危険を避けて作られているだろうし。」

蘭も沼袋さんに言った。確かに、保育園なら需要が増えているが、幼稚園はその逆であった。よく杉三が、違いが判らないと言っていたことがあるくらい、やっていることは大して変わらないとされているが、なぜか、近隣の幼稚園が相次いで撤退している。少子化と、母親が働きに出る人が多いからだと言われているが、幼稚園も保育園も基本的に教育機関なんじゃないのかよ、なんて杉三は文句を言っていた。

「そういうところをコミュニティセンターとして買い取って、講座なんかができる建物にしたらいいよね。じゃあ、沼袋さんにお願いしようかな。」

「はい、わかりましたよ坊ちゃん。社長ではなく坊ちゃんから初めて命令が出たので、沼袋、責任を持って任務を遂行いたします。」

「どうもすみませんね。」

蘭は申し訳なさそうに頭をかじった。

「沼袋さんの言葉から判断すると、蘭の母ちゃんって、相当権力者だったんだね。武則天と同じくらい怖い人かもね。」

「まあ、、、そこまで言い切るほどでもないが、、、。」

「いや、そうかもしれませんよ。結構専制君主に近いことも平気でやってましたし、職人の中には、社長は血も涙もないと愚痴を漏らしている者も結構いました。もし、今の職業観でいったら、違反かもしれないほど、長時間働かされた職人もいましたからね。それに、人権侵害的な発言だって結構ありましたし。」

発言を渋る蘭に、沼袋さんが付け加えた。

「あ、なるほどね、結構パワハラをしていたのね。」

「そうですね。職人がおとなしすぎて、訴える勇気がなかっただけだと思います。今となったら、間違いなくパワハラで訴えられるでしょう。」

「狄仁傑はいなかったの?」

「いや、どうですかね。社長の暴走を止められた人は誰もいませんでしたね。そんな優秀な助手がでたら、社長のことだから、会社を潰すと考えて、やっつけちゃうんじゃないかなあ。」

「へえ、女の君主がやりそうなこった。そんな会社で誰も謀反を起こす人が出ないほうが、かえって不思議だよ。」

「謀反を起こす前に潰しますよ。社長の事だから、そこだけは敏感でしたので。」

「なるほど。まさしく武則天だね。」

「杉ちゃんと沼袋さんは他人だからそう見えるんだろうが、そう言われても唯一の母であることも確かなので、そんな歴史的な悪女とは一緒にしないでもらいたいな。」

蘭はがっくりとため息をついた。

「蘭も、人の良すぎる息子だな。」

杉三がからかうようにそう言った。

「でもさ、やっぱりすごいよな。謀反を起こす前に潰すんだからな。」

杉三がそういうと、蘭は、

「そうしないように、資本だけは大量に与えてたんだよ。僕が虚弱だったから、後継者にはなれないと医者から言われたときなんてね、大勢の職人がこの時ばかりに辞表をだしたけど、職人一人一人の実家に資本を配って、辞めさせないようにしたりして。」

と、恥ずかしそうにいった。

「そんなこと平気でやっていたのか。」

「そうなんだ。水穂が、贈賄だからやめろといっていた。しかし、記憶のかぎり、あいつが直接手を出したのはそこだけで、他に暴行を加えたとか、そういうことは全くない。しかし、クラス会が開催されたときに、なぜか親御さんたち含めて、水穂が暴行をしろと指示を出したことに満場一致で決定してしまった。僕に暴行をしたのは、他の生徒だったのに。なんだかみんな、悪いのはあいつだと口を揃えて言ったんだ。秋山先生でさえも、他の親御さんも、それで結論付けてしまった。」

「へえ、何でだ?」

「知らない。教えてくれなかった。逆にあんな穢いものを扱う家なんか潰してくれてありがたいと、クラス中から言われた。そのあと、僕は無理矢理ドイツにいったから、賠償金のことなんかは、後になって秋山先生から聞いたりしたくらいしか知らないんだよ。」

「何だろう?糞便でも処理する会社でもやっていたんかな?それともごみ焼き場とかかな?」

「違うよ。あいつの実家は、確か銘仙の販売をやってたと思ったよ。」

「銘仙ね。確かにかわいい着物として、今でこそ大人気のブランドだが、昔は嫌われやすいブランドだったのはしっている。え、ちょっと待て!銘仙というと、、、。あ、なるほど!そういうこと!それであんなに綺麗な人だったら確かに憎まれ役でも不思議はないよね!」

少し考えたあと、いきなり手を叩いて杉三がでかい声で言う。

「そうですよ。よくわかってくれましたね。銘仙といいますと、水平社に入ってる人の定番みたいな着物ですよね。」

沼袋さんもそれに付け加える。

「なんだよ二人とも。何がわかったの?」

「蘭は日本の歴史をあんまりしらないな。銘仙というのはね、昔は目専といって、着物なんか買えないほど貧しい人たちが着ていた着物だったんだよ。つまり水穂さんは、部落民だ。そうなれば、悪いやつにこじつけられても仕方ないよな。きっと、昔から悪い奴だと言われていたひとに、擦り付ければそれでいいとでも思ったんだよ。それにねえ、誰が見てもはっとするほど綺麗な人であれば、憎むどころか、、、。」

「杉ちゃん、それどこできいた?」

「カールおじさんが、お客さんに話していたのを聞いたんだ。何で銘仙を人前で着てはいけないのかと、うるさくきいていたお客さんに、そう話していたよ。」

ものすごい衝撃であった。そうなればある意味宿命的なものだ。

「ちょっと待て。つまりえったぼしと同じと言いたいんでしょう?しかし、このあたりで、えったぼしと言われる人が住んでいたところなんてあった?だって、以前であった皮を生業とする人でさえも、僕の学校における学区には住んでなかったはず。」

「いいえ、坊ちゃんが知らないだけですよ。少なくとも、昭和の中ごろまではそういう人が生活している地区はざらにありましたよ。えったぼしといういい方はしませんでしたけど、ああいう人を指す言葉はいろいろありますからね。目専という言葉も、えったぼしと同じ人を指す地域もありますよ。今はほとんど姿を消していますけど、意外なところで、そういう風に出ちゃうんじゃないかなあ。」

確かに、なかなか報道されることもない問題だが、長いこと居座ってきた問題なので、それこそ一番の理由なのかもしれなかった。

「しかし、なんであいつはあれだけ頭が良くて、桐朋音大まで行ったんだろうか。それにさ、なんで世界一難しいとされている、レオポルト・ゴドフスキーの曲を大量に弾きこなすまでの演奏技術が持てたんだろうか。音大受験って、ある意味選挙に出るのと同じくらい理解と知名度がないと。」

確かにそうである。音楽大学に行くというのは、政治家になるのと同じもの、「地盤看板カバン」が必要になる。どれか一つでもかけてしまえば、成功しない。

「僕は思うけど、その三つを獲得するための武器がゴドフスキーじゃないの!」

「そうですね、そうするしかないでしょうね。」

すぐに結論を出せる、杉三と沼袋さんがうらやましかった。なんだか、自分より杉三の側近になったほうが、沼袋さんは楽しいのではないか。

「結局のところ、歴史的なことも含めて、僕があいつにしてやれることは、何にもないってことか。きっと、僕よりも、何十倍も苦労をしたんだろう。それなのに、よくぞ今まで一緒にやってくれた。」

蘭は、がっくりと落ち込んだ。

「まあ、日本の歴史が大いに関わってくることですから、過去の事は仕方ないですね。もうそれは仕方ないですから、謝罪のことはあきらめて、これからどうするかを考えなければいけませんよ。水穂さんは、戦いすぎるほど戦って、もうわずかしか時間もないですけど、坊ちゃんにはまだまだ用意されているんですからな。」

「沼袋さん本当に蘭の父ちゃんみたい。ただ、訂正しておくが、水穂さんも余命一年と宣告されたわけではないので、それはやめてね。」

蘭を諭す沼袋さんに、杉三は急いで訂正した。

「でもやっぱり、沼袋さんがいてくれてよかったねえ。」

こればっかりは正しかった。

「まあ、今日の観音講で庵主様も言っていたが、世界に無駄な物なんて一つもないのさ。善でも悪でも必ず何かおこるようにできている。まあね、蘭から見れば、武則天みたいな母ちゃんなんて、いなかったらなあなんて思うかもしれないが、そういう母ちゃんだったから、優しい沼袋さんが宰相になってくれたともとれるわけで、どっちも必要だったわけ。全てのものに理由があるとは、そういうことなわけよ。」

「すみません。杉ちゃんに一本取られた。もう、彼のことは、何も言いません。」

蘭は、高校野球で誓いの言葉を立てる選手みたいに、きっぱりと言い放った。同時に自分自身でも、しっかりとそれを実行していくことを心に決めた。

「それにしても、社長、どうしているんですかねえ。生まれて初めて一人でタクシーに乗って、変なところに行ったりしないかな。」

沼袋さんが心配そうな顔をしたが、

「いいんじゃない。そんな心配しなくても。武則天みたいな振る舞いから卒業するきっかけになるよ。」

杉三はさらりと返事を返した。

「まあ、今日は、武則天から解放されて、思いっきり羽を伸ばして頂戴ね。」

「はい、ありがとうございます。」

沼袋はとりあえずそう言ったが、羽を伸ばすのは無理そうだった。

同じころ。

製鉄所の廊下では、晴と先日入所したばかりの塚田しのぶが鉢合わせになったところだった。しのぶの、半幅帯の下あたりが、ふくよかに膨らんでいるのを見て、思わず微笑みたくなってしまうのも高齢女性か。

「あら、いつ生まれるのかしら?」

なんて言ってしまう。

そうなると、返答としてはにこっとして、来年ですとか嬉しそうに答えを出すのが予想されるのだが、一気にしのぶの顔が崩れていき、その話はやめろ!という顔に変わっていく。

晴も、さすがにそのまま質問を続けたらかわいそうだと思えるほどの分別はあったから、

「聞きたくないこと聞いちゃったかしら、申し訳なかったわ。ごめんなさい。」

と、急いで彼女に謝罪をする。すると、しのぶの方も、この反応をしてくれたのは、なかなかなかったようで、わずかながらに安心したような顔をしてくれた。これを見て、晴も何かわけがあるんだなということに気が付く。たぶんきっと、他人には素直に言えないような、でも一人で抱えるには無理な、重たい事情なのだろう。

「何かつらいことがあるのかな。生まれてくる赤ちゃんにさ。」

なんかそういうところは、「障害を持っている子供の母親」のカンである。長年、それをやってくると、自分の後輩になる予定の人が必ず一度は出す「顔」が読める。そして、それを気が付いてくれた後輩たちは、やっと自分をわかってくれる存在の出現に泣いて喜ぶ。

しのぶもそうだった。

「こんな廊下ではなくて、もっとゆっくり話ができるところに行こう。」

晴が優しく言うと、しのぶも素直にそれに従った。この瞬間を待っていた、と言いたげについてきた。

二人は、廊下を歩いて中庭へ行った。中庭に設置されていた鹿威しが、歓迎するようにかーんとなった。

「座って。」

とりあえず、中庭へ向かって、縁側に座る。

「とりあえず、しゃべっちゃいなさい。あたしは、誰にも他言はしないから。というより、うちは男ばかりで、そういうデリケートな話をする人もいないし。」

「はい。」

しくしくと泣きながら、彼女は自身がこれからというか、一生抱えなければならない問題を語りだした。かいつまんで言うと、無理やり受けさせられた出生前診断の結果、生まれてくる子が「障碍者」と呼ばれるようになることが確実視されてしまい、義母をはじめとしてその周辺の人間から責任を追及されてしまったので、辛くて仕方ないという話だ。もともと生理不順であったため発見した時は時すでに遅く、堕胎という選択肢は、禁止になってしまっており、こうなれば、出産まで突っ走るしかない。だけど、これからの生活を考えるとどうしても、産みたくないと思ってしまう。そんなわがままは許されないのはとっくに知っている。だ、だけど、どうしても、抜けられない。これが彼女というか、後輩たちが一番初めに口にする「言葉」だった。

「そうね。そうかもね。うちもねえ、蘭がああなってから、あ、うちの息子の事だけど、一度や二度はこの子なんか!なんて思わないこともなかったな。」

やっと、共感してくれた人ができた!として大喜びする顔になるしのぶに、晴も自身の若いころを重ね合わせてみている。

「とりあえず、今は、喜んでいいわよ。あたしも、そうだったんだから。そして、そうしないと次へは進めないことも知ってるから。だから今は喜んじゃないなさい。思いっきり喜んでくれていい。それでいい。そうしなさい、ね。」

よろこんだ次は、予想通りにうれし涙がやってくる。これはいつの時代もかわらないのである。その次にどうするかは時代によりだいぶ違う。例えば、懍のような昭和一桁時代、高尚な公家の家であれば、障碍者が生まれたことは大問題になり、母親含めて永久追放となってしまうだろう。公家の家を追放されて出戻りというレッテルを張られ、近所中から白い目で見られて、母子ともにつらい人生となると思われる。幸い、ノモンハン戦争で父親が従軍したため、汚名を着せされる前に、障碍者に少し理解のある海外へ逃げることで、難を逃れた。この場合、戦争があって、逃げるきっかけができたのが救いだったが、今の時代、そういう事は全くない。方法はないわけじゃないけど、その「こじつけ」がないのが問題だ。それに、四民平等制度というものが、「誰でも同じ人生がつかめるよ」という、実現しそうで実はしない夢想を打ち出してしまっているせいか、女性のかっこよさ、はどこかに行ってしまっている。そういう事を話して聞かせると、しのぶは、昔の女性のほうがかっこいいなと言いだした。実は、晴もそう思ったことがある。昔の女性が大活躍したことが書いてある本を読んでみると、そこへ出てくる女性たちは、必ず「身分差別や女性差別の壁を壊す」ために何かをしている。そして教育機関も、それを賞賛し、それを真似するようにと伝授していたのだが、今は点数だけ追っかけて何もない。点数なんかどうでもいいから、そっちを伝えてあげたほうが、もうちょっと彼女も「お手本」を得ることができて、それを参考にして、幸せになれる気がする。

こうなると、社会の劣化というものか。その被害者を目の前にして、晴は年上としてなんとも言えない悔しさというか、自分が社会のためにやってきたことなんて、全くの無意味だったということに気が付く。

結局、年上の晴がしのぶにしてあげられることと言えば、「苦労するかもしれないが、いいことがあるかもしれないから、頑張んなさいよ」と励ましてやることしかできなかった。苦渋の裏に、そのセリフを言うと、彼女は明らかに落胆の表情を浮かべるか、と思いきや、

「本当にありがとうございました。やっと、私の話を最後まで聞いてくれる人がでてくれてうれしかったです。それで、解決ができるかということではありませんが、なんか、これまでよりちょっと、気持ちが楽になったような気がしました。ありがとうございました。」

と、しっかりとした口調で返してきた。この顔を見た晴は、日本にもまだ、昔の気質がある人がいる、と少し安心した。
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