プロローグ

文字数 932文字

 昭和の匂い。それは鼻で感じるものではなく、視覚から受ける印象だ。

 ここ数年の大型台風からよくも逃れて生き延びたものだと、感心させられるほど頼りなげな建物。絵具を適当に混ぜれば出来上がりそうなくすんだ色の外壁。錆びていないところが見当たらない、金属製の外階段や手すり。建付けの悪そうな扉が一階と二階にそれぞれ四つ。そのそばに並ぶ旧式の洗濯機。雑草としか思えない草の生えた植木鉢。サドルの破れた自転車。傾き、消えかかっている入居者募集の看板。

 教えられた部屋番号は二〇三だった。
 田口と二人、なるべく音を立てないようにそぉっとゆっくりと階段を上がるが、どうしても金属音が響いてしまう。

 手前の二つの部屋には明らかな生活臭があったが、三つ目の部屋にはそれがなかった。他の部屋と違って、玄関周りは片付いていて何もない。表札なんて気の利いたものはどの部屋にもなさそうだが、扉の上にはマジックで「203」と書かれた黄ばんだ紙が画びょうで留められていた。

 インタフォンなどあろうはずもない。
 顔を見合わせて、ダチョウ倶楽部のように、けれど無言で譲り合う。
 仕方ない。意を決して軽くノックをしてみる。

 反応はない。
 今度は少し強めにノックをしてみた。
 やはり、無反応。

 また田口の顔を見てから、ドアノブに手をかけた。
 扉はあっさりと開いた。
 室内に射し込む光と入れ違いに、埃っぽくて湿っぽい空気がどんよりと流れ出る。
 入ってすぐが小さなキッチン。奥に和室が見える。

 窓にカーテンはないが、日当たりが悪く室内は暗い。空気が、(まと)わりつくような粘度を感じさせる。
 田口と顔を見合わせ、目だけで頷く。

「おじゃましまあす……」

 誰かがいたとしても聞こえないように囁いて、靴を脱いだ。もしも、どうぞぉなんて返事があったら、我先にと逃げ出していただろうが、幸いなことに誰もいなかった。そんなふうに感じる時点で完全に目的を見失っている。

 誰もいないし、何もない。
 あるのは床と天井と壁、そして窓。
 それだけだ。
 まさにもぬけの殻だった。

「もぬけの殻っていうのは、空って漢字じゃなくて卵の殻の方の殻なんだぞ。知ってたか」

 階段を下りながら田口が得意げにそんなことを言ったけれど、返事はしなかった。
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