第1話
文字数 1,685文字
「母ちゃん、子猫が産まれたらしいよ。
母ちゃん、子猫の肉球って、どんなんなんやろうねえ。」
小学生の娘が、カフェの入り口に出ていた貼り紙を見つけて言った。
その顔は、未知なるものへの期待に輝いていた。
「そうやなあ。けど、小学生でも入れてくれるんかなあ。」
私は、正直乗り気ではなかった。
近所に以前からあるそのカフェは、楽器の生演奏と、ネルドリップで淹れた本格コーヒーが売りだ。そして、単においしいコーヒーが飲めるカフェ、というよりも、音楽好きが音楽好きのための居場所を提供する、言わば共通の趣味を持つ者同士のコミュニティとして機能しているような印象を持っていた。小学生の子供2人と、音楽はからっきしダメな母親にとっては、かなり敷居が高い。
「子猫ねえ。」
貼り紙には確かに、子猫と触れあえる、とあった。
私は、猫に対しても、あまりいいイメージがなかった。
人の家に勝手にするりと入ってきて柱でツメを研ぐ、庭でところ構わず糞尿をする、ゴミをあさる・・・。主に野良猫かもしれないが、首輪につながれず、お構いなしで迷惑をかけるさまが頭に浮かんだ。
しかし娘の、にこにこと楽しげな様子を見ていると、ふいに子供時代の自分が頭をよぎった。団地の軒下に隠れている野良猫のために、大人の目を盗んで、ミルクやカツオブシを運んでいる私。毛並みが汚れ、しっぽもまっすぐではない野良猫に対し、愛おしさを感じている私。
「まあ、じゃ明日、マルちゃんも連れて行ってみようか。
けど、小学生は入れません、って言われたらあきらめような。」
「うん!」
翌日、3人でカフェに行ってみた。
「あ、あの。小学生2人いるんですが、入ってもいいですか?」
「もちろんどうぞ。」
実際に入ってみると、お客さんは皆、若めの男女だった。
やはり生演奏を謳っているだけあって、店内にはピアノが置いてある。
小学生2人とアラフィフの母は、やはり場違いな気もしたが、マスターは笑顔で温かく迎え入れてくれた。
「あ、あと、娘が貼り紙を見て、子猫を触ってみたい、と言っているんですが・・・。」
「ああ。どうぞ、触っていってください。」
通された席で待っていると、ほどなくして、タオルにくるまれた、まだほんの小さな子猫が連れられてきた。
それを目の当たりにしたときの、子供たちの顔!
私も子供たちも、これほど小さな子猫を見るのは初めてだった。
生後1ヶ月だというその子猫は、とても小さくはかなげで、歩く様子も少々危なっかしい存在だが、柔らかで温かく、そして見た目とは裏腹に、ずっしりとした重みがあった。
まさに命が詰まっているのだと、触る手のひらから伝わってきた。
「母ちゃん、子猫、めちゃくちゃかわいいね。
ああ、本物の肉球って、こんなに柔らかいんやね。
おもちゃとは全然違う。」
「そうやなあ。本当に柔らかくて、あったかいなあ。」
子供たちは、時として鮮烈な気づきを与えてくれる。
50年近く生きていると、大抵のことは知っているつもりになっている。
そして、日々生活に追われ、現実と折り合いをつけながら、平凡でありきたりな日常を繰り返す中で、“まあ、こんなものさ”と、半分あきらめの入ったような、そしてもう半分はその平凡さの中に隠れている穏やかさに感謝しながら、大人としての生活を送っている。
経年変化とでも言おうか、身体が硬くなるのと比例して、心も堅くなっている感は否めない。
しかしながら、子供たちの、柔軟で真新しい感性を通して改めて日常に接すると、凡庸なはずのそれが輝きを帯びてくるのを感じる。
そしてその輝きには、どこか懐かしさがあるのだ。
遠い昔、大人になる前の、ほんの小さな子供のころ、新しい世界に初めて触れたときに覚えた感動と似たものを、再び私の中に思い起こさせてくれる。
固定観念、疑心暗鬼。
子供たちの軽やかでしなやかな心は、いとも簡単にそういうものを飛び越えていく。
凝り固まった大人の私の心をほぐし、別の世界を見せてくれる。
「母ちゃん、また猫カフェ行こうね。」
「そうやなあ。ほんならまた行ってみようかね。」
母ちゃん、子猫の肉球って、どんなんなんやろうねえ。」
小学生の娘が、カフェの入り口に出ていた貼り紙を見つけて言った。
その顔は、未知なるものへの期待に輝いていた。
「そうやなあ。けど、小学生でも入れてくれるんかなあ。」
私は、正直乗り気ではなかった。
近所に以前からあるそのカフェは、楽器の生演奏と、ネルドリップで淹れた本格コーヒーが売りだ。そして、単においしいコーヒーが飲めるカフェ、というよりも、音楽好きが音楽好きのための居場所を提供する、言わば共通の趣味を持つ者同士のコミュニティとして機能しているような印象を持っていた。小学生の子供2人と、音楽はからっきしダメな母親にとっては、かなり敷居が高い。
「子猫ねえ。」
貼り紙には確かに、子猫と触れあえる、とあった。
私は、猫に対しても、あまりいいイメージがなかった。
人の家に勝手にするりと入ってきて柱でツメを研ぐ、庭でところ構わず糞尿をする、ゴミをあさる・・・。主に野良猫かもしれないが、首輪につながれず、お構いなしで迷惑をかけるさまが頭に浮かんだ。
しかし娘の、にこにこと楽しげな様子を見ていると、ふいに子供時代の自分が頭をよぎった。団地の軒下に隠れている野良猫のために、大人の目を盗んで、ミルクやカツオブシを運んでいる私。毛並みが汚れ、しっぽもまっすぐではない野良猫に対し、愛おしさを感じている私。
「まあ、じゃ明日、マルちゃんも連れて行ってみようか。
けど、小学生は入れません、って言われたらあきらめような。」
「うん!」
翌日、3人でカフェに行ってみた。
「あ、あの。小学生2人いるんですが、入ってもいいですか?」
「もちろんどうぞ。」
実際に入ってみると、お客さんは皆、若めの男女だった。
やはり生演奏を謳っているだけあって、店内にはピアノが置いてある。
小学生2人とアラフィフの母は、やはり場違いな気もしたが、マスターは笑顔で温かく迎え入れてくれた。
「あ、あと、娘が貼り紙を見て、子猫を触ってみたい、と言っているんですが・・・。」
「ああ。どうぞ、触っていってください。」
通された席で待っていると、ほどなくして、タオルにくるまれた、まだほんの小さな子猫が連れられてきた。
それを目の当たりにしたときの、子供たちの顔!
私も子供たちも、これほど小さな子猫を見るのは初めてだった。
生後1ヶ月だというその子猫は、とても小さくはかなげで、歩く様子も少々危なっかしい存在だが、柔らかで温かく、そして見た目とは裏腹に、ずっしりとした重みがあった。
まさに命が詰まっているのだと、触る手のひらから伝わってきた。
「母ちゃん、子猫、めちゃくちゃかわいいね。
ああ、本物の肉球って、こんなに柔らかいんやね。
おもちゃとは全然違う。」
「そうやなあ。本当に柔らかくて、あったかいなあ。」
子供たちは、時として鮮烈な気づきを与えてくれる。
50年近く生きていると、大抵のことは知っているつもりになっている。
そして、日々生活に追われ、現実と折り合いをつけながら、平凡でありきたりな日常を繰り返す中で、“まあ、こんなものさ”と、半分あきらめの入ったような、そしてもう半分はその平凡さの中に隠れている穏やかさに感謝しながら、大人としての生活を送っている。
経年変化とでも言おうか、身体が硬くなるのと比例して、心も堅くなっている感は否めない。
しかしながら、子供たちの、柔軟で真新しい感性を通して改めて日常に接すると、凡庸なはずのそれが輝きを帯びてくるのを感じる。
そしてその輝きには、どこか懐かしさがあるのだ。
遠い昔、大人になる前の、ほんの小さな子供のころ、新しい世界に初めて触れたときに覚えた感動と似たものを、再び私の中に思い起こさせてくれる。
固定観念、疑心暗鬼。
子供たちの軽やかでしなやかな心は、いとも簡単にそういうものを飛び越えていく。
凝り固まった大人の私の心をほぐし、別の世界を見せてくれる。
「母ちゃん、また猫カフェ行こうね。」
「そうやなあ。ほんならまた行ってみようかね。」
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