後編
文字数 4,617文字
テンプル騎士団の上位がシテ島で生きたまま火あぶりにされてから250年以上経ったある時、宣教師の手からとある物を渡された細川ガラシャ(明智珠)は、幽閉されていた屋敷の一角にある祭壇の前で、マリア像に祈っていた。
二年前の六月、父である明智光秀の謀反により、夫と引き離され幽閉の身へと転落しても、誰かを恨むことなく、ただひたすらイエスに祈りを、マリアに祈りを捧げ、気持ちを穏やかに持ち続けていた。
その日、その物を受け取るまでは――
時は1584年。
天下まであともう少しだった織田信長が本能寺で明智光秀の謀反により殺されてから二年が経っていた。
殺されたとされる信長の遺体を発見できていないことから、真実は闇の中。
ガラシャは父がそのようなことをするとは思えずにいた。
それでも憶測で誰かに疑念を抱かずにいられたのは、イエスへの信仰があってのこと。
そのイエスの……と聞かされては穏やかでいられるはずもなく、その……が与える奇跡の話がまた信じられないものだが、もしそれが真実ならと一度は閉じた気持ちが静かに滲み出てくる。
沈めるために、さらに長く祈りを捧げたのだったが――
「ものは考えようかと思います」
ガラシャの背後から静かな声で問いかける存在に気づき、身体の向きを変えた。
「宣教師様、それはどういう意味でしょうか?」
目鼻立ちがはっきりとして、髪の色は日ノ本の民の髪色より明るく、目の色は透き通った空の色をしている。
口の周りに髭を生やしているが、それがなければかなり若く見えるだろう男性が、少し言葉を噛むように、ガラシャの問いかけに答えはじめた。
「言葉の通りでございます」
慣れない異国の言葉で必死に考えを伝えようとする姿勢に、ガラシャもまた、その言葉の意味を汲もうと耳を傾ける。
「仰っている意味がよくわかりませんが」
もう少しわかりやすくとお願いする意味で、そう口にする。
「あなた様はお惚けになられるのがかなりお上手なようで、これは困りましたね。すべてを口にせよと仰られるのですか?」
宣教師の男は汲んでくれとばかりに言葉を濁らすが、これでは堂々巡りにしかならないと、先に折れることを決めた。
「仕方がありませんね。はっきりと口にしたことで、わたしを咎めないでくださいね」
宣教師の言葉に、ガラシャは小さく頷いた。
「今、あなた様の前に置かれている箱の中には聖杯と呼ばれているものが入っております。噂では、聖杯はふたつ存在していたのだとか。どういう経緯でそのひとつがここにあるかはわかりませんが、おそらく、イエスを信仰する気持ちを汲み、託してくださったのでしょう」
信仰者は世界中にいる、その誰かが信仰の深さと誠実さを認められ、託されたものだとこの者は解釈したのだったが、なぜそれが今日ノ本にあるのか……は、深く追求しなかった。
こういうことは、そういうものなのだ。
すべては神の導きのままに――
「その聖杯には伝説があり、口にした者の肉体が蘇るのだとか。お父上である明智光秀殿を蘇らせ真実を語らせれば、あなた様の心中が名実と共に穏やかな時を取り戻せるのではないでしょうか? 最愛の夫との生活も取り戻せるでしょう」
イエスを信仰するようになってから、イエスが齎した奇跡の話を幾度となく耳にしたことがある。
その中に伝説と化しつつある聖杯の話もあった。
聖杯の中に注がれた水を口にすると、奇跡が起こるというもの。
しかし、ガラシャの目の前にある聖杯は、聞いていたものとは別のもので、安易に信じられるものでもなかった。
それに、もし奇跡が起こせるのだというのなら、生き返らせるのは父明智光秀ではない。
我が身を第六天魔王と語った織田信長であろうと、脳裏をかすめる。
信長が仏教を深く信仰していたとは思えないが、聖杯を口にして奇跡を起こした者の末路を聞かされては、とてもではないが父明智光秀をその餌食にすることはできない。
すべてを聞き出した後、狂ってしまうことを阻止するためにも、首と胴を切り離さなければならないとも言われているからだった。
必ず狂うとは限らないにしても、その可能性はゼロではないのなら、死者を蘇らせるなど自然の理に反した行為をするのだ、起きる前に芽は摘み取ってしまわなければならない。
「宣教師様の仰っていること、わからないでもありません。今でも信じておりませんから。父が主君を裏切るなど」
「では、そう主張なさいませ」
「真実がはっきりしないのでは無理です」
「ですから、聖杯を使うのです」
突き返すことも、受け入れることもできなかったガラシャは、聖杯が入っているとされている箱を目の前に、じっくりと自分と向き合う時間を設けた。
イエス信仰への弾圧が増していく中、もし、信長が本能寺で命を落とさずにいたならば……そう考えなかったことはない。
仮に蘇生が成功したとして、父が今の秀吉に勝てる見込みはない。
心根のお優しい方であった父が、野心の塊のような秀吉に勝ることはできない。
できるとしたら、圧倒的な力と英雄的象徴性を持つ信長しかいない。
でも、本当にそれでいいのだろうか……ガラシャは答えを出せずに数日間を過ごした。
「答えは出ましたか?」
宣教師がガラシャを訪ねたのは、あれから四~五日経過した頃だった。
「その様子では、答えが出ていないようですね」
顔色から察した宣教師は、なにかの欠片をガラシャの前に置く。
これは? という顔をして返すと、宣教師の口から意外な言葉が出た。
「本能寺の焼け跡から出た、宗三左文字の破片です」
「どうしてそのような物が?」
「信長殿が傍に置いていた弥助が、一度は逃げたのですが、後、焼け跡から持ち出した中にこれがありました。今は再刃され秀吉が所持しているそうですが。最後まで信長殿の近くにいたのは、この刀。奇跡を起こせる聖杯を使い、真実を」
明智光秀の蘇生を決断できないガラシャに別の可能性を示したのだった。
光秀は首と胴が切り離されており、それを繋げなくてはならない。
また信長も、焼け跡から遺体が見つかっておらず、もしかしたら生きている可能性がある。
すべてを知っているのは宗三左文字だけということになる。
「宣教師様のお気遣い、ありがとうございます。たしかに刀ならば何かあっても心を痛めることは少ないでしょうが、刀が何を語ってくれるのでしょうか? 真実を知るというのであれば弥助に聞けば済むことと思いますが?」
「確かに正論ですが、大事なところを弥助は見ておりません。ようは、どうしてそういう経緯になったか……ということです。明智殿が信長殿を討とうとしたのは紛れもない事実。しかし、あなた様が知りたいのはどうしてそうなったのか、その経緯」
「宣教師様の仰る通りにございます。ですから、やはりわたくしの知りたいことを知る術はないのだと思います。仮にその刀が真実を知っているといたしましょう。しかし、どうやって刀から聞き出すのですか? 聖杯は奇跡を起こすと言っても、それを見た者はいないのでございましょう?」
噂や言い伝えではやはり無理なのだ。
藁にも縋りたいほどではない気持ちも確かにある。
その気持ちを持ち続けられるのは、イエスへの信仰心があればこそのこと。
「わたくしにはイエス様がおります。こうして祈っていると心が落ち着きます。宣教師様のお気持ちだけいただいて、こちらはお返しいたします」
そっと箱を宣教師の方へと差し出す。
差し出された宣教師は小さく「残念です」と呟き、それを持ってガラシャの前から去る。
これを最後に、この宣教師がガラシャの前に姿を現すことはなかった。
そんなある日の晩、ガラシャは夢を見た。
死んだはずの父明智光秀が生き延び、天海と名を改め、そして死期間近であると告げる。
父と別れてからまだ数年、これは未来の父が語り掛けてくれているのだと悟った。
百歳を超えるまで生き延びた理由に、彼はガラシャにこう語りかける。
落ち武者狩りにあった際、自分によく似た者が身代わりとなり切られ生きながらえることができたが、次に襲ったのは飢えだった。
そこにひとりの宣教師から施しをうける。
それはみずみずしいまでの生肉で、普段なら口にすらしないものだったが、飢えに耐えかね口にしてしまったことから、死なない身体を手に入れてしまった。
自然の理に反した行為に手を染めたことを悔い、天海と名を改め僧侶として御仏に捧げることで罪を補う。
正しき世界を、誰もが平穏に暮らせる世をと願う家康の夢に協力をしたこともあったが、我が身がゾンビという名の怪物と知りこの身を呪ったこともある。
その思いを娘が経験することがなくてよかった――と、ガラシャの判断が正しいものであると、夢の中で光秀の話が締めくくられると、続いて姿を見せたのは、行方知れずの織田信長とすでに他界した織田軍の武将たちだった。
彼らは真実を知りたがっていたガラシャにこう語る。
ある日、眠りについた我らを起こす宣教師がいた。
ある者の身体から取った肉を口にすれば、死した身体はそのままだが不老不死を得られる――と。
なぜ今更と問うと、信長が危ないという。
宣教師とは未来を予知できる生き物なのかと疑問を持ったが、死してもなお、お館様の安否が気にならない日はなかった彼らは、言われるがままにその肉を口にし、腐敗し死なない身体を手に入れる。
首と胴が切り離されなければ死なないという彼から、ひと欠片の肉を貰う。
もし間に合わなければそれを信長に――と。
「我は死ななかった。が、面白いではないか、人の肉を食らえば死なない肉体を得られるという。試さないわけがなかろう?」
死んだとされている信長もまた、異国でゾンビと呼ばれている人外に身を落とし生き続けていた。
「光秀の真意はわからん。問うたところで口を割ることはしないだろう。それでいい。もともと日ノ本を出て世界を見てみたかったのだからな。ちっぽけな島国になど未練はない」
彼らしい考え方だとガラシャは思った。
のち、海を渡った大陸で、どこから現れたのかわからない者たちが新たな国を開拓、それは人であって人ではない者たちの国である――そんな話を耳にする。
その頃になると、秀吉はやたらと朝鮮出兵に拘り、そして大敗してしまうのだった。
もしあの時、宣教師の言葉に従っていたらどうなっていたのだろうか。
答えは「いまさら」でしかない。
大切な人がこの世界のどこかで生きている、それを知れただけでいいではないか。
それがたとえ夢物語であったとしても――
世界に聖杯はふたつ存在する。
ひとつはテンプル騎士団が今もなお守り続けているキリストの生き血。
もうひとつは海を渡り日ノ本にやってきたキリストの身体の肉。
しかしその肉の行方はわからない。
持ち込んだとされる宣教師と共に消えたのだ。
宣教師もまた、ゾンビと化した者だったのかもしれない。
フィリップ四世を呪い、彼に勝つための最強の騎士団、もしくは――
それは彼にしか真意はわからない、真実はどんな時でも闇の中なのだ。
完結