第1話 夏に装う

文字数 2,155文字

 夏になると、麻のきものばかり着てる。
 格子柄の小千谷(ちぢみ)に、浅葱色の襦袢(じゅばん)が透ける。今日はよく動くから、()献上の博多帯を締めて、緩まないよう丸組の帯締めをきりりと結んだ。

 すずらん女性センターのエントランスに向かうと、紺色のワンピースを着た痩身の女性がすでに待っていた。
(すみれ)さんですね。よろしくお願いします」
 わたしが声をかけると、彼女は黙ってお辞儀をした。

 一緒に廊下を抜け、借りている和室まで歩く。
 菫さんは畳の上に両膝をつき、持っていたスーツケースから風呂敷包みを取り出した。包みを開くと、若葉色のきものと朝顔の柄の帯があらわれる。
片貝(かたがい)木綿(もめん)ですね。自分で洗えるから、日常着にぴったりです」単衣(ひとえ)仕立ての木綿のきものは、四月から十一月頃まで着れる。
 わたしは畳の上に広げられた長襦袢や肌着、小物などを注意深く確かめながら、
「まずは下着になって、足袋(たび)を履いてください」とつづけた。
 彼女は黙ったまま、ワンピースのボタンを外し始めた。

 わたしはここで、着方教室を開いている。教室と言っても、営利目的で利用してはいけない決まりなので、もらうのは会場費だけ。

 菫さんが、長い髪を高い位置で一つにまとめた。汗のにじんだうなじから、ジャスミンの香りがする。彼女は顔をしかめながら、細い指で足袋のこはぜを留める。
「お胸が帯にのっかると美しくないので、ブラはしないか、ノンワイヤーのブラにしましょう」
 菫さんはためらわずにさっとブラジャーをはずした。わたしは綿楊柳(ようりゅう)の補正肌着の内ポケットに、折りたたんだタオルを挟み、彼女に手渡す。
「麻わたが汗取りになりますし、ブラなしでもきれいな胸元にできます」
 自分の体に合った補正は、きものを着るのが楽になるし、着くずれも防いでくれる。
 彼女のくびれに補正着の厚みが合っているか見ながら、わたしはステテコを手渡した。汗をかく時期は、(すそ)よけの代わりに履けば、きものの中のべたつきに悩まない。

「よし、お襦袢を着ていきましょう」
 白いレースの半衿をかけた綿麻の襦袢に衿芯(えりしん)を入れる。菫さんは襦袢に袖を通し、姿見に向かって、のどのくぼみのあたりで衿を合わせた。
「衿を立てずに寝かせると、首が長く見えます。衣紋(えもん)はこぶしひとつ分くらい抜くときれいです」
 彼女はちょっとふり向いて、後ろ手に背中の衣紋抜きを引っ張った。

長着(ながぎ)を着ていきましょう」わたしは片貝木綿を手にとった。
「着付けとは言わないのですか」菫さんが低い声でたずねた。
「着付けというのは、ひとに着せ付けることか、着付けられた状態を言います」わたしは鏡の中の彼女の目を見つめながら、
「わたしたちはふだん、お洋服を自分で着ますね。同じように、和服の着方を覚えれば、おしゃれの世界が広がって、楽しいですよ」と答えた。
「木綿や麻のきものは、コットンやリネンのワンピースと同じで、気取らないおでかけに着ていきましょう」
 わたしはちょっと不安になって、「ひとに着せる技術を学びたい、着付け師を目指していると言うのなら、別のお教室に行くことをおすすめしますけど……」とつけ加えた。
 菫さんは黙ってうなずき、もうそれ以上はたずねなかった。

 長着の背中心を合わせて、裾を決めるとき、おや、と思った。(ゆき)身丈(みたけ)が短い。
 見たところ、手縫いだからプレタきものではなさそうだ。マイサイズで(あつら)えたものでないのなら、だれのきものなのだろう。
「身丈が短いきものは、腰ひもを腰骨のでっぱりぎりぎりまで下げると、おはしょりがとれます」  
 多少長くても短くても、着方を工夫すれば、それなりに着ることができる。腰ひもの位置を低くすれば、おなかを締めつけないので、ついでに食事も楽になる。
 ()()(ぐち)から手を入れて、おはしょりを全部おろした。
「下前のおはしょりをきれいに折りあげると、上前がもこもこせず、すっきり見えます」
 ゴムベルトを下前の衿に留め、ぐるっと背中を回し、上前の衿に留めた。背中の余分を両脇へ全部寄せてととのえると、後姿もきれいになる。胸ひもを締める着方もあるけど、ゴムベルトがあるなら、使ったほうが苦しくない。
「半衿をたっぷり見せる合わせ方にすれば、短い裄の対策にもなります」
 
 前結び用の帯板を胴に巻き、白地に瑠璃紺の朝顔が染められた帯を締めていく。
「時代劇で見る、吉弥(きちや)結びに挑戦しましょう」
 半幅帯の結び方は自由で、正解がない。貝ノ口や吉弥結びは、椅子に寄りかかってもくずれない。
「木綿の帯は滑らないので、角を決めながら折り紙を折るように結んいきます」
 菫さんは前で結んだ帯に帯締めを通し、顔をまっかにして、なんとか後ろ手で結ぼうとした。
「後で結び直すので、どんな結び方でもオーケーです」
 時計回りに帯を回し、姿見と手鏡を合わせ鏡にして位置を確かめたら、最後に帯締めをしっかり結び直す。
 すべてをととのえ終えたころには暑さでほてり、彼女の顔に汗が伝っていた。
 
 素朴な風合いの片貝木綿が彼女をやわらかく包み、夏らしい朝顔が描かれた帯が涼しさを添える。
 菫さんはまじまじと鏡を見つめながら、ほほ笑みをもらした。
 わたしはほっとして思わず息をつき、「着て帰りますか」とたずねた。
 彼女は真顔に戻って、「いいえ、草履を持ってこなかったので、着がえます」と短く答えた。
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