第三話 冬の温かさ
文字数 12,126文字
チャリ通を楽しんでいる者にとって、雪深い東北の冬ほど辛い季節は無い。爽やかな風を自由に切れる、あの快感を味わえないのだ。
校内の駐輪場が雪寄せ場と化したら、通学の足を電車に切り替える頃合いと言える。我が家から最寄り駅の自由が丘駅までは、徒歩でもそう遠くはない。中学時代の登校とほぼ同じ距離だ。問題はそこではない。一時間に一本かつ二両しかない電車が、自分と同じ境遇の生徒でパンパンになるのだ。山手線に乗ったことはないが、ラッシュ時のそれに引けを取らないのではないだろうか? モミクチャにされながら、今日も高校前駅まで必死の思いでたどり着き、崩れたマフラーを巻き直す。
ひと息がてらケータイを開くと、ヨッシーからメールが来ていた。
「風邪ひいて休むから、今日は部室に行けない(泣)」
「了解、お大事に。また明日」と返信し、ケータイを閉じた。
放課後になり、いつものように部室に向かう。ドアを開けると、ストーブに向けたパイプ椅子に腰掛けたリッキーが、一人で暖をとっていた。廊下には吹奏楽部の『ラスト・クリスマス』の演奏が響き渡っていたが、ドアを閉めると「カチカチ」というストーブの音のほうが空間を占める。
「今日はヨッシー来ないって。中村さんは?」
「そっか。さあ、部活のミーティングとかが入ったんじゃない?」
そう答えるリッキーの横にもう一つの椅子を持っていき、俺も一緒に暖を囲む。窓の外では、今朝から止まない雪が深々と降り続いている。俺はリッキーのほうを向き問いかけた。
「新作の進み具合はどうよ?」
「おかげさまで、文化祭のとき文集制作が上手くいったから、俺の創造力も波に乗ってるよ。ヨッシーと千沙ちゃんが公民館に入り浸って、前よりも文芸部の雰囲気も盛り上がってるし。次のアイデアも話そうか?」
「ヨッシー来てないのに、安売りしていいのか? あと、愛しの中村さんも」
「何でみさきなんだよ」
リッキーはそう言い、ニヤニヤと笑う俺からわかりやすく目を逸らした。
リッキーとは、一年生のときにクラスが一緒になってからの仲だ。ヨッシーとリッキーが部長仲間という共通の仲も手伝って、すぐに親交が深まった。ただ、決め手となったのは、初めて部室を訪れたときに違いない。
その日は、「部員が自分だけになって暇だから、来てくれ」とリッキーに言われていたので、放課後にヨッシーと二人で部室に足を運ぶことになった。文芸部の活動報告書を俺も手伝ったため、二人揃ってリッキーよりも遅れて到着。初めて足を踏み入れた吹奏楽部棟に、変に心が踊ってソワソワしている俺をよそに、ヨッシーは「文芸部に、リッキーも勧誘するぜ!」と意気揚々だ。そうして開かれた軽音楽部のドアの先には、甘美なピアノの調べが満ちていた。
倉庫のような室内を見て、束の間の隔世の感とでも言うべき念を抱いたわけではない。吹奏楽部の演奏でごった返していたここまでの道のりとのコントラストが、まるで別世界を錯覚させたのだ。俺はすぐさま、先に着いて電子ピアノを弾いていたリッキーに声をかけた。
「坂本龍一の『Asience』でしょ?」
東洋のスパイスを感じさせる演奏が鳴り止む。リッキーは、嬉しそうな顔でこちら向いてから答えた。
「当たり。坂本龍一知ってるの?」
「CMの曲だったから」
「坂本龍一だって気づいてくれた人は初めて」
リッキーは雲一つ無い表情を見せ、俺もあえて『戦場のメリークリスマス』や『energy flow』を弾かないリッキーの反骨的センスが心底楽しく感じられた。
それ以来、リッキーはその晴れ空の表情をよく見せてくれるようになった。文理分けでクラスが別になった今でも、その間柄は変わりない。
そんな思いふけりのさなか、唐突にドアが開いた。
「委員会の仕事あってさー」
そう言いながら入ってきた中村に席を譲ろうとしたが、リッキーが先にはけたので、座り直す。「ありがと」と中村が座り、リッキーは机に腰掛けた。その横の電子ピアノが目に入り、閃く。
「そうだ、今日は久々に軽音楽部部長の演奏を聴かせてよ。吹奏楽部の『ラスト・クリスマス』に対抗してさ」
「よしきた」
リッキーは俺の要望に快く返し、ピアノの電源を入れた。俺が椅子を譲ろうとしたのを笑顔で「大丈夫」と止め、立ったまま演奏体制に入る。
ふと窓の外の降りゆく雪に目が行っていた隙に、演奏は始まっていた。演奏に聴き入りながらも、中村がこっそりと質問してくる。
「これ何て曲かわかる?」
「『Aqua』だったと思う」
記憶を手探りした答えだが、たぶん合っているはずだ。坂本龍一の作品にしてはシンプルな、それでいて心の深くまで降りてくる温かみのある旋律、そして、ペダル音が部室の静寂を抱擁する。
「ここでも、『戦場のメリークリスマス』は弾かないのか」
内心そう呟いたが、リッキーのセンスは間違いないと思う。そんなベタな選曲、俺も中村も望んではいないのだから。
リッキーの演奏は、音だけでなく見た目も鮮やかだ。嫌みのないスラっとした顔立ちのリッキーが、目を閉じながら丁寧なタッチでピアノを弾いている光景は、それだけでもサマになる。俺はその音色に心を奪われ、中村は音色と光景の双方にうっとりしているといった具合だ。
演奏が終わり、また「カチカチ」という音が聞こえだす。俺と中村が揃って拍手をしたのを合図に、リッキーが向き直った。普通、こういうとき奏者は照れ臭い顔をしていても良いが、リッキーはいつもサッパリとした清々しい顔をしている。そのため、こっちまで爽やかな気持ちになり、「心の底からリッキーの演奏を楽しめた」と感じられるのだ。
「さてと」
俺はそう言ってカバンを担ぎ、席を立った。
「電車の時間もうすぐだから、そろそろ行くわ」
その言葉の裏に「あとはお二人の時間をどうぞ」という意味を隠しながら、ドアに手をかける。リッキーの「また明日ー」と中村の「じゃーねー」という声を背に、部室を後にした。
マフラーを正し、『ラスト・クリスマス』がリピートされている空間を抜ける。玄関のガラス扉の先の景色は、相変わらずの白一色だ。スノトレの紐を固く結ぶ。そのとき、外を歩く女子集団の声が耳に入った。
「電車止まってるらしいよ」
「マジで?」
「マジでー!?」
心の中ではあるが、驚きの声をあげてしまった。それも、声の主である女子の二倍ほど盛大に…… 雪の影響で電車が止まるのは、この季節のあるあるだ。しかし、リッキーと中村の空間を演出した手前、今から部室に戻るのは決まりが悪い。かといって、電車の復旧を待つ集団でごった返す駅に紛れるのも酷というものだ。
どうしようかと悩むごとに、雪積もる前の帰り道が恋しくなってくる。一か月前までは行けていた道、パン屋、本屋…… そういえば、釣りスポットの手前には、バス停があったな。
その考えに至ったときには、足取りはすでに裏門へ向かっていた。周囲と変わらず雪で覆われているが、搬入車両の出入りのおかげで、かろうじて裏門の体裁は残っている。タイヤ跡から見上げた先の大木は、雪化粧をしながらも、威厳を保っている様に見えた。
裏門を抜け、いつも通っていた帰り道に出る。見慣れた風景のはずなのに、冬だとまるで別世界だ。真っ白な道に、降る雪がジャンパーにあたる音と、自分が雪を踏みしめる音だけが響く。
思えば、国道のバス停を使う手がとっさに浮かばなかったのが不思議だ。去年の冬に電車が止まった際はそうしていたのに、今回は釣りスポットのほうのバス停しか、脳裏に浮かばなかった。一度も利用したことのないバス停で、経由地や時刻表も把握していないのに足が吸い寄せられたのは、この道に慣れている性に他ならない。
雪に残った先人の足跡を辿りながら、一歩一歩、丁寧に歩みを進める。周囲を包んだクリーニング工場の機械音と匂いも、もう後ろだ。そうして、何分ほど歩いていただろうか。辿っていた足跡からふと見上げると、誰もいないバス停が目の前になっていた。時刻表に積もった雪を払い、次に来るバスを確認する。
「あと十分!」
心の中でそう喜んだ。予想通り、バスは一時間から二時間に一本のペース。ちょうど良いタイミングに来れたものである。また、行き先が「西部営業所」となっていることも幸運だった。このルートなら、乗り換えせずとも家の前を経由するはずだ。
その歓喜も束の間、高校方面から、雪を踏みしめる音が聞こえてくるのに気がついた。すらっとした影が近づいて来るので、眼前の雪のモザイクの中、目を凝らす。上から下に流れる白雪に、左右に揺れる長い黒髪が映える。
「関根さんだ」
その予想は当たり、バス停を挟んだ左側に彼女が立った。
紺のマフラーとベージュのコートに身を包んだ彼女は、色白の肌が雪の反射でさらに白くなっており、冬景色の一片となっている。
俺からすれば、よく見かけるので親近感があるが、彼女からすれば初対面であり、何とも言い難い距離感だ。一方的に気まずい思いをしている自分が気恥ずかしい。
ジャンパーに雪があたる音が、まるでこの世界の唯一の音のように思える。残響さえ聞こえてきそうだ。スーっと、視線を左に向ける。関根さんは、時折目線を下に動かしながらも、正面を見続けていた。その落ち着きようは、そわそわとした自分と比べ、神々しさに近いものがある。
彼女は、冬はいつもこのバス停を使っているんだろうか? それとも、自分と同じく、電車が止まっているからこちらに来た? もしくは、自分のように帰り道の性があったりして。その発想は、我ながら笑える。
少しだけ上を向く。ライトグレーの空から、ふわりふわりと雪が降ってくる。その雪が、まるで砂時計の砂のようだ。十分なんてすぐのはずだが、ちらちらと輝く雪降る速さのように、ここの時間はゆっくりと流れているに違いない。
いや、待てよ。十分を過ぎているのかも? 冬のバスほどルーズな乗り物は無いじゃないか! そう思い、ケータイを取り出して時間を見ようとした矢先に、バスがやって来た。
関根さん側にバスが停まり、彼女が先に乗り込む。同じく雪を払って続こうとすると、ステップの上から、乗車券が降ってきた。
「あっ」
「どうぞ」
気づくと、乗車券を落として焦る彼女に、とっさにそれを拾って渡していた。足元の雪解け水で乗車券が少し濡れているのが、手袋越しでもわかる。
「ありがとうございます」
そう言って彼女が会釈をしたとき、心のとっかかりが無くなったような気がした。
「あの、いつも絵を描いてますよね?」
柄にもなく、思わず声をかけてしまったが、不思議と後悔はない。
「絵?」
一瞬戸惑った様子の彼女を見て、ハッと我に返った。自分のぶんの乗車券を発券機から取り、「発車いたしますので、お席に座るか吊革などにお掴まりください」というアナウンスを聞きながら席を見回す。最後列の五人掛けシートが空いていたので、その右端に駆け込んだ。
「関根さんは!?」
そう思った途端、声をかけられた。
「絵って、川沿いで描いてるやつのことですか?」
心臓に熱湯が流れ込んだような感覚になった。声のほうを向くと、五人掛けシートの中央に浅く掛けた関根さんが、こちらを向いている。平静を装って言葉を返す。
「そうそう、いつも帰り道に見かけてて、それで気になって」
「もしかして、釣りしてたことあります? 川沿いで」
「えっ」
関根さんは目をまん丸にして、こちらを見ている。
俺のことを知ってる? まあ、いつも彼女と同じ道を帰っているのだ。見られたことがあっても、不思議じゃない。ただ、それがどうしようもなく恥ずかしく感じられる。
俺は首元のマフラーを少し顔に近づけ、声を低めて答えた。
「バス停の近くのとこでなら、よく釣ってますよ」
「あ、やっぱりそうだ。お顔を見たとき、そうじゃないかな〜って思ったんですよ。絵は、写生が好きだから外で描いてるんです」
彼女はそう言って笑顔のまま座り直し、前を向いた。
いつの間にかバスは発車しており、自分と関根さん、そして前方に数人の乗客を乗せて、ゆっくりと雪の中を進んでいる。全身を白く染めた東部岳の麓には、雪で覆われた東部町が見える。
「美術部なんですか?」
彼女が美術部を辞めたことはヨッシーから聞いていたが、それを俺が知っているのは彼女からすれば奇妙なため、あえて遠回しに質問をした。
「美術部だったけど、辞めたんです。それでも好きだから描いてて。そう言う、えーっと…… すみません、お名前教えてもらっても? 私は関根です」
「あ、五十嵐です」
「五十嵐さんは、釣り部とかそういう活動なんですか?」
同じ質問をされた記憶が甦り、思わず笑ってしまう。その様子を、相変わらず興味津々に見てくる彼女に、ワケを説明する。
「よく誤解されますけど、俺は帰宅部です。釣りは趣味でやってるんです」
「私の絵と同じなんですね」
関根さんはその言葉を口にし、また笑顔になった。
「美術部でもないのに、いつも放課後に絵を描いていて、変に思います?」
「いや、放課後は自由だし、俺の釣りみたいに」
彼女の質問に、もうあまり緊張しなくなっていたので、自然体で答えた。彼女も、無理をしていない、爽やかな笑顔なのがわかる。
バスは既に東部町まで来ていた。しかし、停留所に誰もおらず、降車ボタンが押されることもなかったため、どんどんと白い町を進んで行く。気づけば、画伯の家をもう通り過ぎていた。
「何で、あの川を描いてるんですか?」
「ええと、川っていうか自然の風景を描きたくて」
積もった雪により道幅はかなり狭くなっているが、対向車が来ないため、バスはゆっくりながらも着実に進んでいる。もう少しでボンジュールだ。
「川以外にも、木とか田んぼとか、空、あと東部岳とかも」
そう言って、関根さんがそれとなく窓の外を見たので、つられて東部岳を見た。バスは、浅草書店へと続く道に入るところだ。
改めて、そしてさりげなく、隣を見る。関根さんは、何かに心を躍らせているような、煌めく目で外を眺めている。俺も、自然の景色は、写真に収めたい欲求が湧くくらいに好きだ。ただ、その種の嗜好とは違った感覚が、彼女には秘められているように感じられる。きっと、俺とは全く違うレンズで、この景色を脳内に捉えているのだろう。
「いつも川沿いで描いてるのは、あそこが一人でゆっくり描けるからってだけで、モチーフは様々です」
「そうなんですね」
初めてバスが停まる。乗車口から初老の男性が乗り込んできて、前方の空いている席に座った。
「あの、関根さんって、一年の夏の写生会で、裏門の大木を描いてませんでした?」
「え?」
「俺もあそこを描いてて、見かけた記憶があって」
「描いてましたよ。あそこって、絵になる風景じゃないですか?」
自分でも疑うほどに会話が続いているのは、この空間のおかげかもしれない。バスの後方は自分たちだけで、かつエンジン音がマスキングの役割を果たし、他の乗客の存在を感じさせない。まるで、部室でヨッシーたちと過ごす放課後のような感覚だ。
「たしかに。実は、あの写生会で裏門を知ったのが、東部川で釣りをするようになったキッカケなんです。裏門から帰ったら、川を見つけて」
「ふふっ、私もです。いいモチーフを探してるときに、あの裏門を思い出したから、あそこから帰るようになって」
関根さんの笑顔につられて、俺も笑みがこぼれた。
バスはもう自由が丘住宅群まで進んでおり、穏やかな会話のペースと対照的だ。車通りと信号が増えたが、体感では変わらず快調な走りを保っている。常勝丘川の脇には確かバス停があるので、そこで降りれば良い。そういえば、バス停の名前は何だっけ?
「次は、常勝丘川前。お降りの方は――」
アナウンスを聞き、拍子抜けしてしまった。それと同時に、降車ボタンを押す。料金表を見るかたわら、再び関根さんが目に入った。彼女が興味ありげに聞いてくる。
「五十嵐さんの家、このあたりなんですか?」
「常勝丘川のほとりなんです。関根さんは?」
「私はもっと市街地側です」
「遠くから通ってるんですね」
バスが停止し、ブザー音とともにドアが開いた。
「それじゃあ」
俺が、会釈とともにそう言って立ち上がると、彼女は通路を開けながら、持ち前の笑顔で会釈を返した。
バスを降りて、ドアの閉まるブザーを聞き流す。雪道に数歩足を取られてから、ふとバス停のほうを振り返った。もちろん、バスの姿はもう無い。信号を二つ越えた先の交差点を、バスが左折しているのが見えた。
我が家に着き、玄関に立てかけていたスノーダンプで雪塊に突っ込む。その雪寄せで火照った身体で、居間のコタツに滑り込んだ。そこからの夕飯などの流れはいつもと同じ。
風呂あがり、部屋の明かりを消し、窓から外を眺める。空は曇っているが、微かな月明かりが雪に反射している。キラキラと輝く結晶の流れは、絶え間無い。
布団にもぐり、灯るストーブの赤を見た。今日のことを思い出そうとしたが、「カチカチ」という音を聞いているうちに、緊張の糸が切れたかのように、疲れがドッと体内に渡った。残りの力でストーブを消して目覚ましのスイッチを押し、眠りについた。
次の日の放課後、ご多分に漏れず部室に行くと、ヨッシーとリッキーと中村が、ストーブを囲んでいた。
「おお、来た来た! 待ってたぞ、がっちゃん」
リッキーが、ぴょんぴょんと跳ねるが如く、喜びの声を掛けてくる。
「さあ、今日は満を持して新作を披露するから」
リッキー本人はそう言うが、新作といっても、もちろん完成形ではなくアイデアのことだ。
「タイトルは『畏友』」
窓の外の晴れ空とは裏腹に、すでに雲行きが怪しいが、ヨッシーと中村とともに、成り行きを見守る。
「主人公は人の心が読めるんだ。で、それを利用して相手を操ることもできる。つまり、マインドコントロールができるってこと。『暑い』と思ってる人にアイスを渡せば、その人は食べるし、『早く帰りたい』と思ってる人に空いている道を教えれば、その人はその道で帰るだろ? 些細な当たり前の連鎖。でもそれって、人を操れるってことなんだ。人間誰しも、『自分で考えて決めてる』と思い込んでるだけで、実は何かに操られてるって言える。相手に太ってほしいと思ったら、相手が空腹のときに、太る食べ物をたくさん勧めればいい。ダイエットしたいのに、美味しそうなラーメンの匂いにつられる人は、ある意味、ラーメン屋に操られてるんだ」
相変わらず着眼点、すなわちスタートポイントは面白い。ただ、リッキーの創作の場合、ここからが重要だ。
「そんな主人公は、サイバーテロを起こしたとして逮捕された親友を救おうと、マインドコントロールを駆使して奔走する。で、親友を起訴した検事を自殺に追い込むんだけど、実はその親友もマインドコントロールの使い手で、主人公はずっと親友に操られてたってオチ」
「なんで主人公は人の心が読めるのに、親友の心は読めないの?」
「そこの矛盾してる設定を練らないと、無理矢理だよな」
中村のツッコミに、ヨッシーが続いた。俺は同調を言葉にしないかわりに、頷いて返す。リッキーはいつものように、「はー」とため息をついた。
「また考え直しかあ」
外から、鳥のさえずりが聞こえる。今日は、吹奏楽部の練習が無いようだ。
「さてと、俺はそろそろ公民館に行くかな。リッキーも来る?」
「そうだな、久々にミーティングしよう」
「じゃあ、俺も帰ろ」
「私も部活行くねー」
ヨッシーに、リッキー、俺、中村が続いた。
昨日と打って変わっての快晴、「ザクザク」と雪を踏みしめる音も、心なしか軽やかだ。ヨッシーとリッキーと俺の三人の足音が揃う。過ぎざまに部室棟を見ると、中村が箏曲部の部員たちと楽しそうに話しているのが窓を通して見えた。俺の視線に気づいたヨッシーが、したり顔でリッキーに話しかける。
「リッキーさ、最近、中村さんとどうなんだよ」
「どうって何だよ」
リッキーはトボケとクールの両立を果たしたつもりだろうが、その試みは空振りだ。俺も、ヨッシーに続いて畳み掛ける。
「昨日だって、俺が先帰って、いい雰囲気にしてやっただろ」
「がっちゃんまで。もうこの話はここまでな」
俺とヨッシーがニヤニヤとしていることに、リッキーは心底バツが悪そうだ。
三人揃って、本来は恋愛沙汰に首を突っ込む下世話な性格ではないが、その三人の中のリッキーの恋模様となると、話は変わってくる。「何かあれば、せっかくの憩いの放課後の雰囲気が悪くなってしまう」と、部室の先行きを案ずる俺とヨッシーは、気が気ではないのだ(と言っておこう)。
リッキーはモテるので、色恋話には事欠かない。しかし、頭と運動神経が良いという長所にとどまらず、どこか抜けた変人というエッセンスまで兼ね備えているため、女子ウケ抜群なのは始めだけ。そのエッセンスに呆れた女子は、付き合う前に意中の存在を諦めるのがお決まりだ。そんななか、それに倣わずに残ったのが中村だった。もっとも、中村の妹がリッキーの弟と同じ中学で関わりがあり、お互いもとより気のおけない関係なのは確かだが。
中村が初めて部室を訪ねて来たのは、俺たち三人が部室に集まるようになってから数日後だった。
「理樹、いるー?」
そのときはジャンプの新連載の話で盛り上がっていたが、急に女子(中村)が入ってきたので、俺とヨッシーは顔を見合わせた。
「何かあったの、みさき?」
「いや、部活一人だけになったって聞いたから、様子見に来たんだけど、立て込んでた?」
リッキーの質問に、中村が恐る恐る答える。こんどはリッキーが、中村の質問に答えた。
「いや、この二人は部活と関係ないから、大丈夫だけど」
その言葉を合図に、俺とヨッシーで中村に会釈をした。中村も、「どーもー」と言わんばかりの表情で会釈を返す。
リッキーと中村の恋事情をそれぞれの口から聞いたのは、それからしばらく経ってからで――
そんな回想をしていると、裏門を抜けたところで、思い出したかのようにヨッシーが声を掛けてきた。
「あれ? そういえば、がっちゃん『帰る』って言ってたよね? 公民館来ることにしたの?」
「いや、帰るよ。こっちからバスで帰る」
俺の返答に、リッキーが質問してくる。
「電車は?」
「こっちのバスのほうが、電車より楽って昨日知ったんだよね。常勝丘川の前のバス停経由するから」
今度はヨッシーが、俺の返答に続けた。
「こっちから常勝丘川まで行けるんだ。それなら、俺も今日はバスで帰ろ」
「いいなー。国道まで戻らないと、俺は帰れないからな」
リッキーがそう言って、雪を「ザクッ」と鳴らす。そうしているうちに、バス停が見えてきた。
「そういえば、バスの時間は大丈夫なの?」
「ああ、昨日あのバス停から帰ったから覚えてる。あと十分くらいで昨日と同じ便が来るはず」
ヨッシーの質問に答え、誰もいないバス停をまた見る。ふと右を向くと、晴れ空のもと、白く染まった東部岳がそびえ立っている。その白に反射する日差しが眩しい。
「それじゃあ、俺らはこっちだから」
「また明日な」
「また明日ー」
ヨッシーの言葉に返した俺に、リッキーが返した。踏切を越えた先、一面銀世界になった田んぼを、二人が進んでいく。それを呆然と見つめているうちに、踏切の向こうが、かけがえのない光景に思えてきた。
こうなると、もうカメラを取り出さずにはいられない。手袋を脱いでジャンパーのポケットに挟み、その手でしっかりとシャッターを切った。点になったヨッシーたちの背景に、東部岳を含めた広大な白色が広がっている。何てことない一瞬だって、切り取れば劇的だ。そう満足して、カメラをしまった後も、目の前の風景を楽しんだ。
「こんにちは」
驚き、漫画のように体が飛び上がってしまう(たぶん実際は飛び上がっていないが、体感は間違いなく漫画のそれだった)。学校の方角を向くと、いつの間にか、関根さんが小さく笑みを浮かべながら立っていた。
「ビックリさせちゃいました?」
「いや、そんなこと」
俺の返事に納得していない様子で、関根さんはこちらをうかがいながら、俺の隣に立った。
「今日も時間通りにバスが来るといいですね」
「そうですね」
間が持てずに話しかけた俺に、関根さんがバスのやってくる方向を見ながら返す。ちょうどそのタイミングで、彼女の視線の先に、ベージュと黒、そしてフロントライトを携えた四角形が現れた。
「来ましたね」
関根さんはそう言いながら微笑んで、やって来たバスに乗り込んだ。「二日連続で時間通りなんて」と言いながら、俺も続けて乗車券を取る。二人揃って、今日も空いている最後尾席に、なぜだか自然と体が向かった。
バスが、踏切を越えて田んぼ道に入る。揺れるなか、視点を定めて東部川を見続ける関根さんを見ていたら、思わず声を掛けたくなった。
「冬の間って、絵は描かないんですか?」
「描いてますよ。毎日部屋で、春から秋に描いたスケッチに描き加えてます」
窓から、ヨッシーとリッキーが、公民館へ通じる脇道を歩いているのが見えた。
「写生は冬はお休みです。ホントは雪景色も描きたいけど、この寒さだと」
そう言って笑う彼女につられて、いつもの流れで俺も笑う。そのまま、気になっていた疑問が、脳を介さずに口から出た。
「そういえば、何で関根さんは美術部を辞めちゃったんですか? 美術部でも絵は描けるのに」
すぐさま「しまった!」と気づく。
「いや、話したくないなら」
「いえ、とくに話しにくい理由は無いですよ。美術部も楽しかったんですけど、写生の機会があまり無くて。放課後に寄り道したほうが、満足に絵が描けるなって」
「その『放課後だからできる好きなことをする』って、すごくわかります。俺もそうだから」
とっさのフォローのつもりだったが、思いがけず自分の人生観(そんなに大そうなものではないが)を曝け出してしまった。関根さんが、熱心に「うんうん」と頷く。
「そうですよね。何か、『部活に行くのだけが、放課後の楽しみ方じゃない』って考えたら、放課後の可能性って、無限に広がってるって思えたんですよね」
彼女のその言葉を聞いたとき、自然とヨッシーとリッキーの顔が浮かんだ。「なんでこんなときに」と思いつつも、「そうだよな」と心付く。そんな、俺のほころんだ表情を合図にしたかのように、彼女が言葉を繋いできた。
「五十嵐さんは中学のときも帰宅部だったんですか?」
「テニス部でしたよ」
「えー! 釣りと全然違うじゃないですか! テニスも好きなんですか?」
「いや、好きってわけじゃないけど、うちの中学は、何か部活に必ず参加しないといけなかったから、何となく。その惰性で、高校入学当初もテニス部に入ってました」
「えっ、そうなんですか?」
驚きと興味が入り交じった彼女のオーラに負けて、つい口が開いてしまう。
「一年の夏休みの練習中に、ボールの打ち返しで手を捻っちゃったんです。ケガは大したことなかったんですけど、昔からのフォームの癖が原因らしくて。それで、接骨院の先生から『今からフォームを直しても、今後もテニスを続けると後遺症があるかもしれない』って言われたのを知った顧問に、『大事をとれ』って活動禁止にされたんですよね」
話しているうちに、当時の自分がすぐ近くにいるような気分になった。それとともに、体にスッと冷たい風が流れる。しかし、隣に関根さんがいるからだろうか、心の何処かが、なぜか温かい。少しためらってから、何かを悟ったかのように、彼女が口を開いた。
「それは残念ですけど、その、五十嵐さんの『釣りが好き』って感覚って、テニスができなくなって生まれたものじゃない気がして。何て言うか」
「そうですね。テニスができなくなったのは正直悔しいけど、未練は無いですよ。むしろ、今のほうが放課後を楽しめてるし」
思えば、テニス部だったころの思い出は、中高合わせても数える程しかないが、帰り道の思い出は、無数にある。そして、自由な放課後を楽しいと感じられるのが自分だけではないことを、ヨッシーたちが教えてくれた。
関根さんは、安心したような顔でこちらを見ている。彼女の後ろの窓に映る空が、さっきよりも清々しいのは明らかだ。
バスが停まって、若いカップルが乗ってきた。気づけば、自由が丘住宅群に差し掛かっている。
バスに揺られ、暮れる空の中、バス停案内のアナウンスをいくつか聞き流す自分を俯瞰した。バスは相変わらず快調で、車外の景色の変化が目まぐるしく思える。
「明日も、関根さんと帰り道に会うだろうか?」
その気持ちだけが、体中を占めていた。
「関根さんって、絵を描く以外の趣味ってありますか?」
「えー、漫画読むとか? 『これだ』っていうのは無いですね。写生だけで、絵は描けるし、自然を味わえるし、自分の楽しみの大半が味わえるんですよね。五十嵐さんは、何かあるんですか?」
「写真撮るのも好きですよ。てか、写真撮るほうが好きかな。よく、帰り道の風景を撮ってて」
「へー、一眼レフとか持ってるんですか?」
「いや、普通のコンパクトデジカメですよ」
そう言いながら、降車ボタンを押した。常勝丘川前のバス停が、もう迫ってきている。
「撮った写真、見せてくださいよ」
「じゃあ、俺にも関根さんの絵、見せてもらえます?」
俺が笑いながらそう言うと、関根さんも笑顔で、それでいて少し照れながら、「わかりました」と頷いた。
そのタイミングでドアが開き、昨日のように、関根さんとお互いに会釈をする。バスを降りて数歩進んでから、バス停のほうを振り返った。やっぱり、バスはもう、発進した後だ。そのまま視線を上げ、月が現れた空を見た。
帰宅後、いつものルーチンをこなし、入浴タイム。バスタブの上に置いてある、防水ラジオの電源を入れた。海外音楽特集のコールが入り、どこか知らない異国の歌が流れ出す。
その一曲目が妙に耳に残った状態で、布団にもぐった。本当は、そんな曲よりも、頭から離れない光景があるのだが。その光景を冬の帰り道と照らし合わせながら、目覚ましをセットして眠りについた。
その日は夢で、まだ雪の積もっていないころの帰り道の記憶を見た。
校内の駐輪場が雪寄せ場と化したら、通学の足を電車に切り替える頃合いと言える。我が家から最寄り駅の自由が丘駅までは、徒歩でもそう遠くはない。中学時代の登校とほぼ同じ距離だ。問題はそこではない。一時間に一本かつ二両しかない電車が、自分と同じ境遇の生徒でパンパンになるのだ。山手線に乗ったことはないが、ラッシュ時のそれに引けを取らないのではないだろうか? モミクチャにされながら、今日も高校前駅まで必死の思いでたどり着き、崩れたマフラーを巻き直す。
ひと息がてらケータイを開くと、ヨッシーからメールが来ていた。
「風邪ひいて休むから、今日は部室に行けない(泣)」
「了解、お大事に。また明日」と返信し、ケータイを閉じた。
放課後になり、いつものように部室に向かう。ドアを開けると、ストーブに向けたパイプ椅子に腰掛けたリッキーが、一人で暖をとっていた。廊下には吹奏楽部の『ラスト・クリスマス』の演奏が響き渡っていたが、ドアを閉めると「カチカチ」というストーブの音のほうが空間を占める。
「今日はヨッシー来ないって。中村さんは?」
「そっか。さあ、部活のミーティングとかが入ったんじゃない?」
そう答えるリッキーの横にもう一つの椅子を持っていき、俺も一緒に暖を囲む。窓の外では、今朝から止まない雪が深々と降り続いている。俺はリッキーのほうを向き問いかけた。
「新作の進み具合はどうよ?」
「おかげさまで、文化祭のとき文集制作が上手くいったから、俺の創造力も波に乗ってるよ。ヨッシーと千沙ちゃんが公民館に入り浸って、前よりも文芸部の雰囲気も盛り上がってるし。次のアイデアも話そうか?」
「ヨッシー来てないのに、安売りしていいのか? あと、愛しの中村さんも」
「何でみさきなんだよ」
リッキーはそう言い、ニヤニヤと笑う俺からわかりやすく目を逸らした。
リッキーとは、一年生のときにクラスが一緒になってからの仲だ。ヨッシーとリッキーが部長仲間という共通の仲も手伝って、すぐに親交が深まった。ただ、決め手となったのは、初めて部室を訪れたときに違いない。
その日は、「部員が自分だけになって暇だから、来てくれ」とリッキーに言われていたので、放課後にヨッシーと二人で部室に足を運ぶことになった。文芸部の活動報告書を俺も手伝ったため、二人揃ってリッキーよりも遅れて到着。初めて足を踏み入れた吹奏楽部棟に、変に心が踊ってソワソワしている俺をよそに、ヨッシーは「文芸部に、リッキーも勧誘するぜ!」と意気揚々だ。そうして開かれた軽音楽部のドアの先には、甘美なピアノの調べが満ちていた。
倉庫のような室内を見て、束の間の隔世の感とでも言うべき念を抱いたわけではない。吹奏楽部の演奏でごった返していたここまでの道のりとのコントラストが、まるで別世界を錯覚させたのだ。俺はすぐさま、先に着いて電子ピアノを弾いていたリッキーに声をかけた。
「坂本龍一の『Asience』でしょ?」
東洋のスパイスを感じさせる演奏が鳴り止む。リッキーは、嬉しそうな顔でこちら向いてから答えた。
「当たり。坂本龍一知ってるの?」
「CMの曲だったから」
「坂本龍一だって気づいてくれた人は初めて」
リッキーは雲一つ無い表情を見せ、俺もあえて『戦場のメリークリスマス』や『energy flow』を弾かないリッキーの反骨的センスが心底楽しく感じられた。
それ以来、リッキーはその晴れ空の表情をよく見せてくれるようになった。文理分けでクラスが別になった今でも、その間柄は変わりない。
そんな思いふけりのさなか、唐突にドアが開いた。
「委員会の仕事あってさー」
そう言いながら入ってきた中村に席を譲ろうとしたが、リッキーが先にはけたので、座り直す。「ありがと」と中村が座り、リッキーは机に腰掛けた。その横の電子ピアノが目に入り、閃く。
「そうだ、今日は久々に軽音楽部部長の演奏を聴かせてよ。吹奏楽部の『ラスト・クリスマス』に対抗してさ」
「よしきた」
リッキーは俺の要望に快く返し、ピアノの電源を入れた。俺が椅子を譲ろうとしたのを笑顔で「大丈夫」と止め、立ったまま演奏体制に入る。
ふと窓の外の降りゆく雪に目が行っていた隙に、演奏は始まっていた。演奏に聴き入りながらも、中村がこっそりと質問してくる。
「これ何て曲かわかる?」
「『Aqua』だったと思う」
記憶を手探りした答えだが、たぶん合っているはずだ。坂本龍一の作品にしてはシンプルな、それでいて心の深くまで降りてくる温かみのある旋律、そして、ペダル音が部室の静寂を抱擁する。
「ここでも、『戦場のメリークリスマス』は弾かないのか」
内心そう呟いたが、リッキーのセンスは間違いないと思う。そんなベタな選曲、俺も中村も望んではいないのだから。
リッキーの演奏は、音だけでなく見た目も鮮やかだ。嫌みのないスラっとした顔立ちのリッキーが、目を閉じながら丁寧なタッチでピアノを弾いている光景は、それだけでもサマになる。俺はその音色に心を奪われ、中村は音色と光景の双方にうっとりしているといった具合だ。
演奏が終わり、また「カチカチ」という音が聞こえだす。俺と中村が揃って拍手をしたのを合図に、リッキーが向き直った。普通、こういうとき奏者は照れ臭い顔をしていても良いが、リッキーはいつもサッパリとした清々しい顔をしている。そのため、こっちまで爽やかな気持ちになり、「心の底からリッキーの演奏を楽しめた」と感じられるのだ。
「さてと」
俺はそう言ってカバンを担ぎ、席を立った。
「電車の時間もうすぐだから、そろそろ行くわ」
その言葉の裏に「あとはお二人の時間をどうぞ」という意味を隠しながら、ドアに手をかける。リッキーの「また明日ー」と中村の「じゃーねー」という声を背に、部室を後にした。
マフラーを正し、『ラスト・クリスマス』がリピートされている空間を抜ける。玄関のガラス扉の先の景色は、相変わらずの白一色だ。スノトレの紐を固く結ぶ。そのとき、外を歩く女子集団の声が耳に入った。
「電車止まってるらしいよ」
「マジで?」
「マジでー!?」
心の中ではあるが、驚きの声をあげてしまった。それも、声の主である女子の二倍ほど盛大に…… 雪の影響で電車が止まるのは、この季節のあるあるだ。しかし、リッキーと中村の空間を演出した手前、今から部室に戻るのは決まりが悪い。かといって、電車の復旧を待つ集団でごった返す駅に紛れるのも酷というものだ。
どうしようかと悩むごとに、雪積もる前の帰り道が恋しくなってくる。一か月前までは行けていた道、パン屋、本屋…… そういえば、釣りスポットの手前には、バス停があったな。
その考えに至ったときには、足取りはすでに裏門へ向かっていた。周囲と変わらず雪で覆われているが、搬入車両の出入りのおかげで、かろうじて裏門の体裁は残っている。タイヤ跡から見上げた先の大木は、雪化粧をしながらも、威厳を保っている様に見えた。
裏門を抜け、いつも通っていた帰り道に出る。見慣れた風景のはずなのに、冬だとまるで別世界だ。真っ白な道に、降る雪がジャンパーにあたる音と、自分が雪を踏みしめる音だけが響く。
思えば、国道のバス停を使う手がとっさに浮かばなかったのが不思議だ。去年の冬に電車が止まった際はそうしていたのに、今回は釣りスポットのほうのバス停しか、脳裏に浮かばなかった。一度も利用したことのないバス停で、経由地や時刻表も把握していないのに足が吸い寄せられたのは、この道に慣れている性に他ならない。
雪に残った先人の足跡を辿りながら、一歩一歩、丁寧に歩みを進める。周囲を包んだクリーニング工場の機械音と匂いも、もう後ろだ。そうして、何分ほど歩いていただろうか。辿っていた足跡からふと見上げると、誰もいないバス停が目の前になっていた。時刻表に積もった雪を払い、次に来るバスを確認する。
「あと十分!」
心の中でそう喜んだ。予想通り、バスは一時間から二時間に一本のペース。ちょうど良いタイミングに来れたものである。また、行き先が「西部営業所」となっていることも幸運だった。このルートなら、乗り換えせずとも家の前を経由するはずだ。
その歓喜も束の間、高校方面から、雪を踏みしめる音が聞こえてくるのに気がついた。すらっとした影が近づいて来るので、眼前の雪のモザイクの中、目を凝らす。上から下に流れる白雪に、左右に揺れる長い黒髪が映える。
「関根さんだ」
その予想は当たり、バス停を挟んだ左側に彼女が立った。
紺のマフラーとベージュのコートに身を包んだ彼女は、色白の肌が雪の反射でさらに白くなっており、冬景色の一片となっている。
俺からすれば、よく見かけるので親近感があるが、彼女からすれば初対面であり、何とも言い難い距離感だ。一方的に気まずい思いをしている自分が気恥ずかしい。
ジャンパーに雪があたる音が、まるでこの世界の唯一の音のように思える。残響さえ聞こえてきそうだ。スーっと、視線を左に向ける。関根さんは、時折目線を下に動かしながらも、正面を見続けていた。その落ち着きようは、そわそわとした自分と比べ、神々しさに近いものがある。
彼女は、冬はいつもこのバス停を使っているんだろうか? それとも、自分と同じく、電車が止まっているからこちらに来た? もしくは、自分のように帰り道の性があったりして。その発想は、我ながら笑える。
少しだけ上を向く。ライトグレーの空から、ふわりふわりと雪が降ってくる。その雪が、まるで砂時計の砂のようだ。十分なんてすぐのはずだが、ちらちらと輝く雪降る速さのように、ここの時間はゆっくりと流れているに違いない。
いや、待てよ。十分を過ぎているのかも? 冬のバスほどルーズな乗り物は無いじゃないか! そう思い、ケータイを取り出して時間を見ようとした矢先に、バスがやって来た。
関根さん側にバスが停まり、彼女が先に乗り込む。同じく雪を払って続こうとすると、ステップの上から、乗車券が降ってきた。
「あっ」
「どうぞ」
気づくと、乗車券を落として焦る彼女に、とっさにそれを拾って渡していた。足元の雪解け水で乗車券が少し濡れているのが、手袋越しでもわかる。
「ありがとうございます」
そう言って彼女が会釈をしたとき、心のとっかかりが無くなったような気がした。
「あの、いつも絵を描いてますよね?」
柄にもなく、思わず声をかけてしまったが、不思議と後悔はない。
「絵?」
一瞬戸惑った様子の彼女を見て、ハッと我に返った。自分のぶんの乗車券を発券機から取り、「発車いたしますので、お席に座るか吊革などにお掴まりください」というアナウンスを聞きながら席を見回す。最後列の五人掛けシートが空いていたので、その右端に駆け込んだ。
「関根さんは!?」
そう思った途端、声をかけられた。
「絵って、川沿いで描いてるやつのことですか?」
心臓に熱湯が流れ込んだような感覚になった。声のほうを向くと、五人掛けシートの中央に浅く掛けた関根さんが、こちらを向いている。平静を装って言葉を返す。
「そうそう、いつも帰り道に見かけてて、それで気になって」
「もしかして、釣りしてたことあります? 川沿いで」
「えっ」
関根さんは目をまん丸にして、こちらを見ている。
俺のことを知ってる? まあ、いつも彼女と同じ道を帰っているのだ。見られたことがあっても、不思議じゃない。ただ、それがどうしようもなく恥ずかしく感じられる。
俺は首元のマフラーを少し顔に近づけ、声を低めて答えた。
「バス停の近くのとこでなら、よく釣ってますよ」
「あ、やっぱりそうだ。お顔を見たとき、そうじゃないかな〜って思ったんですよ。絵は、写生が好きだから外で描いてるんです」
彼女はそう言って笑顔のまま座り直し、前を向いた。
いつの間にかバスは発車しており、自分と関根さん、そして前方に数人の乗客を乗せて、ゆっくりと雪の中を進んでいる。全身を白く染めた東部岳の麓には、雪で覆われた東部町が見える。
「美術部なんですか?」
彼女が美術部を辞めたことはヨッシーから聞いていたが、それを俺が知っているのは彼女からすれば奇妙なため、あえて遠回しに質問をした。
「美術部だったけど、辞めたんです。それでも好きだから描いてて。そう言う、えーっと…… すみません、お名前教えてもらっても? 私は関根です」
「あ、五十嵐です」
「五十嵐さんは、釣り部とかそういう活動なんですか?」
同じ質問をされた記憶が甦り、思わず笑ってしまう。その様子を、相変わらず興味津々に見てくる彼女に、ワケを説明する。
「よく誤解されますけど、俺は帰宅部です。釣りは趣味でやってるんです」
「私の絵と同じなんですね」
関根さんはその言葉を口にし、また笑顔になった。
「美術部でもないのに、いつも放課後に絵を描いていて、変に思います?」
「いや、放課後は自由だし、俺の釣りみたいに」
彼女の質問に、もうあまり緊張しなくなっていたので、自然体で答えた。彼女も、無理をしていない、爽やかな笑顔なのがわかる。
バスは既に東部町まで来ていた。しかし、停留所に誰もおらず、降車ボタンが押されることもなかったため、どんどんと白い町を進んで行く。気づけば、画伯の家をもう通り過ぎていた。
「何で、あの川を描いてるんですか?」
「ええと、川っていうか自然の風景を描きたくて」
積もった雪により道幅はかなり狭くなっているが、対向車が来ないため、バスはゆっくりながらも着実に進んでいる。もう少しでボンジュールだ。
「川以外にも、木とか田んぼとか、空、あと東部岳とかも」
そう言って、関根さんがそれとなく窓の外を見たので、つられて東部岳を見た。バスは、浅草書店へと続く道に入るところだ。
改めて、そしてさりげなく、隣を見る。関根さんは、何かに心を躍らせているような、煌めく目で外を眺めている。俺も、自然の景色は、写真に収めたい欲求が湧くくらいに好きだ。ただ、その種の嗜好とは違った感覚が、彼女には秘められているように感じられる。きっと、俺とは全く違うレンズで、この景色を脳内に捉えているのだろう。
「いつも川沿いで描いてるのは、あそこが一人でゆっくり描けるからってだけで、モチーフは様々です」
「そうなんですね」
初めてバスが停まる。乗車口から初老の男性が乗り込んできて、前方の空いている席に座った。
「あの、関根さんって、一年の夏の写生会で、裏門の大木を描いてませんでした?」
「え?」
「俺もあそこを描いてて、見かけた記憶があって」
「描いてましたよ。あそこって、絵になる風景じゃないですか?」
自分でも疑うほどに会話が続いているのは、この空間のおかげかもしれない。バスの後方は自分たちだけで、かつエンジン音がマスキングの役割を果たし、他の乗客の存在を感じさせない。まるで、部室でヨッシーたちと過ごす放課後のような感覚だ。
「たしかに。実は、あの写生会で裏門を知ったのが、東部川で釣りをするようになったキッカケなんです。裏門から帰ったら、川を見つけて」
「ふふっ、私もです。いいモチーフを探してるときに、あの裏門を思い出したから、あそこから帰るようになって」
関根さんの笑顔につられて、俺も笑みがこぼれた。
バスはもう自由が丘住宅群まで進んでおり、穏やかな会話のペースと対照的だ。車通りと信号が増えたが、体感では変わらず快調な走りを保っている。常勝丘川の脇には確かバス停があるので、そこで降りれば良い。そういえば、バス停の名前は何だっけ?
「次は、常勝丘川前。お降りの方は――」
アナウンスを聞き、拍子抜けしてしまった。それと同時に、降車ボタンを押す。料金表を見るかたわら、再び関根さんが目に入った。彼女が興味ありげに聞いてくる。
「五十嵐さんの家、このあたりなんですか?」
「常勝丘川のほとりなんです。関根さんは?」
「私はもっと市街地側です」
「遠くから通ってるんですね」
バスが停止し、ブザー音とともにドアが開いた。
「それじゃあ」
俺が、会釈とともにそう言って立ち上がると、彼女は通路を開けながら、持ち前の笑顔で会釈を返した。
バスを降りて、ドアの閉まるブザーを聞き流す。雪道に数歩足を取られてから、ふとバス停のほうを振り返った。もちろん、バスの姿はもう無い。信号を二つ越えた先の交差点を、バスが左折しているのが見えた。
我が家に着き、玄関に立てかけていたスノーダンプで雪塊に突っ込む。その雪寄せで火照った身体で、居間のコタツに滑り込んだ。そこからの夕飯などの流れはいつもと同じ。
風呂あがり、部屋の明かりを消し、窓から外を眺める。空は曇っているが、微かな月明かりが雪に反射している。キラキラと輝く結晶の流れは、絶え間無い。
布団にもぐり、灯るストーブの赤を見た。今日のことを思い出そうとしたが、「カチカチ」という音を聞いているうちに、緊張の糸が切れたかのように、疲れがドッと体内に渡った。残りの力でストーブを消して目覚ましのスイッチを押し、眠りについた。
次の日の放課後、ご多分に漏れず部室に行くと、ヨッシーとリッキーと中村が、ストーブを囲んでいた。
「おお、来た来た! 待ってたぞ、がっちゃん」
リッキーが、ぴょんぴょんと跳ねるが如く、喜びの声を掛けてくる。
「さあ、今日は満を持して新作を披露するから」
リッキー本人はそう言うが、新作といっても、もちろん完成形ではなくアイデアのことだ。
「タイトルは『畏友』」
窓の外の晴れ空とは裏腹に、すでに雲行きが怪しいが、ヨッシーと中村とともに、成り行きを見守る。
「主人公は人の心が読めるんだ。で、それを利用して相手を操ることもできる。つまり、マインドコントロールができるってこと。『暑い』と思ってる人にアイスを渡せば、その人は食べるし、『早く帰りたい』と思ってる人に空いている道を教えれば、その人はその道で帰るだろ? 些細な当たり前の連鎖。でもそれって、人を操れるってことなんだ。人間誰しも、『自分で考えて決めてる』と思い込んでるだけで、実は何かに操られてるって言える。相手に太ってほしいと思ったら、相手が空腹のときに、太る食べ物をたくさん勧めればいい。ダイエットしたいのに、美味しそうなラーメンの匂いにつられる人は、ある意味、ラーメン屋に操られてるんだ」
相変わらず着眼点、すなわちスタートポイントは面白い。ただ、リッキーの創作の場合、ここからが重要だ。
「そんな主人公は、サイバーテロを起こしたとして逮捕された親友を救おうと、マインドコントロールを駆使して奔走する。で、親友を起訴した検事を自殺に追い込むんだけど、実はその親友もマインドコントロールの使い手で、主人公はずっと親友に操られてたってオチ」
「なんで主人公は人の心が読めるのに、親友の心は読めないの?」
「そこの矛盾してる設定を練らないと、無理矢理だよな」
中村のツッコミに、ヨッシーが続いた。俺は同調を言葉にしないかわりに、頷いて返す。リッキーはいつものように、「はー」とため息をついた。
「また考え直しかあ」
外から、鳥のさえずりが聞こえる。今日は、吹奏楽部の練習が無いようだ。
「さてと、俺はそろそろ公民館に行くかな。リッキーも来る?」
「そうだな、久々にミーティングしよう」
「じゃあ、俺も帰ろ」
「私も部活行くねー」
ヨッシーに、リッキー、俺、中村が続いた。
昨日と打って変わっての快晴、「ザクザク」と雪を踏みしめる音も、心なしか軽やかだ。ヨッシーとリッキーと俺の三人の足音が揃う。過ぎざまに部室棟を見ると、中村が箏曲部の部員たちと楽しそうに話しているのが窓を通して見えた。俺の視線に気づいたヨッシーが、したり顔でリッキーに話しかける。
「リッキーさ、最近、中村さんとどうなんだよ」
「どうって何だよ」
リッキーはトボケとクールの両立を果たしたつもりだろうが、その試みは空振りだ。俺も、ヨッシーに続いて畳み掛ける。
「昨日だって、俺が先帰って、いい雰囲気にしてやっただろ」
「がっちゃんまで。もうこの話はここまでな」
俺とヨッシーがニヤニヤとしていることに、リッキーは心底バツが悪そうだ。
三人揃って、本来は恋愛沙汰に首を突っ込む下世話な性格ではないが、その三人の中のリッキーの恋模様となると、話は変わってくる。「何かあれば、せっかくの憩いの放課後の雰囲気が悪くなってしまう」と、部室の先行きを案ずる俺とヨッシーは、気が気ではないのだ(と言っておこう)。
リッキーはモテるので、色恋話には事欠かない。しかし、頭と運動神経が良いという長所にとどまらず、どこか抜けた変人というエッセンスまで兼ね備えているため、女子ウケ抜群なのは始めだけ。そのエッセンスに呆れた女子は、付き合う前に意中の存在を諦めるのがお決まりだ。そんななか、それに倣わずに残ったのが中村だった。もっとも、中村の妹がリッキーの弟と同じ中学で関わりがあり、お互いもとより気のおけない関係なのは確かだが。
中村が初めて部室を訪ねて来たのは、俺たち三人が部室に集まるようになってから数日後だった。
「理樹、いるー?」
そのときはジャンプの新連載の話で盛り上がっていたが、急に女子(中村)が入ってきたので、俺とヨッシーは顔を見合わせた。
「何かあったの、みさき?」
「いや、部活一人だけになったって聞いたから、様子見に来たんだけど、立て込んでた?」
リッキーの質問に、中村が恐る恐る答える。こんどはリッキーが、中村の質問に答えた。
「いや、この二人は部活と関係ないから、大丈夫だけど」
その言葉を合図に、俺とヨッシーで中村に会釈をした。中村も、「どーもー」と言わんばかりの表情で会釈を返す。
リッキーと中村の恋事情をそれぞれの口から聞いたのは、それからしばらく経ってからで――
そんな回想をしていると、裏門を抜けたところで、思い出したかのようにヨッシーが声を掛けてきた。
「あれ? そういえば、がっちゃん『帰る』って言ってたよね? 公民館来ることにしたの?」
「いや、帰るよ。こっちからバスで帰る」
俺の返答に、リッキーが質問してくる。
「電車は?」
「こっちのバスのほうが、電車より楽って昨日知ったんだよね。常勝丘川の前のバス停経由するから」
今度はヨッシーが、俺の返答に続けた。
「こっちから常勝丘川まで行けるんだ。それなら、俺も今日はバスで帰ろ」
「いいなー。国道まで戻らないと、俺は帰れないからな」
リッキーがそう言って、雪を「ザクッ」と鳴らす。そうしているうちに、バス停が見えてきた。
「そういえば、バスの時間は大丈夫なの?」
「ああ、昨日あのバス停から帰ったから覚えてる。あと十分くらいで昨日と同じ便が来るはず」
ヨッシーの質問に答え、誰もいないバス停をまた見る。ふと右を向くと、晴れ空のもと、白く染まった東部岳がそびえ立っている。その白に反射する日差しが眩しい。
「それじゃあ、俺らはこっちだから」
「また明日な」
「また明日ー」
ヨッシーの言葉に返した俺に、リッキーが返した。踏切を越えた先、一面銀世界になった田んぼを、二人が進んでいく。それを呆然と見つめているうちに、踏切の向こうが、かけがえのない光景に思えてきた。
こうなると、もうカメラを取り出さずにはいられない。手袋を脱いでジャンパーのポケットに挟み、その手でしっかりとシャッターを切った。点になったヨッシーたちの背景に、東部岳を含めた広大な白色が広がっている。何てことない一瞬だって、切り取れば劇的だ。そう満足して、カメラをしまった後も、目の前の風景を楽しんだ。
「こんにちは」
驚き、漫画のように体が飛び上がってしまう(たぶん実際は飛び上がっていないが、体感は間違いなく漫画のそれだった)。学校の方角を向くと、いつの間にか、関根さんが小さく笑みを浮かべながら立っていた。
「ビックリさせちゃいました?」
「いや、そんなこと」
俺の返事に納得していない様子で、関根さんはこちらをうかがいながら、俺の隣に立った。
「今日も時間通りにバスが来るといいですね」
「そうですね」
間が持てずに話しかけた俺に、関根さんがバスのやってくる方向を見ながら返す。ちょうどそのタイミングで、彼女の視線の先に、ベージュと黒、そしてフロントライトを携えた四角形が現れた。
「来ましたね」
関根さんはそう言いながら微笑んで、やって来たバスに乗り込んだ。「二日連続で時間通りなんて」と言いながら、俺も続けて乗車券を取る。二人揃って、今日も空いている最後尾席に、なぜだか自然と体が向かった。
バスが、踏切を越えて田んぼ道に入る。揺れるなか、視点を定めて東部川を見続ける関根さんを見ていたら、思わず声を掛けたくなった。
「冬の間って、絵は描かないんですか?」
「描いてますよ。毎日部屋で、春から秋に描いたスケッチに描き加えてます」
窓から、ヨッシーとリッキーが、公民館へ通じる脇道を歩いているのが見えた。
「写生は冬はお休みです。ホントは雪景色も描きたいけど、この寒さだと」
そう言って笑う彼女につられて、いつもの流れで俺も笑う。そのまま、気になっていた疑問が、脳を介さずに口から出た。
「そういえば、何で関根さんは美術部を辞めちゃったんですか? 美術部でも絵は描けるのに」
すぐさま「しまった!」と気づく。
「いや、話したくないなら」
「いえ、とくに話しにくい理由は無いですよ。美術部も楽しかったんですけど、写生の機会があまり無くて。放課後に寄り道したほうが、満足に絵が描けるなって」
「その『放課後だからできる好きなことをする』って、すごくわかります。俺もそうだから」
とっさのフォローのつもりだったが、思いがけず自分の人生観(そんなに大そうなものではないが)を曝け出してしまった。関根さんが、熱心に「うんうん」と頷く。
「そうですよね。何か、『部活に行くのだけが、放課後の楽しみ方じゃない』って考えたら、放課後の可能性って、無限に広がってるって思えたんですよね」
彼女のその言葉を聞いたとき、自然とヨッシーとリッキーの顔が浮かんだ。「なんでこんなときに」と思いつつも、「そうだよな」と心付く。そんな、俺のほころんだ表情を合図にしたかのように、彼女が言葉を繋いできた。
「五十嵐さんは中学のときも帰宅部だったんですか?」
「テニス部でしたよ」
「えー! 釣りと全然違うじゃないですか! テニスも好きなんですか?」
「いや、好きってわけじゃないけど、うちの中学は、何か部活に必ず参加しないといけなかったから、何となく。その惰性で、高校入学当初もテニス部に入ってました」
「えっ、そうなんですか?」
驚きと興味が入り交じった彼女のオーラに負けて、つい口が開いてしまう。
「一年の夏休みの練習中に、ボールの打ち返しで手を捻っちゃったんです。ケガは大したことなかったんですけど、昔からのフォームの癖が原因らしくて。それで、接骨院の先生から『今からフォームを直しても、今後もテニスを続けると後遺症があるかもしれない』って言われたのを知った顧問に、『大事をとれ』って活動禁止にされたんですよね」
話しているうちに、当時の自分がすぐ近くにいるような気分になった。それとともに、体にスッと冷たい風が流れる。しかし、隣に関根さんがいるからだろうか、心の何処かが、なぜか温かい。少しためらってから、何かを悟ったかのように、彼女が口を開いた。
「それは残念ですけど、その、五十嵐さんの『釣りが好き』って感覚って、テニスができなくなって生まれたものじゃない気がして。何て言うか」
「そうですね。テニスができなくなったのは正直悔しいけど、未練は無いですよ。むしろ、今のほうが放課後を楽しめてるし」
思えば、テニス部だったころの思い出は、中高合わせても数える程しかないが、帰り道の思い出は、無数にある。そして、自由な放課後を楽しいと感じられるのが自分だけではないことを、ヨッシーたちが教えてくれた。
関根さんは、安心したような顔でこちらを見ている。彼女の後ろの窓に映る空が、さっきよりも清々しいのは明らかだ。
バスが停まって、若いカップルが乗ってきた。気づけば、自由が丘住宅群に差し掛かっている。
バスに揺られ、暮れる空の中、バス停案内のアナウンスをいくつか聞き流す自分を俯瞰した。バスは相変わらず快調で、車外の景色の変化が目まぐるしく思える。
「明日も、関根さんと帰り道に会うだろうか?」
その気持ちだけが、体中を占めていた。
「関根さんって、絵を描く以外の趣味ってありますか?」
「えー、漫画読むとか? 『これだ』っていうのは無いですね。写生だけで、絵は描けるし、自然を味わえるし、自分の楽しみの大半が味わえるんですよね。五十嵐さんは、何かあるんですか?」
「写真撮るのも好きですよ。てか、写真撮るほうが好きかな。よく、帰り道の風景を撮ってて」
「へー、一眼レフとか持ってるんですか?」
「いや、普通のコンパクトデジカメですよ」
そう言いながら、降車ボタンを押した。常勝丘川前のバス停が、もう迫ってきている。
「撮った写真、見せてくださいよ」
「じゃあ、俺にも関根さんの絵、見せてもらえます?」
俺が笑いながらそう言うと、関根さんも笑顔で、それでいて少し照れながら、「わかりました」と頷いた。
そのタイミングでドアが開き、昨日のように、関根さんとお互いに会釈をする。バスを降りて数歩進んでから、バス停のほうを振り返った。やっぱり、バスはもう、発進した後だ。そのまま視線を上げ、月が現れた空を見た。
帰宅後、いつものルーチンをこなし、入浴タイム。バスタブの上に置いてある、防水ラジオの電源を入れた。海外音楽特集のコールが入り、どこか知らない異国の歌が流れ出す。
その一曲目が妙に耳に残った状態で、布団にもぐった。本当は、そんな曲よりも、頭から離れない光景があるのだが。その光景を冬の帰り道と照らし合わせながら、目覚ましをセットして眠りについた。
その日は夢で、まだ雪の積もっていないころの帰り道の記憶を見た。