『  感  電  』第二部 十字路の悪魔

文字数 62,812文字

第一章
 独りだけになった一乗寺の庫裡(住職一家の生活スペース)は広い。それに二年ほど前に建て替えられた。以前に白神一家として暮らしていた面影は何ひとつない。両親は梨恵が一乗寺の主になる以前に〇宗の法主官舎に引っ越した。
 弟・知正の生活道具が残されていたが一週間ほど前に引っ越し業者が一切合切引き取りに来た。あの弟は本気で「教団えにし」に身を寄せる気なのか? 荷物の送り先は港区麻布十番になっていた。名前には磯島香織とある。たぶん知正のお相手。「教団えにし」の教祖花村龍円によると六本木のクラブに勤める桐谷美鈴似のホステスだそう。子供が出来たとも言っていた。
 当面のヤサはオンナの処というわけ。知正は「教団えにし」による「コロナ退散大祈祷会」を一乗寺の新住職として後援しそれがメディアに報道され一乗寺には居られなくなった。〇宗の内紛劇としてメディアには追われるし何よりも檀家衆の吊し上げがキビシイ。「一乗寺は何時から怪しげな新興宗教に与するようになったのか? 」
 ドッコイショウキチ! 書斎の重厚な木製の椅子に腰を下ろした。まぁどう考えてもここが仕事場だろう。ワンコのCOO(スムースコートチワワ♀) と保護犬リン(トイプードル♀) が延々と走り廻っている。昨日はリンが迷子になった。三十分ほど探してとある部屋の押し入れの中で発見した。書斎の入口と窓からは中庭がよく見える。中庭には青々とした背の高い竹と寺の象徴の萩が植えられていた。ちっちゃな薄ピンクの花がちらほら。これから盛りを迎える

 目下の問題は食事である。1Lマンション(娑婆)の頃は外食やコンビニ・レトルトがほとんど。いまやそれが出来ない。街まで遠いしフラフラしている処を檀家に見られるかも。いやはや因果な商売よ。よく両親は我慢してきたものだ。感心しきり。寺務の菊池裕子さんはチャンと事情を心得てくれている。「生協」のリストが玄関先に置いてあった。必要なものはこのリストから注文しろというわけ。食糧品、生活雑貨、下着類、日用品、ペットの餌、おやおや生理用品まである。商品の値段を見れば通っていたスーパーの五割増し。でもこれで日常が隠匿できるなら安いものなのだきっと。
 食事の問題が解決すると今度は明日からのスケジュール。書斎の机上には法要の予定がギッシリ。いまや何処ぞの家の何回忌法要などの予定はパソコンの表計算ソフトで管理されている。何しろ一千超の檀家数。人間のアタマでは到底整理不能。パソコンに整理してもらい三か月前に檀家宛にハガキを出す。
「〇〇さんの〇回忌法要が〇月〇日に迫っている。ひと月の余裕を持って申し込まれたし」との案内。檀家だって三回忌を過ぎると忘れがちになる。あんなに大切な人だったのに。「日にち薬」というヤツ。よく父が大事な家族を亡くした遺族に言っていた。喪失感への一番の薬は時間の経過との意。梨恵もあんなに激怒し悲嘆にくれた旦那の不倫のことを今では忘れかけている。
 いまの一乗寺の運営は父の従弟が住職をしている房総半島にある古刹「多聞寺」から人を借りて執り行っている。古株の僧侶たちは半グレ状態の若き梨恵を見知って来た人達。万事扱いづらかろうとの配慮から父が差配してくれた。三十代から四十代の男性三人と女性ひとり。尼さんとは珍しい。年齢も梨恵と近しいことからすぐに打ち解けた。娑婆に嫌気がさし仏界へかもしれない。詳しく身辺事情を聞くことは憚られた。
「多聞寺」は千葉県鴨川市にある。関東を代表するビーチリゾートを望む高台に建つ。梨恵と知正姉弟は夏休みになると「多聞寺」を訪れた。海水浴が目当て。日がな一日砂浜で遊ぶ。紫外線が気にならない子供のこと。埼玉に戻る頃には真っ黒クロスケに変わっていた。
 梨恵は葬儀から三十三回忌までの一連の法要の簡素化を考えていた。他界すると三十三回忌まで十三の法要式を執り行って三十二年かけて成仏と相成る。それまでは形のない霊魂のままだそう。これはいくらなんでも寺側に都合よく出来てるんじゃない? 
 一人あたり安く見積もっても成仏までに五百万円 (都心に近い一乗寺では) かかる。これは寺の儲け。しかも無税。ひゃー。梨恵は指折り数えてみる。檀家さんの数は一千。単位は家族、一家族四人として四千。×五百。暗算はムリ。こういう時はスマホの計算機能。しかし画面の桁数が足りない。スマホを諦めた。とてつもない額ということだけは分かった。
 ある日尼僧の吉水志穂さんに聞いてみた。
「どうして十三回も法要があるんですか? 」
 吉水さんは首を捻って、
「たぶん鎌倉時代に中国の十王信仰(霊界の十の王から審判を受ける) がもとでそのうち十三仏信仰(十三の仏の元を廻って教えを受ける)に替わって…う~ん、まぁ昔からの風習です」
 古い年配の檀家さんに変革を促すのはムリ。もう五体に染みついている。十三回を半分にしましょうなんて言おうものなら「わしの親は成仏できん!」となる。これは充分に予想できた。だから次の世代(子供世代)に両親の忌日法要は三回忌で終わりにすることを提案するつもり。
 費用だけの問題じゃない。だって三十二年は長い。親の成仏のためにそこまで辛抱できるものか。その間に自分があの世行きってこともあるかも。だからこそ現実的な忌日法要の在り方を考える。三回忌とは死後二年目に当たる。二年間なら経済的にも時間的にも耐えられる範囲。遺族は故人への手向けがきちんと出来たと安堵感を得られるし後ろめたさを持たずに済む。
 梨恵は広い境内を横断して新しく造営した墓地区画に向う。COOとリンの散歩も兼ねる。小型犬だから短い距離で充分。遠くに行くと疲れて抱っこしてくれとせがまれる羽目に。ここからは狭山湖が見える。白く「希望」と彫り込まれている。
 兄・依織の墓。今日も真新しい花束が添えられている。死ぬ前のひと月のあいだ依織はネットで誹謗中傷の的になった。けれど依織の生前の善行(子供食堂の運営)は根も葉もない与太話を木っ端みじんに粉砕してしまった。今では子供食堂、依織、KIBOOの文字がリツイートされ全国を駆け巡っている。「自分の仕事は子供食堂を数多く作ること。貧しさから教育を受けられない子供たちの支援をすること」梨恵はこのために財団「KiBooイオリ」を造った。
 COOとリンも墓石の前で畏まっている。梨恵も墓の前で手を合わせた。

第二章
 菊池夏樹は厚木航空基地から帰路についた。愛車のシルバーのBMW・M3のエンジンを拭かす。BMWは元々ドイツの航空機エンジンメーカー。このエンジン音と体に伝わる震撼は航空機のものだ。
 夏樹は防衛大学校で航空要員となり卒業後は航空自衛隊浜松基地に配属された。三年目「F-2戦闘機」での訓練飛行の最中悪夢は興った。離陸寸前に風速二十メートルの横風をまともにくらい滑走路を左方向に逸脱し左翼を大破させた。
 当日の気象予報官のミスもあったとはいえこの事故は職歴に響いた。五十億円もの血税を無駄にしたと責を問われたのだ。それで夏樹の戦闘機パイロット人生は頓挫した。夏樹は防大卒で指揮幕僚課程の試験もパスしていたため現場復帰が許された。(大抵は退官を余儀なくされる世界)
 但し左遷。海上自衛隊対潜哨戒機部隊に配属された。階級は二佐、今年四十で幹部候補生ラインギリギリを歩いている。いま操縦している機体は対潜哨戒機P-3C。プロペラ民間航空機にMAD(磁気探知装置)を積み込んだ。兵器は搭載しない。

 対潜哨戒機とは敵の潜水艦を探知することを主な任務としている。平和ボケした国民は
「へぇー潜水艦なんか今どきいんの?」などと平気で言う。日本を取り巻く海という海には潜水艦がウジャウジャいる。我が国は西側諸国(民主・資本主義を標榜する国家)の一員。むろん味方の潜水艦も多い。アメリカ、オーストラリア、台湾、韓国、シンガポール、インド、インドネシアなど。潜水艦は建造費が嵩む上に技術力が問われる。だからある程度の国力がないと建造できない。
 けれど対する東側諸国 (共産主義・社会主義を標榜する国家) には北朝鮮のように民の生活費よりも軍事費を重視する国家が多い。だから北朝鮮は潜水艦を数多く有する。技術は東側代表の中国・ロシアが提供する。日本の周辺の海は敵国、中国・ロシア・北朝鮮の潜水艦と同盟国 (味方)の潜水艦が入り乱れまるで「金魚すくい」の様を呈する。
 なぜ潜水艦なのか? いい質問だ。宇宙軍、サイバー部隊と未来の軍隊を予想させる。現状では制空権が戦闘の要。戦闘機・ミサイルによる攻撃力が勝敗を決する。でも太平洋などの広い海では飛行場がない。その替わりになるものが航空母艦。戦闘機を甲板に並べ離発着させる船のこと。だから潜水艦は神出鬼没に深海を動き回って航空母艦を捕捉し攻撃する。
 奄美大島から沖縄本島、宮古島などの先島諸島、近年国有化した尖閣諸島から台湾、フィリピンまでを線で繋ぐと「第一列島線」なるものが出来上がる。これはただの線ではない。この線を太平洋側に超えると海は深度千メートル超と急に深くなる。五百メートル潜れる潜水艦にはもってこいの隠れ場あるいは猟場となる。(東シナ海の水深はユーラシア大陸棚で二百メートルほどしかない)
  今は「第一列島線」をめぐる攻防の最中。夏樹たちの対潜哨戒機は敵国の潜水艦の動きを捕捉するのが役目。その目的は敵潜を「第一列島線」から先に出さないようにする。出してしまえば太平洋上に展開するアメリカの航空母艦には魚雷が我が国本土には潜水艦型弾道ミサイルが翔んでくるワケ。
 妻の裕子は一昨年丈夫な双子の男女を産んだ。ただ素直には喜べない事情があった。妊娠五か月後の羊水検査で双子のどちらにも染色体異常が確認された。お互い充分話し合った。夏樹は今回は諦めようと説得した。けれど女子の子宮は産むことを選ぶ。障害があろうがなかろうが子供は子供。これは子宮の無い男子には分からない本能的な決断。理屈ではない。やはり二人ともダウン症(染色体異常)の子だった。
 妻の裕子は〇市の一乗寺に勤務している。寺の寺務が仕事。これは夏樹と結婚する前から十年間続けていた。子供が出来たら辞めるのかと思っていた。でも子供を託児所に預けてまで勤務する。なんで? あれだけ産みたいと懇願した子供たちと一時も絶やさず共にしなくていいの? と訊きたいところ。それはそれ母親の事情というヤツ。四六時中子供と一緒なのは息が詰まるらしい。

 夏樹の車は神奈川~東京~千葉の外環道の国道十六号線から右に狭山湖方向に向かう。一車線となりあまり電灯のない県道。くねくねと上り坂を上りきると狭山湖湖上の橋を越えて〇市に入る。裕子の勤め先の近く。いわゆる「トトロの森」が拡がる自然豊かな武蔵野丘陵。家は〇市の旧市街地にある民間の3Lマンション。
 帰宅後の夏樹にはもうひとつの戦場が待つ。二歳の兄妹たちの食事はヒッチャカメッチャカ。食べ物は当り構わずぶちまける。食事の半分は掃除の時間となる。「だめだめ、あーもー」などと言いながら悪戦苦闘、楽しい団欒。食事を終えると風呂だ。菊池家ではガス水道代金節約のために四人で一緒に風呂に入る。子供はまだ小さいし手っ取り早い。キャッキャと騒ぐ子供たちを先に洗って手早くバスタオルで包むあとはスッポンポンでおもちゃの元へ走り去っていく。
 静かになった風呂場で夏樹と裕子は抱き合う。二人の目下の問題は次の子供のこと。夏樹は男の子が欲しい。けれど裕子は決心がつかないらしい。また障害者だったらと危惧する。医者によると条件は普通の夫婦と同じだという。ダウン症とは染色体の数の異常が原因。わずか0.1パーセントの確立で起こる先天性疾患。そんなに心配しないでと夏樹は裕子を励ます。今度は大丈夫さ。でも裕子は首を縦にはふらない。
 夏樹たちの双子は二卵性。つまり二回同時に突然変異が起こったことになる。裕子はそこを懸念している。私たち親に原因があるのではないか? だから今回も果てる間際アクメの喘ぎ声の中でも「中には出さないで」と云う。精子は裕子の臀部に散った。
 子供たちが寝静まると夏樹は3Lの一部屋に入る。カギをかけている。裕子ははじめ怪しんだ。「何かエッチなこと」を想像したらしい。裕子に一度だけ壁に居並ぶ本棚の書物を見せた。「仕事の延長、情報処理を勉強中」と説明した。どうせ英語、ドイツ語、ラテン語がびっしりの洋書だから内容までは分からないだろう。やはりそれで裕子は信用した。
 夏樹は「魔法・魔術」に関心がある。魔法使いの魔法のこと。子供の頃から好きだった。現在では十九世紀末にイギリスで結成された西洋魔術の研究集団「黄金の夜明け団」の活動を日本に伝えることを目的とした「日本魔法の会」を主催している。「魔法大百科」を著述しこの分野のフロントランナーとなっている。けれど夏樹は現役の自衛官。ペンネーム「結城大樹」の名で通している。「ドラクエ」を始めとするRPGが大流行し「魔法・魔術」が必須アイテムとなった。同時に空想ファンタジー小説も大流行。「魔法・魔術」は子供たちの憧れとなった。夏樹は阿部寛似の体躯と顔立ちを有しとあるファンタジーアニメのモデルとなる。「結城大樹」は識る人ぞ知る有名人。

第三章
 米津幸は息子を一人失い同じ日に娘を一人手にした。
 〇市立病院の看護師長の時にコロナ災禍に見舞われた。院内感染という最悪の結果に。自分まで罹患した。公的病院のこと責任が問われた。院長をはじめ救命科部長、内科部長が辞職した。
 幸も看護師を代表して辞表を提出する。失意のなか今度は一人息子が罹患した。耐えられないのは自分がうつしたのではとの罪悪感。病院で二週間隔離後の陰性を経ての自宅療養。息子はお構いなしに見舞に来た。息子はコンビニを経営していたため職場での感染も疑われた。それでも何かにつけ後悔の念が頭を擡げる。家に来させるのではなかったと…。息子は二週間後に死んだ。
 忌まわしい感染症は幸の人生まで弄び始める。そして抗い翻弄され溺れかけ流された岸辺に娘が立っていた。息子の死を知らされた病院の待合に娘は入って来た。一目で娘だと分かった。産んだのは確か。けれど人手に託し遠くから成長を見守ってきた。娘は責めなかった。それどころか一緒に息子の死を悼んでくれた。どうしてこんなことが起っているのか最初は理解できなかった。
 万事は息子がやっていた子供食堂のお蔭だとあとで知った。息子の善意が実娘との再会を用意してくれた。神の御業としかいいようがない。幸は看護師、人の命を預かる仕事には神は必要だった。何の神でもよい。人は病には到底打ち勝てない。最後に縋る「砦」が必要なのだ。これは理屈ではない。豊富な経験に裏打ちされた実感。
 娘は今年三十二歳になる。その後父親の跡を継いで一乗寺の住職になった。これには驚いた。弟が新興宗教に取り込まれた噂は聞いていた。でもまさか、女だてらに。でも娘の決意であったらしい。一乗寺で慈善活動をしたいと言った。
 息子がやっていた子供食堂の継続と新たな拠点づくり、貧困撲滅、子供の教育支援、保護犬・猫活動、自然保護活動。そのための財団も作った。原資も確保した。娘一人で仕上げた。これには舌を巻いた。まだ息子の四十九日前、こんな短期間でやってのけた。
 世間の反応は冷ややか。「若いオンナに何が出来る」と鼻で笑う高齢者。「一乗寺もこれで仕舞いやな」と嘆く檀家衆。それでも、これは慈善活動ではないが新スタイルの仏前結婚式や七五三、お宮参り、ペットサロンをホームページで提案し始めたことで「ほおっ!」とか「オシャレだね!」と若い人たちから。
 娘は美容師。これらはサロンからの提案でもある。トリマーの資格も持っている。「サロン・デ・一乗寺」をやろうとしているのだ。〇市は狭い。中には娘が勤めていたヘアサロンのお客だった人も多いはず。けど新住職は「HEAVEN美園店の美容師さんだ」との拡散はまだない。美容師と住職。距離感が余り大きくて誰も分からないのだろう。
 幸は〇市の公務員だったことから市役所にも知り合いが多い。市役所でも動揺が走っているそう。一乗寺は「一乗寺財団」を通じて年間数億も〇市に協力する民間機関。その動向が気になるのが実情。今後の窓口は何処になるのか? 協力金は? ひょっとするともう協力はなくなるかも…
 戦々恐々としているらしい。どの知り合いも新しい住職が幸の娘だとは知らない。だから本音が聞ける。聴いていて可笑しくもある。ただの三十路を超えたの娘なのに魔法使いのお婆さんの扱い方。
 娘は幸に新しく仕事を頼んできた。一乗寺に無料の「健康医療相談所」を設けたいので看護師として手伝って欲しいとのこと。何処の寺でもそうだろうが檀家には高齢者が多い。この高齢者たちはもれなく健康に不安を抱えている。身体の何処かに異常が起こるたびに病院へと通う。
 でも今はコロナ怖さで病院に行けない。お年寄だって近所の寺で健康相談して貰えるなら嬉しいに決まっている。ついでにご本尊に頭を下げ先祖の墓参りも出来る。こんな好都合なことはない。
 この目論見は大当たり。相手が市立病院のベテラン看護師ということもあって毎日来客?が結構ある。場所は檀信徒会館の一階を使用。並みの病院ほどの広さ。ソーシャルディスタンスを充分に保てる。

 実際の病院ではないので最低限の医療器具を揃える。血圧、脈拍、検温、問診。幸の経験があればそれだけで重大な疾患はすぐに見分けられる。実際、脳梗塞の疑いのおじいちゃんを救急搬送させた。でもほとんどは腰痛、関節痛、頭痛、高血圧、めまい、不眠など。病院に通う必要はない。通っても治らない。
 幸は近所のドラッグストアで購入できる薬を紹介する。大抵の場合それで充分。幸いなことに檀家に町医者がいる。跡取りもなくやがて廃業に追い込まれるおじいちゃん先生だが幸に協力を申し出てくれた。医師としての散り花を鮮やかに飾りたいそう。週に一度は相談所に顔を出し必要な処方箋は出してくれる。それで佳しと今はしたい。
「ワシは来年にも介護施設に入れられるそうや。家で死にたいんじゃがなかなかそうは問屋が卸さないらしい」
 相談所を訪れた後期高齢者の男性が嘆いた。この檀家さんは奥さんを昨年亡くして今は息子さん夫婦と同居中と檀家を管理しているパソコンが教えてくれた。「だろうな…」と幸は思う。たぶんお嫁さんが在宅医療に反対なのだ。いや実の息子もそうかもしれない。
 在宅医療とは「人生の最期は自宅で」がモットーの医療体制のこと。言葉にしてみれば簡単そう。けれど実現には数々のハードルがある。まずは介護する人がいるのか? 大概はこのハードルが超えられない。
 夫・妻・子の親族が介護を辞退する。表向きは病院で充実した医療体制を。けど本心は不潔、臭い、面倒、死んだら気持ち悪いと思っている。家族愛の消費期限は歳に累乗して短くなる。
 幸は病院の簡素なベッドで多くの高齢者を看取った。臨終を告げても看取りに来ない家族も多い。仕事だとか体調が悪いと逃げる。幸の心の中ではいつも「お前の親(夫)だろうが! 」と罵声が響き渡っている。
 中には「お母さんの時は面会に行っても意識がなかったから」という理由で父親の看取りを拒否した。それは大きな誤り。医療従事者は看取りの家族がくれば患者の意識レベルを上げるよう手配する。(普段は苦しまずに逝くように幻覚剤・麻薬などを常注している) 現代の人間の最期は万事こんな具合。場所が病院か介護施設の違いだけ。
 そろそろ夕方になる。待合には誰も残っていない。そろそろ閉めようか。幸は机の上の所持品を手持ちのバッグに詰め込み始めた。
 とその時スマホに目が留まった。「あれまただ。一体誰なんだろう」息子の死から半年。息子のスマホに「LINE」メッセージがほぼ一日おきに入る。ひと月ほど前からだろうか。簡単な挨拶と子供食堂に関すること。例えば「四年生の遥ちゃんの漢字テストの結果とか、三年の蹴斗クンと四年の瑠偉クンは仲直りしたか?」とか。相当現場の事情に詳しい。
 思い切って「LINE」を返した。「依織は〇月〇日に感染症による多臓器不全で他界しました。生前お世話になり感謝致します」と。これで安心と思った次の晩にまた「LINE」があった。これには驚きを超えて不気味さを感じた。あくる朝梨恵の元にスマホを持参した。出来るだけ詳しく事情を説明した。
「うーん?」
 梨恵も困り顔。
「だったら今度会いましょうとって「LINE」してみたらどうかな?」
 怪訝そうな幸に、
「これでもまだ来るようだったら私に任せて。どこの誰だか調べてあげる」
 梨恵は自信有り気だ。さては探偵さんのことだな。チラッと事情は知っていた。梨恵が元旦那の浮気調査を依頼したところ。幸は素直に応じた。もう悩まされるのはゴメン。早速今日中に「LINE」すると梨恵に告げた。
「ただいま! 」
 幸は玄関ドアを開けた。蒼井空と保護犬だったモモが迎えに駆け寄ってきた。
「ごはん私が作ったんだよぉ。モモと一緒に」
 蒼井空は「教団えにし」の幹部・蒼井加奈のひとり娘。母親は依織に対するネットでの誹謗中傷(虚偽告訴等罪)で起訴された。埼玉地裁川越支部の判決は執行猶予なしの禁固十か月。「教団えにし」側の弁護士が上告中。拘置所に収監されたものの今は保釈となり教団に身を置いている。警察に告発したのは梨恵。依織の死の責任を少しでも感じて貰いたい。もちろん子供の空は刑期満了のその日まで責任を持ってお預かりすると伝えた。
 空は担当検事に米津幸さんの処に身を寄せることを希望した。子供ながらに「教団えにし」に引き取られるよりはマシと感じたのだろう。担当検事は空と子供食堂また依織との関係、米津幸の経歴などを調査し妥当と判定した。空はひと月前にここにやって来た。保護犬のモモは空の友人としてここいる。仲良しふたり組。幸のマンションは2Lでスペースには余裕があった。それに通っている小学校からも近い。
「あら、ナポリタンじゃない。美味しそうだわ」
 モモはもうご相伴したらしい。口の周りがピンクに染まってる。

第四章
 吉水志穂は佐渡島のトキの森公園の近く〇宗の荘厳寺で生れた。沙穂は二歳下の妹。小学校五年生の時トキのキンが死んだ。これは殺人事件並みの大事件となった。佐渡島に全国のマスメディアが注目した。
 キンとは飼い主・金太郎さんの名前を頂戴したもの。トキの学名は「ニッポニア・ニッポン」国鳥はキジだけど学名にニッポンが付く生き物はトキしか居ない。キンは最後の日本の固有種だった。

 テレビニュースはデカデカと「日本のトキ絶滅!」と飾った。その時志穂と沙穂、小学校の生徒たちは自分たちが非難されているように感じた。自然破壊、有機農薬の乱用と佐渡島だけが悪者だった。頭に来た姉妹は住職の父に抗議した。
 父は笑いながら、
「日本全国どこでも同じだよ。むしろ最後に残っていた分佐渡島は自然豊かだと言える」
 それでも贖罪からか五年後ここ佐渡島でトキ復活プロジェクトが始まった。まだ自然界に存在していたツガイ二匹を中国から譲り受け繁殖に成功した。高校生になった志穂は気分が晴れやかだった。沙穂と一緒に一般展示が始まったセンターに見学に行った。真っ白な体に赤い顔のコントラスト実に鮮やかだった。上から見ればまるで日の丸のよう。それでニッポニア・ニッポン。
 父は跡継ぎに婿養子を迎えるつもりのようだった。けれど志穂は自分が寺の跡を継ぐと主張した。沙穂も頷いていた。志穂は将来の道が運命づけられていると確信していた。なぜなら二人とも霊感が強かったから。故人と話しが出来た。二人が好きだったお祖母ちゃんとも亡くなってから一年間は会話が出来た。地元の高校を卒業すると〇宗が経営する東京の大学に進学した。
 三年生の時に沙穂も上京し同居した。離れていたのは大学三年までの二年間だけ。仲良し姉妹。けれど沙穂は僧侶ではなく美容師を志望した。
 一つの寺に二人の住職は要らない。寺はネイちゃんに任すとばかりに志穂とは真逆のファッション最先端の道を選んだ。まぁ確かに「ともさかりえ」似の沙穂は子供の頃から垢抜けていた。佐渡島のことだから衣類はユニクロかイオンの衣類売り場で調達するしかなかった。
 ただ同じ購入するにしても自分とはセンスが違った。志穂はダサ沙穂はイケテルが中学生時代の仲間内の評価だった。高校生になるとその差はますますひらく。沙穂は輝いて見えた。自分は境内の脇に転がる「疱瘡地蔵」のようだ。黒ずみコケが生えている。はぁ。
 沙穂は二年制の美容専門学校に。そして同じ年に志穂は僧侶となり沙穂は美容師になった。その時佐渡島の人工繁殖のトキはすで二百羽を超えていた。佐渡島の大空を飛び交うトキを見られるのは志穂だけになった。佐渡島では美容師の職が無い。沙穂は入間市のヘアサロンに就職した。
 慣れない暮らし環境に手を焼いているようだった。女性の多い仕事場。人間関係が煩わしそう。それに沙穂はまだインターン。苦労は想像に難くない。「LINE」に当日既読がつかない日もたびたびあった。それでも二回目の冬を迎える頃には「LINE」にも絵文字が増えた。インターンが終わってレジデントになった。それと共に恋に落ちた。ある日の「LINE」にはハッキリ「好き人出来 僧 顔ヨシ」志穂は妹の変化が嬉しくもあり違和感もあった。霊感が働いた。ワルイ方。「よか! 気ツケ」と返した。

 佐渡島に季節外れの猛暑日がやってきた五月〇日を最後に沙穂の「LINE」は途絶えた。一週間後胃の辺りに重い痛みを感じた時にスマホがなった。入間警察署からだった。
「そちらは佐渡市荘厳寺の吉水志穂さんで間違いないですか?」
 返事をすると、
「入間市中山のメゾン桜三階居住の吉水沙穂さん二十五歳が自宅で心肺停止の状態で発見されました」
 実に機械的な言葉。
 そのマシーンは、
 「遺体は検視のため〇市の防衛大学校病院にある。明日の午後には遺族に引き渡せる」
 と告げた。
 三日後葬儀が実家である荘厳寺で営まれた。いかに葬儀式に慣れているとはいえ身内のこと。慣れてはいない。父の読経にも力がなかった。死の順番が違うことを逆縁という。愛しい逆縁の娘に引導(あの世での名前を授け仏の世界に入ることを告げる)を渡す父の心中は察してあまりある。
 沙穂は食卓テーブルに突っ伏して亡くなっていたそう。睡眠薬の過剰服用。遺書などは一切なかった。ただ警察はスマホを調べ失恋を発見した。若い女性の自殺には充分な動機。隣人が茹だるような暑さの中で異臭に気付いた。
 それで大家経由で警察に。沙穂の遺体の顔はすでに腐乱していた。警察の死亡推定時刻は一週間前。つまり一週間前の最期の「LINE」の日か次の日には命を絶っていたことになる。失恋は犯罪ではないのか? 本気で警察に訊いた。担当の若い刑事は「お気持ちは分かりますが、こればっかりは。すいません」失恋というからオカシイのだ。「傷恋」恋に傷をつけたのだから。これだったら加害者は存在する。
 志穂は沙穂の葬儀式はそっちのけに犯人捜しを開始した。まずは沙穂のスマホだ。最初でつまずく。ロックが掛けてある。志穂にはそんな習慣はなかった。守るべきプライバシーがないのかも。それが悲しい。六文字の数字だ。このパズルを解くのに一週間を要した。うんざりした。
 その時は一週間目にやって来た。大空を滑空するトキを眺めながらキンが死んだ日を思い出した。姉妹でガッカリしたものだ。2003年11月。それで開いた。そうか、沙穂もキンのことを今でも想っていた。なにやら涙が出て来た。
 最初の関門を突破できたもののなかなか犯人には行きあたらない。犯人とはメール、ショートメール、「LINE」はしていなかったよう。携帯の履歴をひっくるめてそのつど削除していれば分からなくなる。けど恋人との履歴をあっさり消去できるものだろうか? 恋愛の経験がない志穂には分からない。
 僧侶をめざす学科に女子は三名しかいなかった。どの子もイケテナイ。同級男子はもれなく坊主頭で恋愛ごっこにはほど遠い。それでも一度映画に誘われた。太った小坊主。題名を見て断った。「親鸞聖人の生涯」こんなものをどうして男女で観なけりゃならない。
 沙穂は子供の時からオトメチックな子だった。絶対に削除は在り得ない。そう結論づけた。でも警察は? 入間警察署はいちいちスマホのロックなどにはかかわらず通信会社に履歴の開示を裁判所を通じて行ったはず。そこから失恋に結び付ける何かを見つけた。だとするとやはり削除したことになる。でもでも、削除したのは犯人かもしれない。警察はそこまで考えてくれたのか? あの担当警察官の若造ではとても期待できない。
 最後の手段に移る。志穂は沙穂との「LINE」の履歴を全部残してある。膨大な量。そこから何かヒントを見つけること。それと百名を超える連絡先を一つずつ潰していくこと。志穂はこの日もトキを目撃できる近くの小山で自作の弁当を食べる。沙穂が亡くなってから母親と一緒に食事をするのが嫌だった。何かと沙穂と間違えられる。痴呆の気が出た母親の頭の中では沙穂は実在している。そのつど沙穂の死を伝えることになる。彼女は毎日娘の死を嘆く。
 沙穂は確か「恋した、相手は僧」と言っていた。「LINE」で確認する。その日以降のトークを確認すればよい。トークはどれも短い。「は」とか「む」で完結しているものもある。「バイト」で眼が留まった。そうだ。沙穂はバイトをしていた。
 専門学校時代から美容師になっても同じバイトをやっていた。「だって自分の能力で稼げるんだよ。美味しいじゃない」が口癖だった。霊感占い師のバイト。志穂も何度か誘われた。電話で十分間お客と話せば五千円入ってくると。もちろん霊感を使ったトークが必要。相手の知りたいことに霊感を働かせる。
 内容は恋愛に関するものがほとんど。相手の気持ちが知りたいが本筋。けどその相手が不倫相手の場合もある。(その方が多いと言っていた) 復縁も多いそう。(一度別れた相手を再び好きになることなんてあるんだろうか?) 気持ちが募って不倫相手とその連れ合いが別れることを望む呪詛の依頼も。(これは別途十万円だそう) あとは会社での今の自分の立場。職を替えた方がよいかとか。上司や同僚の気持ちが知りたい。こうなると委細人生相談になる。(笑ってはいけないよ、ペットの気持ちまである)
 時間は自由に選べると言ってた。ただ掛かってくるのは大抵深夜。生き残るにはやはり「よく当たる」の口コミが必要。序列があってキングは十分一万円。地獄の沙汰もなんとやらだ。会社があってそこに所属する。会社は何処にあるって言ってたっけ。
 スマホで「霊感占い」を検索してみる。ズラズラ出てくる。結婚情報誌のようにパステルカラー満載の幸せいっぱいのゲートから黒緑、赤紫、鮮血とホラー紛いの毒々しいゲートまである。中には当社専属の占い師一覧が載っていた。名前も紫苑、龍伽、リノア、シエロなんでもごされだ。それっぽく加工された顔写真も。ページをめくる。
 霊能者募集のサイトを見つけた。電話番号が記されている。この会社は池袋。考えているのはもうウンザリ。少しでも沙穂に近づかねば。すぐに電話した。真昼間に従業員はいるのか? 何度がコールがあって相手が出た。「はい、エニシです」と名乗った。愛想のよい若い女の声。
「あのう、霊感占い師の希望なんですが」
 志穂は緊張した。年齢とか仕事とか動機とか聞かれた。みんな適当に答えた。
「それではちょっとお待ちくださいね」
 次に出て来たのは野太い声の男性だった。
「では〇さん、今まで話していた女性について頭に浮かんだことを話してください。例えば彼氏はいるかとか、趣味とか、性格、最近買ったものでも。今週中に起こることなど」
 志穂は頭に浮かんだことを正確に話した。別に苦もなかった。さっきの女性には迷いが感じられた。恋人はいるが意中のヒトが別にいる。多分替わった男性だ。(アンタだとは言わなかった) いまネールにはまってる。犬も飼っている。なんだ電話(声だけ)で霊感は使えるんだ。この時はじめて知った。
「はいありがとうございました。では明日中には審査結果をご連絡します」
 それで終わり。これが審査なのか?
 見事に志穂は合格した。今週中には契約書一式が送られてくる。その間に「霊感占い師」としての名前、プロフィールなどを考えておくよう命じられた。仕事は来週から好きな時間を事前に登録すればコンピューターから開始の合図の電話がある。
 勤務時間中は電話近くに待機が原則。お客の電話をホカす訳には行かない。念を押された。なま返事に委細契約書に記されているのでよく読むようにダメ出しされた、はぁー。判を押す気はない。そんなことより契約者の「エニシ」に興味を惹かれた。どこかで聞いた名だ。しかも寺の仕事でだ。
「住職、エニシって知ってますか?」
 志穂は父さんから聞いたのかと思った。父は怪訝な顔している。頬っぺたにはご飯粒がひとつ張り付いている。
「ほら、最近『コロナ退散祈祷会』ちゅうもんをやりおった教団じゃなーかな」
 なるほど。テレビでも新聞でも報道していたっけ。でもその教団と霊感占いが結びつかない、うー。仰向けになって何度も観た沙穂のLINEを見つめる。
「あっ、(えにし)があった!」
 思わず志穂は叫んだ! 
「お父さーん、沙穂が呼んどるよ」
 その声を聞きつけた母親が、住職を呼びに来た。彼女は最近若年性アルツハイマー症と診断がついた。
 沙穂のトークには、「(えにし)知っと? 明日いく」とある。日付は今年の三月〇日。加害者は「えにし(エニシ)」に関係のある人物。志穂は決心した。上京する。その晩住職に他の大きな寺で修行してみたくなったと相談した。父は亡くなった妹に痴呆症の母を抱える愛娘に同情してくれた。
「分かった。しばらく外の空気を吸うのも修行」
 と千葉にある〇宗の本山を紹介してくれた。鴨川の多聞寺。ただ寺から都心までの往復となると一日仕事となる。僧侶が晩遅くに帰る訳にも行かない。困って居た。ところがだ。多聞寺に赴任してひと月あまりで東京と埼玉の県境にある別格本山・一乗寺に出向く僧侶を募集していた。志穂は渡りに船。飛び乗った。

第五章
 仙波清人は狭山市の「白鷺神社」の神主である。神社は狭山市・入曽地区を流れる「不老川」の岸辺に位置する。この神社を一躍有名にしたのはスタジオジブリ制作の長編アニメ「千と千尋の神隠し」。そこに登場したハク(白龍)という少年のモチーフではないかと噂がたったからだ。ハクは「ニギハヤヒコハクヌシ」(日本神道の神)でありコハク川の守り主だが都市開発によって川は汚されもはや信仰の対象ではなくった。そのため己を見失い魔女の手先となる不運な少年として描かれた。アニメの設定とは少しずつズレてはいる。けれど神道の実在の神「ニギハヤヒ」(饒速日)と実在の川「不老川」がモデルではないかとチョイと歴史に煩い連中が推察した。なにせ「トトロの森」のすぐ近くだし。すぐに聖地巡礼が始まった。
 神主養成校でもある國學院大學に在学中のこと。清人も同級生の「夏帆」似の彼女とアニメを見た。
「あれ、ホントだねぇ。清人っとこ(神社)じゃない?」
 彼女も直感したようだ。事実「白鷺神社」のご祭神は「饒速日命」(ニギハヤヒノミコト)でありその横には「不老川」が流れている。この「不老川」というヤツは昭和五十年代に全国の汚い河川第一位に連続三年も選ばれている。不名誉な川。でもこれもアニメの「コハク川」と似通っていた。自分の神社のご祭神が有名になるのはいいことだし「ハク」にあやかって箔がついたような気分にもなった。このあと大学での清人のアダ名も「ハク」となった。


「ハクさんが今日は運転手ね」
 振り向くと玄関先で妻が車のキーをブラブラさせている。そう一緒に映画を観た彼女が妻の陽菜。育ての親の祖父は三年前に没し今は清人が「白鷺神社」の代表。両親は小学生、高校生の時と相次いで病死している。陽菜とは五年前に結婚した。彼女は大学卒業後私立高校の教諭をしていた。子供が出来ないこともあり陽菜はまだ仕事を続けている。今日は神社に行事がないので近くの三井アウトレットパークに出掛ける。
 明治神宮、日枝神社、靖国神社、神田明神、湯島天神と東京の代表的な神社を挙げた。これら神社の運営は当然のことながら順調なことだろう。かたや地方の名もない神社の懐はオサムイ。神社の収入の大半はご祈祷(初穂)料。初詣や七五三、結婚式などの祝事、あるいは合格・交通安全・安産・厄除けなどの祈願(お祓い)が挙げられる。結婚式は別としておおよそ一件当たりの祈祷料は五千円から一万円が相場。だから集客力がものを云う世界。お賽銭などを当てにしてはならない。名もない神社は年間でせいぜい一万円だ。
 「白鷺神社」の歴史は源頼朝が鎌倉に幕府を開いた直後に始まる。武蔵七党(平安後期~室町時代にかけて武蔵国を中心に下野、上野、相模にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称)の一つ「村山党」の構成員・仙波氏によって創建された。祭神の「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」はなぞの多い神。日本神話の主宰神あのアマテラスオオカミの別称とする説もあるぐらい。通説では神武天皇以前に大和国を支配していた神々のひとり。水を司る神。龍を従えるとも云われる。また物部氏の始祖神とされる。物部氏とは軍事と祭祀をもって大和朝廷を構成した一大雄族。たぶん仙波氏は箔をつける為に出自を脚色したのだろう。ルーツは物部氏であると。当然のこと「ニギハヤヒノミコト」もくっ付いて来たというワケ。
 一千年に亘る歴史を持ち仙波氏の氏神である事実は大きかった。狭山・入間近在では氏子が今でも千人超いる。自分の祖先を辿れば「仙波氏」に引っかかる一族が多いのだ。お蔭で毎年奉讃金が手に入る。奉讃金とは氏子総代が氏子から寄付を集め神社に奉納するお金のこと。狭山・入間はお茶処。茶葉で商いする豪農商も多い。金額は二千万円ほどになる。また氏子からの要望に応じた祈祷料がこれに加わる。これがすべて神主の収入とはいかない。宮造り(切妻造)の本殿・拝殿・弊殿の保全管理には結構金がかかる。他に境内の整備維持費用。昨年の台風では本殿の屋根に境内からの倒木があって全葺き替えを余儀なくされた。こんな時のために修繕費を充分に積み立てておかなければならない。
 仙波清人と陽菜は小手指駅近くの2Lマンションで暮らしている。寺院と神社の決定的な違いは墓の有無。墓を持たない神社はその分気楽といえる。墓近くでの墓守の仕事がない。だから日常の住居は境内にある必要もない。神社の境内には社務所がある。もちろん正月や七五三などの繁忙期には毎日社務所に居る。けれどそれ以外は氏子からの祈祷依頼に合わせて予定を組む。祈祷がある日はマンションから陽菜お気に入りの黄色いワーゲンビートルで社務所に赴き神主の装束に着替えて祈祷(お祓い)に臨む。お決まりの「おみくじ」は自動販売機がある。
 二人は大学生の頃より環境保護活動に関心がある。キャンパスの環境保護活動サークルで知り合った。以来三十歳を超えても熱心に環境保護活動をする。神社の横を流れる「不老川」は今では鯉が泳いでいる。水草も生えそれなりに故郷の小川の呈をなしている。でもそれは環境への啓発活動のお蔭。「狭山丘陵の自然を守る会」を主催し参加者は関東各県から百名にのぼる。毎年春先に狭山丘陵の清掃をする。手弁当の活動。山や川には不法廃棄物が多い。一回の清掃で二トントラック複数台にもなる。
「あれ一乗寺さん、住職が代わったんだ? 」
 陽菜が黄色のビートルの中でコミュニティー誌を見つめている。
「へぇーじゃ息子か」
 一乗寺は年始の「狭山七福神」のひとつ。一乗寺は福禄寿で白鷺神社は弁財天。弁財天は水の神様でもある。
「いやいやビックり。女だわ。でも尼さんって訳じゃないし」
 陽菜は誌面の写真を食い入るように見つめている。
「あれ、結構若い女の人だよ。ミンクブラウンに毛先を染めてる。美人だし」
 清人はピンと来た。
「それ娘さんだよ。小学校の同級生だった。よく覚えてる」
「覚えてるって、好きだったワケ?」
 陽菜は不満げに清人を覗き込む。女は鋭い。実は初恋の相手。クラス内では寺院と神社の子と特別扱いされた。子供のこと二人は意識するようになりあまり喋らなくなった。でも清人は彼女が好きになった。片思いというヤツ。いつも遠くから見つめていた。清人は鼻の下を指で触る。思いがけないことが起きた時のいつもの仕草。それを見て陽菜が、
「あーやっぱりね。初恋の相手とか、なんだ」
 ズバリ言い当てた。

第六章
 永い巣ごもり生活でペット需要が増えペットショップが恩恵を受けていると聞く。逆に収入減の家庭は深刻。矛先は大抵一番弱いものに向けられる。そうモノ云わぬペットたち。〇市の保護犬・猫活動家の富永市子さんは依頼件数が激増したと嘆く。梨恵は市子さんに協力し自らのネットワークを駆使して里親を探してきた。
 そのため梨恵は市子さんの自宅をたびたび訪問している。〇市の端っこ。庭付き百坪ぐらい。瀟洒なバルコニーを持つ二階建ての立派な建物。外壁越しに見るだけならば人も羨む恵まれた暮らしの家庭だ。けれど門をくぐるとその考えは一変する。庭には犬たちが走り廻り猫は屋根で日向ぼっこ。一階部分は玄関が取り外され左右の壁沿いにビッシリと犬・猫のゲージが並ぶ。動物園には必ずある「子供動物園」てな処だろうか。
 初訪の折は驚いた。市子さんはヘアメイクアーティスト時代の梨恵のお客さん。話を聞くうちに興味が湧いてきた。でもまさかこんなに大規模とは。入っている犬・猫はそれぞれに事情を抱えている。腰椎ヘルペスを患っているチワワ、腎臓疾患を抱えるアビシニアン、極度の人間不信に怯える柴犬。常時二十匹はいるだろうか。
 市子さんの暮らしぶりに関して伺ったことはない。毎日の餌代だけでも大変だろう。それに病気となれば治療費も嵩む。それでも市子さんは餌の現物支給や現金の寄付でなんとかやっていると云う。??? 何度説明を聞いても実態とかけ離れている。いっそ〇銀行、〇商事がバックに付いていると聞けば納得が行く。

 梨恵は市子さんを少しでも助けるために支援を申し出た。美容師では金銭的な援助はムリ。話し合いの結果一匹ずつ預かり里親探しを手伝うことに。預かる個体は世話がかからない小型犬になった。すでに犬を一匹飼っていたし美容師をしながらのこと。配慮してくれた。この小さな活動はリンで六匹目だ。
 ところが梨恵が一乗寺の住職になり事情が大きく変わった。保護犬・猫活動を一乗寺財団の支援事業の一つに掲げたから。市子さんには毎月の経費を請求して貰うように取り決めた。そして支援の輪を市子さんの仲間に広げた。犬と猫は太古の昔から人間と共に生きる道を選んだ唯一無二の親友。おろそかには出来ない。社会の様子はそこに住む犬と猫の姿を見れば分かるという。
 亡き兄の遺志を継ぐ「KIBOOイオリ財団」の柱「子供食堂」の支援事業の方は簡単には行かなかった。対象が犬・猫と人間では全く違う。お金を出せばすべて解決する理由ではない。もちろん財団では全国の「子供食堂」に資金援助を約している。けど要請してくる団体は皆無だった。 
 NPO法人(非営利団体)がほとんどであるし皆ボランティア意識が高い。カネが欲しくてやってるんじゃないという理屈。依織が生きていたとしてもたぶん要請はしなかったろう。カネよりは一人でも多くの飢えてる子供を探すこと。それこそがこの活動の本質なのだ。
 それぞれの団体が違う問題を抱え独自に解決策を練っている。他人が口を出すことではないだろう。ただ子供たちの将来の教育資金(原則貸与)については関心を寄せてくれた。資料請求があいついでいる。依織が一番に望んでいたこと。素直に嬉しかった。近いうちにイオリ資金を使った高校生大学生第一号が誕生するだろう。ただ今は「灯台下暗し」になってはいけない。足下重視。〇市の子供食堂の充実を図ることに。
 この日の目的はKIBOOへの参加者を募る。利用してくれる子供の数は増えてはいるもののまだまだ実情とはほど遠い。本当に食事が必要な子は隠れて出てこない。今回はそうした子供探しの最初の一歩。情報は地域の民生委員がくれる。
 〇市桜木地区の母子家庭。母親は不在でも子供はいるはず。まずは子供に話してみる。社会福祉活動は小さい事の積み重ねが大事。根気強く。子供食堂からは一キロもないから歩く。蒼井空も同行してくれた。同級生だから話しやすいという。
 空は梨恵の母と同居している。その理由も空なりに理解しているのだろう。このくだりに関して空から質問されたことはない。「パプリカ」ダンスが大好きでよく笑う女の子のままだ。
「あれあそこじゃない?」
 空が指さす。トタンの錆びた屋根と縦横無尽に亀裂を埋めた壁のセメント跡がアパートの古さを物語る。昭和レトロ感漂う。
「うん、二階の五号室」
 梨恵はスマホを見つめた。
「じゃ、わたしが最初に声をかけるね」
 空は甲高い金属音がする階段を上る。ベルを押した。男の子の名前を呼んだ。「敏行君、居ますか? 」ほどなくして塗装が剥げたボード張りのドアが開いた。
「はい、どちらさま? 」
 留守の筈の母親だった。
 パジャマにスウェットを羽織ってマスクをしている。ボサボサ頭は就寝を妨げられてご機嫌斜め。用件を促された。民生委員さんのコメントには大手旅行代理店に勤務。コロナ禍で首切り、飲食業のパートも無くなり今はクリーニング店、弁当の配達、ポスティングを掛け持ちしているとある。典型的貧困母子家庭。
「私たち〇市の許可をもらって学童保育のようなことをやっています。無料で下校後に敏行君を預かれるんです。桜木小学校を中心に十人以上集まっています。この子も桜木小学校で食堂に通ってます」
 梨恵は口早に説明した。空はペコリと頭を下げる。そしてKIBOOのパンフレットを手渡すことも忘れなかった。
「分かりました。敏行に話してみますね」
 母親は相変わらず不愛想。梨恵と空は立ち去るしかなかった。部屋の奥隅に敏行が居るのも察せられた。一体どんな思いでこの会話を聞いているのか。下校してからずっと母親の寝顔を見る毎日。自分だったらやりきれない。梨恵はなんとしても救いたかった。そのためには何度も足を運ばなければ。それでも確証はないが。
「もう帰るんですか?敏行君カワイソウ」
 空はそう云うともう一度ドアに向って叫んだ。
「敏行君、敏行君、一緒に食堂に行こうよ!タクマやゆずも居るよ。一緒に遊ぼう!」
 空は何度も何度もドアを叩いた。梨恵は心配になって来た。頭から湯気を出した母親が出て来るんではないか?
 …しかしドアから出て来たのは敏行君だった。梨恵は空の真剣さには舌を巻いた。大人はやはりどこかで相手に配慮している。でも子供はまっすぐに自分の主張をぶつける。あの母親もこの真剣さに折れたのだ。敏行君はドア先で運動靴を履き直している。
「大丈夫、子供食堂に行けるの?」
「うん、お母さんが行っていいって」
 やはりそうだ。空は超手強いオトナの自尊心、虚栄心、見栄に打ち勝った。敏行君を先頭に空がスキップするように後を追う。梨恵はマジックを見ているような感覚。だって依織が何度も足を運んだ家だ。だったら今度から子供に頼もうか?いやいやそれは行けない。大人たちの都合で子供を道具に使うなどあってはならない。依織が苦労したから今があるのだ。梨恵はそう思おうとした。
 子供食堂の木本さんも驚いていた。と同時に対応に気を配った。初回で来なくなる子供も多い。子供にも自尊心はある。木本さんは特別扱いせずに子供たちの成すがままに任せた。子供食堂利用者がひとり増えた模様。とにかく一歩一歩。木本さんなどベテランに云わせると「歩いても、歩いても…」だそう。そうかぁ。

第七章
 「LINE」さんと吉祥寺で会う約束を取り付けた。ああ「LINE」さんとは依織のスマホに「LINE」を送り付けて来る相手のこと。名前がないので「LINE」さんと呼んでいる。梨恵の云う通りに会いたい旨を通知した。即座に「はい会いましょう」と返してきた。最初こそ戸惑ったが手っ取り早く相手が分かる。梨恵も昼間が条件で了承した。場所は吉祥寺の井之頭公園そばのカフェ・ロジン。窓からも池の様子が覗けた。平日の昼間とあって店内はガランとている。

 …その女性はいつの間にか幸の脇に立っていた。でも来店客は見ていない。スマホに目を落としていて入店に気付かなかったのか。そんなはずは。「LINE」さんは真っ直ぐな黒髪が印象的な背筋がスート伸びた若い女性だった。まだ二十代だろうか鼻筋が通って北川景子に似ている。「こんにちは。ヒカワヒメ」
 といいます。「LINE」さんは幸の前に座った。空いていると云っても十人~はいる。どうしてすぐに自分だと分かったのか。フシギ。
「はい米津依織の母の幸です。生前息子がお世話になりましてありがとうございました」
 幸は深々と頭を垂れた。
「いえ依織さんはよく頑張りました。私は蔭で応援していただけです」
 女性の声ではあるが何か無機質で機械的な声。
「あのうヒカワヒメさんとはどのような字を書くんですか?」
 「LINE」さんは自分のスマホを見せた。自己紹介の画面に「日川姫」とある。なるほど。
「日川さんはなぜ死んだ息子のスマホにLINEを?」
「亡くなったのが信じられません。私には依織さんは生きたままなのです。住いもすぐ近くでした」
 息子の依織は狭山湖の北側百メートルほどにあるお世辞にもキレイとは言えないマンションの一室に暮らしていた。
「あの大変失礼ですが息子とお付き合いされていたんでしょうか?」
 幸には最も訊きたいこと。「LINE」さんは少し笑ったようだ。わずかに口角が上向いた。
「わたしは依織さんが好きでした。彼と一緒に居ると心が穏やかでした。まだ信じてくれる人がいるんだといつも励まされたものです」
 ええ、何かワケ在りな物言い。思い浮かんだのは、失恋にあった「LINE」さんを息子が慰めていた情景。ロケ地は狭山湖畔。幸の妄想は膨らむ。「LINE」さんはそんな幸をみてさらに口角をあげた。心を覗かれているよう。「LINE」さんは先回りした。
「大丈夫でよ。私と彼とはキレイなものです」
 幸は「LINE」さんの気持ちを図りかねている。
「はあ…でも日川さん、いくら待っても息子から返事はないですよねぇ?」
「いえそれでいいんです。彼にはちゃんと届いています。私と彼にとって一番大事なことは子供食堂のことです。私たちが好ましいように事態は動いています」
 幸はNPO法人「KIBOO」の発起人のひとり。内情は熟知している。「LINE」さんはそもそも「子供食堂」の出演者ではない。けど本人は蔭ながらと恐縮しているもののまるで毎日子供食堂に顔を見せているかの様だ。
「それじゃ今後も『LINE』は続けるおつもりで?」
「はいこのまま続けます。もし気になるようでしたらスマホから「LINE」のアプリを削除してください」
 幸は言葉が続かなかった。そこまで言われればもうどうしようもない。自分の存在は消してくれと言っているのだ。そういえば「LINE」さんは何も注文していない。すーと現れて云うだけ言ってまた風のように立ち去った。カフェのドアを押す時に見事な黒髪が濡髪のように艶やかに輝いた。
 家に戻った幸に梨恵から連絡があった。
「お母さん、ナニ言ってるのよ。だってそんな人子供食堂には居ないわよ。大丈夫? 」
 とうとう病人扱いされた。日川姫、ヒカワヒメ、やはり「LINE」さんがしっくり来る。この会話を聞いていた空が、
「その人なら知ってるよ。黒い髪の痩せた女の人」
 幸は驚いた。
「え? どこかで会ったの?」
「どこって子供食堂で。パプリカも一緒に踊ったし何でも相談にのってくれた。なんだか心配事があると分かるようなんだ。向こうから声をかけてくれる。私には、お母さんのことは梨恵さんがちゃんとしてくれる。お母さんは悪い事をしたんだから罰をうけなければならないよ。それは分かるよね。罪を償えばまた一緒に暮らせる。我慢できるね。そう云ってた」
 空は鮮明に覚えているようだ。
「ちょっと待ってね。いまスマホで茉莉奈ちゃんに聞いてあげるね。名前も分かるかも」
 最近の子だ。スマホは小学生全員が持っているし素早く使えこなせる。
「茉莉奈ちゃん、その人の名前知ってる?あっ、そうだヒメさん」
 幸はどう考えてよいか分からない。
 あくる日この話を梨恵にした。別に変な話しではない。子供食堂の手助けをしてくれる。何と言っても子供たちから信頼を勝ち取っている。昨夜、空の電話の相手、茉莉奈ちゃんは上履きを何処かに隠されたそう。「LINE」さんはその隠し場所と教えてくれたそうだ。イジメだから先生に言いなさいと忠告までされた。でもでもどうして「LINE」さんはそんなことまで知ってるの?思わず背筋が凍った。
「ホントに私も木本さんも覚えがないのよ。でも私も興味があるから一度会わしてくれない?」 
 幸はなま返事。うっかり「LINE」さんの連絡先を訊きそびれた。いや互いの連絡先を交換するそんな場ではなかった。住所だけは分かる。依織の住んでいたマンションの近く。とにかくユメのような時間。もはや「LINE」さんからの連絡を待つしかない。「LINE」さんは気を悪くしていないだろうか。幸は心ここに在らず。ぼんやりとした頭のまま、待合で順番を待つお年寄りのカルテを拡げた。

第八章
 潜水艦を探知するのはMAD(磁気探知装置)と呼ばれる探査機器。水中で物が動けば必ず電気の磁場が崩れる。そのわずかな歪みを探知する。一回の東シナ海の海上哨戒任務で多い時は十隻を超える潜水艦を探知する。敵か味方かは磁気の波形で分かる。他にレーダー、ソナー、赤外線暗視カメラなどを装備し収拾した情報を陸上基地、友軍(主にアメリカ、韓国、台湾)艦艇に伝える。
「第一列島線」より北西の海、東シナ海・日本海には敵艦がほとんど。味方の場合は事前に連絡が入る。大体は軍事訓練によるもの。たったいま「イージス艦きりしま」から日米韓合同軍事訓練に伴いアメリカ第七艦隊の原子力空母「ドナルド・レーガン」が「第一列島線」を超えるとの連絡が入った。
「今日は大変な一日になるなぁ」
 部下の二等空尉がぼやく。常時ヘッドフォン越しの会話。飛行中でも明瞭に聞こえる。早速、中国の潜水艦が動き出した。中国が誇る「094型原子力潜水艦」。東シナ海は中国、台湾、北朝鮮、韓国、日本と領海が複雑に入り組んでいる。たえず領海侵犯が起きる。
 中国人民解放軍にとって今回の「ドナルド・レーガン」の動きは有事を想定とした絶好の演習となる。今は中国と韓国の領海接続水域に潜航している。さらに日本海には北朝鮮との接続水域をロシア海軍の原潜「シエラⅡ」も潜航している。こちらは那覇航空基地の第5航空群から飛び立った別の哨戒機から報告が入った。北朝鮮の「ロメオ型」も一艘潜っているらしい。
 この時点で本日の夏樹たちの任務は「094型原子力潜水艦」の動きとまだ現れていない北朝鮮の「ロメオ型潜水艦」の捜索、さらに中国の空母「遼寧(りょうねい)」を旗艦とする駆逐艦隊の捕捉。
「遼寧来ますかねぇ? 空佐」
 空尉が再び。
「来るだろうねぇ、間違いなく」
 遼寧は中国初の空母。アメリカの空母が来るなら絶対に現れる。アメリカ海軍に対抗するために建造されたのだから。夏樹はもう一人の一等空尉に北朝鮮の「ロメオ型」の探査に集中しつつまた「イージス艦きりしま」とオンラインで結ぶように命じた。米韓合同軍が上陸訓練を開始する時間が迫っていた。付近に居ない筈はない。
「空佐、ロメオ一艘確認。場所北朝鮮領海内。深度百。韓国側に微速前進中」
 一等空尉が叫ぶ。続いて一番若い二十五歳の一等空士が、
「旗艦・遼寧ほか駆逐艦九艦、人民軍北海艦隊・青島総合保障基地を出港しました」
 これらのやり取り、収拾した情報は即時陸上基地に入り友軍にも伝わる。これまでは予想通りの展開となっている。このまま無事に済めばよいが。日本のニュースでは「中国海警局の巡視艇、我が国領域の接続水域に百日間連続で侵入…」などと報道されている。ただこれはあくまで上辺だけの出来事に過ぎない。
 実際は巡視艇の下には原子力潜水艦、後ろには空母と駆逐艦が控えている。いつ戦火が飛んで来てもオカシクない。夏樹にはコロナ禍と貿易をめぐって米中対立が先鋭化するなか何かが起こると不吉な予感があった。
 韓国の駆逐艦に日本の哨戒機が「ロックオン」され日韓の新たな火種となった。「ロックオン」とはミサイルの自動追尾機能をターゲットにセットすること。あとボタン一つ押せば哨戒機は撃墜される。これは友軍である韓国軍がやったからニュースになった。
 けれど敵国からは日常茶飯事のこと。「ロックオン」されると赤外線を探知して哨戒機の警報装置が鳴りだす。この日も早速「094型原子力潜水艦」に「ロックオン」された。潜水艦からの対空ミサイル。いつもの恫喝、挑発がはじまる。対潜哨戒機には攻撃能力を持ち合わせていない。それは敵も十分に承知しているはず。いつものことながら英語で「こちらは日本国自衛隊所属の航空機、現在情報収集活動を実施中。その旨了承されたし」と国際チャンネルで送信する。
 今では慣れたが初めて「ロックオン」された時の冷汗は決して忘れない。夏樹は戦闘機パイロット時代の那覇基地での訓練飛行のことを思い出す。尖閣諸島に近づいた時に中国駆逐艦にロックオンされた。同乗の上官からは絶対に「ロックオン」し返すなと警告された。
 こちらが「ロックオン」すれば間違いなく撃ってくるというのだ。自衛隊は専守防衛が基本理念。それを破って先制攻撃とは恰好の材料を敵に提供してしまう。敵はいつでも挑発して機を伺っている。うっかり挑発に乗ればすぐに攻撃してくる。「専守防衛」の日本から攻撃されたいえば全世界に申し開きが立つ。
 中国の狙いは台湾海峡の台湾が実効支配している馬祖島と日本が国有化している尖閣諸島の占領。この二つを抑えれば「第一列島線」越境の道筋が見える。中国はやる気満々。その機会を狙っている。
 中国共産党の生みの親・毛沢東の著名な言葉に「革命は銃口から」というものがある。物騒な言葉。けれど現政権は今でもそれを忠実に守っている。また中国には「中原思想」なるものが秦(紀元前八~三世紀)の時代からある。自分たちは世界の中心に居るということ。それは覇権主義とも言い換えられる。中国共産党の夢は全世界を統一すること。そのために現政権も合衆国大統領に「世界の海を二等分しようじゃないか」と平然と言ってきている。
 現在の戦闘の様子はAI(人工知能)がシュミレーションする。友軍の戦力と敵国の戦力を分析し何をどうすれば勝てるのかまた逆にどうなると負けるのかを予測する。つまり一つでも敵より有利な戦力を持てば良い。
 今回は我が国最新鋭の「イージス艦・まや」が加わることで有利なコマを加えた。こうなると中国軍は手も足も出ない。だから中国軍はこのような大規模な開戦は望まない。多勢に無勢。米・日・韓・台の連合軍には勝てない。だから中国は「不測の事態」を狙っている。友軍が連合を組む間もない一瞬の機を伺う。  
「遼寧、中国領海内で停止しました」やはりな。敵もAIを活用する。これ以上の前進は燃料費の無駄と判断したのだろう。この日の活動は「ドナルド・レーガン」が「第一列島線」を日本側に超えたところで終わった。これが日々東シナ海で行われている現状。
 流行のフレーズ「ぼおっと生きてんじゃねえよ!」と日本国民に苦言を呈したい。それが夏樹たち自衛官の本音。

第九章
 梨恵は檀家廻りをはじめた。これは梨恵を一乗寺の住職に誘った四国の児玉日秀老師に習ったこと。老僧はコロナと闘い覚悟の死を遂げた。僧侶たる者常に「施無畏」に勤めよということだ。仏法のことは皆目分からない。だから諸事心配事の相談相手になろうと考えた。
 梨恵は僧侶ではないので布施も必要ないということだ。檀家廻りの衣装をブライトマゼンダの作務衣に決めた。一口に作務衣といっても今日日各社から様々なデザインが発売されている。最初こそ敬遠していたがイザ袖を通して見るになかなか着心地が好い。パンツは流行りのクロップドパンツに似ているし上もミドルカーデと思えばよい。その下はTシャツでOK。頭は尼僧頭巾を被る。これもイスラムのヒジャブに似た簡便でオシャレなものがラインナップされている。作務衣と同色。ついでにマスクも同色で合わせた。当初は一人でと考えたが一番年長の僧侶に止められた。仏事相談の場合に困るという。そこで吉水志穂が同行することになった。別に異存はない。
 アポなしで遠くの檀家から。檀家の家を拝見することはその人の人となりを間近で観ることにつながる。もちろん不在の家も多い。在宅でもナンのことか分からない人も。物売りと間違われることもしばしば。それにコロナ禍でもある。
 ただ廻って見て良かったと思う。寺でお布施だけ受け取るのとは訳が違った。それともうひつと気付いたことが。一緒に同行している吉水志穂(市川実日子が赤いメガネをかけているよう)には霊感があるということ。
 ある時はこの家には重たいものを感じるという。過去帳((一乗寺では故人の情報以外に家族構成まで記されている)を見ると五十過ぎの独り息子がいる。八十近くのお婆さんは息子さんの話しを一切しない。ただ時々癖のように二階を見上げる。志穂は小さい声で二階の息子さんの話しを始めた。息子は引きこもりだった。お婆さんは涙をこぼしながら頷いている。
 梨恵は帰りのプリウスの中で思い切って尋ねた。
「志穂さんには霊感がありますね?」
 それから手短に特異な霊力の持ち主、児玉日秀老僧のことを話した。志穂はしばらく俯いていたが、
「はい父に〇宗の祈祷術を習いました。昔から霊感は強い方でしたが使い方が分からず、大寒行は女人禁制ですから」
 なるほどそんな事情があったのか。
「梨恵さん、いや住職は凄いですよ。大抵のお寺さんは檀家廻りなどしません。家に行く時は仏事の時だけ。余計なことは一切しないもんです」
 志穂は言う。
「釈迦の教えとは生きている人たちのもの。死んでる人はどうでもよい。四国の老僧からそう教えられた。だから仏事が出来ない私の唯一の僧侶らしい仕事」志穂は頷いて聞いている。
「志穂さんはなぜ僧侶になったの?」
 いつか尋ねてみたかった。でも込み入った事情が在りそう。憚られた。志穂はまた黙り込んだ。
「父が僧侶で、自分には霊感があった。それだけです」
 嘘だ。何かを隠している。元旦那の浮気を直感した時と同じ。でもまぁ浮気と違って人を傷つけることでもあるまい。誰にだって知られたくないことはある。
「そうだ。サロン・デ・一乗寺を手伝ってくれない?」
「それって結婚式とか七五三、お宮参りとかですよね? お寺のホームページに紹介されてた」  
 梨恵は頷く。
「私にはムリです。土台僧侶は葬祭ばかりで祝い事は苦手なものです。それに私はオシャレじゃないし、妹の沙穂は美容師だからお役に立てた、あっ、私何言ってるんだろう。忘れてください。とにかく私には不向きです」
 志穂はスマホの画面をいじくり出した。この話はしたくないということだ。でも「ヨシミズサホ」に引っかかった。どこかで聞いたことがある。美容師仲間だったのだろうか?

 その日の予定は〇市役所に赴き環境保全課の分科会に参加すること。「一乗寺財団」の仕事。
「では環境保全課の分科会を始めます。本日はオブザーバーとして一乗寺財団の代表も見えていることから狭山湖畔の『緋河神社』再建に関してご説明申し上げます。
 この神社は狭山湖(山口貯水池)造営にあたり昭和八年撤去されてしまいました。この神社の再建については狭山市の白鷺神社の神主であり『狭山丘陵の自然を守る会』代表のセンバ氏からも毎年の…」
 進行役の市役所職員は熱弁を揮っている。梨恵はこのセンバという響きに妙に懐かしいものを感じた。たぶん知っている人物の苗字。誰だったっけ?
「神社の造営に一乗寺の財団が加わっても問題はないのですか?」
 梨恵に視線が向けられた。
「はい仏と神に区別はありません。庶民の信仰には違いありませんので。財団は〇市の皆様の希望があれば動きます」
 梨恵は事実上の支持を表明した。この神社の悲劇の歴史は小学生の時にならった。山口貯水池造営に当たって村ごと湖底に沈んだ。村民の信仰も沈んだのだ。「緋河神社」の神は龍神で今も狭山湖畔で淋しい呻き声をあげるそう。やがて分科会の採決が行われた。全員が賛成した。散会後に梨恵は職員に尋ねた、
「この神社の話しは以前からあるのでは?」
「はいそうです。分科会では賛成を得るんですが〇市の本会議で否決されてしまうんです。やることは他にあるだろうの理論です。今年だったらコロナ対策ですね」
 なるほど限られた予算のこと。
「もうひとつ白鷺神社の神主の名前、センバなんでしたっけ?」
 職員は再度資料に目を落とす。
「センバキヨトさんです」
 梨恵は思いだした。小学校の同級生。大きな八重桜がある小学校。艶やかな桜吹雪に弾んだ心を想い浮かべる。

第十章
 その会議は毎年秋口に一乗寺で開かれる。「狭山七福神」の会合なのだから持ち回りにしたらと思うのだが「一番大きい一乗寺さんでと」と誰も異存がない。檀信徒会館の二階に七名の代表者が集まる。
 清人は「白鷺神社」(弁財天)の代表。毎年のことだから皆顔見知り。ただ今回は一乗寺の顔が違う。そう白神梨恵は初恋の相手。二十何年ブリの再会と相成る次第。ソワソワ顔が熱い。妻の陽菜には「お顔冷やして進ぜましょう」などと揶揄われる始末。この妻にはスッカリ見破られてしまった。オンナの感は鋭い。
「あ、やっぱりセンちゃんだセンちゃんだ!」
 いきなり後ろから背中を叩かれた。清人は小学校のあの時の気分を思い出した。そうだ鬼ごっこをしていつも梨恵に背中を叩かれたものだ。清人は振り返ったがそこには無邪気な笑顔の少女の姿はなかった。成熟した女性。陽菜よりもだいぶ大人びて見えた。宮崎あおいによく似ている。女性の髪はチャコールグレーで毛先だけミンクブラウンに染められていた。
「ひ、ひさしぶりだ、ね」清人は言葉が上ずっていることに気付く。「センちゃんは相変わらずだねぇ」さも可笑しそうな梨恵にスッカリ気持ちを読まれてる気がする。
 七つの寺院と神社の代表者が揃った。コの字型の机の上にはお茶と菓子が用意される。会合は一番年長の「狭山天満宮」(恵比寿天)の神主が議長役。
「それではコロナ禍ではありますが来年も一月一日から一月十日まで狭山七福神を主催いたします。くれぐれも本年のようなことが無きようくれぐれも責任を持ち…」
 本年の失態とは大黒天の〇市「浄心寺」が約束の元旦朝五時に門を開けなかったこと。巡拝者から苦情が各寺社に殺到した。慌てて一番近くの「本町伏見稲荷」(毘沙門天)の神主が八時に駆け付けた。大晦日に深酒し寝坊したとのこと。初詣には縁遠い寺院のことだとしてもホームページやパンフレットの七福神拝礼順一番目の寺院だ。
 「狭山七福神」の名は地に落ちた。ネット上では「マッタクやる気ナシ! 」とか「今年は端から縁起がワルイー」など酷評が殺到した。「浄心寺」は無反応。ただ今年は副住職が来ている。反省はしているよう。つまるところこの「七福神」は面倒だけ多くて儲からない。正月は朝早くから夜遅くまで誰か人を手配しなければならない。売れる者は高くても何千円のお守りひとつ。それも七か所の何処かで手に入れればよい。多くは御朱印帳に参詣の記帳欲しさで来る。これは無料。早く言えば「ヤッテラレナイ」というワケ。七つの寺社は地域振興の為に手弁当で開催している。だから「浄心寺」も「だったら辞める」と云わんばかり。
 清人は隣の梨恵から小声で、
「終わったら庫裡に来て」
 と声を掛かられた。
 会合は一時間ほどで散会した。清人は梨恵の誘いを受けて庫裡に向った。
「随分広いんだね。なんだかガランとしていて修学旅行で東大寺大仏殿に入ったみたいだ」
 清人は辺りを見回しながらソファーに座った。

「ビール飲む?」
 まだ四時だ。さすがに。それに何だか陽菜に疑われそうだし。
「じゃ、遠慮なく」
 梨恵はコロナビールの栓を抜いた。気持ちの良い音が部屋にこだました。それを合図にワンコが二匹部屋に入り込んできた。
「はいはい、こっちがCOOでこっちがリンね。ご挨拶して」
 梨恵は二匹にペット用のソーセージを与えている。膝の上にワンコが上がったせいで黒のプリーツスカートの裾が捲れ上がり透けるように白い生足が目に飛び込んできた。清人は思わず目を外し窓越しの中庭に顔を向けた。
「センちゃん結婚したね?」
 清人は思わず左薬指の結婚指輪をさすった。
「センちゃんは私のことが好きだったのに、結婚しちゃったんだ?」
 清人は虚を突かれポカーンとしている。どうやら梨恵に揶揄われているらしい。
「センちゃんが私のこと好きだったのは知ってたよ。でも結婚しちゃって正解。私はすっかり悪いオンナになりました。センちゃん、女が全員清くて弱いと思ってちゃダメだよ。オンナは怖いんだから」
 梨恵はアッという間に一本飲み干した。
「こんな大きな家に独りで、あ、ゴメン」
 清人は言い淀む。
「いえいえ誰も居ないわよ。オトコのことでしょ? オトコは卒業、未練ナシです」
 ワンコたちは必至の形相でソーセージを奪い合っている。
「実はこの家で育った訳じゃないから、ほら新しいでしょ。去年建て替えたの。だからセンちゃんが云う通り気持ちが悪い。寺だけにお化けが出そう。慣れるまてにしばらくかかった。でもこの子たちも居るしね」
 梨恵は両手で幽霊の真似をして見せた。
「センちゃんに来てもらったのは『緋河神社』再建の件なの。私も是非再建したいと思ってる。実は〇市役所の環境保全課の会議に先日出席したの。それで神社のことを知ったんだけどね。多摩湖と狭山湖はワンコの散歩がてらによく行くんだ。確かに張り詰めた気のようなものを感じる。ここには神を祀る場所があるべきだと思う。今度一緒に連れて行ってくれないかな? 神社の歴史とか建設計画とか聞かせてくれると助かる。市役所に任せていては生きている間には建たないわよきっと。だから資金は一乗寺財団で持つわ。
 私は仏の道もよく分かってない。まして神さんのことは全く分からない。センちゃんに祭祀のことは任せればいいのよねぇ。だったら是非やりましょう!」
 清人は予想外の展開にビックリした。大人に成った梨恵に慌てただけでなく話しは意外にも緋河神社再建にまで及んだ。一乗寺財団の話しは清人もよく知っている。去年竣工した「狭山の森文化センター・ナローホレスト」のホームページにも協力者の筆頭に一乗寺財団の名前があった。ホントに仏と神との再会になったようだ。
「僕も一本飲もうかな? 」
 清人はコロナビールを一本貰った。それからは小学生時代の話しに。同級生のその後のこと。自分たちの半生について。また梨恵が現在取り組んでいる社会奉仕活動のことも聞いた。帰り際、ほろ酔い気分の清人は梨恵に言われた。
「奥さんには今日のこと正直に話すのよ。オンナの勘は鋭いしキレるからね」
 梨恵はよくオンナ心が分かっている。清人はどのように今日のことを陽菜に説明しようかと思案している。

第十一章
 一乗寺勤務となった吉水志穂は「加害者」を探しを始めた。唯一の手掛かり霊感占い師として採用された会社に行ってみた。スマホナビは年季の入った十階建てビルに案内した。玄関脇の郵便受けで探す。けど何も無い。ていうかどの郵便受けにも一切名前がない。一体何のための郵便受けなのか? (佐渡島では十メートル先から住人の名前が読める)階段で三階へ。三〇三号室。やはり表札がない。ベルを押す。何の変化もない。平日の午後二時。わざわざ電話面接を受けた曜日と時間を選んだ。休みではないはず。次にドアをノックしてみた。誰も居ない。最後に電話を掛けてみた。繋がらない。最初の「加害者」探しはそれで終わった。収穫ナシ。
 新しい勤務先の住職は女性だった。しかも自分と五歳ぐらい上なだけ。加害者探し優先のため一乗寺の関する事前情報はゼロ。驚きの連続だった。第一この女主は僧籍を持たない。第二に葬儀式など葬祭にはノータッチ。第三にこれら寺の葬儀式を簡素化しようとしている。などと驚きの例を挙げればキリがなくなる。
 最大の違和感は女主には色気があること。美人だし肌も白い服装も沙穂のようにイケテル。寺の女は大抵乾いているものだ。お洒落とは縁遠い。一体この寺に何が起こったのか? どの僧侶が見ても理解に苦しむだろう。
 「多聞寺」から来た他の三人の僧に尋ねた。「え? 何も知らないで来たの?」みな驚き呆れている。ハッキリとは言わないが中の一人は美人住職見たさのよう。ここの先代は今の〇宗の法主であること。跡継ぎの息子が居たが失脚したので娘を立てた。檀家衆も大騒動の結果現・法主の顔を立てた。「多聞寺」住職と法主とは従弟関係にある。そんなことを説明された。  
 一乗寺の檀家数は千を超える。佐渡島の実家「荘厳寺」の檀家数は二百程度。この差は圧倒的。寺の経済基盤が違う。平均戒名料三百万円には驚いた。佐渡島ではせいぜい五十万円。こうして四人の僧侶でも足りないくらいの葬儀法要数だ。その経済力は年俸制の給与にも端的に現れた。「多聞寺」の二倍近い。
 女主は寺仕事に不案内、困ると志穂に尋ねて来た。たわいのない仏教の年中行事や葬儀法要式のことも聞かれる。え? そんなことも分からないの。けど何も知らない若輩娘とあなどる訳には行かなかった。寺のホームページに新住職の晋山の様子がアップされている。その言葉には驚かされた。
「我、施無畏を以って衆生と共に生きん」
 施無畏とは僧侶の三施(財施・法施・施無畏)のひとつ。無畏とはあらゆる厄災から護ると誓う詞。この言葉は自力では出てこないだろう。けど誰かの入れ知恵とは考えにくい。言葉に力があり真実に思えた。
 志穂はその気になれば人の心に分け入れる。けどけどこの女主のことは読めない。言葉で表現するならば淡い緑色の地平線だけ見えた。霊感の在る者は心を塞ぐことも出来る。覗かれないようにするのだ。その場合はノイズのようなグシャグシャが画面に見える。沙穂の心もそうだった。だから今の処この女住職には「あなたは何者!」がシックリいく。
 ある時女主に「あなたは霊感あるね」と指摘された。女主には僧侶を職業とするキッカケがあったよう。そのキッカケの一つ四国の老僧のことを教えられた。志穂は老僧の仕業は「釈迦の行動」だと感じた。一乗寺境内の玉砂利を一粒ずつ洗い清め人々の悩みに寄り添い救けコロナ禍に臆することなく愛する郷土の人々を救った。
 道理で一乗寺には積霊がない。積霊とは浄化されずこの世に拘る人間の残骸のようなもの。佐渡島の寺にも少なからず在った。「釈迦の行動」とは紀元前前五世紀のこと飢饉、疾病、戦争、災害、支配とそんな厄災に覆われていた時代に半世紀に亘り「施無畏」を貫いたこと。飲み物、食べ物、薬を施し安らかな「死」を諭し「生」に希望の光を灯す詞を伝えた。その行動と詞は今では釈迦の教え「仏教」と云われる。志穂もその釈迦のような老僧から是非教えを受けたかった。
 この女主にはまだまだ驚かされた。子供食堂、保護犬・猫活動、環境保護活動に熱心なこと。佐渡島には子供食堂はないし野良犬まで居る。よく分からない。唯一環境保護活動だけはトキを通じて理解できる。さらにだ。寺で艶やかな結婚式や七五三を計画している。ペットの美容院まで。頭がクラクラして来た。今まで僧侶としての常識にはどれも当てはまらない。これは佳い事なのか否か。日本中の僧侶に訊いても答えは出ないんじゃないか。大規模寺院に財団は付き物。それは分かる。けれどもうひとつ「KIBOOイオリ」財団とは何なの? 寺務経理の人に尋ねる。が明確な回答はない。
 この一週間は女主に従って檀家廻りをしている。たぶん四国の老僧を真似たのだ。佳い事だと思うし結構楽しかった。寺にこもって葬儀やら法要をするよりも生の人間の声が聴ける。週の終わり檀家廻り中のプリウスでスマホがなった。女主は車を道路脇に止め、
「はい、トモマサ久しぶり。あんたまだエニシにいるの?」
 志穂は目が・になった。どうして女主の口から「エニシ」が出てくる。志穂の脳内に沈殿していたキーワードが事も無げに現れる。話しに聞き入る。
「え、子供、おカネ。分かったけど。ああ今夜来るの? 何時ごろ? 檀家さんに見つからないように裏口からおいで、はい、じゃ待ってる」
「あのう? いまエニシって?」
 女主は車をだした。
「ああ、知ってるでしょ。この前コロナ退散祈祷会をやったとこよ。いまの(スマホ)弟がそこに世話になっているのよ。ボスは以前に一乗寺にいた僧侶なの」
 えっ? 「エニシ」の僧侶? ひょっとして弟かボスのどっちかが「加害者」? 志穂は顔がカッと熱くなった。いやいや断定にはまだ遠い。「エニシ」に何人の僧侶がいるか分からない。ここは女主の弟を待ち伏せして思い切って訊いてみよう。
 志穂は檀信徒会館の四階に間借りしている。「多聞寺」では近くにアパートを借りた。一乗寺の募集に居住施設アリとあった。好ましかった。この部屋からは境内の様子がはっきり見渡せる。カップラーメンを啜りながら女主の弟のお出ましを待った。九時近くなって大きな黒の外車が一台裏門から入って来て庫裡横に止まった。おそらく目的の人物。境内は侵入者除けに赤外線人感ライトが張り巡らされている。
 ドアを開けて庫裡の門に入る人物がチラッと見えた。細身のジーパンに緑のパーカーで赤い野球帽を被っていた。どこからどう見ても僧侶には見えない。話しを聞くとなると帰り際、裏門を出た辺りで呼び止めなければならない。姉弟の会話にそんなに時間はかからないとふんだ。それに車。酒もナシ。志穂はすぐにパーカーを羽織って外に飛び出した。夜風がヒャッコイ。自分だってスウェット上下に素足にサンダル。おまけに頭にはヒジャブ。一体ナンに見える。
 沙穂の死からすでに半年が経とうとしていた。収穫ゼロ。この時のことを千載一遇と言う。まるで門前の小僧だな。いまの自分を客観視しているワケ。三十分ほどで車のエンジン音がした。志穂は裏門の壁に張り付く。車が出て来た。今だ。運転席に飛びつく。必死だった。急ブレーキ。運転席ではなかった。左ハンドル。窓が下に下がった。
「大丈夫ですか?」
 飛び出し事故と勘違いしたかも。
「はい大丈夫です。私は一乗寺の僧侶をしています。ちょっとお話を伺いたくて。住職の弟さんですよね」
 相手は安心したようにドアロックを解除した。
「どうぞ、乗って」
 志穂は助手席に座った。相手は自分と同い年くらいの若い人物。ジャニーズの〇チャンに似ている。すぐには思い出せない。
「すいません。脅かしてしまって。私は吉水志穂といいます。いま梨恵住職と檀家さんを廻っています。私には二歳下の妹がいまして。名前は吉水沙穂です。エニシに妹は居ませんか?」
 ジャニーズは自分が僧侶だと分かってホッとしたよう。さっきの話しではこの人は檀家さんを避けている。
「うーん大多数が女性信者さんなのでね。ヨシミズサホさん…なにか特徴は?」
 「エニシ」とは女性の多い教団なのか? 自分の無知に腹が立つ。
「歳は今年二十五歳でトモサカリエさんに似ています。佐渡島出身。エニシに関わりを持ったのは今年の春先のことです」
「はいQRコード出して」
 志穂がグズグズしているとLINE画面を出した。
「友達追加だよ。調べて後でメールしてあげる」
 あ、なるほど、そうか。
 外車は志穂を降ろすとあっという間に暗闇に吸い込まれた。志穂は寒いのも忘れてボーッとその場に立ち尽くす。

第十二章
 白神知正は麻布十番にあるマンションに向う。磯島香織の自宅。彼女は六本木のクラブ「ジュジュ」のホステス。源氏名は「ユア」。磯島香織は当初玉の輿と思ったことだろう。だってこの常連客は毎月数回着て一度に百万単位のカネを使うんだから。ホステスはしっかり者が多い。客の前で何も知らないうぶな娘を装う。散々に調べた挙句大寺院の住職とはオイシク世間を亘っていける相手と考えたのだろう。そうじゃなければ刹那主義のオンナ。その時だけ佳ければとその時を愉しむ。まぁいずれにせよ彼女は失敗した。知正は住職になれなかったのだから…。
 今夜も彼女との間に出来た女児の手術代金を工面しに姉の元へ行った。産まれて間もない子は心臓に疾患を抱えていた。乳飲み子の手術費は五百万円近くになった。我が子を守る母親は強い。宙ぶらりんの父親の腰を強く叩く。どうにかカネを作れと。今の知正にそんなカネは準備出来ない。今は僧侶時代の兄弟子を頼り新興宗教教団「えにし」に身を寄せている。この教団は霊感占いを生業にしている。知正には残念ながら霊感なるモノを持ち合わせない。従って役立たずの座を欲しいままにしている。
 ここからはカネを借りられない。毎月の生活資金の援助だけで手一杯ってとこだ。仕方なく恥を忍んで生家である寺に行くことに。今の住職は姉。どうして姉が晋山(住職に就任)したのかは分からない。ただ現〇宗の法主である父が認可すれば可能。知正が知っている姉は放蕩三昧のフシダラ娘。高校生の頃から喫煙、恐喝、援交で無期停学をくらいやっと卒業できたと思ったら家出した。その後同じ〇市で美容師になったと聞いたが遠いどこかの話しだった。
 そんな姉の晋山の詞には驚かされた。女住職は全国でも珍しい。しかもこんな大寺院。関東ではTVニュースで報道された。凛々しい尼僧姿で「我、施無畏を以って衆生と共に生きん」。自分にはてとも考え付かない詞。誰にも文句は言わせない迫力があった。NHKの大河ドラマのワンシーンと勘違いした人もいると聞く。当初異を唱える檀家衆も在ったがこの晋山の様子が報道されると一転尼僧の晋山が総意となる。そこには後継男子・知正の姿など欠片もなかった。忘却の彼方へ。
 知正の失敗は一乗寺で働く兄弟子花村龍円が興した「教団えにし」に加担したこと。「教団えにし」は夏に「コロナ退散大祈祷会」を大仰に開催し賛否あるものの世間に名を轟かせた。その「祈祷会」に至るまでのドキュメンタリーを制作した「埼玉翔んでったテレビ」が一乗寺福住職である知正を言葉巧みにインタビューに引っ張り出し映像を上手く編集した。報道された内容はまるで一乗寺が属する日本仏教のひとつ〇宗全体が「教団えにし」にエールを送っていると視聴者には映った。〇宗はもちろんのこと一乗寺の檀家衆も怒った。〇宗の新法主である父は先の報道は間違いである旨の声明「表白文」を発し檀家衆は知正を山から追い出した。そんなこんなで知正は一乗寺には居られなくなったというワケ。
 今宵姉は知正の申し出を快諾してくれた。「彼女心配してるでしょう。子供のこと」姉の言葉。父からは未だ何の言葉もなく限度額ナシのクレジットカードは使用不可となっていた。
「明日送金するから口座を教えてくれってさ」
 知正は磯島香織に。
「よかった。お姉さんお金くれたんだ」
 愛娘はまだ病院だ。大事な人質なのだろう。香織は続けた。
「退院に佐渡島のお母さんが来てくれる。ほら心細いから」
 知正は追い出されると思った。この部屋は2Lだ。母親が来るとなればもはや自分の居場所はない。なるほどね。
「悪く思わないでね。だってトモちゃん、籍入れるつもりじゃなんいでしょ。私またクラブに出ようかと思って。コロナで閉まってた店も開いたからまた働いてくれってママに誘われたの」 
 磯島香織は嬉しそうだ。一乗寺には帰れないし頼るところは「教団えにし」しかやはりない。薄暗い不潔な部屋が思い浮かぶ。
 確かに彼女の言う通り籍に入れるつもりはなかった。それは一乗寺の住職だから。別格本山のこと格式が求められる。伴侶となる女性の素性の開示を檀家衆に要求される。でももう住職にはなれない。だからいずれ籍を入れるつもりでいた。磯島香織と愛娘。そう云えばまだ名前も付けちゃいない。彼女は「可愛いベビちゃんと呼んでいたっけ。知正はここに至っても磯島香織のやるせない想い心細さを斟酌できない。物事を自分中心にか考えられない。
 門を大きく曲がって「教団えにし」の黒いビルが見えた時にふいに「佐渡島のお母さん」というフレーズが頭に浮かんだ。そういえば昨夜一乗寺の裏門で出会った尼僧も「佐渡島のヨシミズサホ」と言ってたな。もし知正に霊感があるならば昨晩磯島香織に尋ねたことだろう。ヨシミズサホって子を知ってるか? と。

 知正は仕事着の金色の作務衣に着替えデスクに座る。いまの仕事は信者の身辺調査。個人データを作る。やがてこの台帳はもうひと儲けの材料となる。信者数は万を超えている。台帳作りは結構手間がかかる。ひとりずつ部屋に招き入れて素性を訊いていく。教団の弁護士は「公安からの潜入を防ぐことにもつ繋がる」と物騒なことを言う。公安とは公安警察のこと。国は「第二のオウム」は断固阻止したいはず。
 朝一番の面接の相手はまだ高校生でも通るような幼なさが残る少女。資料によると二十歳。受け答えもハッキリしない。教団に入った動機を尋ねる。友達から誘われたそう。これからどうしたいには分からない。ただ独りだと不安で堪らないらしい。確かに何かに縋らないと生きて行けない人々はいる。世の中全員がしっかりとした意思を持って生きてる訳じゃない。引きこもりもいるし何も喋れない連中も大勢いる。世の中いろいろだ。この子は赤いメガネをかけていた。思い出した。昨晩約束した。「佐渡島のヨシミズサホ」のこと。
 この子とこれ以上話しても何も聞き出せないと感じた。ましてやオンナスパイにはとても見えない。家庭も普通の会社員。財産があるとは思えない。女の子を退出させたあと同僚にちょっと外すねと伝え席を立った。向かった先は資料保管室。入るとスチールの整理棚がびっしりと両側の壁に並んでいる。五十音順。や行の引き出しを開く。ヨシミズ姓は何人かいる。サホを捜す。吉水沙穂、ファイルは在った。でも中はカラッポ。ふーん変だな。普通は知正たちがこさえたカルテと一緒に入団届、誓約書、財産がある場合には土地の登記簿の写しとか預金通帳の写しなどが入っている。過去に何人か探した。けれどファイルが空のことはなかった。??
 昼休みに顧問弁護士に訊いてみた。この男は知正が一乗寺から引っ張って来た。月給は倍額だ。
「ねえねえ、ヤッチン、ちょっと頼まれたんだけどさぁ。この子のこと分かる?」
 知正は空のファイルだけ持参した。
「ちょっと待って」
 ヤッチンはスマホのメモを見ている。やがて難しそうな顔で、
「トモさん、その子に触わらない方がいいよ。警察が動いている。自殺したんだ」
 知正は驚いた。一乗寺の尼僧は行方を捜してるようだった。でも死んでる。
「最初の頃の信者っていうか霊感占い師じゃないのかなぁ。教祖とかほら例の訴えられてる女部長くらいしか真相が分からないよ。武田(先輩の弁護士)さんも弱ってた」
 ヤッチンはひそひそ声になっている。
「だけどただの自殺だったら警察は動かないでしょう?」
 知正は疑問をぶつけた。
「うんそこだよ。公安はほんのチョットのことをツツいて大事にする。武田さんはそこを疑ってる」
 違うな。知正には確信があった。教祖の花村龍円のオンナ絡み。龍円は六本木での夜遊びとアルバイトの「霊感占い」で若い子を弾掛けては性欲を満たしていた。花村は最近知正を見ても知らぬ顔だ。知正などという人間とは関りを持っていないとでも言いたいのだろう。もはや役に立たない知正をそばに置くのも時限爆弾(過去の不品行の暴露)は手元に。そんな事情からだ。

 知正だって教祖と話したいなどと思わない。なにせ人となりを知っている。信仰するヤツの気が知れない。改めて釈迦やイエスの偉大さを思い知る。相手を心酔させるほどの器量の持ち主。まぁその頃のことは分からないか。ひょっとして今の自分のような立場の人物も居たのかもしれない。イエスを裏切ったイカリオテのユダも実際のところは今の自分だったのかも。教団が強大になれば悪のレッテルを貼られていつか抹殺される。知正は背筋がゾッとした。でも心中は穏やかではない。そもそも集られていた上に花村のお蔭で一乗寺の住職になり損ねた身だ。いつか仕返しを考える時もある。ただその時は飯の食い上げとなる。
 こん時の知正はいつもと違った。磯島香織に家を追い出された。それだって元を辿れば花村に行きつく。頭に来たワケ。さっきヤッチンから教団の昔を知る人物なら真相を知っているかもと言われた。そうか、その手があったか。知正は教団内にある調査部に向った。調査部の部長・蒼井加奈。ネットでの誹謗中傷事件を起こし有罪判決を受け控訴審待ちの保釈中だ。部長の椅子にボオーと座っていた。
「こんちは」
 知正はパーテーションを叩く。
「あれ、久しぶりね」
 加奈はジャニーズ好き。山下智久似の知正に好感を持っている。
「いつもおキレイで。また若返りましたね」
 お世辞。この女は教祖のオンナ。夜のご奉仕ブリは教祖からたんまり聞いていた。奥を覗けるように胸元を大きく開けている。ソアァに招き入れる時に白い豊かな乳房が揺れる。知正は子供が出来て膨らんだ磯島香織の乳房を思い出していた。
「いやね。もう歳よ。そうだお子さん出来たんだってねぇ? 可愛いでしょ?」
 可愛いけど二度と会えない。知正はちょっと考えて、
「加奈さん大変なことになってますよ。いまヤッチン、ほら若い方の弁護士がいるでしょ。彼から聞いたんですが元信者の吉水沙穂という女性の死に不審な点があると警察が加奈さんを調べてるようです」
 知正はウソをついた。加奈の顔つきが変わった。
「冗談じゃないわ。あの子の自殺はよしみが悪いのよ。教祖さまの恩寵を受けたことを妬んでよしみがイジメた。そのせいよ。もうイヤになっちゃう。せっかく執行猶予が付きそうなところでまた加害者なんて私本当に刑務所行きよ。で、私はどうすればいいの? 」
 やっぱりな。睨んだ通り花村のオンナ癖のワルさからのことだった。よしみとは教団の金庫番。発足当初からのメンバーで教祖の信任も篤い。恩寵とは「お手付き」のこと。よしみも多分「お手付き」だ。
「事情は分かりました。ヤッチンに報告しときます。警察の目をよしみ部長に向けさせるように計らいます」
「ああ、ホントに恩にきるわ。ありがとう」
 お礼という意味だろう。頭を下げた時に形の佳い乳房が丸見えになった。 

第十三章
 ある時僧侶に会ってくれと妻の裕子から頼まれた。
「え、坊さん。親父さんの法事はまだ先だろう?」
「そうゆんじゃなくて私たちのこと」
 裕子は真剣な目つき。
「一乗寺で出会った四国のお坊さんなんだけど人の心が読めるの。双子が居て障害者だと言い当てられちゃった。もうビックリ。しばらくお話をしてくれたんだけど是非旦那さんにお会いしたいって。男の子欲しいんでしょ。だったら協力してお願い」
 なるほどそういうことか。裕子は次の子に関しては慎重。気持ちはよく分かる。かといって医者でもない坊さんとは。心配になって来た。確かに病院は数多く回った。どの医者の意見も皆同じ。受精して見なけりゃ分からないだ。確率論の問題。千人に一人に当たるかどうか。裕子は医術ではなく呪術に答えを求めたのか。夏樹は魔術を専門分野にしている。日本に当てはめるならば日本仏教の加持祈祷に当たる。裕子が出会った僧侶は法力の持ち主ということになる。俄然興味が湧いた。
「お、いいよ。何時だい?」
 裕子はてっきり抵抗に遭うと思っていたのだろう。夏樹のアッサリとした態度に安堵の笑みを浮かべた。
 僧侶は夏樹の勤務明けの晩に自宅にやって来た。裕子が手料理で夕食の膳を用意した。日本酒も添えられている。夏樹は翌日からこの時のために「読心術除けの魔法」をかけていた。他者に心を読まれなくするためだ。魔法封じの伎。玄関先で迎えると痩躯貧相な老人だった。背丈は百九十センチを超える夏樹の半分ほどにしか見えない。法力を操るとは居丈高な高圧的な人物を想像していただけに超引いた。老僧は愛想が好かった。ニコニコしながら子供たちの頭を撫で裕子の料理を褒めた。
「アンタさんの間違いは神を信じないことだな。ズケズケ神の理に踏み込むが敬意は払わない。それじゃ神さんは怒るわな」
 裕子も頷いている。夏樹は魔法の会々長であり著述家。書簡類は多いが仕事柄パソコン・スマホは使い勝手が悪い。なので相手との連絡手段は郵便に限る。でも裕子には悟られたくなので今どき珍しく郵便私書箱を持つ。けど隠し事は何時までも続かないか。裕子は気付いたのだろう。あの部屋で何をしているか。
「奥さんは毎日一乗寺で仏さんに挨拶しちょる。旦那さんもイエスさんに頭下げにゃならんな」
 読心術除けの魔法は破られている。確かに自分は魔法・魔術に精通する学者を気取っているが魔法使いでも魔術師でもない。だから神に興味はなかった。いやいやいつでも客観的に物事を見ようとしていた。信仰心を持てば客観性が失くなってしまう。また魔法の種類は識っていても使うことに興味はない。魔法には対価が伴うからだ。ブッチャケ人を死から蘇らせる魔法はあるが一人分の命を支払わなくてはならないということ。実に合理的だ。夏樹には対価を払ってまで得たいモノは今の処無い。
「なにもキリスト教に入れと云ってるワケじゃない。常に敬意を払えと云っている。それは言葉でも文章でも出来るはずじゃろ」
 反論しようがない。確かにキリスト教に敬意を払ったことは一度もない。
「はいよく分かりました。確かに何事にも敬意は必要です。これからは充分に注意を払うようにします」
 裕子はニコニコしながら熱燗を取りに台所に。それを見てからこっそりと、
「ちょっと聞きたいことがあります。ご老僧は加持祈祷を操るにあたって対価を払いますか?」
「加持祈祷? はは、ワシは加持祈祷なぞせんよ」
 老僧はあっけらかんと。
「物事を感じるままに言葉にする。それがたまたま当たっているだけじゃよ。若い頃、僧侶のかたわら仏師(仏さまを樹から彫り上げる)をしておってな、自然と彫る仏たちと会話が出来るようになった。摩訶不思議なことよのう」
 それはまるで魔女のようだ。魔女は人里離れて自然と共に暮らし薬草の煎じ方から自然界の法則まで学んだという。魔女のことを英語で「WITCH」という。これは「WIT」「WISE」(機知・知恵)の語源とされる。
「ご老僧、加持祈祷術はあるんですか?」
「うん、ある。ひたすら神仏を敬いその理に近づこうとする行(ぎょう)じゃよ」
 すっかり心を見透かされているよう。
 老僧が帰ったあと、
「なんだ、知ってたのか?」
「そりゃ分かるわよ。わざわざ訪ねて来た人も居るのよ。ビックリしちゃった。魔法の会々長のお宅ですか? なんて聞くんだもの。いえ知りませんて答えたら、ここに間違いないんだけどなって。若い大学生の二人組」
 なるほど。出版社や会員からの情報を精査したのだろう。やはり隠し事は出来ない。
「なんでそんなことに興味があるの? 仕事も仕事なのに。もし知れたらクビじゃない? まぁその方が嬉しいかも」
 裕子は真剣だ。
「最初は子供の興味さ。でも立派な学問なんだよ。お前の云う通り本部に知れたら不味い。だからペンネームだしもう何十年も隠して来た。迷惑はかけないから大目に見て欲しい」
「もう調べたわよ。分かったけど。子供が欲しかたらお坊さんの言う通りにしてね」
 了解と答えたものの、すぐにキリスト教信者になれと云われても自信がない。信仰心かない。困った。

 夏樹は次の任務までに確かめたいことがあった。狭山湖と多摩湖には心霊スポットなるものが存在する。SNSで探せば必ず引っかかる。目当ては近在でも有名な深夜の十字路。そこは多摩湖沿いの国道を〇市から対岸に渡り切った最初の信号機のある交差点。今どき珍しい電話ボックスと公衆便所がある。夜半にもなると人影はまるでない。〇市の住民は立川や国分寺、吉祥寺に遊びに行った帰りに通ることになる。けど夜はあまりに不気味なので交差点の手前でわざわざ一端待機。青信号になった途端エンジンを吹かして一気に通過するそう。この十字路には長い髪の女の霊が出るらしい。夏樹の見立てでは「十字路の悪魔」。「十字路の悪魔」には二つの解釈がある。一つはその場所(十字はキリスト教のクロス)で約束の詞を口すると悪魔が現れる(悪魔を召喚する)。悪魔はその人の魂と交換に一つだけ願いを叶えてくれるというもの。あと一つは全世界を巻き込む特異な状態なことでこれは今回の事例には当てはまらない。

 夏樹は夜中一時過ぎに家を出た。通常勤務と裕子には言ってある。どうせそのま厚木基地に向えばよい。睡眠不足はあまり苦にはならない。三十分程で目的地。ホントに誰も居ない。

何か薄気味悪い感じ。点滅を開始する信号機にビクッと驚いてしまう。夏樹は愛車のM3を電話ボックスの脇に止め辺りを伺う。やはり誰も居ない。意を決して車から降り十字路の中央に立ってエノク語(キリスト教原始経典にある天使の詞)で「我は同胞として汝を召し給う」とつぶやく。十回ほど口ずさんだ時辺りの闇の中から影が動き出した。その途端「なんだよ、お前、怖がってんじゃねーよ」肝試しの若者グループが現れた。その声で影は闇に紛れてしまった。
「おいおい誰がいるぜ!」
 夏樹は急ぎ車を発進させた。姿を写真にでも撮られてネットに流出されてはたまったものではない。自分の体躯は特徴的だ。その筋に噂を立てられかねない。
 もうちょっとのとこだった。しかしあれはやはり十字路の悪魔。証拠にエノク語に反応した。悪魔なのに天使の詞に反応? と思われるかも。悪魔と天使は同じもの。神は意に沿わない眷属を堕天使とした。悪魔のはじまり。でも堕天使たちは自分が悪だとは思っていない。これは重要な概念。逆に言えば天使だからいつも正しいとは限らない。フランスの生物学者・哲学者、ジャン・ロスタンの名言に「一人殺せば悪党、百人殺せば英雄、何百万人殺せば神」がある。確かに神は「ノアの箱舟」の時に意に沿わない全人類を殺した。魔法・魔術は天使の術と夏樹は捉えている。それを人間が借りている。なるほどあのご老僧の言う通り天使の術を使うならば神を称えなければならないか。確かに。
 夏樹のM3はまだ暗い国道十八号を厚木方向に疾走する。

第十四章
 一度闘った疾病。全力で立ち向かった。けれど幸は自ら罹患することになり〇市民病院は集団クラスターの震源地となった。死者も二人出した。看護師長だった幸は辞表を提出した。それから半年行政はWITHコロナを宣言していた。VSコロナではない。だからどこで闘いが始まるか分からない。昨日さいたま市の中学校で三人のコロナ保菌者が見つかった。これは大変なことになると幸は思った。
 この疾病の隠されたトリックを身をもって知っている。幸は看護師研修生時代に光学顕微鏡で実際にウィルスを覗き込んだ。指導医の説明ではウィルスの大きさはアンタの髪の毛の八百分から一千分の一だそう。ソー言われても実感がわかない。全体が淡いピンクのゼリー粒で中ではナニカがクニュクニュ動いている。どう見ても頭が良さそうに見えない。よしゃいいのに生徒の一人が訊いた。「これって頭あんの? 」「お前の脳ミソよりは発達してるかもな」指導医の答え。一同大笑い。頭脳なんかありゃしない。本能で行動する。つまり増えたい増やしたい。そう問題はココ。
 子供たちは大概が無症状。普通の生活をする。家族は両親兄弟姉妹祖父母。家庭内隔離と簡単におっしゃるが日本の家屋事情では土台不可能。次に罹患するのは家族。今度は無症状では済まない。年かさが増すほど重症化しやすい。ウィルスとしてみれば最初に重症化させて罹患者を隔離されてしまうよりも無症状のまま世間に出されることを望む。脳が無いから考えてはいない。本能的な行動。これが幸には巧妙なトリックに見えてしまう。おそらくコロナ感染の無症状者が世の中にゴマンと居てウィルス君の子種をまき散らしている。今この時も。ウィルス君はアンタと違って疲れたと言って休みはしない。
 幸の不安は当たる。家族内感染が始まった。毎日百人近い罹患者数。埼玉県では県独自の緊急事態宣言を発出。けど医療体制が追っ付かない。ビジネスホテルをビルごと何棟も借り受けて何とか受け皿は確保したものの圧倒的な医療従事者不足。近隣の都県でも事情は同じ。人出は割けない。思い余って元前医療従事者を募集し始める。定年退職者や寿退社の連中。とにかく経験のある者は誰でも。幸にも声がかかる。一度は詰め腹を切らされた身。ひっかかるモノはある。それでも患者の命が大事。看護師として現役復帰と相成った。
「という訳で当分『健康相談所』は閉鎖ね。ごめんなさい」
「お母さんが謝ることじゃないわよ。それにしても一度は辞めさせたくせに勝手ね、役所のヤツ」
 梨恵はご立腹。
「あなたこそ檀家さん廻り気を付けてね」
「私は自分の命より相手の命の方が大事と住職になる時誓ったから。でも安心して。手洗いマスクなどきちんとするわ」
 なるほど。気持ちは分かる。看護師として患者に接する時も一緒だ。自分の命の保証など考えたことはない。
「私は一度罹かったから大丈夫よ」
 そうは云ったもののコロナに医学の常識は通用するのか自信はない。幸の仕事場は〇市桜木地区保健所。駐車場の仮設テントでコロナの検体採取。懐かしい顔と対面する。さながら同窓会のよう。
「一番危なっかしい場所に廻されたね」
 スッカリ太った同級生が舌を出した。防護服のフェイスシールドには汗がしたたっている。
 事件が起きた。悪化した患者の受け入れ先の病院が無いという。満床というヤツ。保健所の職員が泣きついてくる。旧知の間柄。十人もの空き待ち状態。近県にも空床はない。幸はじっくり考える。十人のそれぞれの容態を確認する。いま人工呼吸器が必要な患者はいなさそうだ。
「分かりました。一乗寺の檀信徒会館に全員搬送してください」
 幸は保健所の職員に言った。職員は意味がよく呑み込めない模様。病院じゃなくて寺とは?まだ患者は亡くなっていない。そうとでも言いたいのだ。幸はゆっくり事情を説明する。いま一乗寺で「健康医療相談所」を開設している。コロナ患者は大抵の患者と違い有効な措置方法が無いこと。(どこに運び入れても出来ることは替わらない) それに人出の無い境内だからきちんと隔離が出来る。
「あのう、でも大丈夫なんでしょうか?」
 職員の心配事は分かる。医療機関じゃない場所に患者を運び入れて責任を問われないか…だろう。
「私が責任を持ちます。市立病院の看護師長でした。悩んでいる場合じゃない。患者の命が大事でしょ!」
 職員は頷いて電話口に向った。
 それから大変な一夜がはじまった。一乗寺に続々と救急車が到着する。十人運ぶんだから十台。梨恵には電話した。緊急のことだし罹患が心配なので一乗寺の職員は檀信徒会館の一階には近づかないように念を押した。幸は市立病院から医療スタッフが来るまでの措置を檀家の街医者に要請。「これはエライことになった。ワシも現役復帰だ」と街医者は声を震わせた。
 檀信徒会館にベッドは二つ。残りはストレッチャーごと患者を運び入れた。パーテーションはたくさんある。十人分の仕切りを余裕をもって確保する。夜九時を回った頃に市立病院から救急車に乗って五人の医療スタッフが到着。ER用のCTまで持参。患者への措置が始まった。人工呼吸器は病院でないと使えない。だからそこまで重篤にならないまでの措置となる。
 幸と街医者は病院スタッフに引き継ぎ現場を離れることに。防護服は安全を考え境内から外に出て脱着した。街医者に丁重に礼を言い自宅に戻った。空とモモは寝たらしい。梨恵から電話が、
「どうダイジョブ?」
「いま帰って来たところ。それよりごめんね。お寺を病院にしてしまって」
「いいのよ。お寺はもともと病院でも在ったんだから」
 梨恵は若い頃に自分が愛した僧侶のようなことを言う。白神英海(梨恵の父)も確かに同じことを言った。あれは市立病院でターミナル病棟新設を二人で画策してた頃。患者さんに「病院に僧侶」という難題をふられて英海が話し始めた。
「寺名には院という処もあるでしょう。あれは病院という意味なんです。医学が未発達の頃の薬は薬草。それを煎じた場所が寺だった」
 翌日のメディアの取材で図らずも梨恵は父英海と同じ言葉を述べた。また「寺で教育を行えばそれは寺子屋という」と付け加えた。世間の評価は肯定派が占めた。ただ衛生上の危惧があると公衆衛生学者から指摘された。確かにトイレ、お風呂など病院並みとは行かない。あくまでも一時的な収容施設。それを寺が提供しただけ。それでも世間では画期的なことのようだった
 その日幸はまた〇市桜木地区保健所で働き夕食を食べに子供食堂に向った。空の姿もある。毎夜二人は子供食堂で夕食を採るのが日課となっている。夕食を食べ終えひとしきり友達と遊んだ空と一緒にデミオで家に帰る。疲れでぼんやりとした意識の中に「LINE」さんの姿を見つけた。井之頭公園で逢って以来のこと。空と一緒にオルガンの前で「パプリカ」を踊っている。梨恵の姿は見えない。居れば紹介したのに。
「え、梨恵さん、さっきまで居たのになぁ」
 空も分からないよう。
「今度私の家に遊びに来ませんか? 空ちゃんと一緒に。依織さんの住まいの近くです」
 ふいに「LINE」さんが。空が「行きたいー」と叫ぶ。それで決まった。今度の日曜日、詳しい場所はそれこそ「LINE」で教えてくれることになった。空は嬉しそうにまたダンスを始めた。その後台所の木本さんに挨拶しに行ったところで梨恵に出くわした。
「ああ、いま例の『LINE』さんが見えてるから紹介するわ」
 幸は梨恵を誘う。しかし広間には「LINE」さんの姿はない。たった今ここに居たのに。首を傾げていると、
「お母さんだいぶ疲れてるんだわ。だって私ずっとここに居るよ。いま木本さんと台所に居ただけ」
 そんなはずはない。いまそこで訪問の約束まで取り付けたばかり。心配されるだけなのでそれ以上「LINE」さんの話しはしなかった。すぐに戻って来るかもしれないし。けれどその晩はとうとう姿を見せなかった。
「ねぇ、空ちゃん。日川さんいつ帰った?」
 帰りのデミオの中で幸。
「えーずっと居たじゃーん」
 背筋が凍った。もはや「LINE」さんが実在するのかも怪しくなって来た。でも空はその存在を実証する。日曜に遊びに行くと約束したと主張する。一体どうなっているのか? でもまぁ訪問の折にハッキリさせればよい。証拠写真。お家をバックに三人で自撮りをポチ。それを梨恵に見せれば万事済む。なるほど。

第十五章
 梨恵の予想通りに妻の陽菜は嫉妬した。ほろよい気分で「白鷺神社」に戻ったのがそもそも不味かった。来年正月の七福神の会合でなんで酒を振舞われることになったのか?嫉妬はそこから始まった。無事に七福神行事を終えた後の慰労会でなら分かる。まだ打ち合わせの段階での飲酒はなかろう。清人は正直に話せとの梨恵の言葉を思い浮かべた。
「酒は七福神の会合で振舞われたものではないよ」
 ヤッパリと陽菜は睨んでいる。
「でどうしてお酒を飲むことになったわけ?」
 陽菜の追及はキビシイ。
「あ、最初は住職がコロナビールを飲み始めて僕はまだ時間が早いから断ったんだけどね…」
 話しがしどろもどろ。陽菜はいよいよ怪しみ始める。
「断ったけど結局飲んだ?なぜ?」
「それがさぁ。一乗寺財団で『緋河神社』を再建してくれるって言うんだ。ビックリだろう?」
 陽菜は首をかしげる。
「どうしてそんなに話しが飛躍するわけ?さっぱり分からない」
 清人はもはやこれ以上の話しは無駄だと思った。
「分かった。今度僕らが考えた『緋河神社』の建設予定地を住職に案内しすることになっているから陽菜も一緒に行こう」
 清人は真剣な口調で言った。ほろ酔いは消し飛んでいた。そこまで言われると陽菜も黙った。でもその晩の陽菜の機嫌は悪かった。夕食も焼きアジ一匹。むろんビールもない。床に入って陽菜の尻に手を出したが跳ねのけられた。
 さて、一週間ほど経って一乗寺の主との約束を果たそうと考えた。梨恵の名前は禁句。住職か主。清人は陽菜を呼んだ。
「これから一乗寺の住職宛にLINEを送るから確認してくれ」
 陽菜は画面を見入る。
「緋河神社にご案内の件、今度の日曜日の午後二時に竹中三丁目のファミマの駐車場でいかがでしょうか?」
 トークを送信した。五分後にトークが帰ってきた。
「はい分かりました。よろしくお願いします」
 すかさず陽菜にスマホを見せる。なにかマジシャンのような手さばき。種も仕掛けもナイ。陽菜は合格のサイン。笑った。
 良く晴れた日曜日に清人と陽菜を載せたビートルは待ち合わせ場所のコンビニに着いた。すでに白のプリウスが止められていた。車から梨恵が降りお辞儀をした。清人と同行の陽菜に何の違和感も見せなかった。たぶん一緒に来ると予想してたのだ。梨恵は紺のキャミソールワンピに白の長袖ロングシャツを羽織っている。陽菜は大好きなデニムのジャンパースカートに茶色のカーデ。オンナと言う生き物はよく分からない。姿を見ないうちは警戒しているのに会った途端に打ち解けてお互いの容姿を褒めあっている。どうなっているのか? 住職と高校教師とお堅い職業のせいもあって化粧もカラーも控えめ。陽菜の裸身を知っている分梨恵の方に視線が寄って行ってしまう。こらこら。これはオトコの本性。
「こちら同級生の白神梨恵さん。こちらも同級生の仙波陽菜さん。あれどっちも同級生か? 」
 ファミマで炒れたてのコーヒーを買い立ち話しで清人は付近の状況を説明する。ここから狭山湖までは百メートルほどで狭山湖畔に小さな祠がある。そこが湖底に沈んだ「緋河さん」の仮の住まい。湖底に沈んだ〇村には三百人ほどの住民が居て「緋河さん」が守り神だった。
「この近くに兄のマンションがあるの」梨恵が。
「へぇーお兄さん居たっけ?」
 もっともな話し。兄が居れば住職は兄ではないのか? 陽菜も関心を示す。
「あーどういえば、腹違いというヤツ。それについこの間コロナで死んじゃった。あれ知らない? 美園地区の「子供食堂」を主催してたんだ」
 清人と陽菜は目を丸くした。地方新聞に日参する参詣者の花束で埋め尽くされる墓誌が紹介されていたのを知っている。「コロナに倒れたスーパーボランティア」と紹介されていたように思う。
「そうだったんですか。じゃお墓は一乗寺に」
 陽菜が尋ねた。
「ええ、狭山湖が見渡せる一画に眠ってる」
 梨恵は墓の方向を指さした。
「なんか話しが暗くなっちゃった。いこうか」
 梨恵は歩き始めた。もちろん陽菜と梨恵が並んで清人が先頭になる。コンビニとラブホの間の道をしばらく歩くと急に道の左右の樹々が存在感を増す。鬱蒼とした森に分け入っていく感じ。
「こんなところにこんな道があるなんて、今まで知らなかった」
 梨恵は驚いていた。路面も舗装ではなくなる。実は狭山湖畔にはこのような場所が点在する。ひと呼んで「心霊スポット」がネット上で複数アップされている。清人と陽菜は歩きつくしている。毎年恒例の「狭山丘陵の自然を守る会」の清掃活動で。ただその頃は樹々が葉を落とす冬場。清掃しやすいから。緑の頃はこんなに不気味な感じになるんだと清人も陽菜も感じた。
「あれぇ」
 突然梨恵が素っ頓狂な声をあげた。前方に何かを見つけたようだ。
「人がいるんだけど。あれは母親と空ちゃん」
 清人と陽菜も目を凝らした。確かに百メートルほど先に二つの人影が。大人の女性と子供。しかも何かに座っているように不自然に腰をかがめている。けれど椅子はない。
 誰かと喋っている様子。三人は顔を見つめあった。一体なに? 梨恵はスマホを取り出し誰かに連絡をとっている。しかし相手は出ない。もう一回同じ操作を。またダメなよう。母親と空ちゃんに電話したが圏外で通じない。
 意を決してひと固まりになって歩き出した。何かは分からないが恐ろしさを感じる。鬱蒼とした森のせいなのか違うモノのせいなのか判然としない。三十メートルほどに近づいた。相変わらず二つの人影は空中に腰掛けたまま会話をしている。その時清人は視界の隅に「緋河さん」の祠を捉えていた。梨恵は大きな声で、
「空ちゃーん」
 と女の子の名前を呼んだ。何回目かでこちらを向いた。距離は十メートルほどに狭まっていた。となりの年配の女性も梨恵に気付いたよう。椅子(空中)から立ってまるでドアを開けるような仕草をしてから、
「梨恵じゃない。いま『LINE』さんのお宅にお邪魔してるの。アンタもお邪魔すればご紹介するわ」
 年配の女性はまるでそれが当たり前のような仕草。けれど女性の周りにはドアもなければもちろん家もない。第一空中に座っていた。喋っている相手の姿もない。
「お母さん、しっかりしてね。私には何にも見えない。見えているのは二本の大きな木の間に立っているお母さんと空ちゃんだけ」
「なにをバカなことを言ってるの」
 その瞬間周囲の空気が蠢いた。と三人は感じた。すると空が三人の前に進み出て謂う。モノローグ。

―私はヒカワヒメ。もうじきに大変なことが世界に起ころうとしている。けれど今のままでは私はあなたたちの力になれない。神は信仰してくれる人間が居なければ存在すら出来ない。私を助けて欲しい。

 いつもの空の声。でも小学生じゃ出せない威厳に満ちていた。
 五人は陽の当たるコンビニまで小走りに戻ってきた。誰に云われるのでもなく後ろを振り返らなかった。息が上がっている。
「一体何があったの?」
 梨恵が息を整えて訊いた。母親らしき女性にペットボトルの水を差し出している。女性は水を半分を飲み干し深呼吸を二度してから話しを始めた。死んだ息子にLINEをくれる「LINE」さんとのこと。今日は「LINE」さんに招かれてお宅にお邪魔した。息子と散歩に歩いた道だけどお洒落な白い建物のことは気付かなかった。美味しいお茶とお菓子を出されて聞いたこともない音楽に包まれてユメミ心地だった。空も同じ証言をした。梨恵も「LINE」さんに関して今まで聞いてたことを清人と陽菜に披露した。
「お母さん、その女性の名前をもう一度おっしゃってください」
 と清人。眼が真剣。
「はい。日川姫さんです」
 漢字も紹介した。清人と陽菜は顔を見つめ合う。
「それはヒカワヒメノミコト。(日河比売) 神様です。ヒカワヒメは出雲大社系統の神として知られうちの「白鷺神社」のご祭神・ニギハヤヒと同様水神で龍を操れます」
 梨恵は母親に清人と陽菜を紹介しここに出向いた経緯を話した。母親と空はポカーンとしている。謎が解けたという顔ではない。まだ夢の途中、放心状態、トッチラカッテいる。梨恵は今日はこれでと母親と空を急いでプリウスに乗せた。清人と陽菜に、
「じゃまた改めて連絡するね」
 プリウスを走らせた。
「ヒカワヒメは女性だったんだね」
 陽菜はぽつりと言った。清人も本物の神に出会ったことはない。今でも両腕が小刻みに震えている。陽菜は温かい左手を清人の右手に滑り込ませた。
「私たちホントの神に逢えたんだね」
 おおよそ神主の妻らしくないことを言った。
「そうだね」
 清人は妻の掌を握り返し改めてヒカワヒメの方角を見つめた。

第十六章
「あの夜はたまげたなぁ」
 と同僚の僧侶。
「わしゃあれから毎晩寝つきが悪うなっちまった」
 もう一人はぼやく。全員一乗寺の檀信徒会館四階に寄宿している。一階にコロナ患者が居るとなるとやはり寝覚めが悪い。あの晩は夜の八時過ぎてから騒ぎが始まった。門前にかなりの台数の救急車が耳をつんざくサイレン音を先導に花火のように赤色灯を闇に映して集まってくる。付近に民家はない。何事かと四人の僧侶が各部屋から四階の通路に飛び出してきた。通路の窓から下を見る。檀信徒会館の一階に救急隊員が患者を搬送している。それもかなりの人数。とその時志穂のスマホが鳴った。女主から、
「遅くにごめんね。いま市役所から電話があってね。コロナ患者が市内の病院には収容しきれないので助けて欲しいと要請があったの。だから檀信徒会館の一階を貸すことにしたわ。他の人たちにも伝えて。それと患者さんが居る間は非常口を出入り口にしてね。感染しないように」
 ようやく事情が呑み込めた。他の僧にも事情を説明する。「ええ、ここは寺かいな」とか「なんじゃそれ、聞いたことがないわ」などと一様に文句を並べてから部屋に戻って行った。
 志穂も当惑した。以前から一階は檀家相手の「健康医療相談所」になっていた。それにもちょっと戸惑ったが。今回は一夜にして病院に早変わりだ。この女主にはたびたび驚かされる。私たち僧は長い慣習から寺は静かな処という思い込みがある。ただ日本史を遡れば「本能寺の変」のように寺が騒動の種や主役になったことは珍しくはない。学校も病院もない時代に寺は自然に庶民の中心にあった。学問を教わり薬草を煎じてもらう。日常の一コマのように。この女主はどうやら寺を庶民の生活の中心に据えたいらしい。いつもの檀家廻りもその一環だ。当初は寺に女。どうせ「跡継ぎが居ない寺院の房飾り」と侮って軽く観ていた。けど近頃はなんだか女主へ気持ちがシフトし始めている。なぜ住職になったのか本意真意を訊いてみたくもあった。
 志穂の毎日には必ず妹・沙穂のスマホがある。地道にスマホにある約百人の連絡先に問い合わせるのが日課。もっと効率的に個別にメールとか一斉メールとか便利な手段も考えた。でも加害者に実の姉がアンタを探していることを悟られたくはない。逃げられるし証拠を消される可能性もある。ここは時間がかかっても一歩ずつが道理なのだよ。志穂はアマノジャクなところがある。普通は五十音順にあ行から始めればいいのに降順に始めた。でも成果が出ないので今日は真っ当な昇順にしてみた。それが大当たり。名前を見た瞬間に気付いた。この子は沙穂の佐渡島の友人。「磯島香織」志穂はハッキリ覚えている。電話はあっさり通じた。
「あれぇ沙穂のおネイちゃん。久しぶりです」からはじまってしばらくは故郷佐渡島の話に花が咲く。どうやら磯島香織も郷里を後にしているらしい。ようやく話しは沙穂のことになる。
「あれ今の着信沙穂の電話になってる?」
 今頃ようやく気付いたらしい。どうやら自殺のことは知らない模様。彼女は沙穂の幼馴染。ここは正直に話す。磯島香織はしばらく声も出せない有り様だった。どうやら泣いているようだ。嗚咽をこらえながら次のようなことを話した。
「沙穂ちゃん、ヘアサロンに勤めながら霊感占いのバイトをしてたんです。霊感に自信があったから。私の方はなんのとりえも手に職もないし六本木のクラブでホステスをしてました。沙穂ちゃん一度店に遊びに来たんです。その時たまたま今の『えにし』を起こした僧侶が居て紹介したの。その人も霊感があるみたいでスッカリ二人は意気投合したみたいだった。連絡先も交換してたみたい。
 私ちょっと心配だったんです。その僧侶はあまり評判がよくなくて。性格もお山の大将的な。しかもおカネがないんで他人に集っていたし。ごめんなさい。紹介した私が悪かったんです。でも沙穂ちゃん東京で一人で淋しそうだったから。お店で人間関係にも悩んでいるようでしたし。自殺ってその人のせいでしょうか? だとしたら私」
 また泣きじゃくり始めた。志穂はようやく手掛かりらしきものを見つけた。
「香織ちゃん大丈夫? 香織ちゃんのせいじゃないよ。沙穂はその時嬉しそうだったんでしょ。だったら香織ちゃんはイイことをしたんだと思う。私ね、自殺の動機を知りたいの。遺書もなかった。だからその相手の名前を教えてくれる?」
「はい、ホントにすいません。ハナムラリュウエンといいます。『えにし』の教祖です。連絡先はスマホを替えてしまっているようで分かりません」
 この時磯島香織は自分のオトコの名前を出せなかった。自分のオトコまでもが「えにし」いるとはとても言えなかった。罪悪感から。
 事実というものは探れば探るほど五里霧中に。ただ青天霹靂。パッと全貌が分かる時がある。その晩「LINE」があった。待ちかねていた人物からだ。名前は分からないので女主弟としてある。
「妹さんのことどこまで知ってる」
 返すトークに困った。依頼したことは沙穂が「教団えにし」に居るかどうかだ。
「てことは 居たんですね」
 磯島香織の話しにあった通り「えにし」に居た。
「うん で どうするつもり」
 トークに手間取っていると次に、
「正直に話してくれる」
 志穂は女主とのこともある。ここは正直にが得策だ。
「妹は春先に自殺しました その原因か知りたいんです」
 しばらくして、
「らしいことは分かった でも証明はムリ」
「疑ってるのは教祖ですね」
 今度は向こうが沈黙。
「考えさせて また連絡する」
 トークは終わった。たぶん図星だったんだろう。
 それから二、三日して突如境内の七堂伽藍のひとつ経蔵内部の片づけが始まった。七堂伽藍とは塔・金堂講堂・鐘楼・経蔵・山門・仏殿・法堂のこと。経蔵とは仏典を収める建物のこと。仏典は経典(釈迦の言葉)のほか戒律の書、仏教の研究書をさす。いわば寺院を寺院たらしめる処と言える。業者に依頼して建物中央に収まる仏典を仏殿裏にある宝物殿に移動する。二トントラック一杯ほどの荷物。女主はガランとした経蔵を見渡して曰く、ここを「健康医療相談所」とする。檀信徒会館は継続的にコロナ患者受け入れ施設に。現在の患者数は二名。しかしいつまた急増するかもしれない。僧侶の仏罰があたりゃせんかのう? との嘲笑の声には、
「み仏の心はそんなに狭くないわよ。それに衆生を救済するのが仏教の教えじゃないの? 」
 この問いには誰も応えられない。その通りだから。それから志穂を伴い裏山近くの七祠に向う。ここは神道の神様を祀ってあるところ。熊野神社、愛宕神社、伏見稲荷神社、諏訪大社、秋葉神社、富士浅間大社、加茂大社の木製の祠が等間隔に並べられている。志穂の荘厳寺にも愛宕神社と諏訪大社はあった。寺に神様とは神仏習合という概念によるもの。日本の既存の宗教、神道と仏教を上手く合体できないかとの考えから産まれた。実に合理的で寺院に行けば同時に神様にもお詣り出来る。一石二鳥なり。女主はこの場所を整備してもっと身近に参詣出来る場所にしたいらしい。今のままでは寺の奥に埋もれている有り様。み仏の後ろに神さんがいる状態。
女主は七つの祠を背に不思議なことを言った。
「この前狭山湖畔で神様にあった。ヒカワヒメノミコト。その神様に言われた。信仰がなければ神は存在できないって。あなたたちを救いたいから助けて欲しいと」
「その神様はどんな?」
「ごめん。正確には言葉を聞いた。知り合いの小学生の女の子の口を借りて。友達の神主によると水神、龍神とも言ってた。本来の神社は湖の底だって」
 女主の眼差しは何処か遠くを見つめていた。この女主なら神に逢っても不思議ではないと志穂は思う。
「だからヒカワヒメノミコトを祀る神社を造ろうと思ってる。いまはホントにちっちゃな苔むした石の祠しかなくて」
 志穂はなぜか佐渡島のトキを想った。絶滅危惧種。神もそれと同じなのか…。
 庫裡への帰り道。志穂は思い切って沙穂のことを話した。どうせ弟には知られたしこの人物は相談するにふさわしいと感じた。妹の無念を晴らす為に今ここに居ること、妹と「えにし」の関係、教祖との仲まで辿り着いたこと。(磯島香織という沙穂の幼友達の名をウッカリ出してしまった。梨恵は眉を顰める)さらに正直に弟さんが訪ねて来た晩のことも話した。女主は黙って聞いていた。
「それでか、ヨシミズどこかで聞いたことがあると思った訳だ。志穂さんには前から何かあると思ってたわ。だって珍しい尼僧さんだし。前には妹は美容師と言ってたわよねぇ。確かサホさん」
 女主は手早くスマホのメモを確認している。
「やっぱり吉水沙穂さん。彼女だった」
 志穂は怪訝な顔。
「あのね。私どうしても花村龍円のことが許せなくて実は怒鳴り込んだの。(『翡翠の瞳/Ambapali』が制裁を科したことは伏せた) アイツは伊藤英明似のルックスや霊感を持っていることで女の子を食い物にしていた。また加持祈祷術が出来ることで出来ない弟まで強請られっぱなし。とにかく品性にかける。性悪のけだもの。で今度は新興宗教と来た。どうせ弱いものイジメに決まっている。それでね、探偵を使って女関係を調べさせたの。そしたらあっという間に十八人の被害者が。それも若い女子ばかり。そのうち八人は花村の非道を暴く証言に応じてくれた。その中の一人が沙穂さんだった」
 志穂は初めて庫裡に入り女主の部屋で沙穂の証言録取を見せられた。
 証言録取はインタビュー形式で進められている。
―はじめに名前、年齢、住所、本籍を
 吉水沙穂 二十五歳 狭山市下新田一の五……佐渡市相生町三……
―花村龍円との出会いの時期、場所、経緯を
 六本木のクラブ「ジュジュ」(住所は分かりません)。友人の勤務先で誘われるままに行きました。花村とはそこで紹介されました。
―付き合い始める経緯を
 霊感占いをしてあげると私の手を取りました。私は即座に霊感封じを行いました。すいません。私にも霊感があります。花村はすぐに霊感封じに気付いて是非ウチ(教団えにし)で仕事をしないかと誘って来ました。アンタは綺麗だからすぐに稼げるし教団の幹部にも成れると。詳しくは池袋の事務所で話そうとその場ではそういうことに。五日後三月六日の夕方池袋の「エニシ」事務所を訪ねました。(志穂は年季の入ったマンションのことを思い出していた。やっぱり沙穂はここに居た) 花村は三四人の僧侶(私は寺の娘なので相手が僧侶だとすぐに分かりました)とやけに愛想の佳い三十前後の若い女の人と一緒でした。この女の人は「エニシ」の広報部長だと後で分かりました。この時は広報部長から教団に関する説明を受け書類にサインさせられました。仕事は信者への霊感占いです。私はその時すでに電話で「霊感占い」のバイトでしていました。内容は分かっていましたし月給制で三十万円も貰えるのでサインしてしまいました。金額に惹かれました。職業は美容師ですが手取りは半分です。別室に花村が待っていて夕食を一緒に。左ハンドルの外車に乗せられ新宿の高級ホテルへ。夜景が綺麗なラウンジでした。でも故郷の佐渡島と違って満天の星空はなかった。(沙穂はここで哀し気な顔をした) 花村は日本仏教の在り方やこれからやりたい事を熱く語っていました。何に恋したのか?今ではよく分かりません。彼のルックスだったのか、高級な車、豪奢なラウンジ、贅沢なお酒の味だったのか。(沙穂は溜息をひとつつく)その晩はホテルに泊まりました。
―裏切られたと感じる経緯を
 仕事は昼から夜八時までです。一日に二十人ほどです。十代から六十代まで。女性が大半です。(仕事の内容を教えてください)はい、恋愛や結婚、離婚といった男女関係のことです。相手の気持ちが知りたい。相手と別れたい。復縁したい。振り向かせたい。こう言えば笑ちゃうでしょうが相談相手は真面目です。ホントに悩んで悩んでほんのチョットのきっかけにでも縋りつきたい人々です。(それで正しい答えは出せたと思いますか? )霊感ですので心に浮かんだことを正確に話します。正しいかどうかは相手が感じることです。(志穂は頷いた)大体ひとり三十分から一時間くらい。控室に次の相手がいました。終わった人は別室に通されて例の愛想の佳い女性と男性の僧侶に教団への入会を説得されていました。(で勧誘活動は旨く行ってたと思いますか? )はい、毎日その日の集計を出しいて毎日記録更新だと全員でシャンパンを飲んでいました。(霊感占いをしてたのはあなただけですか? )いえマンションの別室で常時五六人でやっていたと思います。(沙穂は淡々と喋っている。チョット痩せたかと志穂は思う)花村とはその後も一週間に二三回食事を共にしました。食事の後に必ずセックスです。(ここでちょっと顔付が変わる) 嫌な出来事は月の終わり打ち上げと称する宴会でのことです。マンションの一室で七八人がシャンパンを煽っていました。信者数が五千人突破と騒いでいました。花村も居ました。女性は私と例の広報部長だけ。少しシャンパンを飲んだところで急に意識が飛びました。大丈夫?と広報部長に言われたこを覚えています。朦朧とした意識の中でオトコの性器が顔を撫でまわし口の中に入って来ました。嫌でも動けません。何か催眠術にかれられたような。胸や陰部にも複数の手が伸びて来ました。しまいには奇声を挙げて私を腹ばいにし中に突っ込んで来ました。果てるまで腰を突き上げられ終わるとまた次が。そんな在り様で……(下を向いて吐きそうな気配) あとで「媚薬」と称する幻覚剤の一種と分かりました。あの人に止めさせてと訴えたのに。私を見て笑ってました。(分かりました。もう結構です)
―証言録取に同意した理由を
 しばらく家から出られません。半月経って身体に変調がありました。まさかと思い妊娠検査キットを試しました。結果はサイアクでした。私の頭はグチャグチャになりました。「教団えにし」からは見舞金なるモノがいつもの口座に五十万円振り込まりていました。それだけ。(沙穂は二つ目のため息)
 録取はここで終わっていた。
「志穂さん、大丈夫?」
 女主は気遣った。志穂の両手は小刻みに震えていた。血の気が引いて青ざめていた顔は次第に紅潮する。物凄い怒りが込み上げて来た。
「私。ワタシ。絶対に許さない!」
 普段の志穂からは想像を超えた迫力。女主も驚いたよう。けどすぐに落ち着いた声で、
「どうするつもり? この証言録取を証拠に裁判に持ち込んでもいいわよ。けれど沙穂さんは亡くなっているしおそらく三年経っても決着がつかず裁判所から和解を勧告されると思う」
「そんなっ、だって、このビデオが何よりの証拠で、あまりに沙穂が可哀想で」
 志穂は怒りでオーバーヒートしている。
「よく聞いて頂戴。これは被害者の証言で裁判に勝つには事件を実証しなくちゃならない。現場のビデオでもあれば別だけど。そんなものは出て来るはずないしね。教団は被害者の妄想だと主張する」
 志穂は理解できない。ワルイのは向こうなのになんで泣き寝入りしなきゃならない。
「結論はあとでいいのよ。志穂さんよく考えてみてね。私はあなたの考えを尊重する。約束するわ」
 女主は続けた。
「本当は八人の証言録取を元に裁判を起こすつもりだった。でも裁判では勝てないと弁護士に言われた。いま考えると不謹慎だけどその時はこうも思った。コロナ禍のこんな大事にいち早く僧侶が厄災に立ち向かう姿を見せたとね。それに救われた人も確かに存在する。悩み事を持たない人は居ない。人間の存在証明のようなもの。たまたま選んだ救済の場が『えにし』だっただけ。救われた人は間違いなく『えにし』に援けられたと云うわ。決して間違ったことではない。それなりに正義はある。まぁ意見はさまざまだけど。問題は被害に遭った人たちへの救済。それだけは私、約束するわ」
「それから弟のことは任せて頂戴」

第十七章
 最初は漁師同士の小競り合いかと思った。いつもより大規模だけど。
 十月〇日。台湾海峡の台湾が実効支配している「馬祖島」(列島)と東シナ海の日本が実効支配している尖閣諸島魚釣島付近でそれぞれ中国の漁船が船団(百艘規模)を組んで不法操業を開始。馬祖島の漁民と石垣島の漁民が抗議をはじめる。怒声、海水放射、船をぶつけるなどの行為を確認。台湾、日本両国の海上警察の巡視船が現場に駆け付ける。大体はそれで収まるもんだ。だが今回はただの漁船ではなかった。漁船はカモフラージュ。船は中国人民解放軍の「上陸用舟艇」で漁民は兵士だった。巡視船は間に合わなかった。あっという間に両島は人民解放軍に占拠された。掃射、砲撃などの軍事活動は一切なかった。数で圧倒された。ほどなく同軍巡洋艦、潜水艦が両島の周囲を取り囲む。戦闘機は隊列を組ん両島上空を飛行する。同日夜のこと。中国人民共和国は「馬祖島」と「尖閣諸島(魚釣島、南・北小島を含む)」の領有を宣言ならびに以降の中国の領海への侵入は国際法違反、断固処断すると言い放つ。
 自衛隊は手も足もでなかった。中国が武力攻撃をして来ないから反撃ができない。日本の国是は専守防衛。即刻外交問題にする。日本・台湾は後ろ盾のアメリカを介して国連の安全保障理事会の緊急開催を要求。本会議で中国の領土略奪を批難する。が中国・ロシアがこれを認めない。元々領土問題が存在した地域だったと主張する。結果「批難決議」のみに留まる。やったもん勝ちということ。
 沖縄本島は目と鼻の先。自衛隊は沖縄の勝連基地と那覇基地に西部防衛区域に属する各基地から戦闘機を配備。イージス艦十艘を中心に護衛艦三十五艘も沖縄近海と日本海に配備。頼みのアメリカ海兵隊は? コロナ禍にあった。沖縄の各キャンプや嘉手納ベースで蔓延している。よって海兵隊の機動性が担保出来ない。それにやはり他人事。アメリカ本土が危ない訳でもない。どこかノロい。計らずも日米軍事同盟の実効性の欠如が露呈されることに。
 こうなると「第一列島線」などと騒いでいた頃がいまは懐かしい。中国の潜水艦は続々と五十艘あまりが深海の拡がる太平洋に蠢きだす。台湾空域ではすでに戦闘が開始。頼みの米国第七艦隊の空母「ドナルド・レーガン」はグァム経由で台湾に近づいたものの戦闘機パイロットがコロナ罹患で出撃出来なかった。中国は全世界を覆う疾病を巧みに利用した。そうとしか思えない。栄光と威厳に満ちたアメリカ海兵隊は完全に機能不全に陥っている。
「空佐、一体どうなるんですか? アメさんですよ。やる気あんですかね?」
 二等空尉が怒鳴る。
「所詮他人事だよ。前から分かってたじゃないか」
 いくらコロナ禍といっても本土からいくらでも交代要員を送れるだろう。夏樹はMAD(磁気探知装置)に張り付く。先島諸島を取り巻くように中国「094型原子力潜水艦」がウヨウヨいる。つい先日まてこんな状況は予想だにしていなかった。これではイージス並びに護衛艦が危ない。目まぐるしく探査結果を拾い上げ「イージス艦まや」に報告する。「まや」はリアルタイムで情報を我が軍および米軍に発信する。ただ太平洋上での情報収集活動には不慣れ。水深があり過ぎる。三百メートル以上潜られると精度がグラつく。夏樹の額には大粒の汗がしたたる。
 米国国防長官は日本時間早朝に中国に対して「最後通牒」を発出していた。西表島に手を出したら武力攻撃すると。夏樹は西表島の現状にも気を配っていた。尖閣のすぐ隣。間違いなく手を出すに決まっている。今回の軍事行動は沖縄本島を占領するまで終わらないと夏樹を見ていた。昼過ぎ最悪の情報が入った。西表島に敵「特殊潜航艇」が多数接岸。アメリカ海兵隊は普天間基地より攻撃ヘリコプター「AH-64 アパッチ・ロングボウ」を投入。空から誘導ミサイル、機関砲で迎撃に入った。その上には空中戦に備え嘉手納基地所属のF16が旋回する。ただ人民解放軍は数に勝る。破壊しても破壊してもまた「特殊潜航艇」が上陸する。三時間で西表島は陥落した。手も足も出なかった。民間人を巻き添えにするため巡行ミサイル「トマホーク」も各種ロケット弾も使えなかった。離島や泊地襲撃には中国軍は勝っていた。
 自衛隊はまたしても何も出来なかった。
 同日同刻、中国軍は台湾南部に点在する島々に「特殊潜航艇」部隊を展開。アッと言う間に占領。ここでも同じことが起きた。台湾軍がいくらミサイルやロケット弾で攻撃しようと占領するまで量の攻撃は続いた。次はいよいよ本土上陸。台東、台中を伺う。夏樹たちは昼過ぎに対潜哨戒活動を後続機に移行し一旦那覇基地に戻った。その晩再度国連の安全保障理事会が開かれた。結果は前回と同様。中国は領土問題の解決を図ったと主張する。台湾が議題に上がる。しかしこれも中国の領土と撥ねつける。「一つの中国」。これは国際的に認知されている考え方。また世界の人には沖縄周辺の小さい島々のことには関心がない。結果またしても中国への非難決議だけで終わった。
 台湾は長年中国への併合を歓迎する国民党と独立を叫ぶ民進党がしのぎを削って来た。この時とばかりに国民党が中国を歓迎すると叫び始めた。闘いは無駄で国民を流血の惨事に巻き込むだけだと主張する。国民も今の生活を戦禍で壊されたくはない。徐々に国民党の声に耳を傾ける。 
 日本国内ではバッシングの嵐が巻き起こっている。現政権と自衛隊、米軍への非難の暴風。「今まで貴重な血税を国防費にあてて来たのに何も出来ないではないか?」「日米軍事同盟はどうした?」沖縄県民はたまったもんではない。また戦争の犠牲になるのか。焼け落ちた首里城を背景に使うTVまで現れる。中国はSNSを駆使して県民の恐怖心を煽って来る。メディア操作というヤツだ。情報戦争のカギを握る。最終的には県民に無条件降伏をさせる。賢いやり方。
 妻の裕子からは連日夏樹の身を案ずるLINEが入る。「私お寺に勤めているのに今日はじめて本尊にあなたの無事をお願いしたの」その言葉はさすがに堪えた。同時にあの老僧の言葉が脳裏を過った。「神さんの道理を弄びながら、神さんを信じなきゃいかん」夏樹は今回の有事では毎日「厄災除けの魔法」をかけてから任務に就いていた。そうか。魔法は神を信じければ効かないものなのか。
 予感は当たった。哨戒機が被弾した。突然空士が叫んだ。左翼後方二十マイル敵戦闘機J20二機です。音速で飛ぶ戦闘機はすでに真下にいる。ロックオンの警報はない。が突然尾翼の下部機体に被弾した。機関砲の掃射を受けた。今は有事。以前のような平和的交信は通じない。機体は大きくブレ始めた。たぶん尾翼にも直撃したのだ。
「減速して高度を下げろ。付近のF35に来てもらえ」
 夏樹は叫ぶ。石垣が目視された時に敵機は離れて行った。一気に緊張が緩んだ。哨戒機は無事に帰還できた。降りて被弾跡を見た。尾翼が大きく曲がっている。もう少し角度が下だったら翼内の燃料に引火する処だった。
「危なかったっすね」
 空士が見上げながら。パイロットを含めて七人のクルーは皆頷いている。この被弾事件以降の哨戒活動は停止された。無人偵察機RQ-4グローバルホークがその任に就くことになった。夏樹たちの任は解かれ厚木基地への帰還命令が出た。
 翌日満を持していた北朝鮮が38度線を越境、韓国に侵攻を開始。当初こそ戦闘が興ったがソウルは目と鼻の先、北朝鮮側に人口密集地へのミサイル攻撃を開始すると言われ手も足も出ない。同時にピョンヤンへミサイル攻撃開始とけん制するもののそこは体制の違い北朝鮮は恐れない。やるならどうぞという訳だ。戦線はジリジリと韓国側に後退していく。また沖縄県議会では単独で中国との和平交渉を開始しすべしとの意見が大半を占めた。先の大戦の戦禍に喘いだ沖縄は二度と同じ轍を踏みたくはない。中央政府が日本から中国に移ったとしても街中を瓦礫の山とするよりはマシ。もともと大和民族ではない。中国とも親しかった歴史がある。
 日本政府は窮地に陥っている。交戦派と和平派。世論は真っ二つに割れた。中国は共産主義国家。人民の意見は政府に吸収されてしまう。米国がトマホークを北京に打ち込むと脅しても超然としている。同数の弾道ミサイルを東京に放つと外務省の報道官は余裕の笑みを浮かべる。こうなるとロシアの動きも気になる。コロナ禍で機能不全の米軍を目の当たりにした。当然出るべき行動にでる。東欧諸国への軍事侵攻の気配。時間の問題だ。世界は第三次大戦に入りつつあった。
 夏樹はふた月ぶりに我が家に戻った。裕子は持っているオタマをその場に落とし夏樹に抱きついた。
「よかった。無事で。ご本尊のお蔭だわ」
 すっかり仏教徒になっていた。子供たちの頭を優しく撫でると不甲斐なくも身体から力が抜け床に両膝を落とした。
「あなた。早く入れてよ」
 裕子が風呂場で裸のまま夏妃を待っている。そうか今は手持ちのミサイルを使う時か。裕子は射精を拒まなかった。理由は分からない。
 深夜、夏樹は自室で久しぶりに「結城大樹」となり「魔法の書」を手に取った。夏樹は「十字路の悪魔」を思い浮かべた。この前は多摩湖のほとりで悪魔を待った。けれどこの「十字路の悪魔」にはより壮大な意味が込められている。それは新約聖書の最後の一書「ヨハネの黙示録」に暗示されている。魔法ルシフェルは四人の騎士を従える。支配、戦争、飢饉(貧困)、疾病の四騎士。この騎士たちが交差した(十字を描く)その地点に魔王は現れ未知の大厄災をもたらすと。中国からの支配、中国・北朝鮮・ロシアからの戦争、コロナ禍、世界中で蔓延する貧困。もはや四騎士は揃ったのではないか。やがて魔王は出現する。対抗する武器はあるのか? 相手は死を超越する存在。人類最終の武器は? それはやはり「神」?。

終 章
 二人は昼食を共にという約束で湖畔の白くて可愛らしい「LINE」さんのお宅にお邪魔した。リビングに通され十種類ほどの見事な料理(名前は分からない)と香しい(経験のない味)お茶をご馳走になった。空は足元に雲が見えたという。雲の隙間からは海が見えたとも。「LINE」さんの衣装は真っ白なロングワンピで胸に紫色の華が一輪刺繍されていた。実に艶やかだった。梨恵の車から一乗寺の庫裡に戻った二人はこう証言した。眼をパチクリさせながら。
 この出来事には深い意味があった。ヒカワヒメは「LINE」さんに変じて我々に助けを求めた。我々とは依織の始めた「子供食堂」の関係者と神社の再建を願っていた神主夫妻。ヒカワヒメの最後の信仰者とは依織のことではないか。「緋河神社」の祠と依織の住まいは近い。幸によればいつもの散歩コースだったらしい。ヒカワヒメは依織に自分の復活を託した。
 因縁。あらゆるものが因と縁とによって生まれ壊れる。仏教では因縁生 (いんねんしょう) という。ヒカワヒメと依織はどこかで結び付いていた。人間の死は完結とは言い難い。依織の死は縁を呼び私たちをヒカワヒメに引き寄せた。梨恵はジッとしてはいられない。清人に連絡し「緋河神社」再建を急がせた。理由は「大変なことが起こり」「それを助けるために復活したい」と神が願ったから。大変なことはもう起こっているかもしれない。清人も迅速に動いた。「緋河神社」の当時の写真を手に入れご神体(アメジストだそう)も探しあてたと知らせを受ける。ことは急を要した。
 これとは別に梨恵にはやることがある。弟トモマサの処遇。志穂のこれからの行動は志穂が決めること。問題は弟のお相手と志穂の妹が幼馴染であったことだ。志穂が思わず漏らした言葉にドキリとした。トモマサのお相手が志穂の妹を「教団えにし」へ導いていた。「翡翠の瞳/Ambapai」が教祖に制裁を科したがそう簡単に信仰は消えない。純粋に教団に縋っている人も多いのだ。幸いにも仏教教団。いつか信仰を教祖から本来のみ仏に変じて貰いたい。遠い昔ゴータが支配宗教バラモンと対立していたことを思い浮かべた。これは長い闘いになる。だから早く弟を教団から引き離したい。その為には磯島香織の力が必要だった。
 梨恵は磯島香織に手紙を書いた。住所は弟の荷物の配送伝票から探した。
 手紙を投函した後に弟に電話した。弟はすぐに出た。教団の塒に戻る前に駅前のファミレスで食事を摂っている模様。花村と対決するために教団に向った時のことが鮮やかに思い出される。そういえば駅前にロイホがあったっけ。
「ねぇトモマサ、新潟の「大聖寺」に行く気はない?」
 大聖寺は〇宗の東北北陸地区随一の大寺院。先月住職が大往生し代表職が空位となっている。住職には子が無かった。弟は急な申し出に頬張っていたナポリタンを喉に詰まらせたようだ。咳き込んでいる。

  ☆       ☆

 一乗寺檀信徒会館一階の緊急用仮病床はまたぞろ満床となった。各病院の病床に空きが出ない。治療用の機材は市立病院から運び込まれたままになっていた。また住職梨恵の計らいで一階の半部が滅菌室に改築されトイレも風呂も追加設備された。まるで市立病院の附属病院の呈だ。コロナ禍の果ては見えない。
 「健康医療相談所」も寺の伽藍のひとつ「経蔵」(寺院の核心)を改修して新たに始まる。檀家衆がまた集まりだした。病院はコロナで怖い。ここが安全というわけ。長く使われていない建物だったためかチョット湿気が気になる。
 子供食堂は閉鎖に逆戻りした。梨恵は宅配で各家庭に食事や食糧を配布し始めた。学校もオンライン授業を取り入れ始めた。梨恵は端末タブレットを貧困家庭に配布する。教育の遅れ・不平等はあってはならない。

  ☆    ☆

「どうするつもり? 」
 女主から言われた。手っ取り早いのはライフル銃で遠くから花村龍円の頭を狙う。ズドーンとそれで終わり。でもライフル銃がないし志穂には扱えない。刃物で腹を刺すのはどうか。尼僧姿だから不審がられず柳葉包丁が調達できるだろう。問題は花村龍円の近くまで辿り着けるだろうか?自信はない。程遠い処で押さえつけられれば志穂だけ傷害未遂罪で捕まる。リスクが高い。やはり私にはこれしかないだろう。
 それは「呪詛」。〇宗秘伝の加持祈祷術の一つ。仏の道に外れる外道。なぜなら相手を呪うなど神仏にお願は出来ない。だからお願いするのは悪霊。悪霊を呼び出し殺人を依頼する。未経験のこと行程は見えない。沙穂の悲痛な顔が思い浮かぶ。絶対に仕返ししてやる。
 志穂は場所探しから始めた。一乗寺に迷惑は掛けられない。近在の住職の居ない寺がよい。本堂は広いし加持祈祷にはうってつけ。日取りは何時にするか? 一番近い仏滅の日を選んだ。躊躇いはない。沙穂が亡くなってから人生に当てがない。その場しのぎで生きているに過ぎない。悪霊と言えば深夜。こっそりと檀信徒会館を抜け出す。もう戻れないかもしれない。念入りに掃除をした。女主宛に顛末書も遺した。また父宛の遺書も添えた。
 深夜のお堂。九字(臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前を叫びながら所作をする)を切る。悪霊降臨の祈祷をする。古い本堂の板壁が揺れた。
「権中将藤原在良であーる」悪霊は名乗る。
「何用? 」志穂は祈願を述べる。
「委細承知。我が身の魂と引き換えと存すべし」悪霊は消えた。
 願いは聞き届けられた。ただ志穂の魂と引き換えだそうだ。覚悟の上のこと。あくる日けたたましい警報音の後にテレビ画面に白抜きのテロップが流れた。
―「教団えにし」の教祖・花村龍円氏(三十九歳)が何者かに腹を刺され、死亡。
 やった! 悦びもつかの間、志穂は自室で意識を失い倒れた。

  ☆     ☆

 仙波清人は陽菜を伴い「緋川神社」の魂入れに向う。新神社建設は案外容易かった。旧村民の中に神社の写真を多数保管している者がいた。写真を元に忠実に復元することになった。コロナ禍のこと宮大工も暇だったのだろう。人出は易々調達できた。「地鎮式」から三か月の突貫工事。杉の香りが遺る白木造りの本殿に入る。ご神体の「アメジスト」を中央に据える。神社が湖底に沈むに当たり神社本庁がご神体を魂抜きをして大事に保管してあった。今回は許可のうえそれを頂戴してきた。「アメジスト」は人の拳の大きさ。神社の縁起によると平将門の乱(十世紀関東中心に起きた武士による武装闘争)で折焼き払われた大地に突然天から降って来たとされる。神々しい輝きを放っていた。付近の住民はこの「アメジスト」を祖先信仰の祠に収めた。それが神社のはじまり。その後この地域には何の厄災も起こらなかったと謂われる。

 清人は用意した祝詞を読誦する。代々の神の威光を称え天地創造の感謝を伝え本神・ヒカワヒメノミコトをお迎えする慶びを表する。以降子々孫々に至るまでのこの地の平和繁栄を請い願う。祝詞が終わって二礼二拍手の後に「アメジスト」が僅かながら輝いたのを清人も陽菜も目撃した。ヒカワヒメノミコトは蘇った。境内に集まった旧村民も一斉に恭しく頭を垂れる。     

  ☆     ☆

 根深い貧困、さらにコロナ禍による疾病が加わり、いまや第三次世界大戦の一歩手前まで来ている―「施無畏」を誓った私は一体どうすれば。
 その夜ユメをみた。「LINE」さんの白い瀟洒なお宅に招かれた。空の云う通りに足元には雲その下には海が見えた。私は宙に浮いている。なんとも気持ちが佳かった。眼を閉じてリラックスして、これから貴方を古い仲間の元へ連れて行きます。そう謂われ、二三秒後ろに吸い込まれる感覚があった。促されるままに眼を開けると、そこは赤茶けた砂埃舞う不毛な大地。一頭のロバが荷車を引く。五つの人影が従う。女も一人いる。(あれはシャラの花・ウッパラバンナー。そうだ、確かに私もこの中に居た) 誰もが泥土で髪から粗末な衣服そして裸足まで薄汚れている。やがて石積の城壁を抜ける。(あれ? あの人は何処? いつも荷車の左脇に居た) ロバが広場で止まると一人の人物が荷車に乗った。同時に大勢の子供たちが口々に「ゴータ! 」と叫んで集まって来る。荷台から子供たちに食糧と飲み水が公平に分け与えられている。子供たちの瞳は安らぎに溢れている。(この瞳は食堂の子供たちと同じものだ。ゴータは私に何かを告げようとしている。が聞こえない。何とももどかしい。もっと大きな声で叫んで! )
 翌朝、寝室でまどろんでいると、スマホが鳴った。清人から。
「梨恵、テレビ見て。戦争が終わってる。っていうか最初からナイよ」
 清人の声は震えている。梨恵は慌てて早朝各局のニュース番組を観る。ここのところ大半の時間は中国からの侵略戦争、第二次朝鮮戦争、ロシアの東欧侵攻などの戦禍とあいかわらずのコロナ禍で費やされる。でもこの日はコロナ禍だけだ。特集は「コロナ禍での初詣対策」手早くスマホでニュースを確認する。これにも戦争はない。次はSNS。「徹底抗戦すべし、大和魂、日章旗」などのフレーズが溢れかえっていた。けれど何もない。「ハウステンボス光の王国」「クリスマス・イルミならカレッタ汐留」人目を惹くインスタ映え写真が続々。第三次世界大戦は消え去った。梨恵は涙が出て来た。これが本来の日常なんだ。    

 志穂はどうした?
 もしや。梨恵は檀信徒会館一階の滅菌室に駆け出す。COOとリンも続く。志穂は意識が戻らず脳外科医の診断では植物人間状態。回復の見込み零。
 急いでドアを開ける。幸と志穂が手を繋いでいた。志穂は生き返った。二匹が志穂の膝に飛び乗った。幸によると早朝立ち寄ったらベッドに座っていたそう。キョロキョロと辺りを見回して「自分は佐渡島の僧侶です。ここは何処ですか?」
 と真面目に尋ねる。
 その晩、志穂のスマホに沙穂から電話が入った。もちろん沙穂のスマホは手元から消えている。元気そうな声で「正月は一緒に佐渡島に帰ろう」と話し合う。仲良し姉妹が戻った。 
「教団えにし」の教祖花村龍円は復活した。死亡した事実は消えていた。昨日までは凶刃に倒れた宗祖だったのに。でも志穂も沙穂も何も覚えていない。二人は「教団えにし」とは何の関係もなかった。それならそれでいいさ。
 毎日の墓参。今日は亡き兄に悦びの報告がある。戦争が無くなった。「ヒカワヒメ」の御業だろう。本当に有難い。足元に三匹のワンコたちと背後に蒼井空が続く。狭山湖が見えた。とその時声がした。梨恵、COO、リン、モモが驚いて振り返る。
 蒼井空が謂う。モノローグ。(声の主はゴータと名乗る。そうか、あのユメの中で私に何かを告げようとしていた。ぼんやりした意識空間に3Dプリンターが実線を刻んでいく感覚。出現し始めた人間のことを「LINE」さんは釈迦と呼んでいた。私は二千五百年の時を経てゴータに邂逅したんだ)

  小指ほどの水 ひとかけらのナン 施しは幾多山より重し
  病は癒してみせる 支配は受けぬ 殺すな ヒトであれ 
  明日を見よう 大地と共に我は在る

 地獄の四騎士(疾病・戦争・支配・貧困)が姿を現した。魔王ルシフェルは現れる。けれどそれはゴータが生きた時代と同じだ。ゴータは命を賭して魔王に立ち向かい弱者を救った。
 それは現存するあまたの経典より重い詞、生きる釈迦の詞。 

おまけ
 処は替わって新潟「大聖寺」の境内。知正が履き掃除をしている。山門をくぐる人影が。磯島香織が赤ん坊を抱いて近寄ってくる。先日知正の姉の梨恵から手紙が届いた。カラ威張りした「テディベアのテッド」がモチーフのレターセット。笑える。
「知正には人の哀しみとか苦しみを推し量れないところがあります。それは寺でか若として育てられたから。もともとは気の弱い優しい子です。今回も香織さんのやるせない気持ちを理解できない。この前お説教したわ。アンタはバカだってね。知正は新潟の大聖寺に居ます。佐渡島まではフェリーで四十分よね。娘さんと一緒に行ってあげて。悦ぶと思うわ」
 「名前は彩といいます。よろしくね!」
 磯島香織が言う。
 「そっか、彩か。いい名前だ」
 知正は赤ん坊を愛おしそうに胸から頭上に抱きあげた。
 遠く佐渡島を見渡せば大空に二羽のトキ。
 
 真っ青な空をどんどん駆け上って往く―― 

 第二部 おしまい

(この物語はフィクションです。登場する人名・組織名・地名にモデルはありません)




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