第1話

文字数 11,506文字



 あらためて頭上の派手な電子看板を読み直す。
 俺はミアリアの自動貸し出し機の前に立っていた。高さ2m、幅70cm、奥行50cmほどの大きさの機械で、最上部の多指向広告がどの角度から見てもまっすぐ訴えかけてくる。
 このところ幾度この看板を見つめ、うなり、ため息をついたことか。

 実は10年近く前、社会人3年めのときにも猫型ロボット(キャティオイド)をレンタルしたことがある。子どもの頃実家で飼っていた亡き愛猫くーこの面影を求めたのだ。
 ところがそれは本物の猫にはほど遠い代物で、金と時間をドブに捨てたようなものだった。
 あれ以来この手の物には手を出すまいと決めていたはずだった。
 だが今回は無料であることと、「今度のミアリアは凄い!」との噂に心を動かされていた。
 キャティのお試しレンタルのいまどきの相場は、1日3,000円、1週間なら1万3、4千円といったところだ。それをあのミアリアが1日無料とは、キャットロニクスもよほど自信があるのか……。
 ただこういったキャンペーンの常として、“一人1回”ルールの厳正化と今後のサービス向上のためと称し、個人情報の登録を求められるという点がどうも引っかかっていた。

 ナツミにも、ミアリアの話題を何回か遠まわしにふったことがあるが、いつも単なる世間話に終わっていた。
 しかし昨日やっとの思いでお試しレンタルについて正直に相談したところ、
「そんなに気になるんなら試すだけ試してみれば」
 との彼女のあっけらかんとした一言に背中を押され、今日ここに来たのであった。

 1歩前に出ると、
「いらっしゃいませ。IDの登録をしてもよろしいでしょうか?」
 女性の声が尋ねてくる。
 一呼吸おいて俺は、
「はい」
 と答えた。意思の確認とともに声紋チェックも兼ねているはずだ。
 目の前に下りてきたセンサーがチカッと光る。
 こうしてまた一人の猫好きの個人情報が、キャットロニクスのデータベースに蓄えられることになる。3,000円をただにするだけの価値はあるのかもしれない。
 ガイダンスに従ってチップをスロットにさす。チップには、くーこの画像・映像・音声記録と、性別・サイズ・体重・性格等のデータが入っている。

 最近のキャティオイドは、最初に見た人間を親と認識するインプリンティング機能と、普通の猫と同じ食料から動力と“体温”を生み出す疑似生命エネルギー代謝(P L E M)システムを一様に備えている。
 しかしこのたびミアリア3000に新たに搭載された二つの機能は、他メーカーの類似品や、キャットロニクスの従来品・ミアリアⅡをもすっかり時代遅れにしてしまったともっぱらの評判だ。
 一つめは、飼い主の望みどおりの性格に構成できる次世代人工猫魂(ねこだましい)『フラフィ・システム』。もちろん性格の注文サービス自体はこれまでも存在した。しかしメーカー側も、そして飼い主たちもこの点については幾分あきらめ気味で、どれも申し訳程度のものでしかなかった。
 二つめの体感立体映像(ホログラフィ)『タチャボ』は、従来のホログラフィのように外見だけでなく、その触感まで再現する革新的技術だ。投影映像に触れた人間の頭頂葉に電気信号を直接送り、実際に対象に触れているのだと脳に誤認識させることにより、滑らかな毛並みの手触りまでも実感させる。また、映しだす映像と体感するサイズ・重量を、シンクさせながら少しずつ大きく重くしていくことによって、我々には時間とともに猫が“成長”するように感じられる。

 読み込み完了シグナルが出たのでいよいよ決定ボタンに右手人差し指を触れた。声紋・虹彩・指紋・指静脈の四重認証というわけだ。
 ビチャン!
 生肉をまな板に落としたような音がした。
 貸し出し機下部のフタを開けて手を入れる。
「むぅ……」
 俺は思わずうなった。
 薄いピンク色のブヨブヨした塊。まだ意思をもたず動きもしないので、手のひらからはみ出た部分は、つきたての餅のようにびろーんと垂れ下がっている。これでは従来品にもはるかに及ばない。
 人工的に作製した体組織に特殊な防腐処理を施して作られる人工有機シリコーン(A O S)は、いまや医療や美容など多方面で活用されている素材だ。ミアリア3000でも“成長”に応じて膨張するAOSが本物の猫そっくりの質感を実現しているということだったはずだが。
〈またか……?〉
 10年前の苦い経験が頭をよぎる。
 俺は持参した猫用キャリーに“それ”を入れて家路を急いだ。

 玄関をかけ上がり、部屋のあかりがつくより先に、奥のソファにキャリーを置く。はやる気持ちを抑え、洗面所でジェットガーゴーと手洗いをすませた。
 ソファの前でキャリーから生八つ橋のお化けを取り出し、ためつすがめつしてみる。
「よし!」
 ひとりごとを言うと、俺はロボットの左後ろ脚の内側の付け根にあるスイッチを、右手親指でパチッと入れた。
 軽くウィーンと起動音がしてロボットがわずかに震えた。俺はロボットを床に置いた。
「ミヤァーウ!」というサウンドロゴとともに、目の前の虚空にチカチカとした光がいくつか現れた。それらはすぐに青白いネオンライトのような“Tuchabo®”の文字になり、キラッと瞬くと、ぼーっと消えていった。
 次の瞬間ロボットはタンポポの綿毛のような毛並みに包まれた。
 思わず手を伸ばすと、チンチラの子猫の毛特有の、まるでホログラムの中に手が入っていくときのような、

を確かに感じる。
 いや、実際この毛並みもホログラムなのだから、とても奇妙な例えなのだが、他に表現しようがない――感覚がテクノロジーの進歩に取り残されている段階によくある“ズレ”だ。
 その両瞼がゆっくり開くと、成猫になる前の、まだターコイズグリーンやエメラルドグリーンを帯びていない、グレイがかったプルシアンブルーの二つの潤んだ玉が現れた。
 ピンクの鼻、おちょぼ口。なにからなにまで、愛猫の子どもの頃とそっくりだった。
 俺はその子をおずおずと抱き上げる……なんということだ! 人間がいかに視覚情報に影響されやすいかということを、このような形で痛感しようとは。
 ついさっきまで目の前にあった“ブヨブヨ”の物体は、いまや生後2か月の“やわやわ”の子猫に変わっていた……うちに猫が来た!
「クーコ、クーちゃん?」
 呼びかけると、何度めかに、
「マー」
 と鈴を転がすような声が返ってきた。
 小さい口の中に小さい小さい歯がきれいに並んでいる。
 ジタバタしだしたので、
「あ、ごめん、ごめん」
 と、慌てて手を放すと、フクロウのヒナのような白い毛玉はやがてあちこちトコトコと歩き回りだした。
 俺は冷蔵壁から牛乳パックを取り出し、醤油皿にたっぷり注ぎ軽くチンをして、
「はいクーちゃん、ミルクだよ」
 と、皿をクーコの目の前に置いた。
 牛乳をチャプチャプする猫はいつ見てもたまらない。
 シャワーを浴びベッドにもぐりこんだのは、夜中の2時過ぎだった。
 クーコは俺の腹の上でしばらく“ふんだふんだ”をしてからとぐろを巻いた。
「ブンゴロブンゴロ」喉を鳴らす音に続き、いつしか安らかな寝息が「スースー」と聞こえてきた。それはやがて外見に似合わない「ブーブー」という鼻いびきに変わった。
 俺は懐かしい響きに満ち足りた気分で、いつの間にか眠りに落ちた。

 早朝猫の鳴き声に起こされた。
 そうだ、猫がいるんだった! 
「もー、なんですか、こんな時間にぃ」
 ぼやきながらも、自然と声は弾む。
 牛乳とチーズ、削り節をあげた。クーコは削り節をワフワフ、シャウシャウと夢中になって食べた。すっかり空になった皿は、顔が映りそうなほどピカピカになめ上げられていた。
 俺は水と食料をまたたっぷり用意してから会社に出掛けた。

 夕方仕事も早々に切り上げ、飛ぶように帰宅した。玄関のドアを開けるとはたして……、
「マー!」
 尻尾をピンと立てた綿菓子が待ち構えたように俺を見上げていた! 室内照明に背中のティッピングが青く輝いている。
 俺は小躍りし、クーコを胸に抱いたまま、玄関を上がってすぐの所でゴロンゴロン寝返りをうった。お腹に顔をうずめると、あの卵豆腐の匂いがした。
 俺は昼休みに買っておいた子猫用のカリカリ、缶詰、ミルクを少しずつあげた。
 食事風景をほほえましく眺めていたときだった。
 クーコが突然かすかに体を震わせたかと思うと、シューンというモーターの停止音とともに綿毛のようなロングコートは消えていき、4本脚のロボットはその場に静止した。
「なんだ?!」
 俺は急いでキャティの左脚の付け根を探り、スイッチをパチッ、パチッと操作したが無駄だった。
 テーブルの上のブレスレットが光っている。キャットロニクスからのメールだった。
「無料体験の24時間が終了しました。お早めにキャティオイドを貸し出し機に備え付けの返却ボックスにお戻しください。本契約をご希望のお客さまは最寄りのキャットロニクス・ストアにお越しください。皆さまとお会いできる日をスタッフ一同心よりお待ちしております。ご利用ありがとうございました」
 音声読み上げに現実に引き戻され、気持ちがすっと冷めた。
〈そうだ、所詮は作り物のロボットだったのだ〉
 本契約のことはゆっくり考えよう。なにしろ契約料はばかにならない。そのうち料金も下がるかもしれない。
 しかし昨夜からの幸せな時間も作り物だったのか……?

 三日後俺はキャットロニクス・ストアの契約カウンターに座っていた――とりあえず1か月契約を交わしに。今日からだと、来月の今日の24時、つまりその日が終わる真夜中の12時までの契約となる。今月は大の月なので、期間は31日間めいっぱい有効だ。おまけに今日の分は

として、1日にカウントされない。
 とはいえ、いま住んでいる都心の手狭なマンションの賃料の3分の1以上の金額だ。平凡なサラリーマンの俺には痛い出費である。1年や3年の長期契約だとかなり割安になるが、一度に契約できる上限の3年コースでもひと月当たり2万円は下らない。3年を超えてその子を飼い続けたい場合は、そこからまた延長契約を交わすわけだが、PLEMシステムの交換など追加料金もかさむ。
 もっとも猫の個体数が各国政府により管理されている今日日(きょうび)、本物の猫など我々庶民にとっては高嶺の花だ。相次ぐ野生ネコ種の絶滅を受け、イエネコを含むネコ科全体が「特別保全対象科」に指定されている以上どうしようもない。
 窓口の担当者は四十がらみの、スポーツ刈りで日焼けをした男だった。彼はにこやかに、無料体験の感想を聞いてきた。
 俺はおとといのあの子がいかにかつての飼い猫にそっくりだったか、おかげでどんなに楽しい1日だったか、などをまくしたてた。
 彼は両手のひらをデスクの上で組んで、じっと聞き入っていた。
 俺は、
「おとといの続きから始めたいので、先日返却したあのキャティそのものをまた借りたいんです」
 としめくくった。
 担当者はいま聞いた話を自分自身の中で整理するように5、6回小刻みにうなずくと、組んでいた手のひらをほどき、
「確かにそのようにおっしゃるお客さまも時々いらっしゃいますが……」
 と、気の毒そうな表情になり、手振りを交えながら次のようなことを話しだした。
 返却ボックスに戻されたキャティたちは回収されグルーミングセンターに送られる。そこでストレージの初期化、外側のAOSのクリーニング(場合によっては交換)などのメンテナンスが施される。つまり俺が返却ボックスに戻したあの“クーコ”はいまごろメンテナンスを受けているはずだというのだ。
 それほど日もたっていないのでどうにか探し出せないか、と懇願する俺に、彼はさらに、
「申し上げにくいのですが、ストレージの初期化前でも、主動力が落ちた時点でメモリはクリアされているんですよ。つまり――」
 言わんとすることは即座に分かった。
「つまり、プログラムされた特徴は残っていても、おとといの記憶は残っていないと」
「はい、残念ながら」
「……でもやっぱり、僕はあの子がいいんです。お願いします!」
 俺は自分でも驚くほどの粘りをみせた。
 担当者は視線を横にはずしてしばし考えこんだ様子だったが、まもなく、
「少々お待ちください」
 とパソコンに向かった。
 それから凄まじい早さでキーをたたき、受話器を取り上げ肩に挟むと、通話をしながらプロジェクションに指を忙しくはわせ、書類をパラパラとめくった。受話器を置くや否や、また本格的にパソコンを操作する。めまぐるしい光景がしばらく続いた。 
 俺はいつか観た100年近く前のサイレント映画『メトロポリス』を思い出した。
 ファストモーションを演じ終えた彼は、
「危ないところでした。でもメンテ寸前のところを捕まえることができました。一部のキャッシュメモリからある程度記憶も復旧できそうです。さっそく向かいましょう!」
 と車のスマートキーをつかみ笑顔で立ち上がった。
 俺は彼の「捕まえる」という表現がとても気に入った。

 グルーミングセンターの応接ブースに現れたのは、長い黒髪を後頭部の下で一つ結びにした20歳台半ばくらいの女性グルーマーだった。淡いサンゴ色の制服の胸にキャティオイドを抱いている。
 メモリの復旧に関しては「やるだけのことはやったが、どこまで復旧できたかはなんともいえない」とのことだった。だがそれも、これからクーコが最初に俺を見たときの反応によって、大体見当がつくはずだ。
 二人に見守られキャティの動力を入れると、タチャボロゴに続き、ほどなくクーコが出現した!
 俺は群青の瞳を覗き込んで呼びかけたが、反応はなかった。
 クーコは何度めかにようやく返事をした……多分慣れない環境で緊張しているのだ。
 担当者も同じことを言った。グルーマーもそれに賛同した。

 猫との生活が始まった。
 ナツミはしきりに俺が「変わった」とからかったが、“犬派”のはずの彼女が俺の部屋を訪ねる頻度も確実に高くなっていた。それどころか、指紋認証で部屋に入れるのをいいことに、時々俺をさしおいてクーコと遊んだり、おいしいものをあげたりしている!
 ナツミは、うちの会社の得意先の総務部に勤めている。営業で何度か訪問するうちに、俺たちは少しずつ仕事以外の会話を交わすようになっていった。ある日、先方から引き上げるときに、退社する彼女と“たまたま”一緒になった。駅までの道すがら、連絡先を交換したあの日からもう7年たったか。
 俺より5つ下の彼女もそろそろ結婚について考える年齢だろうが、そんなことはおくびにも出さない。俺同様、気ままな独り暮らしが居心地がよいのだろう。
 クーコとキャッキャッと友達のように遊ぶナツミは、クリクリとした大きな目とあごのラインまでの短いボブのせいで、猫というよりもシーズー犬を連想させる。犬派だから犬に似るのか、はたまたその逆か。

 似ているといえば、このクーコは以前のくーこと本当によく似ている。
 外見や声は具体的なデジタルデータを基にしているので、似ていて当然だろう。しかし性格の基になっているのは、俺が思い出した限りの愛猫の性格や一緒に体験した出来事などを記した、主観的・概念的なテキストデータだ。
 例えば“繊細”という言葉から人々が感じる“繊細さ”の度合いはまちまちだろう。“とても傷つきやすい”のか“ちょっとデリケートなところがある”のか。そもそも“とても”“ちょっと”という言葉自体とらえどころがない。
 そのような、書いた俺自身でさえ言葉で表すのが困難だと感じたイメージから、ここまで細かなニュアンスを読み取るとは!
『フラフィ・システム』はキャットロニクス社人工猫魂統合プロジェクトの、20年近い研究の成果である。
 彼らはまず、多様な環境下であらゆる種類の実際の猫の一生を24時間体制で観察し、それらの猫の性格を人々がどう定義づけるかを検証したという。次にその定義づけに用いられたさまざまな言葉に対し、我々が抱く千差万別なイメージの度合いを集積・解析した。こうして数値化された膨大なデータベースを、元の猫の観察記録にフィードバックした結果、ついに猫の性格・行動パターンと人間の言語イメージとの間の相関を表す『フラフィ関数』を発見した。これにより、AIに希望どおりの性格を搭載することが可能となったのである。

 初めのうちは「あ、こういうところ、そっくりだ」とか「懐かしい!」とかいちいち心が躍ったものだ。
 一番それを感じたのは、二日めにくーこの大好物だったマグロをあげたときのことだ。かつて子猫の頃にしたように、マグロの赤身を1センチ角くらいのサイコロ状にカットして8切れあげた。ガツガツと食べる様子を見守っていると、クーコは床の上でおざなりな“砂かけ”のふりをすると、以前と同様にたった一切れ残して立ち去ったのだ!
 おいしすぎてもったいないのか、最後の一切れは必ず後で食べる。それにしても決まって一切れとは、数の概念があるのか? あるいはわき目も振らずに食べているうちに最後の一つになり、ハッと「これ食べたらなくなっちゃう!」と気づくのか。
 いずれにしても偉い!
 しかし1週間もすると懐かしさを感じるということはなくなった。以前のくーこが当たり前のようにいるのだと錯覚するようになったのかもしれない。
 そういえばいつからか俺は『タチャボ』にも違和感を覚えなくなっている。ホログラフィはタッチャブルなことが当たり前の時代になっても、人々はこれを『タチャボ』と呼ぶのだろうか。

 しばらく飼ってみてもうひとつ実感したのは、意外に手がかかるということだ。
 おしっこもウンチも、本物そっくりのものが出てくる。無論ミアリア3000でも食べ物から動力と体温を生み出すPLEMシステムが採用されているが、リアルを追求した結果、これまでの無臭のカプセルによる排泄方式は廃止されていた。
 またある日クーコを抱き上げると、首の辺りにゴロゴロしたものを感じた。長毛種特有の毛玉までプログラムされているのだ。小指の爪の先ほどの大きさのそれは、円盤状の一つの塊と化していた。指でほぐそうとしたが、容易にほぐれるようなしろものではなかった。
 手間取る俺に、クーコのうなり声が凄みを増していく。バックをとられたレスリング選手よろしく、必死で身をよじらせる獣。互いに譲らない格闘の末、俺はついにはさみで毛玉を切り取った。
 脱兎の勢いで猫は逃げて行った。
 左手に切り取ったはずの毛玉はなくなっていたが、右手の甲には血がにじんでいた。本体からはなれた毛まではタチャボは再現しないことと、爪は実際に本体に装備されていることが分かった。
 休みの日の朝も、ゆっくり寝ているわけにはいかなくなった。
 寝坊していると、布団の上を小さな圧迫が、胸まで上がってくる。
 薄目を開けると、2つのエメラルドが俺を見下ろしている。朝ゴハン――。
〈もうちょっと寝かせてください〉
 俺はそっとまぶたを閉じる。目が合ったのを気づかれなかっただろうか? じっと寝たふりを続ける。
 そのうち気配が顔のほうに回り込んでくる。視線を痛いほど感じる。鼻の穴が小さいせいか、スピスピいわせて匂いをかぎ回っている。鼻息まで当たる。
「ブンゴロブンゴロ……プッ、プッ、ププッ」
 喉を鳴らすアンダンテにところどころはさまる破裂音も、ちっちゃなお鼻なゆえか。
 テンポはやがてアレグレットへと移行し、音圧は脅迫的になる。
「ブゴブゴブーゴーブーゴーブーゴー、ププッ、プッ、ププププッ!」
 こうなるともはや寝てはいられない。
 思えば子どもの頃のくーこは俺が飼っていたわけではない。“共に育った”という仲だ。食事・排泄の世話だけでなく、こまめなブラッシングや爪の手入れと、みな母親がやっていたのだ。
 気楽な自分のためだけの時間は減っていった。
 終業時間きっかりにあがるようになったせいで、残業代や歩合給分が減収になるのも必至だった。

 3週間がたった日、ブレスが振動した。
「契約満了1週間前です。ご契約の延長を希望される場合はご本人さまによるお手続きが必要となります。詳しくはミアリアウェブをご覧ください……」 
 その後の数日間、俺は何をしていても上の空だった。
 ただにつられてお試しキャンペーンに引っ掛かり、すぐにひと月の本契約を結び――こうしてみなずるずると契約を伸ばしていくのだろうか。キャットロニクスの思うつぼにはまるようで

だ。
 もちろんナツミとも何度も話した。今回は彼女も“背中を一押し”してはくれなかった。
 満了日二日前の深夜、やっと俺は心を決めた。
〈早いうちに手放すほうが無難だ。延長はやめよう〉
 金銭的負担以上に決め手になったのは、今までの、自分のことだけやっていればよかった暮らしにはない、責任の重さだった。他の命に対する責任。これが“命”と呼べるならば、だが。

 最終日は土曜日だった。
 深夜0時にキャットロニクスから通知がきていた。
「平素はご愛顧を賜り誠にありがとうございます。契約終了24時間前です……」
 今日の24時までに延長手続きをしなければ、自動的に主動力がOFFになる。お試しレンタルが終了したあのときのように。
 色々と調べたところによると、契約を終了するケースでは、その時間がくる前に自らの手で“けじめ”をつける道を選ぶ飼い主も少なくないらしい。だんだん心の準備をしていき、最終日は猫との最後の時間をかみしめるように過ごす。そしてついにお互いの決心がつくとスイッチをOFFにし、飼い主として最後の責任を果たす。
 この「お互いの決心がつく」という意味合いの表現はほぼすべての体験談に見られた。自分だけでなく、相手の猫もその時がきたことを理解して、「もうお別れだね」と通じ合う瞬間が“分かる”というのだ。
 ナツミは「つらいから」と、今日は来ないことになっていた。もちろん俺への気づかいというのが最大の理由だろう。
 クーコとふたりきりの瞬間が、淡々と切れ目なく存在し続けていく。いつもの休日。昼さがり。午睡する猫。
 夕方。最後のゴハンは、マグロにササミにシャリシャリ、ミーミィ。
 一所懸命食べるその姿を瞳に焼き付ける。
 食べ終わってソファの方へ向かう誇り高き毛むくじゃら。皿にはいつものように、赤身が一切れ残っていた。
 この子はこれが最後の晩餐になることを知らないのだ……。
 俺は皿を手に取り、ソファで毛づくろいをしているクーコの鼻先に近づけた。
「今日は全部食べていいんですよ」
 しかしいくら促しても、サファイアミンクのお姫さまは、「あとにとってるの!」と食べようとしなかった。
〈もう残す必要なんかないのに……〉
 俺はやるせない気分になった。
 その後もなるべくクーコに構いすぎないようにと努めた。だが気がつくと俺はクーコに話しかけていた。
 あと数時間たつとクーコはまたあの四つ足のロボットに戻る。自分が無機質のモノに戻り、貸し出し機に並べられることを知ったら、どのように感じるのだろう? 別れを決心するとは、この子もそういったことを受け入れるということなのか? 
 ロボットにこんな感情を抱くのは馬鹿げているだろうか……。
 夜もふけてきた頃、俺は床に座り、クーコを膝の上にのせてじっと対面した。さまざまな感情を共有した夢のような日々を振り返りながら。
 ふいに“その瞬間”がきたように感じた。エメラルドの瞳もなにかを悟っているようにみえた。俺がそう思いたかっただけかもしれない。
「けじめ、か……」
 クーコがシリコーンの塊に戻る瞬間を見るのはしのびなかった。
 俺はクーコを肩に抱えて立ち上がり、手動で部屋の電灯を消すと、床に正座した。
 しかし白銀の豊かな毛並みは闇の中にぼうーっと浮かび上がって見える。現代社会に全くの闇などありえないことを思い知らされ、かつ呪った。
 俺は目をかたく閉じて、柔らかなおなかの下のほうにある小さなスイッチに右親指をかける。
 この1か月間だけでなく、子どもの頃実家でくーこと過ごした日々の思い出までもが瞼の裏に浮かんでは消えていく。一つのシーンがフェードアウトしていくのと重なるように次のシーンがフェードインしてきて、なかなかスイッチを切るタイミングがつかめない。
 枕もとで聞いた「ブンゴロブンゴロ」。卵豆腐のおなか。一切れ残ったマグロ――そういえば今日のマグロは、本当に最後の晩餐だということを知らずに残しただけだったのか。あるいは最後と知って、あえて普段どおりにふるまったのか。それとも……?
 何分が過ぎただろうか。目を開けると、闇の中に映し出された時計は、契約満了時刻まであと5分もないことを示していた。
 俺は再び目を閉じ、意を決して指に力を入れた。ずっと同じ状態だったので指がしびれていた。幸いだ。電源を落とす瞬間のイヤな感触を感じなくてすむ。
 思い切って指に力を込めた。

 パチッ!
 静寂を乾いたスイッチ音が打った。
〈終わった……〉
 虚脱感とともに、なにかがみぞおちの辺りにわだかまっているのを感じた。

「大丈夫? こんな真っ暗で」 
 声が響いた。
 目を細めて声の方向を振り向くと、部屋の入口の電気のスイッチの脇で、ナツミが俺を見下ろしている。
「そうだ、クーコは?!」
 視線を落とすとクーコは――そのままの姿でそこにいた!
 力を入れたつもりだったが、指が強張っていて、スイッチを切れなかったらしい。
 パチッという音は、ナツミがあかりをつけた音だったのか。
「来ちゃった!」
 彼女は部屋の中央まで来ると、
「あれぇ、クーちゃん、なんで?!」
 と俺の斜め前にぺたんこと座った。
 ハッと時計を見ると、日付はとっくに変わっていた。
〈どうなっているんだ……?〉 

 サイドテーブルの上で、ブレスの着信ランプが点滅していた。
 読み上げを命じると、
「平素はご愛顧を賜り誠にありがとうございます。契約終了24時間前です――」
 これは昨日も聞いたぞ? だが続いて、
「――本来ですと1か月契約終了の時刻ですが、出荷時に手違いがあったことが判明いたしました。ご契約時にグルーミングセンターにて復旧作業を行った際、誤って24時間無料体験用の時間計(カウンター)もリセットされてしまいました。これにより31日間の契約期間に無料分の24時間が加算され……」

 あと丸一日、時間は残されていた――!
 危うくこの手で、まだ続くはずの命を葬り去るところだったのだ。そう考えると……いや、続くはずだったかどうかは問題ではない。
 思えばこの子がうちに来た当初は、以前の飼い猫と似ていることがとてもうれしかった。そのうち、前の子がそのままいるような気がしてきた。しかしいつの頃からか、この子とか前の子とかなどということは、もはや関係なくなっていた。それは俺にとって、現在目の前にいるクーコが、ロボットでも以前のくーこの代わりでもなく、“いまここにいる大切な命”になったからにほかならない。
 クーコにとってもこのひと月が幸せな日々であったと俺は信じている。俺がスイッチを切れば、クーコのその幸福な時間は突然終わる。同時にクーコの中に紡がれた1か月間の生きた証も消える。
 たとえまもなく消えるはずの意識だとしても、その前にこの手で“けじめ”をつけることが、俺にとっての“責任”なのだろうか。
 さっきから胃の腑に巣くっているこれは、罪悪感なのか。

 両手の中でふかふかの毛並み、ぐにゃぐにゃのおなかが身をよじらせた。
「ごめんなさい! くるちかったぁ?」  
 俺は速やかに姫の意向に従った。
 自由を得たクーコは大きなあくびを一つすると、両前脚を前に出したまま目をつぶって頭を低くし、お尻を高く上げてぐーっと

をした。
 俺は今クーコを放したばかりの自分の両手を見た。甲や腕の引っかき傷。早速クーコにちょっかいを出しているナツミ。みぞおちのモヤモヤ。
 なにかがはじけた。
「これから……ずっと、みんな一緒にいようよ」 
 傍らのシーズーの目が細くなり、光を乱反射した。ショートボブが前後に揺れた。
 誰に背中を押されたわけでもない。今回は自分で……。
〈――〉 
 ふと見るとその高貴な存在は、
「ンア」
 と口を開けたか開けないかの、ぞんざいな返事をよこした。
 そして先ほどのなにかを悟っているような瞳でこちらをちらっと見やると、「ほらね!」とばかりに、気高い足取りでマグロの残りを食べに行った。

 猫曜日がまた始まる。
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